ヨーロッパ音楽紀行 2007年


小澤 征爾指揮、フランス国立管弦楽団 (パリ、シャンゼリゼ劇場) 2007年10月4日

ラヴェル 亡き王女のためのパヴァーヌ
ベルリオーズ 幻想交響曲、他。

(小澤征爾の指揮は
エネルギッシュだった)
(シャンゼリゼ劇場
は円形観客席だ)

何気なくインターネットで開いたフランス国立管弦楽団のホームページを見ていて目が点になった。なんと小澤征爾が客演する演奏会があるではないか。それも数週間後。慌ててサイトをめくるとまだ空席がある。演目はラヴェルにベルリオーズ、フランス物ばかりで興味は殆どないが、ラヴェルはそれほどでは苦手ではない。丁度ラヴェルの最晩年の地、モンフォール・ラモリへサイクリングで訪れたばかりだったということもあり、頭の中にラヴェルの家の裏手に広がっていたあの豊かな緑と、静寂に溢れていた静かな村の光景が残っている。震える手でサイトをクリックして券を予約。下の娘と二人で見に行こう。

ついでにと言っては申し訳ないが全く聴いたこともないベルリオーズの幻想交響曲のCDを探す。近所のFNACで棚を漁り一番安いものを探す。紙ジャケットのCDでシャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団のもの。フランス音楽をミュンシュで聴くのならまぁ間違いはないだろう。それにミュンシュ・ボストンといえば小澤征爾ゆかりのCDではある。さて、べルリオーズ、通勤の車の中で聴きまくるが、なかなか困ってしまう。自由に飛躍し、鮮やか。だがつかみ所のない。そんなフランス音楽に対して自分が抱くステレオタイプを地で行くような音楽。自分の感受性がないせいだが、なんとか溶け込もうとしてもふわっとした音は耳から逃げていってしまう。メロディもリズムも体に入ってこない。音響の豊かさが耳に残るだけ。何を言いたいのかわからない。これだから、困ってしまう。この手の音を聴いているとバシリ・バシリとたたみかけてくる厳格な対位法の、まるで織物のように絡みあうその旋律の中に埋まってしまいたくなる。

初めてのシャンゼリゼ劇場。円形のオペラハウスのホールに正装した男女。ヨーロッパ文化ここにあり、という雰囲気が溢れる。小澤征爾はやはり人気が有りシャンゼリゼ劇場も満席。観客には日本人も多い。

ラヴェルがとても素晴らしく陶酔してしまう。冒頭のホルンからして、はっとするような柔らかさに満ちており、数週間前に訪れたばかりのモンフォール・ラモリの森の風景がゆっくりと頭の中に広がっていく。ハープの伴奏を伴って主題部が再提示される終盤では、いつの間にか身も心もパリから離れ、長閑で美しいあの村へ、あの森へと、すっかり旅している自分に気づく。ピアノでこの曲を練習している娘も聞き入っている。

ヴェルリオーズの幻想交響曲はやはり自分にとってピンと来なかったがこれは曲の好みの問題だ。しかしながら小澤征爾の指揮ぶりはエネルギッシュでオーラに溢れたもので、客演とはいえオーケストラを統率し一本の棒から無限に膨らむ音を作り出すその様には目を見張った。

当然の事だろうが、フランスのオケによるフランスの音楽は素晴らしかった。しかしこんな演奏会がわずかに30ユーロ程度で、しかも演奏会の直前に買えてしまうとはなんと素晴らしいことだろう。


ファビオ・ルイージ指揮 シュターツカペレ・ドレスデン (ドレスデン、ゼンパー・オーパー) 2008年11月3日

マーラー 交響曲2番

(霧雨にぬれるゼンパー・オーパー。重厚な、
ドイツのオーケストラハウスを体現している)
(最前列でマーラー
を聴き込んだ)

シュターツカペレ・ドレスデンは我が憧れのオーケストラ。オイゲン・ヨッフムとのコンビで残されたブルックナーの交響曲やオトマール・スゥイトナーとのモーツァルト程度のCDしか自分は聴いたことはないが、ブルックナーで聴かせるその量感に溢れる渋く厚い弦の響き、そしてモーツァルトでは一転してまろやかで可憐な響き、そんないかにもドイツのオーケストラらしい重心の低いその響きに自分はヨーロッパを感じているのだと思う。そんなドレスデンへの旅行の計画はシュターツカペレ・ドレスデンの演奏会の日程をチェックしながらのものとなった。2007年に新たにカペレの音楽監督に就任したファビオ・ルイージ指揮による演奏会が自分の休日の日程と合致し、演奏会のチケットと航空券を予約する。プログラムはマーラーの2番、とどちらかと言うと苦手ではあるが、手持ちのCD(シノーポリ・フィルハーモニア管)を引っ張り出し予習をしていく。久しぶりに聴くこの長大な交響曲、自分はまだしも余り音楽に関心のない家族には拷問かもしれないが・・・。

ドレスデン中央駅のホールには天井から大きな垂れ幕が2枚下がっており1枚にはアルトマイスターとしてウェーバー、ワグナーの肖像画がもう1枚にはノイヤーマイスターとしてファビオ・ルイージの写真が描かれている。シノーポリの急逝後長らく常任指揮者が不在だったこの伝統あるオーケストラが、新たに就任した若い指揮者を町をあげて歓迎している様が伝わってきてこちらの期待も高まる。

シュターツカペレ・ドレスデンの本拠地、ゼンパーオーパーはヨーロッパで最も豪華なオペラハウスと言われるが、なるほど重厚で品のある建物だ。とはいえドレスデンと言えば1945年2月の英軍の夜間爆撃と米軍の昼間爆撃の波状攻撃により一日にして街すべてが猛火に包まれ廃墟と化したので、この建物は戦後の復興構築である。もっとも瓦礫の中から当時の石を出来るだけ掘り出しそれを昔どおりに当てはめて作り直したとの事で、遠目にはとても再建築されたものには見えない。

内部は円形のオペラハウスになっておりパリのシャンゼリゼ劇場にも似ている。驚いたことに席はステージの真ん前の最前列で、指揮台が右手上約数メートルにある。かなり安いクラスのチケットを買ったはずなのだが・・・こんな席を予測していなかったので家族ともどもしどろもどろになってしまう。

ルイージの指揮はすばらしく熱のこもったものだった。彼が発する小さな掛け声や息吹がステージ真下の自分たちにも聞こえてくる。オーケストラの響きは期待通りに弦が分厚く冒頭の不安げなテーマから一気に引き込まれた。第2楽章の柔らかな舞曲も素晴らしく、昼間に観光で訪れたエルベ川沿いのザクセンの田舎の風景が目に浮かんでくるような錯覚に捕らわれる。合唱と供に壮大な鐘の音が響き渡る最終楽章まで演奏は強い緊張感の元に締めくくられた。自分には苦手意識の先立つマーラーだが、やはり生の演奏を前にすると印象は違うものとなる。1時間半、いやそれ以上だろか、長大な力演にゼンパーオーパーの拍手は鳴り止まない。シュターツカペレ・ドレスデンはやはり期待通りにドイツらしい渋い音色を聴かせてくれた。やはり「憧れの」オーケストラなのだ。その長大な曲の前に何度か眠ってしまったと言う娘たちにも、ドイツの何処かの街で、こんな演奏を聴いたなぁ、とどこかで覚えておいてもらえれば、と考えた。


クルト・マズア指揮、フランス国立管弦楽団 (パリ、シャンゼリゼ劇場) 2007年11月29日

ブラームス、ヴァイオリンとチェロのための協奏曲
R・シュトラウス、アルプス交響曲

前回の小澤征爾の演奏会以降手軽に聴きにいけるフランス国立管弦楽団のWEBサイトを見るのが楽しみとなった。同オーケストラの現主席指揮者はクルト・マズア。マズアといえば自分にとってはやはり旧東独の重鎮でありライプツィヒ・ゲヴァントハウスとの重厚な演奏が思い出させる。それにベルリンの壁の崩壊に一役買った人物、というイメージ。フランスのオーケストラにドイツの正統派指揮者か・・・。

ブラームスの協奏曲はロマン溢れる演奏で、濃厚さがいかにもブラームスらしい。一方のアルプス交響曲は初めて聴いた曲で、楽章の切れ目もなく演奏されるという事も知らなかった。作曲者R・シュトラウス自らのツーク・シュピッツェ登山の経験を交響曲にしたもの、とのことだが、正直非常に退屈で、何度か眠気に引き込まれてしまった。やはり演奏会の曲に未聴のまま臨むとまずい結果になってしまう。

渋い選曲と思われたがホールはほぼ満員で、マズアとフランス国立管のコンビはパリではなかなか人気なのだろう。個人的にはブラームスはもう少し、嫌味な程度に濃い演奏 の方が好きかもしれない。


ニコラウス・アーノンクール指揮 ウィーン・コンツェントゥスムジクス (パリ、サル・プレイエル) 2007年12月18日

バッハ、カンタータ23番、26番、140番

(透明感のある演奏だった)

バッハのカンタータの夕べ。数が多すぎでとてもその全てを聴くことは出来きらぬバッハの教会カンタータではあるが、有名な140番は手持ちのカール・リヒターによるCDがあった。23番はなかなか手に入らず、26番はまさに今回の演奏会のメンツによるCDが入手できた。CDから流れてくるアーノンクールのバッハのカンタータを聴くのは初めだが、透明な音とメリハリのある引き締まった演奏は緊張感に溢れているように思えた。

サル・プレイエルは昔ながらの円形観客席のシャンゼリゼ劇場とは違い、音響効果を現代的に解析して作られた直方体のホールで、やや冷たい感じが漂う。フランス国立管と並ぶフランスの著名オーケストラ、パリ管弦楽団の本拠地だ。

クリスマスの時期にバッハのカンタータとはまさに当を得た演奏会だ。23番に続きCDで予習していた通りに26番の演奏が始める。各声部の担当も人数が少ない事もあるのだろう、各々の声部の輪郭が非常に明瞭に浮かび上がり、対位法のテキストの聴き語りを聞いている様なものだ。指揮棒を持たぬアーノンクールの指揮は各パートに明瞭に指示を与えると言うスタイルのようだ。140番も透明感と緊張感に触れる同様な演奏で、バッハの醍醐味である独立した各声部の厳密な絡み合いを楽しみ味わうことが出来る。

何もかもが筒抜けの、混ざり気のない非常に風通しの良い演奏だったが、自分にはややあっさりしすぎていたようにも感じられた。特に140番はカール・リヒターの昔ながらの演奏で聞き慣れていた事もあり、楽器にも、コーラスにももう少し感情と厚みがあったほうが良かったのだが、バッハ演奏スタイルの過去と現代、という意味でこれは個人的な趣味の問題だろう。


(戻る) (ホーム)