ヨーロッパ音楽紀行 2008年


リッカルド・ムーティ指揮 フランス国立管弦楽団 (パリ、シャンゼリゼ劇場) 2008年3月13日

 ハイドン 交響曲第39番
 モーツァルト 交響曲第25番
 サリエリ 「見出されたエウローパ」への舞踏音楽
 ハイドン 交響曲第89番

フランス国立管にムーティが客演か。そうなるとやはりチケットを買わざるを得ない。ハイドン2曲とモーツァルトは25番。それにサリエリ。ハイドンの89番とモーツァルトの25番以外は知らない曲だが。

ムーティの客演はやはり人気が有るようで劇場も満席。一曲目はハイドンの39番だが、まさに冒頭の指揮棒を振り始めようとする際に客席で携帯電話の音がなる。ため息が漏れ、精神統一をしなおしてから始まった。予習用のCDも入手できず、全く予備知識なく初めて聴く39番。意表をつく短調だ。思いがけず現れた短いポーズの後に劇性の高い盛り上がりが待っていた。失礼ながらハイドンの作品は殆ど聴いたことのなかった事もありこんな密度の高い曲があるとは想像もしていなかっただけに驚きも大きい。続いて演奏された同じ短調のモーツァルトの25番、すでに通俗的なメロディでもあり自分が自らCDを選んで聴く事はめったにないが、改めて聴いてみると緊張感溢れる曲。サリエリを聴いたのは初めて。ハイドンの89番も優雅な演奏だった。

ムーティの指揮は柔軟性に富み大きな手振りでパートに指示を出していく。オーケストラをドライブする様はなるほど今をときめくトップ指揮者らしい風格にあふれたものだった。 


ファビオ・ルイージ指揮 ウィーン交響楽団 「ウィーンの春」演奏会 (ウィーン、ムジークフェラインザール) 2008年3月22日

(夢ではない・・・本当にこのホールに居るのだ。
赤いバラに飾られた演壇が「ウィーンの春」らしい)

イースター休暇でウィーンに家族旅行。ドイツ語圏への旅行ははやり心が躍る。

ザッハトルテにシュニッツェル、ブリューゲルの絵画、とウィーンは自分には興味溢れる街だが、やはり憧れといえばムジークフェラインザールでしょう。毎年元旦の放映でもお馴染みのウィーン・フィルのニューイヤーコンサートでもっぱら有名なこの黄金のコンサートホール。金色の輝きを放つ豪華で古風な音楽の殿堂。ウィーン・フィルは無理にせよ何かここでの演奏会はないだろうか。調べてみるとファビオ・ルイージの指揮でウィーン交響楽団の演奏会がイースターの時期に予定されている事を知る。ウィーンフィルによるニューイヤーコンサート同様、イースターの時期に行われるウィーン交響楽団の演奏会は「ウィーンの春(Fruhling in Wien)」と命名され人気のある毎年の定例演奏会との事だ。3月に入り、長く暗い冬も終わりに近づこうとする季節に、そんないかにも春らしい由緒ある演奏会が聴けるとは!チケットをまず求め、それにあわせ旅行をアレンジする。

ウィーン交響楽団はウィーン・フィルという世界随一の名門があるだけにその陰に隠れてしまい、ウィーンでもセカンド・オーケストラに位置しているというイメージがある。実際自分の手持ちのCDも大半がウィーン・フィルばかりでウィーン交響楽団によるCDは殆ど持っていない。発売されているCDそのものも少ないのだろうか。しかしブルックナーの交響曲9番の初演を行うなど歴史に名を残すオーケストラでもある。カラヤンが音楽監督を務めたことも、ジュリーニが主席指揮者であった時代もある。シュターツカペレ・ドレスデンの音楽監督を兼任するウィーン交響楽団の現主席指揮者、ファビオ・ルイージは、つい数ヶ月前にドレスデンでカペレとのマーラーの燃えるような熱い演奏を聴いたばかりだ。自ずと期待は高まる。

ホールの中に足を踏み入れる。輝く金色の空間、絢爛としたシャンデリアに圧倒された。ただの直方体の箱に過ぎない何の細工もないコンサートホールなのだが、このホールで録音された音は古雅で独特の響きを持つと言う。それすなわちCDで聴きなれたウィーン・フィルの音、という事になるのだろう。ベームやカラヤンなど、名だたる指揮者の立ったホールにいると言うだけでミーハーな自分は感動してしまう。

手にしたプログラムによると今年の「ウィーンの春」演奏会には”In Namen der rose (バラの名の下に)”という副題がついている。いかにも春を感じさせるかのようなずばりバラの名のつく曲、花に関した曲を中心としたセレクション。リヒャルト・シュトラウスの「バラの騎士」からのワルツ、そして「南国のバラ」を始めとするヨハン・シュトラウスファミリーのワルツ・ポルカ群、といったウィーンらしい選曲に加え、チャイコフスキーは「眠れる森の美女」からのワルツの抜粋。演壇も真っ赤なバラに飾られ、楽団員の胸にも皆一輪の赤いバラが刺してある、というなかなかお洒落な演出もされていた。

ドレスデンで間近に見たのと同様に今回もファビオ・ルイージの指揮は熱に溢れており、オーケストラも力演でそれに応える。たっぷりと利かせる弦のボウイング、それでいて品の良さを失わずウィーン風の高貴さに満ち溢れる。何よりもこの絹のような音は!なんと言う艶のあるオーケストラなのだろう。

「バラの騎士」のワルツも、シュトラウス・ファミリーのワルツやポルカもプログラムの殆どは自分には初めて耳にする音楽で、退屈かと思っていたがオーケストラに魅了されそれどころではない。チャイコフスキーのワルツではディズニーアニメですっかり通俗的なメロディになってしまった、そんな陳腐さを一切感じさせぬ輝く音色でオーケストラホール全体が揺れるような旋律に、知らず知らずのうちに体が動き陶酔してしまう。「南国のバラ」もまさにウィーンの春を思わせる花の香りの漂ってきそうな優雅で光沢のある演奏で、鳥肌が立つのを抑えることが難しかった。

アンコールも素晴らしい。「春の声」、これまた通俗的ではあるものの実際にはなんという高貴で楽しい曲なのだろう。ポルカ・「雷鳴と電光」では打楽器群の力演に艶のある金管が応えお腹の底から躍りだすような躍動感を生み出す。まさにここがウィーンであると言う事を感じさせてくれる素晴らしい演奏。演奏が済んでもスタンディングオベーションで誰一人去ろうとしない。黄金のホールの中に響き渡る拍手と「ブラボー」の歓声。これがウィーンなのか、これが音楽なのか。音楽がこれほど素晴らしいとは思ってもいなかった。こんな音楽を生で聴けることがなんと幸せなことなのだろう。憧れの聖地で聞いた音の波がこだまのように心の中に大きな波を起こし、その中に暫く置き去りにされてしまう。

ヨーロッパの、いや西洋音楽文化の頂点に位置しているとも言えるこの街で、未だかつてない素晴らしい経験をした。正直ウィンナーワルツがずらりと並ぶプログラムを見てややがっくりした、ウィーンではじっくりと腰をすえたシンフォニーが聴きたい、ポルカやワルツなんて、と思っていたのは大きな間違いだった。小さく些細なはずだった音楽が、なんと生々しくきらびやかに息づいていたことだろう。ウィーン交響楽団も、決してウィーンのセカンド・オーケストラではない。

「ロマンチックな演奏会だったね」、と家内。そう、本当に実に素晴らしい、夢のような一夜で、まだまだ寒さを残すウィーンの夜の、その冷たい空気すら心地よかった。


リッカルド・ムーティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (パリ、シャンゼリゼ劇場) 2008年4月10日

 ハイドン 交響曲第99番
 ブルックナー 交響曲第2番

ウィーン・フィルを聴くのは2度目だ。初めてのウィーン・フィルは1993年、東京でのコンサート。急遽キャンセルしたカルロス・クライバーの代役でジュゼッペ・シノーポリによる演奏会だった。NHKホールの最上段で豆粒のようなオーケストラをオペラグラスで見た記憶がある。そんな席でも1万円以上払ったと思う。シューベルトの8番とブルックナーの7番と言う自分の好きな演目だったが今となっては余り記憶に残っていない。

今回の指揮は先月に引き続き再びムーティ。だが今度はウィーン・フィルだ。プログラムはハイドンの99番にブルックナーの2番。ハイドンはオーケストラは違うとはいえ先月も演奏していたが、ムーティの好みなのかもしれない。もう一曲はブルックナーの2番。自分にとってはあまり馴染みのないハイドンに比べ、こちらはよく聴いている曲なので楽しみだ。ブルックナーの交響曲中でこの2番は、5番、7番、8番、9番といった神がかった壮大な世界には一歩及ばない地味な曲と言う位置づけであるがどうだろう。同じく目立たないと言われる6番と並び自分は好きな曲だ。

ハイドンは小編成での演奏。やや重々しい序奏の後、明暗をなす主題の弦とホルンがとても柔らかく優雅な気分に浸る。ブルックナーはやはり良かった。夢幻の霧のように始まる冒頭からしてすでに独特の光沢をたたえておりドイツの森の香りを感じさせた。

ムーティも蜜月関係に在るウィーンフィルとは呼吸が抜群なようでブルックナーの重厚な音を余すところなく聴かせてくれたように思う。惜しむらくは座った席で、ステージを上の横から眺める事になり音響に優れない場所だった。直前に買った35ユーロ席だから文句もつけられまいが。。


リッカルド・シャイー指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 (パリ、サル・プレイエル) 2008年6月7日

ブラームス、ヴァイオリン協奏曲
チャイコフスキー 交響曲第4番

ライプツィヒ・ゲヴァントハウスはクルト・マズア時代のCDを何枚か聴いていたのみだが、重厚な演奏に良い印象を持っていた。がむしろ実際の演奏もさることながら、シュターツカペレ・ドレスデンに抱いているのと同じく、旧東ドイツのオーケストラには伝統ある響きがイメージされ自分はイメージ先行で憧れてしまう感があるようだ。

数年前に家族旅行でライプツィヒに行った際、バッハの眠る聖トーマス教会(その向かい側の楽譜屋で娘のピアノ練習のためにバッハのインヴェンションとシンフォニアの楽譜を買った)の次に足を向けたのがゲヴァントハウスだった。演奏会を聴く予定はなかったが彼らの本拠地を見るだけで何がしかの満足を得ることが出来たのだ。

さてそんな憧れのオーケストラがパリにやってくるとなると見なくてはなるまい。しかも指揮者は常任のリッカルド・シャイーだ。逃すわけには行かない。

演目の1番はブラームスのヴァイオリン協奏曲。この曲の初演がなんとこのオーケストラによるもので、初演者による演奏と言うわけだ。まさに正統な演奏を期待してしまう。この曲は今から20年以上前、社会人になりたてのころに良く聴いた懐かしい曲なのだ。

座った座席がオーケストラのすぐ後ろで、しかも指揮者にほぼ対面する場所。
後ろから聴く事になるので音のバランス的には悪いのだろうがその分各パートの音が左右から手に取るように聞こえてくるのが楽しい。

たっぷり歌う濃厚な弦の合奏には、あぁブラームス、と鳥肌の立ってしまうほど、旋律の中に溶け込んでしまいたいほどの、切なくなるほどの甘美さが満ち溢れている。濃密なその音楽の中に、甘く切ないロマンティシズムが漂う。こんな自分にも確かに存在していた青春時代、そのやや黄ばんだ記憶が鮮やかにそして柔らかく頭の中に浮かび上がってくる。いい歳をしたこんなオヤジでも、柄になく昔のロマンチックさを思い出しても、いいではないか。

ブリテンの小曲を挟んだ3曲目はチャイコフスキーの交響曲第4番。

チャイコフスキーは有名なピアノ協奏曲、それに交響曲第6番、ディズニーで通俗メロディと化したバレエのワルツ類以外は全く聴いた事がない。が、やはり事前に聞いておいたほうが良いだろう、と予習でCDを購入。カラヤン・ベルリンフィルによる4,5,6番のセットのCDが安く入手できた。朝晩の通勤時間を利用して予習。これを聴く限り、自分のような素人にもわかりやすい5番などに比べ4番はいささか騒々しいだけで訴えるものが感じられずに面白みがないという曲、という認識をえたが、どうだろう。

オーケストラののすぐ後ろの席に座ったせいか地響きするような低弦の響きと朗々と響く管が何の妨げもなく耳に届き、圧倒される。冒頭の堂々とした金管に始まり、抜群のリズム感と強弱のつけ方に目を見張らせた第三楽章の全弦での一斉ピチカート、そしてもてるエネルギーを一気に爆発させるフィナーレまで、あっという間に聞き込んでしまった。オーケストラは良く鳴りピアニッシモからフォルテッシモまで一気に膨らませるその力量と、そして何よりも充分に弦を歌わせるシャイーの指揮ぶりが自分と対面して真正面に目にして、自分までオーケストラの一員になったような気すらする、それほどまでに惹きつけるもののある指揮ぶりだった。

チャイコフスキーの4番は「面白みがない」どころか、アドレナリン全開でそんな印象はすべてが力演の前に覆されてしまった。シャイー自身も譜面を見ていたブラームスに対してこの曲は暗譜で臨んでいたが、得意なのだろう。

フィナーレとともにスタンディングオベーション、鳴り止まぬ拍手と足踏みは当然だろう。オケもシャイーもそれに応えて2度のアンコールを交えて、いつまでも歓声の途絶えない会場であった。


クルト・マズア指揮、フランス国立管弦楽団 (パリ、シャンゼリゼ劇場) 2008年7月9日

ベートーヴェン 戦争交響曲「ウェリントンの勝利」
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」 (ピアノ、ネルソン・フレイレ)
ベートーヴェン 交響曲第7番

6月から7月にかけてマズアとフランス国立管ではベートーヴェン・チクルスをやっておりその中で興味のあるプログラムを選ぶ。ピアノ協奏曲第5番と交響曲7番という有名曲のセットは、自分のようにベートーヴェンを殆ど聴いた事のない者にもとっつきやすいだろう。ピアノの好きな次女も第7番なら知っている。二人でシャンゼリゼ劇場へ。

ウェリントンの勝利は、舞台以外にホールの両袖外側階段踊り場に金管を配して音響効果を考えた立体感のある演出がされていた。

皇帝。ネルソン・フレイレは著名であるが彼の演奏を聴くのは初めてだ。がっちりとした体格からは想像しがたい、柔らかなタッチでやや軽めに演奏していく。第5番は有名ではあるが、恥ずかしながら自分は第1楽章以外はつまみ食いでしか聴いた事がなかった。第2、第3楽章は余り印象に残らなかったが、自分の予習不足を反省。

ベートーヴェンの7番。このスピード感と若さに溢れる曲を、マズアはかなりの高齢であるにもかかわらずしっかりとした重量感のある動きで指揮していく。マズアの年齢から考えてテンポを落して重く演奏するのか、と想像していたが実際は大違いで、速度感があり、第四楽章での燃焼度も高かった。この曲が好きな次女も生で演奏が聴けて嬉しそうだった。

コンサートマスターが過去何回かの演奏会から代わっており今回は女性のマスターだった。帰宅後プログラムを見て気づいたがこの翌日のベートーヴェン交響曲第9番の演奏会を持ってフランス国立管弦楽団の2008年夏シーズンは終わりで、秋冬シーズンからはマズアの指揮はプログラムに乗っていない。今回のベートーヴェンチクルスを持ってのフランス国立管からは常任を退任したのだろうか。であれば、ここ1年で2度ほど彼の指揮に触れることが出来た。とても幸わいな事だ。


ファビオ・ルイージ指揮、シュターツカペレ・ドレスデン (パリ、シャンゼリゼ劇場) 2008年9月11日

 R.シュトラウス 交響詩ドン・ファン
 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番 (ピアノ、ルドルフ・ブッフビンダー)
 ブラームス 交響曲第4番

2度目のシュターツカペレ・ドレスデン。昨秋に本拠地ゼンパーオーパーで聴いた燃焼度の高いマーラーが忘れられない。指揮のルイージは半年前にウィーンで、これまた素晴らしいワルツをウィーン交響楽団とともに聴かせてくれた。今回のプログラムはドイツ音楽ばかり、なによりもブラームスの4番。シュターツカペレ・ドレスデンの演奏でブラームスが、それも4番が聴けるとは夢心地だ。

R.シュトラウスは前回のウィーンでも演奏していたがルイージのお気に入りなのだろうか。彼が指揮したウィーン交響楽団の演奏会でも演奏していたが、さすがに得意なのだろう。色彩感のある曲想を、まるでフランスのオーケストラのように見事に感じさせてくれた。この曲は比較的とっつきやすいのだろうか、苦手意識のあるR.シュトラウスだが、ちょっと聞いてみようか、という気にさせてくれる。

フル編成で豪華さを演出したRシュトラウスから転じて、オケもコントラバスや金管類が減り小編成で臨んだベートーヴェンのピアノ協奏曲3番。この曲はカール・ベーム、ウィーン・フィルとマウリッツオ・ポリーニによるレコードを聴いた事があるがあまり聞き込んだ事もなく記憶に残っていなかった。改めて聴いてみるとピアノの技巧も必要で構築感に溢れる曲だが、それでいて、モーツァルトの面影を随所に残し、有名な5番よりもずっと自分にはマッチする曲だった。ブッフビンダーのピアノを聴いたのは初めて。アンコールにはヨハンシュトラウス2世の「こうもり」をピアノ用に編曲したものでサロン風の演奏がかっちりとまとまったベートーヴェンとは違う雰囲気を感じさせて面白かった。

ブラームスの4番。こんな自分でも、何時聴いても、青年の頃のロマンティックさ − 内省することが自分のすべてだと思っていた一時期 − そんな時代を思い出させてくれる曲。中年から壮年の年齢に移行しつつある今の自分にとって、いまさら人生とは・自分はどうあるべきか、なんて台詞は恥ずかしくて出てこないものだ。だがブラームスはいつでも自分を、戻してくれる。年齢を経る事で身に着いてしまった無関心さや鈍感さと言う皮を剥ぎ、恥ずかしいほど真摯で、真面目に人生とはを考えていた昔日の自分の顔をすぐに思い出させてくれる。ブラームスを聴くときは、だから自分はいつも注意する。止める事が出来ないから。もうすっかり忘れてしまっていた自分の中の自分が出てくる事を、抑える事が出来ないから。

他の3曲の交響曲はそれぞれ何枚かのレコードやCDを持っているが第4番はカール・ベームとウィーンフィルのレコード・CDしか聴いた事がなかった。第1楽章冒頭の切ないメロディであっという間に持って行かれてしまった。豊かなホルンとオルガンのようにすら聞こえる木管の柔らかさが弦のピチカートの上にゆったりと乗る緩余楽章も素晴らしい。第3楽章はスピード感溢れ、ポーズなしでそのまま緊密に立体的に締めくくった終楽章まで、青年の頃の自分に戻り一気に聴きこんでしまった。全体に良く唄いメリハリのある演奏。ルイージも大きなアクションで指揮しぐいぐいと弦を鳴らす。一方でベーム版では聞き慣れないちいさな間合いやアクセントづけがいくつかあり、それにより聴きなれていたはずのこの曲にまるで新しいメロディラインを新たに与えてくれたかと思わせる、新鮮な喜びを与えてくれた。旋律の濃厚さは素晴らしく、甘美なブラームスここにあり。チェロのピチカートが強く、弦がぶ厚い印象はドレスデンの面目躍如と言いたい。

演奏会が終わり秋の風吹くパリの街に出たとき、建物の扉に映ったのは青年でもなんでもなく、まごうことなく腹が出た中年の自分だったが、タイムスリップしたかのように素晴らしくロマンティックな一時を過ごさせてもらったカペレの面々に感謝したい。


スメタナ オペラ「売られた花嫁」 (パリ、オペラ座(ガルニエ宮)) 2008年10月26日
ジリ・ベロフラーヴェク(Jiri Belohlavek)指揮 パリ国立歌劇場管弦楽団

オペラはモーツァルトやワグナーのいくつかのオペラの序曲を聴いた事がある程度で、なんとなく近寄りがたく一度も聴いた事がなかった。ひょんな事からとある日曜日のマチネのチケットが2枚手に入り、家内と二人で出かけよう。正直オペラには余り興味はないのだが見てみるのも悪くない。それに開演場所もバスティーユの新オペラ座ではなく、なんと言ってもあのオペラ座・ガルニエ宮なのだから。

スメタナといえば有名なモルダウしか知らない。それも旋律を知っているだけで、きちんと聴いた事もない。ましてやスメタナがオペラを作っていたことなど全く知らなかった。当然ながらチェコ語のオペラで、せめて物語のストーリを知っておかなければ苦痛だろう。事前に「売られた花嫁」についてのストーリを予習をしていく。と言ってもストーリーだけだが。ハッピーエンドで歓びが待っている、喜劇ともいえる楽しいストーリーとわかった。

ガルニエ宮はシャンゼリゼ劇場やオデオン座と同じく円形劇場で荘重な歴史を感じさせる建物だ。いかにもヨーロッパの音楽文化の重さを感じさせてくれる。オペラといってもマチネのせいか観客も必ずしも正装ではなく、却って垣根の高さを感じないのはありがたい。

初めて聞く序曲は、いかにも喜劇オペラに相応しい魅力溢れる、期待を感じさせる曲だった。なるほど、オペラの序曲は、観客をこれから始まる劇へいざなうため、現実空間から仮想空間へ連れて行くための役割を持った曲なのだ。だからこそこれまで魅力的な旋律に溢れているのだろう。ニュルンベルクのマイスタージンガーの序曲が何故あのように豪華なのか、フィガロの結婚の序曲があれほど魅力的なのも、序曲の持つ役割を知ればよくわかる。

(3時間の楽しい劇に、カーテンコール
での拍手も惜しみなかった。)

幕間をはさんで約3時間の楽劇、アリアあり、合唱ありの劇は、楽しかった。家内も楽しかったとのことで何よりだ。唄われるチェコ語はもちろん皆目分からないし電光掲示板に現れるフランス語訳も理解できないが、大体のストーリーが分かっているので想像がつく。

なによりも感心したのは、オペラが振り付けと歌と演奏の高度な組み合わせによる総合的な音楽劇だと言うことだった。演者は舞台俳優では当然のことながら勤まらず、まず歌手であることが求められる。そしてあれだけの歌を朗々と、切々と歌いながらにして、同時に俳優のように演技をすることが必要で、舞台俳優が本業ではない彼らに、それがいかに難しいことかが容易に想像がつく。しかも劇全体の進行を一体誰が管理しているのだろうと考えると、誰でもない、舞台の下、オーケストラピットに座り黒子に徹している指揮者そのものだ、と言うことに考えが至るに及び、オペラ指揮者が如何に大変な仕事かが想像がついた。一流の指揮者としてかつて世界的に知られた人たちの多くが街の小さな歌劇場からのたたき上げであると言うことは、指揮者にとってもこれだけの力量が求められる歌劇でそのキャリアをつむことが避けられない、という事を意味するのだろう。またウィーン・フィルも、シュターツカペレ・ドレスデンもその実態は歌劇場専属楽団であるという事も、歌劇が出来てこそのオーケストラ、とも言えるのかも知れない。

一方舞台の演出そのものも重要で、劇をどのような演出で行うか、それによっての大道具準備、衣装、照明・・など演出家の存在も必要で音楽以外にいかに劇を仕上げるかと言う意味でその重要さも計り知れないだろう。いや、まさにオペラが総合芸術と言われる所以が少し分かったような気がした。演出もオペラの指揮もやってこなしたカラヤンなど、なんと多才なことなのだろうと思う。

華やかな舞台で脚光を浴びる歌手が観客を歌劇の世界に誘いこむ。一方その手前、薄暗いオーケストラピッドで黒子に徹する指揮者とオケ。譜面台に点灯する小さな明かりが、仕事をする彼らの懸命な表情をほんのりと浮かび上がらせる。明と暗が独特の雰囲気だ。ベロフラーヴェクという指揮者は全く知らなかったが、調べてみるとチェコ・フィルやライプツィヒ・ゲヴァントハウスなどでも指揮をしているようで、スメタナやヤナーチェクなどは十八番のようだ。パリ国立歌劇場管弦楽団もプレートルやショルティが監督をしていたこともあると言う名門で、素晴らしい演奏を聞かせてくれた。

当たり前のことだけどオペラは総合音楽で、序曲やアリアだけ取り出してCDで聴くものではない、と言うことが良く分かった。それらはどの場面で唄われ、演奏されるかが分かった上で聴くものだろう。今、それを知ったとは恥ずかしい話だが。

簡単に言うと、オペラに少し惹かれてしまった。幸いに今はDVDのおかげで古今東西の名演に容易に触れることが出来る。3時間以上覚悟が必要だが、「魔笛」や「コジ・フォン・トゥッテ」などを見てみたいと、一瞬、思ってしまう。怖いので、まだ踏み出せないでいるが。


マリス・ヤンソンス指揮、バイエルン放送交響楽団 (パリ、シャンゼリゼ劇場)、2008年11月30日

 モーツァルト 交響曲第36番「リンツ」
 ブルックナー 交響曲第4番「ロマンティック」 

モーツァルトの36番にブルックナーの4番。プログラムの好みで言えば最高だ。そしてオケはバイエルン放送交響楽団とは! シャンゼリゼ劇場の年間プログラムで先の9月のシュターツカペレドレスデンの演奏会とともに以前から目星をつけていたもので、はやばやといつもの25ユーロの席を購入する。こんな価格で音楽に気軽に触れられるヨーロッパは素晴らしい。

バイエルン放送交響楽団はラファエル・クーベリック時代のCBSの録音で色々聴いたことがある。モーツァルトの36番もまさにクーベリック指揮のこのオーケストラのレコードで聴いたのが初めてだった。同じオケで大好きな36番が聴けるのも嬉しい。そしてブルックナー。このオーケストラーでのブルックナーの手持ちのCDは、シンフォニーではないがオイゲン・ヨッフムが振った3曲のミサ曲があり、そこでの宗教的厳粛さに満ちた演奏が忘れられない。重厚なブルックナーをドイツのオーケストラで聴く。これ以上望むべくもない演奏会だ。指揮のヤンソンスにも興味がありかなり期待度が高い。

36番リンツ。第一楽章の序奏からやや違和感を感じてしまった。自分のこの曲の愛聴版 - オイゲン・ヨッフム指揮バンベルク交響楽団の録音 - に比べ、レガートを排した、ずっとスピードが速く引き締まった演奏だった。ヨッフムがその演奏に円熟ともいえるまろやかさを与えており、その残響豊かなふくよかな響きにこの交響曲の良さを感じていたからで、ここではそれがスパッとなくなっており、果たしてモーツァルトがこんなに筋肉質である必要があるのだろうか、と思わず口に出る。しかしこの違和感は第1楽章のみで、曲が進むにつれあまり感じなくなった。特にこの交響曲で最も好きな部分 - 終楽章での対位法の展開部分 - 対旋律が絡み合い有機的に柔らかく膨らんでいくその部分が、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの四つのパートが順に旋律を引継ぎ重ね合わせていくその展開の様が、適度に締まった演奏のおかげでその構成が手に取るように耳に届き、言いようもない喜びに包まれた。改めてヨッフムのCDを聴きなおしてみると豊かな残響音にもよるのかこの展開部での4つのパートの音の分離が必ずしも明瞭ではないのだが、ヤンソンスの演奏でこの曲の新しい魅力を一つ発見したように思える。

ブルックナーは、実に素晴らしかった。こちらはカール・ベームとウィーン・フィルによる同曲の定番ともいえる録音をよく聴いていたが、バイエルン放送交響楽団もウィーン・フィルに負けぬ重厚な音色で、ドイツの森林を思わせる音楽を奏でてくれる。この4番は「ロマンティック」という副題を持つせいかとっつきやすそうで人気がある曲と聞くが、自分にとっては決して敷居の低い曲ではなく、第4楽章など反復・休止が多く聴くほうも大変と言うのが実感。が、やはりライブは熱がこもっているせいか70分に及ぶ長大な交響曲だが弛緩したところがなく、じっくりと酔うように聞き込んでしまった。なによりも低弦がなんともいえない渋い音色を出しており、こういう音を聴いてしまうともう他では満足できない。やはりブルックナーは独墺の音楽なのだ。金管とティンパニの活躍も目覚しく、重要なモチーフとなっているブルックナー・リズムも力強く伝わってきた。

お気に入りのドイツのオーケストラで、好きな作曲家の好きな曲をじっくり聴く。実に満ち足りた一晩だった。


チョン・ミョンフン指揮 フランス放送フィルハーモニー管弦楽団 (パリ、サル・プレイエル)、2008年12月8日

チャイコフスキー バイオリン協奏曲
ムソルグスキー 組曲「展覧会の絵」

チョン・ミョンフンは是非一度聴いてみたかった指揮者だが、なかなか自分の好きなプログラムに行き当たらず機会を逃していた。今回のプログラムもどちらかと言うと積極的に聴きたいとは思わない苦手な演目で迷っていたところ、さる筋から容易にチケットが入手できた。日仏交流150周年を記念したコンサートで、フランスと日本の小中学生を対象に安価でチケットがオファーされていたのだ。日本人学校に通う我が娘もその対象。家内と次女の分も入手して出かける。

どちらの曲も恥ずかしながらきちんと聴いたのは初めてだった。チャイコフスキーは全くといっていいほど聴く事がない作曲家で、バイオリン協奏曲も有名だ、と言う事を知っている程度。一方の「展覧会の絵」も中学校か高校のときの音楽の授業で聴いた程度。むしろプログレ・ロックにはまった大学生時代にもっぱらELP(エマーソン・レイク・パーマー)でしか接した事がない。

日本人のソリストを迎えたチャイコフスキー、オーケストラもソリストも実に熱のこもった演奏で、ロマン派という名前の持つイメージどおりの演奏だった。なによりもチョン・ミョンフンのオーケストラのドライブ力、そして観客をひきつけるオーラが素晴らしく、大きな渦のような空気を会場の中に作り出していく様は素晴らしかった。

小中学生が多く招待されていることもあるのか、楽章の終わりごとに拍手が鳴ったり、終っていないのに拍手が鳴ったり、と演奏する側も大変だっただろうが、拍手は全楽章が終ってから、といったクラシック音楽演奏会の決め事も、本来は良い演奏の前には不要だろう。彼らが音楽に興味を持ってくれればそれは素晴らしいことだ。嫌な顔どころかニコニコしながら小中学生の拍手にお礼を返していたチョン・ミョンフンを見て、良い音楽界だったと感じた。


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