横須賀基地の実態


戦前・戦後の横須賀

 横須賀は、戦前は海軍鎮守府が置かれて「軍都」として栄えた街で、戦後米軍に接収され、朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争・イラク攻撃・アフガニスタン報復戦争の出撃基地として使われてきた。70年代前半当時中学生だった私も、「米兵の死体洗い1体1万円」というアルバイトがある事を知っていた。

横須賀海軍施設

 この施設には、重要な司令部機構や部隊と、生活に必要なすべてがそろっており、人口1万6千人の独立した街のようである。この基地には、第7艦隊旗艦ブルーリッジや空母キティホークなど、11隻の軍艦が母港としている。米軍は、"the sun never sets"の言葉が示すように、全世界に憲兵として君臨しているが、米軍艦の母港を受け入れた国は日本の他はない。
 ソ連崩壊後、原潜の役割は従来通りの水中戦に加え、兵員の輸送が主任務とされてきたが、97年11月11日に2度目の入港をしたベンジャミン・フランクリン級原潜カメハメハ(7330トン)は、このほかに謀略的な役割を与えられている。カメハメハは核弾道ミサイルを搭載した戦略原潜だったが、ソ連崩壊後特殊部隊と2隻の小型艇が配備され、海中から敵陣へ接近して作戦の橋頭堡を築いたり、スパイ活動を助けたりする役割が新しく付け加えられている。
 第7艦隊の潜水艦隊の旗艦であった潜水艦母艦ホランドが退役し、その後継となった潜水艦母艦フランク・ケイブルは、96年夏、母港をグアムにしたままでの横須賀配備となった。攻撃型原潜は、依然として年間30回近く横須賀に入出港しているが、修理能力の高い横須賀基地の艦船修理部でも原潜の修理能力だけはもたないため、艦内に修理工場を備えたこの艦が横須賀に配備された意味は大きい。
 横須賀を母港とする11隻の艦船は、96〜98年の新鋭艦との配備交替により、イージス艦は2隻から5隻(2004年9月に6隻、2005年に7隻)に、垂直発射塔VLS装備艦は5隻から6隻(同じく7隻)に増強された。VLSのミサイル発射筒の合計は、427セルから546セルへと119発分も増えた事になる。最近横須賀に寄港した原子力空母カールビンソンやニミッツの艦隊を見ても、イージス艦は1〜2隻、VLS装備艦は2〜4隻に過ぎず、機能強化を通り越して、過剰配備とさえ言える状況だ。

横須賀を母港にしている艦船

艦番号    艦   名    艦  種  摘  要  配備
LCC 19 ブルーリッジ 揚陸指揮艦 第7艦隊旗艦 1979
CV 63 キティホーク 航空母艦   1998
CG 63 カウペンス ミサイル巡洋艦 イージス・VLS 2000
CG 62 チャンセラーズ・ビル ミサイル巡洋艦 イージス・VLS 1998
DDG 54 カーティス・ウィルバー ミサイル駆逐艦 イージス・VLS 1996
DDG 56 ジョン・S・マケイン ミサイル駆逐艦 イージス・VLS 1997
DDG 63 ステザム ミサイル駆逐艦 イージス・VLS 2005
DDG62 フィッツジェラルド イージス駆逐艦 イージス・VLS 2004
DDG 82 ラッセン ミサイル駆逐艦 イージス・VLS 2005
FFG 51 ゲアリー ミサイルフリゲート   1999
FFG 48 ヴァンデグリフト ミサイルフリゲート   1998

横須賀配備になった艦船(母港はグアムにしたまま)

AS 40 フランク・ケイブル 潜水艦母艦   1996

空母インディペンデンス

 95年8月の基地公開日に、私はベースの中で迷ってしまった。勘をたよりにひたすら歩き、トンネルを抜けたら、目の前に空母インディペンデンスの巨体があったので、ビックリしてしまった。写真下は、海上から見たインデペンデンス。

インデペンデンスの甲板

 インデペンデンスの中に入り、艦載機用の巨大なエレベーターで甲板に上がると、そこは運動場のような広い場所であった。艦橋が屹立する様は、「アイランド」と呼ぶに相応しい。

インディペンデンスに配備されているミサイル

 艦載機の格納庫は、広い体育館のようであった。ミサイルが、これみよがしに置いてある。

第7艦隊旗艦「ブルーリッジ」

 いままで何度基地に入っても姿を見せなかったが、97年9月21日、やっと見る事ができた。司令室では、全世界に展開している艦船の位置を見る事ができるらしい。

イージス艦近影(96年8月の基地公開日に撮影)

 イージス・システムとは、艦橋などの前後左右にはりつけられたフェーズドアレイ・レーダーによって360度をカバーし、同時に154の目標を探知する。攻撃には同時に18の目標に対処できるという最高の防空システムである。

イージス艦の司令室

97年8月24日の基地公開日に撮影したカーティス・ウィルバーの司令室。モニターには、日本の地図が...

駆逐艦ヒューイット

 VLS(垂直発射装置)が配備されている。これはミサイルの装填や目標設定の必要がなく、港内にいながらにしてトマホークなどを発射できる。ヒューイットは96年9月4日のイラク攻撃でも2発のトマホークを発射している。

原子力潜水艦の入港

 横須賀を母港とする原子力推進艦は存在しないが、1年のうち2/3は原潜が入港しており、事実上横須賀を母港にしているに等しい。第7潜水艦群の作戦拠点ともなっており、旗艦である潜水艦母艦ホランドや、その後継艦のフランク・ケイブルも頻繁に入港している。左の写真は、この3月に入港したロサンゼルス級攻撃型原潜サンタフェ。右は、インデペンデンスのエレベーターから見たロサンゼルス級原潜とミサイルフリゲート艦カーツ。

吾妻倉庫地区

 かつてこの地域は半島であったが、戦前新井掘割水路がつくられて島となった。在日米海軍補給廠鶴見支所の出先として航空燃料及び艦船燃料などの貯蔵・補給を行う貯油施設。陸側の箱崎ターミナル地区と対になっている。タンカーで運ばれてきた燃料は島のタンクに貯蔵し、航空燃料は箱崎ターミナルにパイプで送って、JRのタンク車によって鶴見貯油施設に運ばれ、横田や厚木に運ばれる。

浦郷倉庫地区

 背後の山をくり抜いたトンネル式の弾薬庫が無数にある。常に核兵器の貯蔵の疑惑が持たれてきたが、核弾頭トマホークに加え、最近では劣化ウラン弾貯蔵の疑いが濃厚である。

横須賀版「安保の見える丘」から見た原子力空母カールビンソン

 沖縄の嘉手納基地には、「安保の見える丘」と呼ばれる丘があり、そこからの眺望は、日米安保条約の理不尽さを訴えかけてくるという。京急安針塚駅の近くにある「コモンヒルズ安針台」にも、横須賀版「安保の見える丘」ともいうべき場所ができた。カールビンソン入港の朝、ここには軍事マニアがカメラを持って殺到し、上空にはヘリが飛び交っていたが、住民は、けげんそうな顔つきで犬の散歩をしていた。

逸見波止場西門

 横須賀市内には、軍都の名残がいくつもある。JR横須賀駅の近くにある臨海公園には、戦前海軍が使っていた波止場の門が残っている。終戦直後にアメリカ軍がここから上陸してきたという歴史も持っている。

横須賀海軍病院

 ベース内にある海軍病院は、91年に見た時は、戦前の日本語の古めかしい看板をそのまま使っていたが、95年に見た時は、すでにリニューアルされていた。

猿島

 猿島は、東京湾唯一の天然の島で、戦前は人工島である第一〜第三海ほと結んで、首都東京の防御線として位置づけられ、高射砲が据えつけられていた。朝鮮戦争中は、潜水艦防御のための網が張りめぐらされ、漁業が大打撃を受けた事もある。写真左は船着き場近くにある戦前からの建物、右は防空壕跡、下は砲台跡。

防衛大学校

 戦後間もない時期、小原台に米軍のレクレーション施設(ゴルフ場など)建設の計画があり、地元農民が座りこみで反対した事がある。そこには現在防衛大学校が建っている。写真を撮って誰何されるのがイヤなので、車のエンジンをかけたまま、シャッターを切ると同時に走り去った。
P・S 「うさぎ猫」さんから、心優しいアドバイスを頂きました。写真撮影で誰何される事はなく、それどころか、事前に申し入れれば、施設内も見学させてもらえるそうです。検討してみたいと思います。

長浦港から見た海上自衛隊の潜水艦

 長浦港は、好釣り場として市民の憩いの場になっているが、目の前には海上自衛隊の基地があり、ここで釣ったカレイは、重油臭くて仕方がなかった。望遠レンズで潜水艦を撮ってみた。
P・S 「うさぎ猫」さんからのアドバイスによれば、海自では重油は使用しておらず、「2号軽油」という、非常に気化しやすい燃料を使用しているそうです。それじゃあ、あの重油臭さは何だったんだろう?

横須賀駅

 JR横須賀駅は、JRでは全国で唯一階段のない駅である。繁華街から遠く離れている事と合わせて、戦前の軍都の色を残した異様な駅の姿だ。国道16号線から、ホーム越しに戦艦が見えた。

吉倉桟橋

 自衛隊吉倉桟橋の姿は、民間人でも目にする機会が多い。左はJR横須賀線の田浦駅と横須賀駅の間から見える風景、写真下は吉倉山から見た風景。

戦艦三笠と東郷平八郎

 軍都横須賀のシンボル、帝国海軍の過去の栄光を象徴する戦艦三笠。「天気晴朗なれど波高し」の日本海海戦で、当時最強と言われたロシアのバルチック艦隊を打ち破った時の旗艦である。東郷平八郎は薩摩の人であるが、当時逗子に住んでいて、凱旋の時の様子を、よく祖母から聞かされた。また、中学の時1学年上に、東郷の孫がいた。日本海海戦を企画した参謀の秋山真之も、戦後逗子に住んだという。

軍転法の記念碑

 1950年6月4日、旧軍港都市転換法の住民投票が、横須賀、呉、佐世保、舞鶴で行われ、横須賀では90.8%もの賛成を得た。しかしその後の実態は、4つの都市とも軍港であり続けている。軍転法はこのような弱点を持っているが、横須賀市民が平和都市への転換を希望した歴史は偉大であり、この精神を受け継いだたたかいは続けられている。

浦賀の陸軍桟橋

 ポツダム宣言第9条の規定により、終戦当時「外地」に居た660万人を越える日本人が、「内地」に帰ってきた。受け入れ港は全国で12港あったが、浦賀は舞鶴に次ぎ4番目に人数が多く、1949年までに56万4624人もの引揚者を受け入れた。46年4月以降、中国広東、海防方面からの引揚が開始されると、多数をコレラ患者が発生した。指令により、これらの引揚船は浦賀に集められ、旧海軍対潜学校(久里浜、長瀬)に設置された久里浜検疫所で、かつてないコレラ大防疫が実施された。コレラ患者は、国立病院や検疫所内仮設病院で収容した。死亡患者の激増により、市の火葬場では処理しきれなくなり、検疫所内に仮設の火葬場(13基)が設置された。桜が咲く「内地」を目の前にしながら、コレラ発生のために上陸できず、死んで行った人も多く、その中には横須賀出身の兵隊も居たという。(この項は、浦賀観光協会の資料を参照しました。同資料は、横須賀市史編纂室 上杉孝良氏の資料より作成したそうです。)

「対テロ」報復戦争と横須賀基地

 2002年9月3日、キティホークのヘイル艦長が突然、解任された。アフガン報復戦争で同空母を指揮した国民的英雄であった。解任の直接の理由は、海外遠征中の物損事故や乗組員の強盗・傷害事件などが相次いだため。「乗組員を導き、必要不可欠な任務を実行するヘイル艦長の能力について信頼が失われた」という。
 空母キティホーク戦闘群は、アフガン報復戦争(「不朽の自由」作戦)に、11隻中9隻が参加し、重要な役割を果たしている。キティホークは、アラビア海に派遣された4隻の空母の中で、唯一、特殊作戦部隊の洋上出撃基地になった。

横須賀基地の資産評価額

 米国防総省がホームページ上で2002年6月に公開した資料によると、横須賀海軍補給廠は世界14位の17億ドル、横須賀海軍艦隊産業補給センターは世界15位の17億ドル、横須賀海軍基地は世界16位の16億ドルで、3つ合わせれば、50億ドルとなり、沖縄の海兵隊キャンプ群や横田空軍基地に次ぐ、世界3位となる。


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