『”ものみの丘”に吹くそよ風』

第九話


「じゃあ、今日は退院祝いだね」
 朝香が楽しそうに、そんな事を言いだした。

 一晩泊まっただけで退院祝いをするのは、流石に大げさだと思う。
そう答える前に、
「ふふっ、そう読んでちゃんと用意してきたよ」
 にやりと笑った智子が、鞄からお菓子のような物を取り出した。
「昨日帰ったら、たまたまお母さんが作っててね、もらってきた」
「なにこれ?」
「おそらくパンケーキの類、でしょう多分」
 朝香の問いに曖昧に答える智子。
「なにそれ?」
「気にしちゃダメよ。私のお母さんが作ったんだから、ものが不確かでも味は確かなはずだから」
 確かに。智子のお母さんの料理は、何度かごちそうになった事があるけれど、どれもとても美味しかった。
さらに付け加えれば、智子自身の料理の腕も、かなりの物であることを私は知っている。
「また紅茶入れてきたからね」
「はい」
 智子がお気に入りのポットを取りだす間に、私は簡易テーブルをこゆきちゃんのベットの上に出した。
そこに、可愛らしいクロスが広げられ、ポットを中心にティーセットが並べられる。
「うわぁー、あいかわらずだね」
「当然。これくらいのこだわりが無いとね」
 朝香の言葉を軽く流しつつ、智子は手際よくお茶会の用意をととのえた。

「ふっ、完璧」
 しばらく経つと、テーブルの上の小皿には、小さく切り分けられたパンケーキがのせられ、智子ご自慢のハーブティーが、芳しい香りを部屋中に広げていた。
「さて、食べましょうか」
「はい」
「……私、ご飯食べてきたんだけど…」
「…気にしちゃダメだって」
 朝香の言葉をあっさり返す智子。
そう言えば私たちも、朝ご飯を食べてからまだそれほど時間が経っていない。
まぁ、朝ご飯は量も少なかったから、このケーキくらいなら食べられると思うけど…。
こゆきちゃんの方を見ると、何事もないように既にフォークをつけていた。
くすっと笑って、私もフォークを取る。
「いただきます」
「はい、どうぞ」

 こゆきちゃんの紅茶に砂糖を入れながら、私は話を続ける。
「それで、私は退院することに成りましたけれど、こゆきちゃんは記憶が戻るまで、ここに居ることになると思うんです」
「そうだろうね」
「はい。だから私は、毎日お見舞いに来ようかと思っているんです」
「毎日?」
「はい」
「それは大変だよ? 受験勉強もあるし」
「そうですけど、勉強はここでもできますから」
「まぁ、美汐なら大丈夫だね。誰かさんなら、家から三歩出るともう絶対勉強のことなんて忘れるでしょうけど」
「……誰のこと?」
「反応があるってことは、自覚があったんだね」
「うっ…」
「くっくっくっ…」
 思わず言葉につまる朝香を、のどの奥の方で笑いながら、
「それで、私たちも誘いたいわけなんだね」
 と、私の伝えたかった事をちゃんと捉えていてくれている。
「はい。もし、よければですが」
「私はいいよ、暇だしね。ただ…」
 ちらっと、朝香を見る。
「まぁ、二人で来ましょうか」
「どーしてよっ! 私はぁ!?」
「朝香は家出ると勉強しない子だし」
「そんなことないよ、智ちゃんの家に行ったときも…」
「遊びつづけてたね、思いっきり」
「はい」
「うっ…あれは…、ずっと遊んでたわけじゃないもん、ちゃんと勉強だってしてたじゃない」
「遊んでた方が多かった。人が勉強してる横で、何が面白いだとか何が珍しいだとか、人の家荒らしまくってたでしょう?」
「…うぅ、でもぉ今度はちゃんと勉強するからぁ」
 朝香はなんだか泣きそうになってきた。
「智子」
 小さく声をかけて目で訴える。
「うん、ちょっといじめ過ぎたね」
 そう言いながらも、まだ目が笑ってた。
「まぁ、実際、もう勉強しなければ後がないからね、私がちゃんと教えてあげるよ」
「本当?」
「解るところだけは、ね」
「うん、大丈夫。智ちゃんが解らないとこなんて、私には絶対解らないから」
「それはそれで問題です」
「うっ…、気にしちゃダメ、だよね智ちゃん?」
「しろよ、少しは」
「うぅ…」
「それはともかく、じゃあ、明日からここで勉強するんだね」
「はい。そうしたいと思います」
「こゆきちゃんの邪魔にならない?」
 みんなが一斉にこゆきちゃんを見る。
「………ふにゃ?」
 こゆきちゃんの表情は”わからない”と答えていた。
「……たぶん、大丈夫です」
 なんとなく、そんな気がする。
一緒に居て嫌だということは無さそうだし、それに、ずっとただ黙って勉強するわけでは無いから、少しお話をしたり、今日みたいにお菓子を食べたりもできるだろう。
「美汐がそう言うんなら、良いんだろうけどね」
 なぜかあっさり納得する智子。
朝香は元から気にしていないようだった。
「それで、明日はともかく、明後日はいつ頃集まるの?」
「お昼、食べてからにしない? 朝は寒いし」
 確かに。朝香の言う通り、冬休みだというのに、わざわざ早朝に出歩きたくは無いだろう。
こゆきちゃんに会いたければ、別に私だけ早くに来ていても良いのだから。
「はい。それで良いでしょう」
「そうね、じゃ、そういうことで」
 そう言ってまとめた智子が、カップに残っていたお茶をくっと飲み干した。

 ふと、時計に目をやる。
お母さんが部屋を出てから、どのくらい時間が経っただろう?
少し遅いような気がする、私の怪我の具合について訊くだけなら、もう戻ってきても良いと思うのだけど……。
「どうしたの? 美汐」
 私の様子に気がついたのか、智子が訊いてくる。
「いえ。大した事ではありません」
「そう?」
 お茶のセットはすでに片付けられ、昨日と同じように雑談に入ろうという状態である。
私も、ちらっと、もう一度だけ時計を見てから、何事も無いように3人と話をはじめた。

 コンコン。
ドアがノックされたのは、それから更に時間が経ってからだった。
「あ、おはようございます」
 部屋に入ってくるお母さんの姿を見て、まず朝香が挨拶をする。
「おはようございます。またお邪魔しています」
「はい。おはようございます、朝からよく来てくれましたね」
 相変わらず、まるで私の家に遊びに来たような挨拶だった。
「お母さん?」
「はい」
「なにか、あったんですか?」
「いいえ。警察の人も来ていたので、いろいろお話を伺っていただけです。心配しましたか?」
「いえ。ただ気になっただけです」
 お母さんがくすっと笑ったように思えた。
「まだ、ここで皆さんとお話していきますか?」
「はい。そのつもりだったんですが…」
「では、お母さんは先に帰りますので、荷物だけ持って帰りますよ?」
「はい。おねがいします」
「それでは…」
 お母さんは皆の方に向かってそう告げ、荷物だけを持って部屋を出ていった。

「気…使わせちゃったかな?」
 智子がそう口にする。
「大丈夫だと思います」
 確かに気を使ってくれたのかもしれないけれど、もうお母さんがここに居る理由は無いのだから。
「そう?」
「はい」
「なら良いけど、せっかく娘の見舞いに来たのに、ゆっくり出来なかったんじゃないかって…」
「私はもう退院しているんですよ?」
「それもそうか」
「じゃあ、私達は何しに来たの?」
「もちろん、今日もこゆきちゃんのお見舞い、あーんど、美汐の退院祝い」
「そうですね」
「あ、そうか」
「もっとも、明日からはこゆきちゃんのお見舞い、あーんど、受験勉強になるんだろうけどね」
「…うっ」
「いやなら別にこなくても良いよ?」
「い…嫌じゃないよ、もちろん」
「そう?」
 そしてまた、のどの奥でくっくっくっと笑う。
いつもの様にからかう智子と、いつも通りの反応を返す朝香。
私は、そんな風景が好きだった。

「あ、もうこんな時間か」
「はい。そうですね」
 時計を見ると、もう12時近い。
「どうする?」
 智子の問いに、しばらく間を置いてから朝香が答える。
「う…ん、そろそろ帰らないと、お昼が食べられないね」
 ちらっと、こゆきちゃんの方を見る。
なぜか、見事に目が合った。
「………」
 もう少し、そばに居たい。
でも、ここで残ってしまうと、ずっとそばに居てしまうような気がする。
私は、こゆきちゃんから目をそらし、智子に声をかける。
「そうですね、今日はこの辺りで…」
「…ん、じゃ、そういうことで」
 そう言うと同時に、素早くかばんを持って立ちあがる。
朝香は今日はほとんど手ぶらだった。

 もう一度、こゆきちゃんを見る。
「では、今日はもう帰ります。また、明日の午後から来ますから、一緒にお喋りしましょうね」
「……うん」
「みゆちゃん、お喋りじゃなくて勉強だよ?」
「あんたが言わない」
 ごすっ、と音をたてて、智子の肘が朝香の後頭部を突き飛ばす。
「くわっ……、と…智ちゃん……」
「あ、入った」
「………な…なんって事するのよっ! お目々が飛び出ちゃうかと思ったじゃない!!」
「そりゃすごい、ぜひ見せてくれ」
「う〜もう……」
 後頭部をさすりながら、それでも何事も無かったかのように、こゆきちゃんの方に向きなおる。
「じゃあ、また明日くるからね」
「うん」
 私はその様子を横目で見ながら、掛けてあったコートを羽織る。
それを確認してから、智子が声をかけた。
「じゃ、行きますか。こゆきちゃん、また明日ね」
「うん、…また明日」

 私は、部屋を出るときに、もう一度だけこゆきちゃんの方を振りかえった。
それがごく当たり前のことであるように、また視線が合った。

「うわぁ、降ってるねぇ」
 朝香が声をあげるほど、雪は本降りになっていた。
「美汐は、傘無くて平気?」
「はい」
 私はコートに付いてるフードを目深にかぶりつつ、返事をする。
「じゃあ、私は“これ”送って帰るから」
「はい」
「なによぉ、“これ”って言い方は無いでしょう」
「今にも降りそうだってときに、傘も持たずに出てくるなよ、あんたは」
「だって……」
「もういいって、行くよ」
「あ、うん…、じゃまた明日ね、みゆちゃん」
「はい。また明日」
「じゃあ」
 一声残して、智子たちは雪の中に歩き出した。

 ふと、病院の建物を振り返る。
薄暗い空のためか、白い壁も少しくすんで見える。
私の病室…こゆきちゃんが居る部屋はあそこだっただろうか?
それらしい部屋を探してみる。でも、こゆきちゃんの姿は見つからなかった。

 再び、降りつづける雪に向かう。
私は、一度軽く目を閉じてから、ゆっくりと、その中に踏み出していった。

  ……つづく。


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