『”ものみの丘”に吹くそよ風』
第八話
「失礼します」
言葉を掛けてから、看護婦さんに促されるままに、部屋の奥に入る。
まだ少し時間が早いためか、外来用の診察室ではない場所に案内された。
机の上に散らかった書類と、ボードに張り付けられたレントゲン写真のような物が目に付く。
「天野さんですね。おはようございます」
奥の棚で何か作業していらしたお医者様が、私に声に振り返り、朝の挨拶をしながら戻ってくる。
「おはようございます」
「昨夜はよく眠れましたか?」
「はい。おかげさまで」
そして、手振りで私にイスをすすめつつ、事務机の前に座った。
「さて…と」
呟きながら、机の上にあった書類を乱雑に端の方へ除ける。その中の一束を取り出し、私に見せるように広げて話し始めた。
「一応検査の結果ですが、特に問題はないですね」
「はい」
「背中を打っていますが、軽い打撲程度で、骨には何の異常もありませんでした。他に怪我はないですよ」
「はい」
思っていた通りの結果のようで、私は安心した。
「それでは…」
「はい、ご両親がいらっしゃってから少しお話ししますが、もうすぐにお帰り頂いて構いません。短い間でしたが、退院おめでとうございます」
そう言って、お医者様は笑ってくださった。
「ありがとうございました」
応えてから、気になっていた事を訊いてみる。
「あの…よろしいでしょうか?」
「はい、何ですか?」
「こゆきちゃんの事です」
「あぁ、あの子ですね」
予想に反して、お医者様の声は明るい。
先ほど端に除けた書類に中から、新たにもう一束を取り出し、同じように私に見せながら続ける。
「ここに検査の結果がありますが……、あなたと同じく背中に打撲、他は問題ありませんでした。ただ、ショックで一時的に記憶が無くなっているのでしょう」
「では…頭を打った、と言う訳ではないのですか?」
「えぇ、検査の結果、頭部には何の傷も見つかりませんでした」
「………」
少し、安心した。
ショックで一時的に記憶が無くなっているだけなら、それほど心配しなくとも、じきに思い出していくだろう。
実際はそれほど単純ではないかもしれないが、一生記憶が戻らないと言うことはないと思う。
「それと、警察の方から聞いた話ですが……」
「はい」
「車に撥ねられたとき、あの子が車と天野さんの間に入り込んで、背中から当たってこっちに撥ね飛ばされて、この辺りにあった電柱に、天野さんが背中からぶつかった、と言うことらしいです」
お医者様は手振りを加え、その事故の様子を説明してくれる。
「この電柱にぶつかったときは、天野さんの方があの子を抱きかかえていた様な感じになっていますので、もし頭を打っているとしたら、天野さんの方ですね」
「はい」
「あの子の怪我は、この車に当たったときの物です。他には傷がありませんでしたから、この警察の方が話してくれた通りであっていると思いますよ」
「そうですか。少し安心しました」
そう応えた私に、一呼吸おいてから、話し始める。
「……こう言うとなんですが」
「はい」
「あまり、責任を感じ過ぎるのは良く無いですよ?」
「え?」
「あの子が、自分の意志であなたを助けてくれたんですから。あまり気にしすぎると、逆にあの子が可哀想ですからね」
「…はい。そうですね」
私の返事を聞き、お医者様はクスクスと笑い、
「まぁ、看護婦さんの話ではもう仲良くなられたそうですね。良いことです」
と続けた。
「はい」
そう応えて、また、何となく赤くなる。
「それでは、ご両親がいらっしゃったら、私の所に来るようにお伝えてください」
「はい」
「では、お大事に」
話が済んだようなので、私はイスから立ち上がり、
「ありがとうございました」
と言ってから部屋を出る。
そして一歩踏み出し、ふぅ、と息を吐いた。
まだ静かな廊下を歩きながら、考え事をしていた。
こゆきちゃんのこと……。
怪我は大した事がなかった。それだけで十分だと思う。
こゆきちゃんに伝えたら、喜んでくれるだろうか?
記憶も、一時的な物ですぐに戻ると言えば、安心してくれるだろうか?
でも、私は退院してしまう。
僅かに、一日足らずしか一緒にいられなかった。もっと、側にいてあげたかったと思う。
明日から、毎日お見舞いに来よう。そして、記憶が戻ってからもお友達でいられれように努力しよう。
……毎日。
受験勉強があるから、それはちょっと大変かもしれない。
でも、頑張ってみようと思う。
それより……、小雪のこと。
多分、昨日は戻っていない。そんな気がする。
いや、それは”気がする”なんて物ではない。
”小雪は家に戻っていない”
私は無意識のうちに、そう確信していた。
今日の午後からでも、さっそく探しに行かなくてはいけない……。
でも、どこを探せばいいのだろう?
「………」
一カ所だけ、閃くように思いついた場所がある。
”ものみの丘”
そこに、行かなくてはいけないような気がする…。
言いようのない不安が、急に胸の中に押し拡がってくる。
そして思い出した。今朝の感覚、違和感。
『白い』、ただそのイメージだけが残っている。
私は、何か、大事なものを忘れている。
そう、大事なものを忘れていたことを思い出した。
いつからか忘れていたもの。
確かな、『かなしみ』と『さみしさ』を伴うもの。
そう、それは…白い、でも、輝くような真っ白ではなく……。
深い…白、雪よりも、深い白。
………ついうっかり、自分の部屋を通り過ぎて仕舞うところだった。
コンコンとノックをして、部屋に入る。
「こゆきちゃん?」
「…うん」
こゆきちゃんは、私が部屋を出たときと同じ姿勢で、まだ雪を見ていたようだった。
「検査の結果を訊いてきました」
私は言葉を続けながら、先ほどのイスに腰掛ける。
「異常は無し、今日で退院しても良い、と言われました」
「……そう」
「はい。…それで、こゆきちゃんの検査の結果も訊いてきました」
「うん」
「こゆきちゃんも、背中をちょっと打っているだけで、他に怪我はないそうです。それと…、記憶の方も、ショックによる一時的なものだから、じきに戻るだろうといっていました」
「………」
こゆきちゃんは何も応えず、私の方をじっと見ていた。
「どうか…しましたか?」
ふっと、視線を落とす。
「……みしお」
「はい?」
「みしお、いなくなるの?」
「……はい。多分、お昼までに家に帰ることになります」
「………」
また、寂しそうな、不安そうな瞳が揺れていた。
いつも、心に触れてくるその表情。
「でも、帰ってしまいますけど、必ず毎日お見舞いに来ます。智子も朝香も、一緒にお見舞いに来ます」
「……うん」
私はこゆきちゃんの手を取って、更に言葉を重ねる。
「冬休み、一緒にお出かけするって、約束したでしょう? 私は、こゆきちゃんの記憶が戻るまで、いえ、記憶が戻っても、こゆきちゃんが嫌じゃない限り、ずっと側にいます」
「…うん。みしお…」
「はい」
「…ありがとう……」
「……はい」
私はそっとこゆきちゃんを抱き寄せて、優しく撫でてあげた……。
暫くしてから、お母さんが部屋に来た。
いつもと変わらない朝の挨拶を交わした後、お医者様との話…、検査の結果と予定通り今日退院できる事、それと、お医者様が話があると言っていたことを伝えると、初めから解っていたように、ただ頷いて部屋を出ていった。
小雪のことは、何も話さなかったし、訊かなかった。
それだけで十分わかる、やっぱり小雪は戻っていない。
再び窓の外を眺める。深い、雪の向こうに”ものみの丘”が霞んで見えた。
ふぅ、と一つ息を吐いて、この後のことを考えてみる。
お母さんが戻ってきたときには、私もこの部屋を出ることになるのだろう。
こゆきちゃんと一緒にいる時間が、取り敢えず終わりを向かえる。
そうは思ったけど、やはり何の話もできず、ただ側にいるだけだった。
時計を見る。
そろそろ下の方は、一般の診察客が訪れているだろう。
もしかすると、智子と朝香が見舞いに来てくれるかもしれない。
確か昨日、「また明日の朝に来ます」と言っていたように思う。
今から退院する私に、見舞いなどとはおかしいけれど、こゆきちゃんの為には良い。
私も、別に昼くらいまでは居ても良いだろう。あの二人が居てくれれば、こゆきちゃんともお話が出来る。
…と、そう考えて気が付いた。
昨日も、こゆきちゃんはほとんど話をしていない、私もだ。
結局あの二人が喋り続けていたように思える。……けど、それでも、良いか。
あの二人が作り出してくれる、暖かい雰囲気なのかで、こゆきちゃんと笑っていられればいい。そう思う。
何より今、私自身があの暖かさに触れていたい。
コンコン…、そのノックの音とほぼ同時に、ドアが勢い良く押し開かれる。
「おっはよー、美汐。こゆきちゃんもおはよう」
「おはようございます、智子、朝香」
「おはよう…ございます」
私につられるように、こゆきちゃんも、智子と、昨日と同じようにドアに張り付いている朝香に挨拶を送る。
「くぅー…、智ちゃん! 私をドアと一緒に押すのはやめてっ!」
「いや、なかなか動かないから、つい」
「ノックしたら、返事があるまで待つものなの!」
それ以前に、返事をする暇さえ与えずに入ってきたように思う。
「いいじゃない、美汐たちの他に誰か居るわけじゃなし」
「着替えてたらどうするのよ」
「どうせ女の子同士、それに美汐と私たちの仲だもん、気にしない気にしない。ね?」
「私は気にしませんが…」
「ほら」
「…う〜……」
どうやら智子は上手く話をそらしたらしい。朝香をドアに押しつけながら入ってきたことは既にうやむやになっている。
私はクスクスと笑って、二人のイスを用意した。
「あ、ありがと」
「どうぞ」
「うぅ…、おはよう」
「おはようございます」
「……おはようございます」
イスに腰掛けながら、改めて挨拶をする朝香に、もう一度挨拶を返す。こゆきちゃんも、また私にならう。
うん、空気が和やかになった。確かに暖かさに満ちている。
それを感じ取りながら、私は話はじめる。
「さっき、お医者様と話をしてきたのですが……」
窓の外を降る雪の”白”は、先ほどよりも、更に深く、濃くなっていた……。
……つづく。 |