『”ものみの丘”に吹くそよ風』
第十話
雪の中を歩きながら、ふと思い立って、寄り道してから帰ることにした。
家の近くまで戻ってから、そのまま学校の方へ向かう。
そう、私が事故にあった場所へ……。
一見、何の変わりも無い様に見えた。
少し細い、緩やかな下り坂。
何気無く立っている、ごく普通の電柱。
そこに近づいてから、やっと気がついた。
こちらから見て、電柱の影になっている部分のブロック塀が、少し崩れていた。
恐らく、私達をはねた車がぶつかったのだろう。
さらに近づいて、よく見てみる。
崩れていると言っても、穴が開いてしまっている訳でなく、腰よりも低い位置に大きく削れた後があるくらいで、瓦礫も既に片付けられている。
再び、電柱を振り返ってみる。
そして、お医者様が教えてくださった話を思い浮かべながら、数歩後ろに下がって全体を見渡す。
振り向いたとき、車はあちらから来ていて、私が確かこの辺りを歩いていて……、こゆきちゃんはすぐ横から覆い被さる様に、私に飛びついてきた。
そして、こゆきちゃんを挟むように車にあたり、私の背中からこの電柱にぶつかった。
そのあとに、車がここにぶつかった?
……もし、こゆきちゃんが助けてくれなかったら、まっすぐ撥ねられていたら、私はここで、壁に挟まれていたのではないか?
唐突に、そんな考えが浮かび上がる。
でもそれは、あくまで可能性でしかない。
壁の壊れ方から見ても、車はその端を擦り付ける様にぶつけただけだろう。
ちょうどそこに挟まれるより、他の所へ跳ね飛ばされる方が確率は高い、はず、なのに。
それなのに…私は……、
”私はそこで死んでいた”
それが、私の運命であったかのように思えて、その光景が目に浮かんで……。
ふと、振り返えってみる。
すぐそこに、こゆきちゃんが居るような気がした。
でも、辺りはただ静寂に包まれ、真っ白な雪が降り続いているだけだった。
「ただいま」
いつもの様に、玄関を開ける。
コートに積もった雪を軽く払う、暖かいところから出てきたためか、少し溶けて染み込んでいた。
そのコートを軽く丸め、抱え直したところで、壁に掛けられた小雪のベルトが目についた。
思わず、手を伸ばす。
……何も変わったところは無い、当然のことだけど。
これを、小雪は自分で外したのだろうか?
「美汐さん?」
「あ、はい」
小雪のベルトを手に持って、ぼうっと立っていた私に、お母さんが声をかけてくれた。
「おかえりなさい」
「はい。ただいまかえりました」
視線が、私の手元に向いて、少し悲しげな表情に変わった。
「お昼の用意が出来ています。どうぞ」
それでも何事も無かった様に、言葉を続ける。
「はい」
私はベルトを壁に掛けなおし、靴を脱いだ。
家の中は何も変わってはいない、ただ、小雪だけが居ない。
それをそうと知るだけで、まるで別の家に居るような違和感が、辺りを包んでいる様に思えた。
…いや、本当は、違和感に包まれているのは多分、昨日からの私だけなんだろう……。
「はい、どうぞ」
コートを部屋のハンガーに掛け、一階に降りてくると、既にキツネうどんが器に盛られていた。
私は黙って席につく。
「たくさんありますからね」
「はい。いただきます」
手を合わせて、箸を手にとってから、もう一度お母さんの方を見た。
「……どうかしましたか?」
「いえ。なんでもありません」
何を言いたかったのか、何を訊きたかったのか、よくわからなかった。
そのまま黙って、暖かいうどんに箸をつける。
温もりが、お腹の中に染み込んでいくような感じがした。
「おかあさん」
「はい」
食べ終えてから、再び声をかける。
「おかわりですか?」
「いえ」
お母さんの顔を真正面から見る。
「小雪のことです」
「………」
「午後から探しに行こうと思っているんですが」
「そうですか、…でも、雪が降ってますから、余り遠くへは…」
「あ…、そうですね」
すっかり忘れていた。この雪の中に”ものみの丘”まで行くのは、さすがに大変だろう。
「ご近所周りは、だいたいお母さんが行ってみたんですが、見かけたと言う話は聞かなかったです」
「そう…ですか」
「また、雪が止んでからにしたらどうですか? 小雪もキツネなんですから、少しくらい平気ですよ」
「…はい」
たしかに、小雪のことだから、雪が嫌なら適当に姿を隠せるところを見つけるだろう。
でも、本来なら大雪が降ってくる時は、真っ直ぐに家に戻ってきていたはずだ、少なくとも今まではそうだった。
……何かが、今までとは違う。
相変わらず漠然とした不安の中で、私は何をすれば良いのか解らなかった。
結局、その日は一日中雪が降り続き、ただ、窓から真っ白に染まる町並みを眺めていただけだった。
…………
………夢を見ている…。
そう、いつか見た夢、何度も見た夢………。
それは確かに、夢であるはずだった。
私は”丘”に向かっていた。
正確には、”丘”に続く小道、その外れにある大きな木のところへ。
はぁはぁと、軽く息をつく。
それほど急いでいたつもりは無いのだけれど、いつの間にか早足になっていた。
小雪が「大丈夫?」とでも言いたげに、ひょいっと覗き込んでくる。
「ん…大丈夫です」
私はその頭を押さえ込む様にして、くしゃくしゃと撫でてあげた。
小雪はいつもの様に目を細め、体を丸めながら擦り寄ってくる。
本当にかわいらしい、その仕草が好きだった。
だから、出会って3日目にして、既にその行動は私の癖に成りつつある。
小雪が私の顔を覗くたびに、ついつい頭を撫でてしまう。
そして小雪自身も嬉しいのか、どんどん擦り寄ってくる。
昨日からの私は、暇さえあれば小雪を撫でてあげていた。
でもお母さんには、「いい加減にしておかないと禿げてしまう」と言われてしまったけど。
しばらくその場にしゃがみこんで、小雪の背中を撫でてから、私は立ちあがった。
「はい。いきましょう」
そう言葉を掛けて、再び歩き出す。
目的地の、昨日コギツネを見つけた大木はもうすぐそこだったはずだ。
もうすぐ”丘”に出る、その手前で、道から横に逸れる。
離れていてもわかる、特に大きな木。
それは、昨日、コギツネを見つけた場所。
その幹に手をついて、辺りを見まわす。
………あった。
カラスを追い払うために、ついつい投げつけてしまった傘。
お気に入りであったのに、忘れて帰ってしまったそれを取るために、今日ここまで来た。
少し離れたところにある藪の上に、その傘は乗っかっていた。
手にとって、一度パンっと開いて見るが、別に傷ついたりはしていないようで安心する。
それを元通りに丸めて、ボタンで留めてから、小雪の方を見た。
「…どうしたのですか?」
小雪は、更に奥の方の藪に向かって、ちょこんと座っていた。
「小雪?」
私の声に、小雪が振り返る。
「………?」
何かあるのだろうか?
振り返りはしたが、その場から動かない小雪が気になって、近寄って抱き上げる。
「こちらに、何かあるんですか?」
訊いたところで返事があるわけで無い、私は何となくそちらに向かって足を踏み出す。
「……ひゃんっ」
耳元で小雪が変な声を上げる。
「なに……」
そう訊こうとした言葉が思わず途切れる。
右足が、宙を踏んだ。
「なっ…きゃぁぁ……」
不意に、がくんと体が揺れるような、「落ちる」感覚を受けて、私は目を覚ました。
ふぅ、と息を吐いて、ベットから身を起こす。
そしていつもの癖で小雪のベットに目をやり、居なかったことを思い出す。
もう一度軽く息を吐き、明かりを灯す。
時計を見ると、まだ午前4時、外も真っ暗だった。
私は水を飲むために、一階に降りながら、今の夢を思い出す。
あれは、よく見る夢。
そう、小さいころから何度か見たことがある、同じ内容の夢。
いつも、何も無いはずの藪で、足を踏み外して落ちるところで目がさめる。
この夢を見るようになってからだろうか、私が”丘”に行かなくなったのは。
毎年の様に行っていた、”丘”までのハイキングも、小雪が来た次の年からは、ちょっと離れた奥の山までのドライブにかわってしまった。
そう考えれば私は、小雪と共に”丘”に登ったことは一度も無かったと思う。
コップに冷たい水道水を注ぎ、口をつける。
中途半端な眠気が一気に引いて、意識が澄み渡っていく。
そして再び考える。
なぜ、”丘”なのだろう?
そう、小雪と共に”丘”に行った思い出が無いと言うのに、なぜ昨日は、”丘”まで探しに行こうなどと思ったのだろう?
あの時はなんとなく、閃くようにそう思った。
理由なんか無く、ただ……、ただ、”行かなくては成らない”気がした。
奇妙な感じ、それは違和感。
理由は特には無い。でも、今日は”丘”まで小雪を探しに行こう。
そう決めてから、部屋のカーテンを少し開け、外の様子をうかがう。
雪は、もう止んでいるみたいだった。
いつもの朝、いつもの挨拶、いつもの朝食。
ただ、小雪が居ない、ただ、それだけ。
そう、ただそれだけが違う、ありふれた日常が再び戻ってきた。
玄関で靴をはき、家の中へ声をかける。
「行ってきます」
そして、小雪のベルトに目をやる。
「行って…きます」
小さくつぶやき、小雪にしてあげる様にベルトをそっと撫でる。
扉を開けると、外は一面の銀世界に、まぶしい光が降り注いでいた。
……つづく。 |