『”ものみの丘”に吹くそよ風』
第六話
…………。
………雨があがった…。
緩やかに、雨雲が風に流されていく……。
私は小雪を膝から降ろして窓から離れると、玄関へ向かった。
お気に入りの白い大きな帽子をかぶり、念のために傘を持って、おもてに出る。
大きな水たまりが残る道を、ぱたぱたと走る。
急いでいたから、しぶきがあがって、靴にも水が染み込んでくる。
長靴の方が良かっただろうか? でも、それだと走れない。
もう、気にしないことにした。それよりも、
はやく、あの場所へ……。
…はぁはぁ、と軽く息をつく、そして辺りを見渡した。
昨日キツネが車に跳ねられた、”ものみの丘”に続く小道の入り口。
その場所には、夜から降り続いた雨でも洗い流されなかったらしい、赤黒い染みが残っていた。
それから目を逸らし、藪の方を見つめる。
……ここにはもう居ない…。
私は、残り2匹のコギツネの姿を探し、”丘”に続く小道をのぼり始めた。
小道、じゃなくて立派に坂と呼べると思う。
結構急なその道をのぼりながら、時々辺りをうかがう。
遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。
木々の間を通り抜ける、水気をふくんだ涼しい風が、髪をなでる。
これがハイキングなら、とても気持ちが良かっただろう。
でも、今はそんな場合ではない。
私は一息つくと、また坂を上り始めた。
………?
もう少しで丘に出る、そう思ったくらいに、妙な声が耳についた。
……カラス?
道から少し外れた、大きな木の根本でカラスが数羽、騒いでいる。
その間から、微かに”それ”が見えた……、
「…っ! だめぇ!!」
私はとっさに傘を振りかざし、その方に駆けだした。
「だめっ、やめなさい!」
そう言いながら、傘で追い払おうとする。
ギャアギャア、と嫌な声をあげながら、羽を広げるカラス。
…怖い、でも、
「やめてっ!」
傘を叩きつけて、その騒ぎの中心にいたもの、傷ついたコギツネの上に覆いかぶさる。
ギャアァ、と私のすぐ耳元で、ひときわ大きな声が上がって、
バサバサと、カラスがいっせいに飛び立った。
私はそのまま…しばらくそこにしゃがみ込んでいた。
ごそりと、コギツネが動いた。
はっとして、あらためてその姿を見る。
あちこちに傷があって、血がにじみ出ていた。
私は帽子を仰向けにして、その上にコギツネをのせて抱え上げた。
……もう一匹は…?
辺りを見渡す。しかし、この場所に居たのはその子だけのようだった。
もう、カラスや他の動物に襲われてしまったのではないだろうか? そんな不安がよぎる。
早くこの子を病院へ連れて行かなくてはいけない。
でも、もし、もう一匹がどこかで怪我をしていたら……。
しばらく悩んだ後、病院へ向かうことにした。
この子もだいぶ弱っているようだし、昨日の、お母さんキツネの方も気にかかった。
私はとりあえず、もとの小道まで引き返す。
その時、後ろで小さく、ガサガサと枝葉が鳴った。
ふと何気なく振り返って、…一瞬、目を疑う。
今まで私の居た場所に、いつの間にか人が立っていた。
背の高い男の人と、長い髪の女の人。どちらも、凄く綺麗な人だった。
「こんにちは」
私が呆然としていると、女の人が声を掛けてきた。透き通った、優しい声。
「…こんにちは」
「その子を、どうするのですか?」
挨拶を返した私に、そうたずねてくる。
「…え?」
「その、怪我をしたキツネです」
「えっと、あの…病院へ連れていこうかと思っています」
「病院へ?」
「はい。昨日、この子のお母さんが事故にあって、今病院に居るんです。だから…」
「…っ、その子のお母さんを…知っているんですか?」
一瞬、その人の様子が変わった?
「…はい。ちょうど昨日この下の道で事故を見かけて、病院へ連れていったんです。それで、その時残った子供が心配で、探しに来ていたんです」
「………」
女の人が、斜め後ろにいた男の人を振り返る。
「……すまんけど、その病院まで案内してくれへんか? その、キツネの治療費とかはオレらで出すよってに」
男の人がそう言って近づいてくる。
「……はい。良いですけど、…でも、治療費は…」
「えぇねんて。このキツネは、ウチらの知り合いなんや」
「……そう、だったんですか」
「あぁ」
そう言いながら、私を追い越して、素早く小道に出る。
「お願いします」
いつの間にか、女の人が不安そうに私の横に立っていた。
「はい」
そう返事をして、私はコギツネを抱えたまま、来た道を戻った。
無言のまま、動物病院に入る。
中に他のお客さんは居なかった。静かな待合室を見渡してから、私は窓口からお医者様に声を掛けた。
「すいません…あの」
「あぁ、昨日の…」
お医者様は一瞬明るく返事をして、そしてすぐに顔を曇らせた。
そして回り込むようにして待合室に姿を見せ、
「……あのね…、昨日の…キツネさんは…」
苦しそうに、そう言葉を詰まらせ、視線を落とす。
「助から…なかったのですか?」
私の後ろから、あの女の人が訊いた。
「…はい、すいません。出来る限りの努力はしたんですが、どうにもならず……」
辛そうに、そう答えた。
「………」
振り返ってみたけど、二人は無表情だった。
再びお医者様の方を見る。
「あれ? その子、昨日の子じゃないですね」
「はい。今日見つけてきました、怪我をしてるんです」
「あぁ、良かったら治療させて下さい。助けられなかった、お母さんキツネの代わりに…」
「はい。お願いします」
そう答えて、帽子ごとお医者様に渡す。そこへ、
「…あの、そのお母さんキツネに、会わせていただけませんでしょうか?」
突然、女の人がそう切り出す。
「え?」
「お願いします。私の、大切な……知り合いなんです」
「……そう、でしたか…。すいません、どうぞこちらへ……」
病院の奥の方、小さな部屋の、小さな箱の中に、そのキツネは横たわっていた。
「……ね…ぇ……さ…」
私のすぐ隣で、女の人が小さく何かを呟いた。
横を見ると、口許に手を当てて、微かに肩を震わせていた。そして、そのまま、キツネの遺体を抱きしめる。
私はただ、その姿をみていた。その肩を男の人がそっとたたいて、
「…すまん、席外したってくれるか?」
と、小さく囁く。
私は黙って頷くと、待合室に戻った。
しばらく、無音の部屋の中で、ぼうっと時間を潰していた。
……あの二人は、本当にキツネの知り合いだったんだ。
漠然と、そんな事を考えていて、そして思い出す。
そうだ…小雪、私の家にいるあのコギツネのことを、二人に話して置かなくてはいけない。
それと、もう一匹いるはずのコギツネを探さなくては…。
カチャリとドアが開いて、お医者様が姿を現した。
「あれ? お二人は?」
「まだ、あのキツネの所に…」
「……そうですか」
少し俯いてそう呟いてから、
「では、どうぞこちらへ」
そう促して、治療室に戻っていく。私はそれに続いた。
思っていたよりも大きな部屋。ずっと奥の方には、たくさんの動物たちが入れられた檻のある部屋が見える。
その部屋の真ん中に大きな台があって、キツネはその上で眠っていた。
「麻酔が効いています」
お医者様はそう説明してくれた。
首から下の毛がすべて剃られ、所々ガーゼと包帯が付けられている、そして、首の周りには大きな『エリマキ』のようなものが付けられていた。
「傷自体は大した事はありません。少し弱っていますが、点滴を打っておきましたので、じきに元気になると思いますよ」
「はい」
「しばらく入院していただく事になりますが、……入院費は、結構です」
「え?」
「お母さんキツネの治療費も結構ですので、お父さんにそう伝えておいてください」
「……でも…」
「助けられなかった命の、治療費を頂く訳にはいきません。…この子の事は、せめてもの償いのつもりなんです」
「………はい。…伝えておきます」
…コンコン。
「はい」
ノックの音に、お医者様が返事をする。
「失礼します」
ドアを開けて、女の人が入ってくる。その後ろで、男の人がキツネの遺体を抱きかかえていた。
「あの、よろしいでしょうか?」
「はい、何でしょう」
たぶん、大事な話をするのだろう、そう思って、待合室の方へ戻る。途中、男の人と目があった。
待合室に戻ると、すぐに3人は姿を現した。
「では、お願い致します」
女の人がお医者様に向かい、頭を下げる。
お医者様の方も、頭を下げて、
「はい、お任せ下さい」
と応えた。
そして、女の人は今度は私の方に目を向ける。
「あなたも、ありがとうございました。ほんとうに」
「いえ…、私は何も…」
「ありがとう…ございました」
もう一度そう言った、その悲しみを帯びた表情は、…本当に綺麗だった。
「では…」
最後にそう言って、病院のドアを開けた。キツネの遺体を抱いた男の人が先に外に出る。
……再び思い出した。
「待って下さい」
「はい?」
女の人が閉ざしたドアを押し開けて、声を掛ける。
「あの、あのキツネの子供が一匹、家にいるんです」
「…え?」
「昨日、一匹だけ逃げなかった子がいて、それで、一緒に連れて帰ったんです」
「………」
女の人が振り返る、男の人もこちらを見ていた。
「…行くか?」
「はい」
そう答えてこちらに向き直り、
「会わせていただけますか?」
と続けた。
「ただいま」
そう言って家に入ったものの、靴を見るとお母さんも出かけているようだった。
「どうぞ…」
「おじゃまいたします」
「………」
え…っと、どこにいるだろう?
とりあえず居間を覗いて声を掛ける。
「…小雪?」
名前を呼ばれたのが解るのか、小雪がぴょこんと、イスの向こうから姿を現した。
「あぁ」
女の人が小さく声をあげて、それから私の方を見る。
「すこし、お話をしても良いですか?」
「…はい」
キツネと話す?
疑問に思ったが、あえて訊かなかった。何故かこの人なら、本当にお話が出来るような気もした。
台所に向かい、紅茶を入れて戻ってくる。
「あの…お茶を」
「あぁ、すいません」
小雪を膝の上にのせて、見つめ合うようにしていた女の人が、慌てて立ち上がる。
「もう、帰りますので、お気遣いなく」
「…え?」
「このキツネも、”丘”に戻してあげないといけませんから」
そう言って、男の人が抱いたままのキツネを見る。
「…はい」
「あ、でも、折角用意して下さったんですから、お茶だけ頂いて参ります」
私の持っているティーセットを気にしたのだろう、よけいな気を使わせたかもしれない。
静かに、お茶を飲む。
「………」
男の人は、膝にキツネの遺体を抱いたままだった。
かちゃり、とカップを皿に戻してから、女の人が言葉を発した。
「この子、小雪ちゃん?…は、あなたに預けようかと思います、お願いできますか?」
「…え? 良いのですか?」
思わずそう答えてしまう。
「はい、この子が、それを望んでいます」
そう言って、小雪の頭をなでながら続ける。
「よろしくお願いしますね」
「はい。こちらこそ…」
その言葉に、女の人は柔らかい微笑みを返してくれた。
「じゃぁ、行くか」
男の人が立ち上がる。
「はい」
女の人がそれに続く。
そしてふと思い出したように、
「…そうだ、もう一匹の子…」
「え?」
「もう一匹いたでしょう? あの子は別の人に拾われましたから、心配しなくて良いですよ」
「あ…、そうだったんですか」
「はい、……ほんとうに、色々お世話を掛けましたね」
「いえ、そんな…」
「そうそう、自己紹介をするのをすっかり忘れていました」
そう言いながら、微笑む。
「私は、草壁明日香といいます、そしてこちらが主人の…」
「草壁竜弥や」
「はい。私は、天野美汐といいます」
草壁さん達を玄関まで見送る、小雪も一緒について来ていた。
「じゃあ、またお会いしましょう」
「はい」
「では…」
軽く頭を下げて二人は歩き出す。
その先に、薄く霧のかかった”ものみの丘”が見えた。
……つづく。 |