『”ものみの丘”に吹くそよ風』
第三話
「あのね…」
お母さんが言った、
「……小雪がいなくなったの」
「………え?」
その言葉に声を上げたのは、………私では無かった。
「えっ?」
今度は私。さっきの声の主を振り返る。
ベットの上から乗り出すように、隣の女の子がこちらを見ていた。
「………こゆき…?」
確かめるように、その名前を呟く。
「小雪を…知っているんですか?」
「………」
目をしばたたかせる。何かを考えているようだった、だった…が。
そう、この子には記憶が無いはずだった。
「……ふにゃぁ」
案の定というか、泣きそうな顔で、声を上げる。
でも、
「もしかして、『こゆき』と言う名前に、覚えがあるのですか?」
ベットから降りて、その子のベットへ近づく。私の後にお母さんもついてきた。
「……こゆき」
もう一度言葉を繰り返し、そのままの体勢で固まる。うーんと考えているようだった。
「こゆき…、こゆ…き……、ふにゃ」
どうやら、思い出せなかったらしい。また泣きそうな顔で、こちらを見る。
その姿が可愛らしく、私はくすっと笑ってしまった。
「私の知っている『小雪』と、貴方が知っているかもしれない『こゆき』は、多分別の子だと思いますけど、その名前が何かを思い出すきっかけに成るかも知れませんね」
そう言って、優しく頭を撫でてあげる。
「……うん」
そう返事をして首をすくめるように、じっとしている。
その姿を見ながら、ふと思い立った。
………あぁ、ひょっとして、
「貴方のお名前が、『こゆき』と言うんじゃないでしょうか?」
その子が、ぱっと顔を上げる。
「……どうでしょう?」
私の言葉に、口元の手を当てて、もう一度考え込む。
「…ん………ふにゃぁ、わかんない……」
また情けない声を上げる、しかし、
「…でも、…そうかもしれない……」
不安そうに、でも、確かにそう呟いた。
午後、終わったと思っていた検査は、まだ続きがあった。
やはり結果が出るのは明日で、一応今夜は泊まる事になりそうだった。
「家で寝ていて、気がついたら死んでいた、って言うのはマズイでしょう?」
担当のお医者様は、楽しそうにそんな事を言ってくれた。
こゆき…と呼ぶことになった…、あの子も午後の検査に出ている。
一応、「こゆき」と言う名前で身元を探すらしい。
そして私は、もう一人の…一匹の『小雪』の事を考えていた。
いつもの朝だった。
そう、いつもと変わらない、ありふれた朝。
まずお父さんが家を出て、それに続くように私も家を出る……所だった。
急に、小雪が騒ぎ出した。
きゃんきゃんと吠えて、私のスカートに飛びついてくる。
いつもはそんな事は無かった、聞き分けのよい良い子のはずだった。
おかしい、とは思ったけれど、私も急いでいたから、小雪を捕まえて、玄関にある鎖で繋いで、
…そして学校へ向かった。
鎖は、小雪のベルトに繋がっていた。
そう、小雪は賢く、普通の首輪など一分も経たず外してしまう。
だから、前足の付け根を抱え込むように一緒に止めてしまう、大きなベルトを使っていた。
勿論普段は放し飼いで、滅多に使うことはなかったけれど、流石の小雪も、そのベルトから抜け出せたことはなく、それを付けられれば大人しくするしか無かった。
『小雪がいなくなった』
それは別に珍しいことではない。
家の中では放し飼い、そして、賢いあの子は自分で戸を開けて、表に出ることも知っていた。
でも、今日は違うような気がする。
『ベルトがね、外してあったの、…擦り抜けたのではなくて、金具を外して』
あの金具は、いくら小雪が賢くとも、キツネが外せるものではない。
お母さんが言うには、私が出た後、誰かが玄関を開けたような音がしたそうだ。
でも、玄関にいるはずの小雪の声も聞こえなかったから、気のせいだと思って放って置いた。
そして、病院からの電話、慌てて飛び出して、その時既に小雪がいなかった事に気付かなかった。
その後、荷物を取りに戻ったときに気付いて、しばらく辺りを探してけれども、見つからなかった、と言う話しだった。
……おかしい。小雪は自分でベルトを外せない、そう単純に考えるなら、誰かに連れさられたようにも思える。
でも、何故? 何の為に? それ以前に、例え鎖で繋がれていても、小雪が声も上げずに誰かに連れて行かれるとは考えられない。
なら、小雪が自分であのベルトを外し、表に出たのだろうか?
私を、…追いかけて?
そう思えば……、小雪は、私が事故に遭うことを知っていたんじゃないだろうか?
「……まさかそんな事」
思わず声に出して苦笑する。キツネには予知能力がある、そんな話しもあったような気がする。
しかし、もしそうなら、小雪は私の所に来ていたはずだ、実際私の所に来たのは……。
そう、私を助けてくれたのは………、
「…こゆきちゃん?」
”こゆきちゃん”と”小雪”………、
………我ながら、奇妙なことを考えるものだと思う。
病院の廊下を歩きながら、一人でくすくすと笑ってしまった。
午後の検査も簡単に終わり、私は部屋に戻ってきた。
こゆきちゃんはまだ戻っていないようで、お母さんも再び家に帰り、小雪が帰ってないか確かめると言っていた。
時計を見ても、まだ学校が終わっていない時間。
放課後になれば友達が来てくれるかも知れないが、今は誰も居ない。
一人、ぽつんとベットに腰掛け、ふぅ、と溜息をついてしまう。
………少し、横になろう。
真っ昼間だったけど、別に病院なのだから寝ても良いと思う。それに他にやるべき事がある訳でもない。
言い訳半分、私はベットに潜り込んだ。
…………
………そこは病院だった…。
そう、動物のための病院………。
あのお母さんキツネを連れて、お父さんは奥に入って行った…。
「やれるだけやってみる、だそうだ」
戻ってきたお父さんは、そう言った。
そして、コギツネを抱えたままの私を見て、
「あとはお医者様に任せよう」
と付け加え、私の頭にぽんっと手を載せ、続いてコギツネの頭を撫でた。
その子はおとなしかった、私に抱きかかえられたまま、身じろぎもせず鳴きもしない。
ただ、その瞳は不安に揺れているように見えた。
私達は取り敢えず、家に帰ることにした。
「ハイキング、ごめんな」
帰り道、お父さんが謝った。
「いい……、だって、仕方がないから」
そう、仕方のないこと。今はハイキングのことより、キツネの親子の方が気がかりだった。
胸に抱えたコギツネを、ぎゅっと抱きしめる。
ついさっき見た光景を、思い出してしまう。
辺りに飛び散ったキツネの毛、
潰れた下半身、
そして今もお父さんのシャツに付いている、真っ赤な血。
お父さんの背中と、コギツネを交互に見て、大丈夫……、と心の中で自分に言い聞かせた。
リビングに入り、ずっと抱きしめていたキツネをソファーの上に降ろす。
その子はその場で座り、辺りをきょろきょろと見回す。
その様子を見ながら、ふと考えついた。
「ねぇ、お母さん、この子に名前を付けてあげましょう」
そう言って声を掛ける。
「…名前?」
「うん、暫く家にいるのでしょう? それなら…」
「そうねぇ……どんな名前が良いかしら」
そこへ、シャツを着替えたお父さんが入ってきた。
「顔の真ん中に白い毛があるだろ? だから『残雪』なんてどうだ」
そう言われてその子の顔を見る、確かに、顔の真ん中が白い、でも、
「……可愛くない」
「渋くて格好良いだろ」
お父さんにとっては、可愛いよりも渋くて格好良い方が好みらしい。
そんな事を言っている間に、お母さんがひょいとその子を抱えて呟いた。
「女の子みたいですよ」
「うん」
頷いて、かわいい方が良いと、目で訴える。
「そうか、んー…じゃぁ」
お父さんが次の名前を言うより早く……、
「…雪……、えーっと、雪…『小雪』が良いと思う」
私がその名前を言葉にした。
「うん、良いわね」
お母さんも賛成してくれる。
「あぁ、そうだ、な」
その、お父さんの言葉で決まった。
「うん。じゃあ『小雪』ね」
私は小雪の前に座り、目線を合わせるようにして囁いた。
「少しの間だけど、よろしくお願いします」
……つづく。 |