『”ものみの丘”に吹くそよ風』
第二話
コンコン……。
「……はい」
私の返事を聞いてから、看護婦さんがドアを開いた。
「はい、お食事です」
にこやかに微笑みつつ、ワゴンの上からトレイを2つ運んでくれる。もう、昼食の時間らしい。
「え…っと」
…今、私は自分の隣のベットに座り込んで、見ず知らずの女の子を抱きかかえている。
ちなみに女の子は、少しの隙に眠ってしまっていた。
安心したように、私に寄り添って眠る、その姿が可愛くてじっと見ていたのだが……。
「えーっと、こちらの方に置いておきますので、お食べ下さいね」
その様子を見て、看護婦さんは奥のテーブルにトレイを置き、そう言ってくれた。
…何となく恥ずかしい。
別に女の子同士だし、やましい事があるわけでも無いけど、何となく……。
私は、かちゃりと静かに音を立てて閉まるドアを、そのままの格好で見送った。
「ん…ふぅにゅぅ〜」
ふと見ると、女の子が私の腕の中で伸びをしていた。
「目が覚めましたか?」
「……うん」
目を擦りながら答える、そして大きくあくび。
「お昼の用意が出来てるそうですけど、食べますか?」
「おひる……ごはん?」
「そう」
女の子の視線が部屋を泳ぐ、そしてテーブルの上のトレイで止まる。
「……うん、たべる」
私は女の子のベットの上に簡易テーブルを出して、運んできたトレイを載せる。
………。
少し考えて、私も隣に座って食べることにした。
さ…て、どうしよう…。
一緒に食べ始めたのは良いのだけど、何を話したらいいのか判らなかった。
記憶がないのなら、当然名前は判らないだろう、家族の話や友達、学校の話もできない。
色々話をしてみたい、でも、どの話題も、記憶の無い少女にとっては好ましくないように思えた。
結局、二人並んで黙々と食事を摂り続けた。
横目でちらっと、女の子の顔を盗み見る。必死にご飯を食べるその姿は、最初に見掛けたときより、更に子供っぽく感じさせた。
ひょっとしたら、見た目より幼いのかも知れない。
そんな子が、車の前に飛び出してまで、私を助けてくれたんだ。
………。
何故だろう、違和感…。
どうして? そう、どうして助けてくれたのだろう。
咄嗟に飛び出してしまった、と言うのもおかしな気がする。
見ず知らずの人の為に、こんな小さな子が車の前に出られるものなのだろうか?
私なら……多分出来ない。助けないと撥ねられてしまうと判っていても、咄嗟に体が動くような事は無いだろう、情けないけど、確かにそう思う。
ひょっとしたら、何処かで会ったことがあるのだろうか…。
何処かで? …何処で?
初めてこの子を見たときの、既視感にも似た感覚。
会ったことが……、あるような気がする?……いや、無い、はず。
あるのなら既に思い出している。少なくとも、親戚の子では無いし、近所の子でも無い。
まとまりの無い考えが、頭の中でぐるぐると回る。
結局、何の話も出来ないうちに、食事は終わってしまった。
私は二人分のトレイをもとの場所に戻し、ベットの上の簡易テーブルを片づけてあげる。
そして、自分のベットへ戻った。
再び沈黙……。
ただベットで、窓の外を流れる風の音を聞いていた。
暫くして、お母さんが戻ってきた。
「ごめんなさい、遅くなってしまって…、ご飯、もう食べました?」
「…はい」
手には小さな荷物があった、大した量ではない、一泊ならこの程度だろう。
その荷物をベットの脇の棚に入れる。そして、お母さんの視線が、隣のベットの女の子に向いていた。
女の子も、こちらの方をじっと見ている。
「……あの、お母さん。実はこの子が……」
「はい。聞きました」
私の言葉を途中でさえぎり、隣のベットへ向かう。
そして、女の子の前に立ち、深々と頭を上げた。
「初めまして、天野と申します。この度は内の子の為にご迷惑をおかけいたしまして、何のお詫びを申し上げて……」
女の子は、言葉を続けるお母さんを、ただじっと見つめていた。
顔には疑問符が浮かんでいるようにも見える。何を言われているのか解らない、と言った感じだろうか。
「……もし、何かありましたら言って下さい、出来る限りのお礼をさせて頂きますから」
「………うん」
取り敢えず、頷いてみせる。
お母さんは、にこっと笑って、その頭を優しく撫でてあげていた。
「……では」
そう言葉を掛けて戻ってくる。そして、
「良い子ね」
と私に小さく微笑んだ。
私は黙って頷き返す。
そしてお母さんはベットの脇にスツールを引っ張って来て腰を下ろすと、改めて私に向かった。
少し間を置き、ゆったりと話し始める。
「あのね、美汐さん」
「はい」
いつもと同じ、それでいて違うような、そんな話し方。
「あのね…」
もう一度「あのね」を続ける。
「……小雪がいなくなったの」
「………え?」
…………
………「小雪」…。
小雪と出会ったのは、もう、6・7年前の事だろうか………。
深い緑の綺麗な、夏。
その時、私はまだ小学生だった。
夏休み。
ハイキング、お父さんとお母さんと一緒に。
でも、そんなに遠くへ行く訳ではない。
二階の窓からでも見ることの出来る”ものみの丘”へ、お弁当を食べに行くだけ。
それでも、一緒にお出かけするのは嬉しかった。
街はずれの森を、大きく迂回するように曲がりくねった路から、更に細い道へ入る。
その、小道の入り口での事だった。
視界のすみを何かがよぎった。
「……? あ、キツネ」
そこには、4匹のキツネがいた。その内の3匹はまだ子供のようで、ふかふかと可愛らしかった。
「ねぇ、お父さん。あそこ見て、ほら」
私がお父さんに声を掛けようと、前を向いた、その後ろ……。
キキキィィーーーーッ
鋭いブレーキ音、続いて、ボンッという、袋を叩き破ったような、嫌な、音がした。
「見るな…っ」
振り返ろうとする私を、お父さんは片手で押さえてお母さんの方に押した。
その音、その言葉、何が起きたか、私は理解した。
理解して、それでも振り返った。
一度止まっていた車が、再び走り出す。
その後ろで……。
「まだ生きてるっ」
お父さんの声が響く。
私はお母さんの手を振り払い、その場所へ駆けていった。
お母さんキツネだった。
下半身が潰れていた、辺りには毛が飛び散り、血がどんどん広がっていた。
「まだ生きてる」
もう一度お父さんが呟く。
「じゃあ、はやく病院に…」
「あぁ…」
血にまみれたそのキツネを、お父さんは躊躇いもなく抱きかかえた。
その足下…。
「あ……」
コギツネが一匹だけ、近寄ってきていた。
とっさに周りを見渡す。
がさっ、と音を立てて2匹が藪に逃げ込んだ。そこからこちらを見ている。
「……美汐っ」
お父さんは既に歩き始めていて、その場所には、一匹のコギツネと、私だけが残っていた。
コギツネと目が合う。
寂しそうな、不安そうな瞳が揺れていた。
「……大丈夫だから」
そう言って、私はその子を抱きかかえ、お父さんの後を追った。
………その子が、「小雪」だった。
……つづく。 |