『”ものみの丘”に吹くそよ風』

第二十六話


 小雪はごそごそと手を動かし、何とか自分で手袋を着けようとしている。
しかし、思ったようには手が動かないらしい。
「小雪ちゃん。手を出して下さい」
 私はその小さな手を取ると、指を一本ずつ、丁寧に押し入れてあげた。
「はい。出来ました」
「ふにゃ」
 小雪は両手を目の前にかざし、きらきらとした目で自分の手袋を見る。
「ふふっ、よく似合ってるよ」
 智子の言葉に振り返り、にこっと笑う。
小雪もやっと、元気になってくれたようで、ほっとした。

「さて、それで、次は何処に行くんだ?」
 少し距離を置いて眺めていた荒川君が、智子に問い掛ける。
「え…っと、他に何かある?」
「いえ。特に今すぐ買いたいという物はありません」
「そうか、じゃ……」
「別れてデート、ですか?」
「…は? 何を言い出すのよ、美汐」
 智子は、思っていたより落ち着いて返してきた。
その向こう、荒川君は何やら慌てて、手をバタバタさせている。
「たまには、気を利かせてみようと思っただけです」
 先ほど、朝香達に言った台詞を繰り返す。
「………」
 ぽりぽりと頭を掻いた智子が、ゆっくりと荒川君を振り返る。
「志郎……、あんた、美汐に何か言った?」
「言ってない。何にも言ってないぞ」
 ぶんぶんと首を振って否定する荒川君。
「………」
 しばらく、無言。
仕方がないので、少し助け船を出してみる。
「何も言われていませんよ。私が勝手に、荒川君を応援しているだけです」
「応援って、なに?」
 ……なんだろう?
何をしているか、ではなく、どう答えるべきか、智子の質問の意図するところが解らない。
「…まぁ、気にしないで下さい」
 何となく、はぐらかしてしまう。
「智子も以前、藤一郎さんと私を、くっつけようとしたじゃありませんか」
「あ、う。…それとこれは、まったく別でしょ」
 珍しく、智子が一瞬言葉に詰まる。
「何だそれは。高瀬、そんな事してたのか?」
「いや、違うって、…えっと、ただ藤一郎先輩が、美汐に興味があるみたいだったから、ちょっと気を利かせて、って」
「私も、荒川君が智子に興味があるようなので、少し気を利かせてみました」
「う」
 呻いて、ゆっくりと私を振り返る智子。
少し頬が紅い、……ひょっとすると、照れているのだろうか?
「冗談ですよ」
 別に二人をからかうつもりで言った訳ではない。
「どこへ行きましょうか?」
「……そうね」
 計画性の無い買い物は、朝香のような勢いがないといけない。
このままデパートを見て回るとしても、恐らく何かを買うことはないだろう。
ただ見て歩くだけでも楽しいけれど、今日は時間が勿体なく思う。
「荒川君は、何か買っておきたい物など無いのですか?」
「ん? 別に……無いな」
 買い物にこだわる必要はない。
何処かで、落ち着いてお喋りをしているのが、一番良さそうにも思うのだけれど……。
「まぁ、良いか」
 智子がぽりぽり頭を掻きながら、天井を見上げた。
「何ですか?」
「適当にふらつこう」
 結局それしかないのだろうか。
「なぁ高瀬。どうして俺を買い物に誘ったんだ?」
「なに?」
「特に買いたい物があった訳じゃないだろ、なんでわざわざ……」
「……んー、何でだったっけ?」
「野崎君に気を利かせたのでは無かったですか」
「あぁ、そうそう。だから別に買い物で無くたって良かったんだよ。もともとこの映画自体、息抜きでちょっと集まってみよう、ってくらいの物だったんだから」
 そう言いながら、ぐっと大きく伸びをする。
「息抜きって、既に抜きまくってるだろ、お前は」
「朝香と美汐の為じゃない、ねぇ?」
「はい。そうです」
 そう。これは私と朝香の息抜きの為。
そして、小雪の為でもあったはずだ。
振り返ると、私の顔を見上げるように覗き込んでくる。
何故だろう、本当に、この顔を見ると、ついつい頭を撫でたくなってしまう。
「小雪ちゃんは、何処か、行きたい所はありませんか?」
「ふに?」
「場所でなくとも、何かやりたい事はありませんか?」
「……に?」
 軽く首を傾ける。
その仕草もまた可愛らしい。
柔らかな髪が、さらさらと肩を流れ落ちた。
「……そうか」
「どうかしましたか?」
 後ろから聞こえた智子の呟きに、首だけ振り返って問い掛ける。
「うん、小雪ちゃんも一緒なら、無闇に歩き回るのもあんまり良くないかなって」
「………」
 どうだろう?
小雪はまだ、本調子では無い様な気がする。
「茶店でも入る?」
「今さっきお昼食べたばっかりでしょ」
 荒川君の意見は一蹴される。
「でもやっぱり、何処か落ち着いて座れるところが良いかな」
「はい。私もそう思います」
 顎に手をあてて考えること3秒。
智子が決断した。
「よし。志郎の家にしよう」
「こら」
「志郎の部屋だって、4人くらいなら座れるでしょ」
「座れるけど……いや、今、散らかってるから」
「大掃除の時、片付けたんじゃないの?」
「三日あれば充分散らかる」
「……ねぇ、美汐は志郎の家は初めてだよね」
「はい。初めてです」
「おいおい、ちょっと。人の話を聞けっ」
「行ったら驚くよ」
「それは楽しみです」
「だから、俺はまだ来ても良いなんて一言も……」
 荒川君の言葉に耳を貸すこともなく、智子はいつもの様に、すたすたと歩いていった。

「ここだったんですか……」
 それは、よく見覚えのある場所。
何の事は無い、智子のお隣だった。
「そう。さぁ、どうぞ上がって」
「俺の家だよ、俺の家っ」
 そう言って先に立ち、荒川君が玄関の鍵を外す。
どうやら観念してしまったようだ。
「良いのですか?」
 今だったら、智子の家に行くこともできる。
「ちょっとだけ待っててくれるか」
 そう言いながら靴を脱ぐ。もう諦めてる、と言うことか。
「あぁ、見られたら不味い本を片付けるんだね」
 智子が、さも面白そうに言い放つ。
荒川君は、一瞬口を開きかけ、結局何も言わずに奥へ向かった。

「本当に良かったのですか?」
「ん? 良いんだよ」
 私の問い掛けに、何でもないように応える智子。
根拠は一体どこにあるのだろうか。
それは、二人の仲の良さ、信頼関係を表しているのかも知れない。
しかし、考えてみれば私は、男の子の部屋になど入ったことが無い。
それもそうだろう、私が一番親しくしている男の子は、恐らく荒川君と野崎君だろうから。
「智子は……よく来るのですか?」
「え? ここに?」
「はい」
「そりゃぁ、まぁ、お隣なんだし」
 そう言うものなのだろうか? 私には解らない。
「いいよ」
 突然、廊下の奥から顔を覗かせた荒川君が、言葉を掛けてきた。
「ん」
 軽く応えて、智子が靴を脱いだ。
「お邪魔します」
 そういう挨拶は、玄関に入る前に言うべきだったのではないだろうか?
しかし、それに対する返答は予想外だった。
「誰も居ないよ」
「あ?」
 智子が訝しげな声を上げる。
「どうして? 正月体勢って、おじさん達は?」
「さぁ? 居ないみたいだから、居ないんだよ」
 荒川君は手を左右に拡げ、解らないとアピールする。
「……さては、女の子を三人も部屋に連れ込んで、良からぬ事を企んでるわね」
「………帰れ、お前は」
「まぁ、冗談はさておき。…ほら、美汐も早く上がったら?」
「あ、はい。お邪魔いたします」
 先に小雪の靴を脱がせて上がらせる。
「じゃあ、居間でも良いんじゃない」
「あぁ、そのつもりだ」
 そんな二人の会話を聞きながら、私も靴を脱いだ。

 雪はいつしか小降りになっていた。
ただ、風は強く、ガタガタと窓を鳴らす音が、絶えず続いている。
「どうかした?」
「いえ」
「さっきから、ずっと黙ってるじゃない」
「たぶん、いつものことです」
 そう、いつも私は、自分のことを話すより、みんなの話を聞いている方が多い。
それでも、智子と朝香が話をしているときは、もっと……、なんだろう? 上手く言えないけれど、中に入り込めている感じがする。
しかし、荒川君と智子の二人で会話が始まると、私は黙って聞いている事しか出来なくなってしまう。
 奇妙な感じ。
別に私には解らない話をしている訳では無いのに……。
この二人の間には、私は入り込めないのだろうか?
 何となく、小雪の髪を撫でてみた。
「にゅ」
 小雪はころんと私にもたれ掛かる。
「ん? 眠たそうだな」
 荒川君が、少し心配そうに小雪を覗き込む。
「ふにゅ…」
「退屈だったかな……」
 智子も心配そうな声を上げる。
気を、使わせてしまっただろうか?
本当に二人きりにして、私たちは帰った方が良かったのかも知れない。
「ちょっと横になるか?」
「え…っと……」
 小雪は、本当に今にも眠ってしまいそうで、目をしょぼしょぼとさせている。
「俺の布団で良かったら……」
「なに? 志郎。ついにそんな小さい子を部屋に連れ込む気? しかも布団になんて……」
「黙ってろ」
 荒川君は、立ち上がりつつ、自分の座っていた座布団を智子にかぶせた。
「ぶ…、なにするのよ」
「小さい子の前で言うような冗談か」
 そう言いながら、楽しそうに笑っている。
「もう」
 ぶんっ、と智子が叩き付けた座布団を、ひょいと後ろに跳んでかわす。
「埃が立つ、もうやめろ」
「ちっ、美汐達が居なければ、座布団と言わず敷き布団に沈めてあげるところなのに……」
「帰りましょうか?」
「そう言うな天野。こいつは本当にやる」
「当然でしょ」
「……部屋に案内するよ。立てる?」
「に」
 これは返事なのだろうか?
私と荒川君に両手を引っ張られ、何とか形だけは立ち上がった。
「……抱えていくよ」
「わぁ、志郎、やらしい」
「黙ってろっ」
 智子の囃子言葉に、微かに顔を紅くする。
「お願いします」
 私は応えて、小雪を預けた。
小雪の体重からして、荒川君なら簡単に抱え上げられるだろう。
案の定、「よっ」っと掛け声一つで抱き上げた。
「軽いな」
 藤一郎さんと同じ事を言う。
「そんなに軽いですか?」
「あぁ、高瀬の半分くらいだな」
 ごす。
智子の肘が、荒川君の後頭部に命中した。
「智子。やめて下さい、小雪が居ます」
「あ、ごめん、つい」
「俺は良いのか、俺はっ」
 ふるふると頭を振りながら、荒川君が抗議する。
「荒川君は馴れていますでしょう?」
「う…うーん、馴れていると言やぁ馴れてるけど……」
 ついと天井に視線を送り、私の冗談にまじめに応えてくれる。
……そう言えば、私の冗談は冗談に聞こえないと、藤一郎さんが笑っていたことがある。
「冗談ですよ?」
 言いながら私は、今智子に殴られた、荒川君の後頭部を撫でて上げる。
「わ、と…。いいよ、撫でなくても、ホントに馴れてるから」
「そうですか?」
「なんか、撫でられると恥ずかしい」
 そう呟いた横顔は、確かに恥ずかしそうだった。
「わーい」
 それを見た智子が、楽しそうに笑いながら、くしゃくしゃと髪を撫でる、と言うよりかき混ぜる。
「こ…らっ、高瀬っ、お前はぁ」
 小雪を抱えているため、どうする事も出来ずに、荒川君の髪の毛は凄いことになってしまった。
そしてふと見ると、当の小雪は、いつの間にか眠ってしまっている。
「よく眠れますね」
「あ、ホントだ、いつの間に」
 抱きかかえていた荒川君が、驚いて声を上げる。
「ほら、遊んでないでとっとと行きましょ」
 先に立った智子が、扉を開けて促した。
「お前が言うなっ」
 ふっと苦笑してから、荒川君が叫んだ。

 荒川君の部屋も一階にあった。
と言うより、この家は一階建てらしい。
そして、広い。
智子の家も広いけれど、ここも負けてはいないだろう。
柱の一本一本が古めかしい。
この”街”が、”町”だった頃からある、名家の邸宅。
荒川家は呪われていると、藤一郎さんは言っていたけれど、”家”自体はかなり大きく発展していたらしい。
「よっ」
 荒川君は、抱えたときと同じ掛け声で、ゆっくりと小雪を布団に降ろす。
「どうして布団がたたんでないの?」
 不意に呟くように、智子が質問した。
「いや、他に誰も居なかったから、居間に通せばいいやと思って」
「そうじゃなくて…って、志郎、客が来なければ布団はたたまないの?」
「そんなこと無いって、今日はたまたま。いつも来たときはたたんであるだろう?」
「そー言えばそうだけど」
「だいたい、部屋に連れ込んで布団が敷いてあったりしたら、お前は間違いなくひっぱたくだろ?」
「それはそう…って、普通はそうでしょ?」
「そうなのですか?」
 私に訊かれても困る。
「あーもう、美汐は危ないんだから。いい? 家に二人きりのときに男の部屋に案内されて、布団が敷きっぱなしだったときは、迷わずひっぱたいて帰るのよ?」
「こらこら、変なことを教えるな」
 智子の話に、荒川君が声を上げる。
「常識でしょ?」
「そんな常識は聞いたことがない」
「女の子には常識だって」
 私も聞いたことが無い。
まぁ、言わんとする事は解るのだけれど。
「解りました」
 ここは頷いておこう。
「おいおい。じゃあ、布団じゃなくてベットだったらどうするんだよ」
「……あ。そうか」
 ぽんっと手を打つ智子。
ベットは布団の様にたたんでしまう事は無い。
純和風の家に育った所為だろうか、ベットという存在を忘れていたらしい。
「うーん、どうしよう」
「私に訊かれても困ります」
「単純に、ベットや布団に近づかなきゃ良いんだよ」
 ぼりぼりと頭を掻きながら、荒川君がまとめた。
「まったく、人の部屋に入って、何の話をしてるんだか、この女どもは」
 そう言いながら、小雪にそっと布団を掛けてくれた。
「あ、待って下さい。スカートと靴下を脱がせます」
「え?」
「少し、あちらを向いていて下さい」
「あぁ」
 私は既に完全に寝入ってしまっている小雪から、靴下とスカートを脱がし取り、布団を掛けてすぐ横に座った。

 さて、と一息ついて、智子は台所へお茶をいれに行った。
私や朝香の家と同じように、ここの台所にも馴れているのだろう、荒川君は「あぁ」と応えただけだった。
 智子が部屋を出て、小雪は寝てしまっている。
実質、私と荒川君の二人きりだった。
「奇妙なものですね」
「……なにが?」
「ここで、こうしていることが、です」
「……?」
 荒川君は軽く首を傾げた。
「ひとつ、感じたことがあります」
「なに?」
「荒川君と喋っているときの智子は、私たちと居る時よりも、子供っぽい感じがします」
「そうか? 変わらないと思うけどな」
 思えば、荒川君もそうだろうか?
この二人が、二人だけで居る時。
それは、幼なじみの二人が、子供のままで居られるときなのかも知れない。
「同じ時間を過ごしてきた、と言うことの意味なんでしょうね」
「うん?」
 ”解らない”と言う顔をした荒川君に、私は笑って応えた。
「智子の居場所は、荒川君の側にもあります。それは、たぶん私たちの側にあるものより、心安らぐ場所なのでしょう」
 そう、そこには”懐かしさ”がある。
「……そうか、な?」
「私は、羨ましいです。幼なじみと呼べる存在を、持っていないですから」
 そっと小雪の髪に手を置いて、何となく考える。
朝香や智子と出会ったのは、小学校の4年生だっただろうか。
すると、今年でやっと6年目?
荒川君と出会ったのは、その後、5年生になってから。
もっと早く出会っていれば、もっと色々なことがあったかも知れない。
それは後悔にも似た、不可思議な感情。
私の知らない智子を知っている、この荒川君に少しだけ嫉妬してしまう。
そう思って、自分に苦笑した。
「なに?」
「何でもないです。……ただ、本当に、羨ましいなと思っただけです」
 私の知らない智子。
剣道を始める前の智子。
いつか、聞いてみたい話でもある。
 しかし、そう考えてみると、智子も昔の私のことなど知らないのだろう。
智子達と出会う前の私。
その頃から続いている友人関係は、思い浮かばない。
私と今まで、もっとも長い時間を過ごしてきた友達は、この小雪だろうか?
 そっと、髪を撫で下ろす。
この子こそが、もっとも多くの私を見てきたのかも知れない。
そう思うと、小雪が私のことを思い出せないと言う事実が、とても辛いことのように思えてくる。
これからも、ずっと側にいられるのだとしても、失われた時を思い出すことは、ほとんど有り得ない。それこそ、小雪が自分の本質に気付くまで……百年の時を越えるまで。
 その事実が、”昔の私”という存在その物を、”無かったこと”にしてしまう様な気がしてしまう。
「思い出というものは、作り直すことは出来ないのでしょうね」
「ん? ”作り直す”って言うのは変だけど、思い出って言うのは、どんどん積み重ねて行くものだろ?」
「それは、解っているのですけれど……」
 呟いて、苦笑する。
自分自身、何が言いたかったのかよく解らない。
「ただ………。何でもないです」
 私は、先ほどと同じ台詞を言葉にした。
「変な奴だな、天野は」
「それは非道いです」
「あぁ、確かに言い方が悪いけど、何というか……不思議な奴だな」
「どの辺りがですか?」
「その辺り」
 そう応えて、荒川君は小さく笑った。

「よっ」
 軽い掛け声と共に、智子が足で戸を開ける。
「お待たせ。紅茶がなかったからコーヒーだよ」
「あぁ、ありがと」
「ありがとうございます」
 お盆を床に置きながら、智子の視線が私と荒川君をなぞる。
「何の話してた?」
「別に、大した話ではありません。え…っと」
 本当に、何の話をしていたのだろう?
「思い出は作り直せないのかな、って言う話じゃなかったかな?」
「……? どういう意味?」
 応えた荒川君に、更に質問を重ねる。
「どういう意味だろ?」
 そして荒川君も、目線で私に問い掛けてきた。
「そう…、幼なじみが羨ましいと、話していたんです」
「ふ…ん。幼なじみ? 羨ましいかな?」
 少し照れたように、智子が微笑む。
「こんなので良かったら、いつでも上げるよ」
「ありがとうございます」
「おいこら。俺は物じゃないだろ」
 荒川君は、軽い冗談にもちゃんと応えてくれる。
「そうですね。それ以前に、幼なじみは譲れるものではありません。同じ時間を過ごしてきた、その人でなくてはいけないのですから」
「ん、まぁそうだけど。あぁ、それで思い出を作り直す云々の話になるわけね」
 納得したと頷いて、コーヒーのカップに口を付ける。
それに釣られるように、荒川君と私もコーヒーを口にした。
「……おいしいですね」
「ふっふっふ、ブレンドといれ方にコツがあるのよ。今度教えて上げる」
「はい」
 ……何か、変わっただろうか?
先ほど居間にいた時より、話し易い。
結局は、私の感じ方なのだろうか?
 いつもとは違う空気。こんな感じも悪くない。
…そうか、私が、荒川君に”馴染んだ”のかも知れない。
 そう思うと、少しだけ、嬉しかった。

「よく眠るな」
「そうですね」
 もう時計は5時を回った。外はすっかり暗くなってしまっている。
「そろそろ起きてもらわないと」
 言いながら、軽く体を揺する。
「ん…にゅ」
 小雪はころんと寝返りを打ち、再び小さく寝息を立てる。
「ふっ、可愛いな」
「あ、やっぱり志郎、ロリコンの気が……」
「言うと思った」
 智子の囃子言葉も、今回は軽く空かされる。
「本格的に起こします、荒川君はあちらを向いていて下さい」
「あ? あぁ」
 応えて扉の方に向かって座り直す。
「見られるとマズイ事をするのか?」
「スカートを履いていません」
「あぁ、そうか」
「見たいの?」
「黙ってろ」
 背後に智子の声を聞きながら、小雪に掛けられた布団をがばっとめくる。
「ほら、小雪ちゃん、起きて下さい。これ以上寝ていると、本当に夜になってしまいますよ」
「に…ぅ」
 うっすらと目を開ける。そしてしばらく間をおいて、ぐぅっと伸びをした。
「はい。起きて下さい」
「にぃ」
 体を起こした小雪に、スカートを渡す。
「なんだか、”にぃ”とか”ふにゃ”とか、そんな台詞ばっかりだな」
「良いじゃない、別に」
「いや、悪いとは言ってないよ、可愛いし。普通に喋れないわけでもないしな」
「もう良いですよ」
 扉に向かって話す荒川君に言葉を掛ける。
靴下を履いて姿勢を正しても、小雪はまだ虚ろだった。
「大丈夫か?」
「……ふに?」
 大丈夫だろうか?
体調を崩してからこちら、小雪は異様なほど眠り続けている気がする。
「送っていくよ」
「……お願いいたします」
 普通なら遠慮するところだけれど、今日は有り難く受けておこう。
「あ、私も玄関まで一緒するよ」

 雪はもうすっかりやんでいた。
私たちは小雪を真ん中にして横に並び、街灯に照らされた真新しい雪に、足跡を付けて歩いて行く。
「この子も、不思議な子だな」
「そうですね」
 何をもって『不思議な子』と言ったのかは解らないけれど、小雪は普通の子ではない。
「身元は、まだ全然判らないのか?」
「……はい」
「そうか……。早く見つかると良いな」
「はい」
「……ん?」
「どうかしましたか?」
「いや……、何だろう、今、何か引っかかったような?」
 軽く俯き口元に手をあて、荒川君が呟く。
「身元の判らない女の子……って、あぁ」
 そう言って、小さく頷く。
「いや何でもない。気にしないでくれ」
「はい」
 ”身元の判らない女の子”。
その言葉が、荒川君が何を思いだしたか、何故言葉にしなかったかを教えてくれる。
恐らく、今日、野崎君に聞いた話。あの、獣医さんと一緒に死んだらしいと言う、女の子のことを思いだしたのだろう。
そっと、その視線が空へ向かった。
「星が、出てきたな」
「はい」
 小雪は黙ったまま、私たちの間を、ゆっくりと歩いていた。

 家に帰り着くと、荒川君は玄関先で挨拶だけを交わし、すぐに帰ってしまった。
「お帰りなさい。夕食の準備は出来ていますけど、すぐに食べますか?」
 廊下の先、キッチンから顔だけを出して、お母さんが声を掛けてくれる。
「はい。ただいま戻りました。食事は……」
 小雪に視線を落とし、様子をうかがう。
「……?」
「小雪ちゃん。すぐにご飯を食べますか?」
「…うん」
「はい。…では、すぐに食べます」
 お母さんに声を掛けながら、取りあえず小雪の部屋へ。
コートを脱いで手袋を外し、洗面所で手を洗う。
そして、食卓へ着いた。
 今日のメインは鶏肉の南蛮揚げ、添えとして、アスパラガスと何かの炒め物がある。
「いただきます」
 手を合わせ、箸を取る。
そこで、気が付いた。
「小雪ちゃん? どうかしましたか?」
 小雪は、椅子に腰掛けはしたものの、ただじっと、自分の手を見つめていた。
「……にぃ」
 小さく鳴いて、私を見る。
寂しそうな、不安そうな瞳が揺れていた。
……なに?
言葉を掛ける前に、小雪は自分の箸に手を伸ばし、……そして取り落とした。
カランと、小さく音を立てて転がる箸を、そのままの姿勢で見つめる。
 微かに、手が震えている。
それが、肩の震えに変わった。
「小雪!? どうしました?」
 何かが、違う。
私は異変に気付いて立ち上がる。
「みしお……」
 小雪はゆっくりと、震える右手を私に差し出して、泣き出しそうに、こう言った。

「…手が……うごかないの」

  ……つづく。


第二十五話/第二十七話