『”ものみの丘”に吹くそよ風』

第二十話


 どしゃ……。
その音に振り返って見ると、小雪ちゃんが雪の上で転んでいた。
「あらあら」
「小雪ちゃん。大丈夫ですか?」
 私は駆け寄って手を差し出す。
「ふにぃ〜」
 起きあがらせて雪を払う、昨夜積もったばかりなので、汚れてはいない。
「はい。綺麗になりました」
「うん、ありがとう、みしお」
 私はくすっと笑って再びお母さんの方に向き直る。
「では、行って来ます」

 緩やかな下り坂を、商店街の方に向けて降りていく。
今日は風も少なく、時々日が射すので少し暖かい。
「小雪ちゃん。走るとまた転びますよ」
 ずしゃ……。
 あ、転んだ。
「ふにゅぅ…」
 それでも今度は一人で立ち上がる。
そして自分で雪を払うと、にこっと笑った。
 小雪はあまり雪が好きではなかったようだけど、偶にこうやって雪の上を転がって遊んでいたこともあった。
本当に、小雪ちゃんが小雪なんだ、と奇妙に納得する。
「小雪ちゃん。手を繋いで歩きましょう」
「うん」
 私が右手を差し出すと、急いで戻ってくる。
その仕草を見ていると、いつもの様に尻尾を振っているみたいに思えて、つい苦笑してしまう。
 私たちは手を繋いで、のんびりと歩いて行った。
知らない人から見れば、仲の良い姉妹に見えるだろうか?
そんなことを考えながら。


 ことん、と予想外に軽い音を立てて、桐の箱が私たちの前に置かれた。
智子は馴れた手つきで、しゅしゅっと紐を解く。
「はい。去年約束したでしょ?」
 そう言って、包紙から取り出した着物を広げて見せた。
「わぁ、ホントに良いの?」
「良いよ別に。どうせ私のお古だしね。もう三着あるから取ってくる」
「あ、手伝います」

 智子に続いて小さな渡り廊下を通り、古びた蔵に入る。
「相変わらずですね、ここは」
 外とは空気が違う様な、奇妙な感じがする。
いつも何かがありそうで、ちょっと、どきどきとしてしまう、そんな独特の。
「あぁ、そうだね」
 智子はくすっと笑って応え、棚から箱を下ろす。
「ほい。居間に運んで」
「はい」
 渡された箱をかかえて、蔵を出る。
そこで、何気なく振り返ってみた。
 智子は、一つの箱を開いたまま、じっと動かないで居る。
「……智子?」
「あ。何でもない」
 慌てたように、手にしていた箱に紐をかけ直そうとする、が、
「…おっ、と」
 その手から、ぽろっと何かが落ちた。
私は抱えていた箱を一旦置いて、それを拾いに戻ろうとした。
「あ、いい、私が拾う」
 しかし、踏み台から飛び降りた智子が、片手でそれを制する。
「…はい」
「……あ」
 一瞬の、困ったような表情。
「ごめん、いや、隠す事じゃないんだけど」
 ぽりぽりと、いつものように頭を掻きながら、手にした小さな紙を見せる。
 『平成5年 綾子』
二つ折りにされた半紙に、筆でそう書かれていた。
「姉さんが着るはずだった着物なんだ、この箱に入っている奴」
 そう言って苦笑いを浮かべる。
「今、初めて気が付いた。……だからどうって事はないけどね」
 名前の書かれた半紙を丁寧に包紙の上に置き、そっとふたを閉める。
そして紐を掛けながら呟いた。
「そうか、もう5年も経っちゃったんだ」

「あれぇ?」
「ふにゃ?」
 朝香と小雪ちゃんが同時に声を上げる。
「なにをやってるんだか」
 苦笑しながら、智子が朝香の小紐に手をかける。
「小雪ちゃん。ちょっと待っていて下さい、すぐに行きます」
「…うん」
 私は自分の着物を仮結びで留め、小雪ちゃんの着付けを手伝う。
「流石だね。美汐は」
「お母さんに教えてもらった事がありますから」
「ふ〜ん。美汐のお母さんって、案外色々出来るよね」
「はい」
 流石と言われても、智子は既に着付けを終えている。
着物に対する馴れの違いだろうけど、本当に、智子の方こそ色んな事が出来るのだと感心してしまう。

「はい、いっちょう上がりっ」
「わぁ、ありごとう」
「今度は自分で着付けてよね」
「えぇ〜、またやってよ」
「次ぎ着るのは初詣でしょ? あんた、わざわざ私のところで着付けてから出かけるつもり?」
「うん」
「…………まぁ、いいけどね」
 呆れたように呟いて、こちらを見る。
私も、小雪ちゃんの着付けはもう終わる。
「はい。出来ました」
「ふに、ありがと」
 淡い黄色に菱形の文様が散らばる、少し落ち着いた感じの着物。
「そう言えば、見たことがありますね、この着物は」
「あぁ。え〜っと、それは中学1年の時の着物」
「私のは?」
「朝香のはその前、小学校5・6年の時かな? それも見たことあるでしょう?」
「えぇ〜っ、何で私の方が小雪ちゃんより小さい奴なの!?」
「だって、小さいし」
「身長は勝ってるっ、と思うっ」
「胸で負けてる」
「う…」
「多分、小雪ちゃんにそれを着せようとすると、胸元が凄いことになるよ」
 二人が揃って小雪ちゃんを見る。
「う〜ん……」
「ふにゅ?」
 そんなやり取りを眺めながら、私は自分の着物を着付け直していた。

「……そうだね、簪が欲しいかな」
 突然智子が呟いた。
「かんざし?」
「髪飾り。私は嫌いだから付けないんだけど、小雪ちゃんなら似合うかもね」
 確かに、小雪ちゃんのふわっとした長い髪には、何かアクセントがあっても良いかも知れない。
もちろん、智子の艶やかな黒髪にも似合うと思うのだけれど、あまり好きではないらしく、着物のときもいつものポニーテールだった。
「ちょっと待ってて」
 そう言って居間のふすまを開ける。
「あるのですか?」
 やっと自分の着付けが終わって話に加わる。
「無いことはないけど、それより……」
 そう言いながら縁側のガラス戸の鍵を外す。
からり、と小さな音を立てて、曇りガラスの向こう側だった景色が、目の前にひらけた。
「わぁ…」
 朝香が感嘆の声を上げた。
広い庭に均等に雪が積もり、何とも言えない景色を作り出している。
庭木や灯籠が作り出す黒い陰と、真っ白な雪。その中に幾つかの紅が混ざっていた。
「よっ」
 と声を上げて、縁側の下から草履を取り出すと、智子が庭に降りる。

「………」
 緑色を主にした鮮やかな着物に、黄一色の帯。色の白い肌に束ねられた黒髪。
この純和風の景色に相まって、いつも見慣れていた智子が、急に別人のように見える。
 そんな私の感慨もよそに、智子はさくさくと足跡を残して、一本の木に近寄っていった。
「折れるかな?」
 そう呟くと、紅い花を付けた枝に手をかける。
「あ……」
 小雪ちゃんが小さく声を上げた。
「うん、おっけ」
 花を手にして呟いた智子が、すたすたと戻ってくる。
「ほら、これなんかどう?」
 そう言いながら、小雪ちゃんの髪にその枝を挿した。
「わぁ、可愛いよ、こゆきちゃん」
「はい。綺麗ですね」
「でしょ?」
 髪に紅が加わっただけで、文字通り華やかになった。
これなら智子と並んでいても、引けは取らないだろう。
「山茶花ですね」
「へぇ、さすが。よく知ってたね」
「はい。でも初詣までに散ってしまいませんか?」
「ん、そうだね。ま、その時はもう一枝持っていくよ」
「……かわいそう」
 ぽつりと、小雪ちゃんが言った。
「え?」
「かわいそうだよ」
 もう一度そう呟くと、小雪ちゃんは髪に挿された枝を引き抜いた。
「花は、枯れるまで花だから、かわいそうだよ」
 悲しそうな目で、手の中の花を見つめる。
「……あぁ、ごめん」
 一瞬の間をおいて、智子が素直に謝った。
「そうだね、悪いことをしちゃったね」
「はい。でも、もう折ってしまったのですから、その枝は頂いておきましょう、ね」
「うん…」
 両手に持った花をしばらく眺めてから、小雪ちゃんは自分で髪に挿した。


 夜、お風呂に入ろうとして二階から降りてきたところで、小雪ちゃんに出会った。
「ふに、みしお」
「はい」
 用も無いのだろうけど、何気なく言葉を掛け合う。
小雪ちゃんの髪には、あれからずっと山茶花が挿したままになっている。
それが歩くたびゆらゆらと揺れて、なんだか微笑ましい。
何とも無しに、その頭を撫でて上げた。
「にゅう」
 目を細めたその表情が、私は好きだった。
しばらく撫でて上げていて、ふと思いつく。
「小雪ちゃん。一緒にお風呂に入りましょうか?」
「…うんっ」

 私たちは一旦小雪ちゃんの部屋に行き、着替えを持ってお風呂場に向かう。
キツネだった頃は何度も一緒に入ったことがあるけれど、人になってからは初めてだった。
なぜだか少し、恥ずかしいような気もする。
ブラウスのボタンを外しながら、ちらりと小雪ちゃんの方を見た。
「あ、小雪ちゃん。服を脱ぐ前に外さないと……」
 セーターを捲り上げようとしていた小雪ちゃんを制し、髪に挿したままだった山茶花を引き抜く。
……これは、髪に挿したままでは、すぐに散ってしまうだろうか?
「正月まで、一輪挿しに挿しておきましょうか?」
「う…ん」
 困ったような、訴えかけるような瞳で私を見つめ返す。
「……髪に挿して置いた方が良いですか?」
「うん…」
「分かりました。でも、お風呂の時は外しましょうね」
「うんっ」
 にこやかに応えると、その花を受け取って、そっと棚に載せる。
「どうか…散りませんように」
 ぽそりと呟いて、それから服を脱ぎ始めた。

 先に立って中に入り、浴槽のふたを開ける。
もわっと白い湯気が上がり、刺すように冷たさが少しずつ和らいでいく。
さらに床へお湯を撒き、浴室を暖める。
「小雪ちゃん、いいですよ」
 脱衣所で待っていても、小さな電熱がひとつ置いてある限りで、寒さはあまりかわらない。
私の言葉に、ガラス戸を開け小雪ちゃんが入ってきた。
少し大きめのタオルで、体の前を隠す。そんな仕草を見て、どこで憶えたのだろうと、ふと考えて苦笑してしまう。
「どうぞ」
 私は小雪ちゃんを促して座らせ、手桶ですくったお湯をかけて上げた。
「ふにゅう」
「熱かったですか?」
「ううん。あったかい、気持ちいい」
 そして目を細めて「にゅう」と呟く。
思えば、小雪もよくこんな表情をしていた。
私は小雪にして上げていたように、体をそっと撫でながら、ゆっくりとお湯をかけていった。
先に小雪ちゃんを湯船に入れて、私もお湯で体を流す。
「少し詰めて下さい」
「うん」
 流石にこの浴槽に二人は狭いだろうか?
そう思いつつも体を沈めると、ざばぁっとお湯が溢れ出す。
私は指先の痺れが取れるくらいまで温まると、先に出て体を洗うことにした。

 いつものようにタオルに石鹸を付け、首筋から洗い始める。
そんな私を、小雪ちゃんがじっと見つめていた。
流石に体を洗うところをしげしげと眺められると、相手が小雪ちゃんであっても、やはり恥ずかしくなってくる。
私はいつもより手早く済ませて、ざぁっとお湯で流す。
…さて。
「小雪ちゃん。洗って上げます」
「…うん」
 素直に頷いて湯船から出ると、私に背を向けてちょこんと椅子に腰掛けた。
私は使っていたタオルをすすぎ、もう一度石鹸を付けて泡立てる。
「はい。いきますよ」
「うん」
 そっと、左手で肩を押さえるようにして、耳の後ろから首にかけて優しく洗う。
そして肩から背中へ、続けて左腕を横にのばして洗い、そのまま脇の下を撫でるように擦る。
 触ってみると、小雪ちゃんの体は思っていたよりも柔らかく、何と言うか、ふわふわした感じがする。
肌の色も白く、きめも驚くほど細かい、もち肌とはこんな肌のことだろうか?
「はい。前を向いて下さい」
「うん」
 何気なく立ち上がり、私の方を向く。
 一瞬、どきっとした。
 綺麗な体、間近で見るとよく解る、柔らかな曲線を描くプロポーション。
やや細めだと思っていたけれど、智子の言っていた通り、胸は私よりも大きいだろう。
それでいて、腰にかけてはきゅっと締まって、まるで女の子の”理想”をそのまま再現したようにも感じられる。
「……みしお?」
「あ、何でもありません」
 タオルを持ち直して、……触って良いものかどうか少し悩む。
そんな私を見てか、小雪ちゃんは顔に”?”を浮かべた。
私は思わず、自分に対して苦笑してしまう。
小雪ちゃんの腕にそっと手を添えて、胸元から洗い始める。痛くしないように、なるべく優しく。

 綺麗な肌、理想の体型。
これはやはり”力”によって作られたものだからだろうか?
ふと、そんな疑問がわいてくる。
小雪ちゃんとアスハさんの容姿は、普通に歩いていても人目を引くだろう。
 では、竜弥さんは?
……いや、あの人は、多分”人間”だ。
そうだとすると、望美ちゃんは? あの子は、人間なのだろうか?
思えば、望美ちゃんには小雪ちゃんの面影がある。ちょうど、アスハさんを子供にして、そこに小雪ちゃんを混ぜたような感じ。
同じキツネだから、同じ様な姿になる?
いや、もしかすると、アスハさんと小雪には、血の繋がりがあるのではないだろうか?
それなら似ていてもおかしくない。と考えると、やはりキツネ達にはあらかじめ”人としての姿”があるのだろうか?
いや、それ以前に、”人間”である竜弥さんと”キツネ”であるアスハさんの間に、子供が産まれたと言うことは、人の姿になったキツネは、完全に”人間”であると言うことになる。
”キツネ達”は、思いの力で完全に”人間”に変わることが出来る、若しくは、元々”人間としての体”が設定されていて、その姿に変わる……?
だから、生まれてきた子供は”人間”?
 疑問。
なにか、根本的なところで抜けている部分がある。
……そうだ。
なぜ、キツネが人の姿に変われるのだろうか?
なぜ、そんなあり得ない事を、私はあっさり現実として認めているんだろうか?
 小雪ちゃんは小雪。それは既に確信になっている。
でも……、そう、忘れていた”常識”が、『そんな事はあり得ない』と騒ぎ出す。
 この小雪ちゃんの姿は、何でできているのだろうか?
元の小雪の体は、どこへ消えてしまったのだろうか?
”キツネ”の体が、そのまま”人間”に変わったとしたら?
いや、小雪の大きさは、今の小雪ちゃんより遙かに小さい。
 この小雪ちゃんは、一体……。

「みしお?」
「…あ、はい」
 小雪ちゃんの声に、我に返る。
私は小雪ちゃんのお腹に手を置いたまま、考えにふけってしまっていた。
「何でもありません。ちょっと立ち上がってくれますか?」
「うん」
 そっと抱えるようにして、小雪ちゃんのお尻に手を回す。
ここに、あの尻尾がついていたんだろうか?
いや、違う。それ以前の問題だ。
小雪の骨格がどうだった、などというレベルでは無く、まったく別の、”人間”に変わっているのだから。
 小雪ちゃんに少し足を開いてもらい、大事なところをそっと洗う。
思えば、他人のこんな所を見るのは初めてだった。
キツネだったときは、まったく気にしていなかったけど……、今、小雪は人間なんだ。
もし、望美ちゃんがそうなのだとすれば、今の小雪ちゃんも、人間の子供が産めるのだろうか?
 再び椅子に腰掛けさせ、太股から順に擦っていく。
そして最後に、指の間まできちんと洗って、肩からザバッとお湯を掛けて流す。
「ふにゅう」
 と、小雪ちゃんが気持ちよさそうな声を上げた。

 疑問。
それは、当たり前の疑問。
”キツネ”が”人間”に変わる、そんなことがあり得るのだろうか?
”常識”は、”現実”にはかなわない。
小雪はここにいる。
でも……。

 溢れるお湯も気にせずに、私は小雪ちゃんを抱きかかえながら湯船に浸かった。
小雪ちゃんは私に背中を預けてもたれかかり、私はそのままの体勢で浴槽にもたれる。
 温かくて、気持ちが良い。
その柔らかな体を、ぎゅっと抱きしめる。
「みしお?」
「…温かいですね」
「うんっ」

 小雪はここにいる。
確かにここにいる。

 言い様のない不安感を振り払うように、私はもう一度小雪を抱きしめた。

  ……つづく。


第十九話/第二十一話