『”ものみの丘”に吹くそよ風』
第一話
『………みしお……っ』
「……?」
不意に、名前を呼ばれたような気がして、ゆっくりと振り返る。
その直ぐ先に、一台の車が迫っていた。
「ぶつかる」そう認識しても、体は固まったように動かない。自分めがけて迫り来るその車を、目を逸らす事もできずに、ただ、凝視する。
突然、がばっと視界を何かが覆った。
続けて、どんっと鈍い衝撃が走り、私は……多分…車に……。
……………。
気が付けば、そこは知らない部屋……。
静かで、喧噪が遠くに聞こえる。
ぼんやりと天井を見上げながら、よくある展開、などと思っていた。
真っ白な部屋。間違いなく此処は病室で、私は車に撥ねられて、ここに運び込まれたのだろう。
「……っ」
起き上がろうとすると、微かに背中が痛んだ。
でも、気になったのはそれだけで、他に痛みはなかった。
カチャリと戸が開き、見慣れた顔が入ってくる。ただ、場所が変わった所為だろうか、微かな違和感を感じさせた。
「……お母さん?」
その違和感を払うように、私は今入ってきた人物に声を掛ける。
「あら、美汐さん、もう起きたの?」
まるで、場違いだと思えるほど、何事も無いように微笑む母親。その手には、小さな一輪挿しがあった。
「お母さん、私……」
「車に撥ねられたんですってね。また、ぼーっとしていたんでしょう?」
まるで心配していないと言わんばかりに、さらりと非道いことを言う。
でも、その態度が私を安心させてくれた。
大した事はないのだろう、そう思える。
事実、背中が少し痛むくらいで、包帯すら巻いてないみたいだった。
お母さんは、そのまま部屋の隅のテーブルまで歩いていくと、そこにあらかじめ用意しておいたらしい花を手に取り、何気なく一輪挿しに立てる。
そして、ゆっくり振り返りながら、言葉を続ける。
「相手の方は居眠り運転だったそうですけど、それほどスピードも出て無くて、それに庇ってくれた方がいらっしゃったそうなの」
「……庇ってくれた、人?」
「そう、だから、怪我も大した事無いでしょう? 一応検査だけはあるそうですけど、明日には帰れるみたいですよ」
あの時……、そう確かに、誰かが私の前に……。
「……その人は?」
「ん…、今、検査を受けていらっしゃるんですって。実は、お母さんもまだお会いしてないの。その人も大した怪我はなかったそうですけど、ちゃんと、ご挨拶しておかなくちゃ……」
そこで、ノックの音が響き、「失礼します」という言葉と供に再び扉が開かれて、今度は見知らぬ人、看護婦さんが顔を覗かせた。
「天野さん、お目覚めになりましたか?」
「あ、はい」
お母さんが応える。そしてそのまま、看護婦さんに連れられて部屋を出ていった。
ふぅ、と息を吐き、静かになった部屋の中を、改めて見回してみる。
特に何もない、一応二人部屋のようだったけど、相部屋の人は居ないみたいだった。
時計が目に入った。まだ2時間目が終わってない頃、そう言えば、今日の2時間目は苦手な体育、しかも、マラソンだった事を思い出す。
幸運…とは言わないか…。心の中で一人、くすっと笑う。
……みんな、どうしているだろうか?
今頃、あの広いグラウンドを走らされているだろう、友達の事を思う。
昨日何気なく別れた私がこんな事になったと聞かされたら、親しい友達が心配しない筈はない。そう考えると少し心が苦しかった、早く、「大した事はないですよ」と伝えて、安心させたかった。
ベットから降りて、窓の方まで歩いていく、やはり、特に痛むのは背中ぐらいで、他は何とも無いようだった。
窓の外、薄く雪の積もった景色を見ながら考える……。
……私を助けてくれた人、一瞬だったので顔も見えなかった。いったい誰だろう…?
近くに駅前のビルが見える、遠くに森、あっちが中学校、その向こうに私の家があって、そして、あっちが”ものみの丘”。
今居るのは、駅の裏手にある、この街で一番大きな総合病院であるのは間違いなかった、だからどうと言う訳でもないけれども、不意に、今まで生活していた場所が遠くに感じてしまう。
今日だけのこと、明日には帰る事が出来る…そう自分に呟く。
でも、もし庇ってくれた人が居なかったなら……。
コンコン…、
ノックの音、続けてドアが開いて、お母さんと…多分お医者様らしい人が入ってきた。
私は急いでベットに戻る。
「うん、お元気そうですね」
「……はい」
お医者様の言葉に何となく恥ずかしくなり、顔を俯けるようにベットに入る。
「あぁ、いいですよ、そのままで、今から少し検査がありますので」
「……検査」
「心配することはないですよ、直ぐに終わります。一応、念のためですから」
そう言ってにこやかに笑う。その時、もう一度ノックの音が聞こえた。
「はい」
お母さんが答える。
かちゃりと静かにドアが開き、先ほどとは別の看護婦さんと、見知らない女の子が姿を現した。
お医者様はそれを確認して、「さあ、行きましょうか」と私を促した。
女の子と入れ違いに部屋を出る……。
年は私よりも少し下、小学生5・6年くらいだと思う。
……?
不安そうに俯く、その姿が何故か心に引っかかりを憶えさせた。
相部屋の子? 何処かで…会ったことが……?
そんな考えを打ち切るように、看護婦さんが内側からドアを閉めた。
お母さんは、私の着替えを取るために家に戻るらしい、1日だけでも、着替えは必要だった。
私はそのまま幾つかの部屋で検査を受けたが、それは本当に簡単な物だった。
2時間も掛からずに元居た部屋に戻される。
結果は、直ぐにでも解りそうだった。
しかし……。
部屋に戻ると、さっきの女の子がポツリと、ベットに腰掛けていた。
その子が私を庇ってくれたのだと、先ほどお医者様から聞かされた。
私より小さなこの子が、私を抱えるように車の間に飛び込んでくれたのだという。
そして…。
「こんにちは、初めまして、天野美汐と申します」
ゆっくりと、その子がこちらに目を向ける。さっきと同じ、不安そうな瞳。
「…あの、助けていただきまして、ありがとうございました。何とお礼を申し上げて……」
ふっと、視線を落とす。
「……あの…」
そのままベットに潜り込んだ。私を避けるように………。
どう声を掛けたら良いものか、解らなかった。
お医者様の話では、この子は記憶が無くなっているらしい、という事だった。
持ち物もなく、身元も、名前さえも判らない。
そう、今朝の事故の所為で……、私の所為で……。
「……あの…、ありがとうございました。それと………ごめんなさい……」
その子の背中に向かって頭を下げる。私を助けてくれた、この小さな女の子に、精一杯の感謝と謝罪を込めたつもりで。
ごそりと布団が動き、顔だけを覗かせるようにして、こちらを向く。
寂しそうな、不安そうな瞳が揺れていた。
…………?
何だろう…この感じ……。
何故か、唐突に、この子の頭を撫でてあげたい、撫でてあげなくてはいけない、そんな気がした。
私はそっとベットに近づき、腰を降ろす。
そしてゆっくりと布団に手を入れるようにして、優しく撫でてあげる。
「ふにゃぁ…」
おかしな声を上げて、その子が体を丸める。でも、嫌がってはいないみたいだった。
そのまま撫で続ける。
「ふぅぅん……」
もう一度、今度は溜息のような声を上げて、布団を被ったまま私に寄り添ってくる。
私はそれを、布団ごと抱くようにして、撫でてあげた。
……何故なんだろう。
不思議な感じ…。
懐かしい、ずっと、こうしていたような……、奇妙な感じ。
ふと気付くと、その子がじっと私を見ていた。
え…っと……、
「初めまして、……天野美汐と言います。美汐と呼んで下さい」
………それが、
一つの終わり
一つの始まり
そう…『終わりの始まり』
……つづく。 |