『”ものみの丘”に吹くそよ風』
第十八話
『よく…来てくれた』
声が響く。
「……はい」
”イガスリ”は、穴に入ってすぐに、脇の方に避けている。
ちょこんと座った小雪と私が、その真っ白なキツネの正面に立っていた。
「”長”、なぜこの子をここに呼び寄せたのです? ハビキの子を人に預ける事は、承知して下さいましたのでしょう?」
”長”と呼ばれたキツネが、私の後ろから声をかけた草壁さんに、目だけを向ける。
『少し…話をしてみたかったのだよ。あのハビキの子が、温もりを求めた”人”と』
”ハビキ”…それは小雪のお母さんのことらしい。
草壁さんは黙ったままだった。
もしかすると、また私には聞こえない”声”で話しているのかもしれない。
『これは正確には”声”ではない』
「え?」
『意思を伝える手段のひとつであるが、空気を振動させて声を送っているのではなく、”意思”をそのまま相手に送り込んでいるのだ』
「…え…っと?」
『”声”として聞こえているように思えるのは、君が”意思”をそのままで認識することが出来ずに、無意識のうち理解できる”言葉”に置き換えて認識しているからだよ』
「………」
『更に私たちは、伝えるのと同時に、ある程度読みとっているのだよ。だから、君が”言葉”で考えたことは、ひとつの”意思”として私たちには感じられるのだ』
つまり、テレパシーの様なもので、私の心を読んでいるのだろうか?
『深く考える必要はない、ただ私たちは互いに心を読み合っている、と言うことだ。そしてこの能力も年齢によって程度が違う。君が”小雪”という名を与えたその子は、まだ人の心を読むことは出来ないだろう。よほど強く思ったことか、伝えたいと願ったこと以外は』
ちらっと、小雪を見る。
いつもと同じ表情で、こちらを見上げている小雪。
…という事は、
「この子も、人の言葉は理解できるのですか?」
『出来る。それも程度によるだろうが、人が日常で使っている言葉は、既に理解できるであろう。ただ、その子から君に言葉を送る術がなければ、”会話”には成らないだろうが…』
「………」
私は軽く混乱して黙り込む。
言われたことは解る、でも、何かがよく解らない……。
そうだ……。
なぜこの”丘”のキツネ達はそんな事が出来るのだろう?
まるで……そうまるで、おとぎ話の様に。
不可思議な出来事が、目の前で起こっている……。
「”長”」
『害を与えるつもりはない。ただ、会ってみたかったのだ…』
「それは…」
『解っている』
”長”は軽く目を閉じ、そして話し始めた。
『ずいぶん昔の話だ……、
私たちは、森と、人と共にあった。
暖かな人の温もり、私はそれを覚えている。
若いキツネ達は、村々に下りては人に触れ、人はキツネの持つ”力”に救われていた。
”思い”により自然を操る”力”、”祈る”ことで奇跡を起こす”力”。
それが私たち”キツネ”の持つ”力”だ。
私たちはずっと、人に思いを寄せ、人のために祈り続けていた。
幸せな時間が続くように、
自然の恵みが、彼らにもたらせるように、と。
この丘の麓には豊かな森が広がり、多くの生命が息づいていた。
人々はその深き森で狩りに勤しみ、木の実を得た。
そして私たち”キツネ”を”野の神””森の神”として祀り。
森から得た物を捧げては、いつまでも変わることのない恵みを願ったのだ。
永い間、そんな時代が続いていた。
我々と、人と、森と。
ずっと、いつまでも変わることがないと、私もそう思っていた。
…だが、大きな変化が訪れた。
この辺りの村々で採れる物には、南方では価値のある物が含まれていたそうだ。
南の山を越えた海辺でも、珍しい物が手に入ったらしい。
北の山を越えたところでは、僅かながら金が出た。
人はそれらを南方の国に売り渡し、また、この辺りでは手に入りにくい物を得ていたのだ。
珍しい物、価値のある物……。
私達にはよく解らなかった。
それはそのような物なのだと、そう考えていただけだった。
しかし、南方の国には強欲な者がいた。
労せず、大金を積まずにそれらを手に入れようと、思いを巡らせた者がいたらしい。
この辺りの村を押さえ、自然の恵みを奪おうと考えたのであろう。
ささやかなことを発端として、戦が起こった。
圧倒的な数の兵により、いくつもの村が占領され、やがてその軍はこの丘の麓にまで至った。
そのとき、一人の少女がこの森に訪れ、「村を救って欲しい」と、”野の神”に祈ったのだ。
以前から、その少女に縁のあったキツネがいた。
また、多くのキツネが麓の村に思いを寄せていた。
誰も、何も迷うことなど無かった。
そして一匹のキツネが、その少女と共に村に下りたのだ。
麓の村には、先に攻め滅ぼされた村から、また、この村の後に攻められるであろう村々から若者達が集まってきていた。
それでも数は少なく、敵方の一割に満たない。
そこで、麓に下りたキツネは、その”力”を以て敵の兵を惑わせ、その隙をついた若者達が敵の将を捕らえて、見事に勝利を収めることが出来たのだよ。
そして、南方の軍は引き下がっていった。
占領下にあった村々も解放され、人々は勇敢な若者達と、一匹のキツネを称えた。
だが、それで終わりではなかったのだよ。
『敗北を認め、今までよりそちらに利益があるように交易をする』
そう言って、南方の者たちが使者をよこしてきた。
友好の印に、ささやかな宴を催してもてなしたい、と。
その言葉を信じて出向いていった村々の長達は、戻ることがなかった。
一夜明け、気が付いたときには、もう既にいくつかの村が蹂躙されていた。
人々は、長を亡くし、村同士の連絡も取れないまま、逃げることしかできなかった。
そして、南方の者は軍を進めると同時に、麓の森に火を放ったのだ。
そう、”キツネ”の存在を知った彼らは、私たちを恐れ、殺してしまおうと考えたのだよ。
森を焼く火を消すため、幾匹かのキツネが雨を呼ぼうとした。
だが、”力”を使おうとするその隙を突かれ、何者かに殺された。
私たちが”力”を使うことを理解できる者。
”力”を認識し、それに対抗できる者。
人の中にも僅かだが、”力”を持つ者がいることを、私たちはその時まで忘れていたのだ。
私たちに害をなすことなど無いと思っていたから。
私たちに害をなせるほどの人数が、いるとは思っていなかったから。
”術者”と呼ばれる彼らは、十数名で森に入り、キツネ達を次々と狩っていった。
私は、どうすることも出来なかった。
”長”をはじめとする”老”達は、その命を引き替えとして”術者”達を氷の柱に変えた。
また、多くの若いキツネ達は村に下り、温もりを求めた人を守るため、あるいはその身を盾とし、あるいは”力”を使い果たし、塵となって消えた。
その中で、私はどうすることもできず、生き残った者達を集め、森の奥、この”丘”へと逃げ延びたのだよ。
…誰の”力”か、真夏だというのに雪が降っていた。
やがて風が吹きはじめ、吹雪となり、すべてを真白に染めた。
そして雪がやんだ後、すっかり焼けてしまった麓の森と、蹂躙されてしまった村々を見下ろして、私は…温かな時間が終わりを告げたことを知ったのだ。
……あれから、三百年が過ぎた。
永い時の中で、人々の中から戦の記憶は薄れ、ただ一つの言い伝えが残った。
君も聞いたことはあるだろう、
”ものみの丘”には”妖狐”という物の怪が住み、その”妖狐”が現れた村は災禍に見舞われる、と。
”妖狐”は”災厄”の象徴なのだ、と。
もう、人を守ることの出来なかった私たちが、人の温もりを得ることは無いのだと……、そう思っていた……』
「………」
悲しかった。
”長”の思いが、悲しみが伝わってくる。
ただ、悲しかったんだ。
『生き残ったキツネの数は少なく、大半が100齢に満たない幼き者だった。その中で私は新しい”長”として皆を束ねることとなった』
すっと、視線が”イガスリ”の方を向く。
それにつられて私も振り返ったが、”イガスリ”は最初とまったく同じ格好で、座ったままだった。
『私は少なくなってしまった仲間を、どうにか増やしたいと願っていた』
再び話が続く。
『私たちには”寿命”という物が本来無い。その所為かもしれぬが、子を成す事が非常に少なかった』
今度は私たちの後ろ、草壁さんの方を見る。
『それでもいつかは、元に戻ると思っていた。しかし……』
そして、ぎゅっと目を瞑る。
先ほどの”悲しみ”とは違う、よく解らない感情が流れ込んでくる。
『時を経ても、私たちを恨み、害をなす者達がいた。あの戦いで死んだ、”術者”の末裔達だ。
彼らにしてみれは私たちは、家族…父や祖父を殺した憎むべき魔物だったのだろう。
徒党を組んではこの”丘”に出向き、”力”を持たぬ幼き者を殺していった。
むろん、私たちも抵抗した。
彼らがどのような”力”を持とうと、真に”力”のあるキツネの敵ではない。
だがそれは、さらなる憎しみを募らせるだけだった。
私たちは”人を殺す魔物”として人から遠ざけられ、また、人に近づくことを拒むようになった。
それでも……、そのようになっても……。
若きキツネ達は、人の温もりを求めてやまない。
幾匹のキツネが、人を求めて”丘”を去ったことか……。
人に殺された者、人を求めた者。
この”丘”に住むキツネの数は、確実に減ってきている。
私たちは、確実に”滅び”に向かっているのだよ』
そこまで話して、”長”はふぅと息を吐いた。
『…人の温もり。一度それを知ってしまえば忘れることは難しい。私たちは人の”温もり”を求めてしまうものなのだよ。ずっと人と共にあることを、望んでいたのだから。しかし、それはもう、叶うことのない願いなのだよ』
そして今までより、一層悲しげな瞳で私を見つめる。
『人の温もりを求めること、今の私たちにとっては、それは”罪”なのだよ』
「どうして…」
思わずそんな言葉が出てしまう。
解ってはいるのに、気持ちが納得してくれない。
『君の思い…。それこそが私たちが求めて止むことの無かった”温もり”なのだろう。私たちには”力”がある、望めば夏に雪を降らすことすら造作もない。それでも、どうすることも出来ないこともあるのだ。祈りにより奇跡を起こせたとしても、変えることの出来ない現実が、あったのだよ』
……本当に、どうすることも出来ないのだろうか?
私はキツネ達を嫌ってなんかいない。
町に住む多くの人は、キツネ達を憎んではいないと思う。
『そうかもしれぬ……。そう、確かに、キツネ達の祈りとは別に、希望はあったのかもしれない』
私の心を読んだのだろう、”長”が応えた。
そして先ほどと同じように、後ろにいる草壁さんの方に視線を向ける。
『アスハ……』
囁くような”意思”に、草壁さんが応える。
「後悔…していらっしゃるのですか?」
『いや……』
”長”はそこで一旦言葉を止めた。
『多くのキツネが、人を求めて”丘”を去った。幼くして”丘”を出た者が、再び帰ってくることはまずあり得ない。……それを承知で、この”小雪”を君に預けたいと思う』
”長”の瞳が、真っ直ぐに私を見据えた。
「どうして……」
『私はずっと……”丘”を去った者達の行動を非難してきた。ずっと、それは”罪”だと唱え続けてきた。
人は、私たち”丘”のキツネを忌み嫌っている。”物見の丘”に住む妖狐は、人に災いをもたらす、と。
だが、人に災禍をもたらす者は、所詮、人なのだよ。
そして人は、我々にまで災厄をもたらしたのだと。もう私たちは、人と共にあり続けられない、あろうとするべきではないと。
ずっと、そう言い続けてきた。それでも……私は……』
”長”はただ、じっと私を見つめていた。
『私は、唯一つの”奇跡”を、祈り続けていたのだよ』
「”長”……」
草壁さんが、小さく呟くように声をかける。
『多くのキツネを失った。それでも……それでも、もう一度、試してみたいのだよ』
ちらりと小雪を見てから、言葉を続ける。
『この子が、最後の希望になるのかも知れない。だからこそ……。”天野美汐”…君に”小雪”を託したい』
「どうして…?」
『”小雪”がそれを望んだからだよ。そして……』
”長”は微かに笑って言った。
『君は…似ているのだよ、私が”温もり”を求めた人々に…』
”長”はゆっくりと立ち上がりながら、草壁さんに言葉をかける。
『アスハ……、お前には感謝しているのだよ。まだ”希望”が残されているのだと、皆に示してくれたのは、他ならぬお前だから』
……”アスハ”とは、草壁さんの事のなのだろうか?
「私は…何もしておりません、すべて、あの人のおかげです。私を受け入れてくれた…私を守ってくれたあの人の……」
『お前には、”丘”の者達の望みが託されてる』
「はい」
『そして……』
”長”が再び私を見つめる。
『……後は任せた』
そう言い残すと、とんっと軽く地面を蹴って……、
「……あ…」
そのまま、空中で消えてしまった。
「草壁さん」
「はい」
声をかけたものの何を訊けば良いのか解らない。
なぜか薄明るい洞窟を、静かに歩いていく。
「………、天野さん」
「はい」
「私は……人間ではありません」
「……え?」
一瞬、言われた言葉の意味が解らなかった。
「私も、”キツネ”なんですよ」
軽く振り向いて微笑む。
「………」
「信じられませんか?」
そう言いながら、くすっと笑う。
私は、軽く唾を飲み下して応える。
「本当に…ですか」
「…はい」
突然、辺りが光に覆われる。
私は眩しさのあまり目を閉じた。
「天野さん」
「…はい」
ゆっくりと目を開けると、……そこは”丘”の真ん中だった。
そして、目の前に一匹にキツネが居た。
「…まさ…か……」
「これが”妖狐”と呼ばれし者です」
目の前のキツネが、草壁さんの声で喋る。
「ふふっ、その気になれば、この姿でもちゃんと言葉を喋ることが出来るんですよ」
「本当に……」
「はい」
これが、キツネの”力”。
”思い”により自然を操る”力”、”祈る”ことで奇跡を起こす”力”。
「私は今から、あなたの記憶を消さなくてはいけません」
「え?」
「”洞”に入った人の記憶は、すべて封じてしまう決まりなんです」
「じゃあ……」
「思い出すことは、出来なくなってしまいます。でも…それでも憶えていて下さい、あなたが、あなた達が”希望”であることを」
……雪が、降っていた。
夏だというのに、真っ白なかけらが、空から降りてきていた……。
「あなたに会ってみたいと言った”長”の気持ちが、今、よく解ります」
ちらちらと舞い降りる、真っ白な雪の結晶達。
「あなただからこそ……」
空気が、ひんやりと冷たくなる。
「……ん…っ」
目の前が…白く霞んできた……。
「最後の”希望”を……」
頭が重い……。
「あ……」
意識が……。
「どうか……」
雪の…中に…。
「………」
……………
………
私は静かに天井を見上げていた。
「………」
時計に目をやる。もう起きても良い時間だ。
私は素早く起きあがると、すぐに出かけられるように着替えをする。
「ご飯は?」
「すぐに戻ります」
お母さんに背中で返事をして、玄関を出る。
いつの間にか、駆けだしていた。
急ぐ必要など無い、急いだところで何も変わりはしないだろう。
でも、足は自然と速くなった。
「…はぁはぁ……」
荒い息を吐いて、その場所に立ち止まる。
荒川君と来た、”丘”への登り口。そう、草壁さんと再会したその場所。
「……”アスハ”さん」
「…はい」
がさりと葉擦れの音を立てながら、一人の女の人が姿を見せる。
「思い…出しました」
「はい」
ゆっくりとした足取りで、”アスハ”さんは私の前に立つ。
「訊きたいことがあります」
「はい」
「こゆきちゃんは、”小雪”…ですね」
「…はい」
とくんっと、胸の音が聞こえた。
「あの子は、あなたを助けるために、キツネの”力”を以て、人の姿に変わったのです」
「私の、ために……?」
「あの子はあなたと居ることを望んだのですよ。その”思い”が、あなたを助けることの出来る姿を生んだのです」
「……はい」
「この出会いを大切にしてあげて下さい。今のあの子の姿は”思い”の力が起こした、最後の”奇跡”なのですから」
「はい」
もう一度にっこりと微笑んで、草壁さんは私に背を向けた。
”思い”の力が起こした”奇跡”。
それは、なんて素晴らしいことなんだろうか。
”祈る”事で”奇跡”を起こす”力”。
それを今、私は目の当たりにしている。
そう、まるでおとぎ話のような、不思議な出来事が、私たちを包み込んでいる。
「小雪ちゃん」
「…うん?」
「ずっと、一緒にいましょうね」
「うん。…みしお、ずっと、ずっといっしょに……」
……つづく。 |