『”ものみの丘”に吹くそよ風』

第十六話


 ピンポーーン。
静かな部屋に、大きくチャイムの音が響く。
「はい」
 聞こえないとは思いつつも、小さく返事をして玄関に向かった。

「おはよう、美汐」
「おはようございます。お買い物ありがとうございました」
「どういたしまして」
 どさりと荷物をおき、靴を脱ぎながら智子が応えた。
その荷物をひとつ取って、中を覗きながら台所へと向かう。
「あとで、レシートを出しておいて下さい」
「ん」
 私の後に続いて智子も台所の入る。
智子にとっては、もうすっかりお馴染みの場所だった。
「さーって、いきますか」
 にやりと笑って、お気に入りのエプロンを取り出す。
私もそれに習うように、棚から自分のエプロンを取り出し、身につけた。
「取りあえずジャガイモから」
「はい」

 こうやって智子と一緒に料理するのは、久しぶりだろうか。
去年の今頃は、月に一度くらいはお料理教室の様なことをしていたのに……。
このところ、ずっと忙しかったのだと、今更に気が付く。
「息抜きも、必要ですね」
「……ん? そうだね…」
 私の独り言に、智子が何となく応えた。


 ちらりと時計に目をやると、もう11時を回りつつある。
こゆきちゃんはまだ寝ているのだろうか?
「智子」
「ん?」
「こゆきちゃんを見てきます」
「はいはい」
 火に掛けた鍋を智子に任せて、私はこゆきちゃんの寝ている部屋に向かった。

 とんとん……。
軽くふすまをノックしてみる。
「………」
 返事はない、まだ寝ているのだろうか?
「こゆきちゃん……?」
 私は声を掛けながら、そっとふすまを開く。

 祖母が居なくなってから、ずっと使われていなかった部屋。
この家で一番暖かく、静かな場所。
柔らかな光が射し込む広い和室の真ん中に、ぽんと布団だけが広がっている、そんな情景。
「………」
 奇妙な、懐かしさを感じた。

 私はそっと布団の側に膝をつく。
端から、少し色の薄い、柔らかそうな髪が覗いていた。
「こゆきちゃん、もうそろそろ起きて下さい」
 声を掛けながら、布団越しに手を置いて軽く揺さぶる。
「………にゅ…」
 小さく返事…らしき物は返ってきたが、起きる気配はまったく無い。
「こゆきちゃん」
 もう一度、ゆさゆさと揺らしてみる。
「…ふ…にゅぅ〜?」
「もうお昼になりますよ、お腹は空きませんか?」
 ごそりと布団が動き、頭だけが姿を見せた。
「ほら、髪の毛がぼさぼさになってます。ちゃんと起きて下さい」
「ん……、みしお…?」
「はい。おはようございます」
「おはよう…ございます」
 私はこゆきちゃんの髪の毛を撫でながら、ゆっくりと布団をめくった。
それに合わせるようにこゆきちゃんも起きあがり、ぐっとのびをする。
「にゅ〜〜う……」
 その姿を横目で見ながら、昨日用意しておいた服を差し出す。
「私のものですから、ちょっと大きいかもしれませんが、今日はこれで我慢して下さい」
「…うん」
 まだ少しぼんやりしているようだったが、目は覚めている。
私は軽く頭を撫でてやりながら、
「今日、みんなと一緒に服を買いに行きましょうね」
 と言って立ち上がった。
「着替えたら、まずは洗面所で顔を洗ってきてください。場所は分かりますね」
「うん」

 台所に戻ると、智子が楽しそうに訊いてきた。
「起きてた?」
「まだ寝てました」
 私も苦笑混じりに答える。
「ふふっ、疲れてたのかもね」
「そう…なのかもしれません」
 記憶を失って、知らない場所で生活し始めたのだから、精神的にかなり疲労しているのかもしれない。
口元に手をあて、軽く俯いた私に智子が続ける。
「たぶん、ここに来てやっと気が落ち着いたんだよ」
「そうだと良いのですが」
「大丈夫だって」
 根拠はないと思う、でも、
「はい」
 素直にうなずいておいた。

 かちゃっと音がして、背後のドアが開く。
「こゆきちゃん? おはよう」
 智子が首だけで振り返り、朝の挨拶をする。
「ん…おはようございます」
 こんな風景も少しだけ見慣れてきた。
「それほど大きくなかったみたいですね」
 こゆきちゃんの着ている服は、袖が少し長いようにも見えるが、気になるほどでもないだろう。
「う…ん、でも、ちょっと胸がきつい…」
「………」
「………」
 智子が、何とも言えない複雑な表情で、こちらを見ていた。
「今日だけ、我慢して下さい」
 一瞬、お母さんの服を借りようかとも思ったが、それだと流石に大きすぎる。
「もうすぐお昼ご飯です、朝ご飯を食べてないから、お腹がすいてますでしょう?」
「うん」
「あとちょっと、待っててね」
 智子が軽く菜箸を振りながら言う。
「こゆきちゃん、お皿を並べていただけますか?」
「うん」
「では……」
「こっちはもう良いよ」
 こゆきちゃんに指示を出そうとする私に、智子がそう言ってくれる。
「はい」
 あとは任せて置いても良いだろう。
「では、一緒に並べましょう」
「うんっ」
 ピンポーーン。
丁度そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
「おや、少し早いね」
 智子の声を後ろに聞きつつ、私は台所を出る。
「こゆきちゃん。玄関を見てきます、しばらく待っていて下さい」
「うん」

 こゆきちゃんは、本当に素直で良い子だと思う。
初めて会ったときとは違い、にこやかに、よく笑う。
顔立ちも綺麗で、柔らかく広がる髪の毛とあいまって、まるでお人形さんの様に可愛いらしい。
そして何より、側にいるだけで優しい気持ちにさせる何かを持っている。
 玄関まで行って振り返ると、私に言われたとおり、台所の入り口に立ったままこちらを見ていた。

「おっはよ〜〜。朝香ちゃん登場っ」
 家中に、朝香の大きな声が響く。
「おはよう…ございます」
「ん、おはよ」
 こゆきちゃんと智子の返事を聞きながら、朝香が続ける。
「何か手伝うこと無い?」
「無い」
「………」
 むげもなく言い放つ智子に、一瞬固まる朝香。
「朝香。こゆきちゃんと一緒にお皿を並べて下さい。順番に盛りつけていきます」
「あ、うん」
 そして、カチャカチャと音たてて並べられていく食器に、私が料理を盛りつけていく。
料理の方も手順良く出来上がり、12時前にはずらりとテーブルの上に並んでいた。

「ところで、志郎と拓臣は?」
「へ?」
「……そう言えば、一緒には来なかったのですね」
「あれ? 呼んでたの?」
「呼んでないのですか?」
「………」
「………」
「志郎は知ってるんじゃない? 昨日聞いてたから」
「野崎君は?」
 私と智子が同時に朝香を見る。
「なんで拓臣ちゃんが出てくるの?」
「……なんで…でしょうね」
 智子が少し呆れたように言った、それに私が続く。
「いつも一緒だったでしょう?」
「でも、拓臣ちゃんはこゆきちゃんの知り合いじゃないもん」
「だから、紹介するんじゃないの?」
「どうして?」
「……どうして…でしょうね」
 智子も、今度はかなり呆れたように呟いた。
 ピンポーン。
タイミング良くチャイムが響く。
「あ、来たね」
「はい」
 智子の言葉に応えながら玄関に向かう。

「はい」
 返事をしなが、かちゃりとドアを開ける。
そこには予想通りの姿があった。
「おはようございます。荒川君」
「もう”こんにちは”じゃないのか?」
「そうかもしれません」
 軽く笑いながら、ドアを大きく開ける。
「どうぞ」
「あぁ」
 そういえば……、
「野崎君は一緒じゃなかったのですか?」
「拓臣? 来てないのか?」
「はい。朝香は誘わなかったそうです」
「……おばさんは、朝から出かけたって言ってたから、てっきり来てると思ったんだが」
 そこで一息置いて、
「運の無い奴」
 と笑って呟いた。

「ってなわけで、今回も不幸な誰かさんを除いて……、こゆきちゃん退院おめでとうパーティーっ!!」
 智子の開会の言葉に、朝香と荒川君が「わあぁぁぁっ」と歓声を上げて拍手をする。
「取りあえずおめでとう」
 智子はそう言いながら、こゆきちゃんのグラスにオレンジジュースを注ぎ込む。
「ありがとう…」
 こゆきちゃんは戸惑いながらお礼の言葉を述べる。
「ご馳走はいっぱいあるから、思いっきり食べてね」
「……うん」
 テーブルには本当にたくさんの料理が並んでいる。
「多すぎるくらいですね」
「まぁね、志郎と拓臣が全体の半分を食べる予定だったから」
「そう計算するか。もし俺も来なかったらどうするつもりだったんだ?」
「もちろん呼び出す」
「俺の予定とかは?」
「無いでしょ?」
「無い…けどね」
 苦笑しながら鶏の唐揚げを箸で摘む荒川君は、台詞とは裏腹に嬉しそうだった。
隣りを見れば、こゆきちゃんのお皿に、朝香がいろんな料理を取って上げている。
「食べる分ずつ取って上げればいいですよ」
「あ、うん、そうだね」
 あはは、と笑いながら小指で鼻の頭を掻く。
「はい。こゆきちゃん」
 お皿は既に山盛りだった。
「ふにゃ、ありがとう」
「どういたしましてっ」
 私はその光景を眺めながら、くすくすと笑っていた。
そう、私はこんな時間が好きだった。
 ずっと……。


「ただいま帰りました」
 食卓の戸が開き、お母さんが顔を覗かせる。
「あ、おじゃましてます」
 智子を筆頭にみんなが一斉に挨拶をする。
「もう、そんな時間ですか?」
 お母さんに話しかけながら時計を見る。既に1時を軽くまわっていた。
改めて、テーブルとみんなを見渡す。
「そろそろ、いいでしょうか?」
「うん、そうだね。じゃあ片付け始めるか」
 智子がかたんと席を立つ。
「残った料理は…」
「あ、置いておいて下さい。夕食のおかずにします」
 お母さんが台所に入りながら言う。
「片付けはやっておきますから、みなさん出かけて下さって結構ですよ」
「それは…、いくら何でも悪いです」
 声を上げた智子に優しく応える。
「良いのですよ。その代わり、こゆきちゃんの買い物に付き合ってあげて下さい」
 智子達が初めからそのつもりだったことを、知っていながらの言葉だろう。
「……はい、わかりました。ではお願いいたします」
 でも智子は、それ以上言わずに、素直に任せることにしたらしい。
「じゃあ、出かけるとしますか。準備は?」
「お財布だけあればいいです」
 みんな既に席を立っていた。
「お母さん。あとをお願いいたします」
「はい」
「では、行きましょうか」
「うん」
 こゆきちゃんの返事を合図にするように、みんなそろって玄関に向かった。


「志郎。まだ持てる?」
「……そろそろ、ピンチかな」
 両手に荷物をかかえた荒川君が、少し間をおいて応える。
「美汐。あと何が残ってるの?」
 私は持っていたメモ帳を見て確認する。
既にほとんどの物にチェックが入っている、残っているのは……。
ちらりと荒川君を見る。
「……あとは、下着の類です」
 荒川君がぴたりと止まる。
「俺は…ここで待っていても良いか?」
「はい。その方が良いです」
 軽く辺りを見る。下りのエスカレーターの側にあるベンチが目に付いた。
「では…」
「あぁ」
 荒川君も同じ所を見ていた。
荷物をかかえ直すと、
「じゃあ、あとで声かけてくれ」
 と言い残し、ベンチに向かって歩いていく。
私たちは逆方向にある登りのエスカレーターへ向かった。

「はい、これくらいでしたら、少し大きめになりますが、65のCにしておいた方がよろしいかと思います」
「……ふに」
 店員さんの言葉に、こゆきちゃんが何となく、と言う風に頷く。
「………美汐」
 智子がこゆきちゃんの方を見ながら訊いてきた。
「はい」
「サイズいくつ?」
「65のAかBです。智子は?」
「70のC」
「………」
 振り返ると、朝香はカーテンの外に出てしまっていた。
「逃げたね」
「……はい」

「な〜ぜ逃げるのかな?」
 レジを済ませて戻ると、智子が朝香をからかっていた。
「別に逃げてなんか無いっ。みんなが試着室に入ってたら狭いもん」
「ほほ〜ぅ、で、朝香のサイズはいくつ?」
「…う」
「一応付けてはいるんだよね」
「つ…付けてるよ」
「で、いくつ?」
「うぅ」
「智子。あまりいじめないで下さい」
「あははは、いや、だってね」
 何故か智子は凄く嬉しそうだった。
「良いじゃない、美汐だって負けたんだし」
「勝ち負けという問題では無いと思います」
「あぁ、そうだね。きっと大丈夫だよ」
「なにが?」
 朝香の問いに、にやりと笑って答える。
「拓臣はロリコンだから」
「………」

 朝香の走り去った方を見ながら、ぽりぽりと頭を掻いて智子が呟いた。
「……久しぶりに派手に怒せたね」
「あれは、流石に怒ります」
「ちょっと行って来る。志郎の所で待ってて」
「どこに行ったのか、分かるのですか?」
「パターンからすると、恐らくトイレ」
 応えながら、既に朝香の消えた方向に駆けだしていた。
「………では、先に戻りましょうか」
「うん」

 振り向いた先に、その人はいた。

「こんにちは、天野さん」

  ……つづく。


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