『”ものみの丘”に吹くそよ風』
第十五話
コンコン……。
「はい」
私の返事を聞いてから、かちゃりとドアが開く。
「……あれ? 天野?」
荒川君は意外そうな声を上げた。
「おはようございます。どうかしましたか?」
「あぁ、おはよう。いや、高瀬達はまだ来てないのか?」
「はい。勉強は昼からと言う約束になっています」
「はぁ、なんだ、そうか……」
荒川君は、そう小さく漏らすと、ちょうど10時を指した掛け時計に目をやった。
「で、それじゃあ天野は何をしに来ているんだ、朝っぱらから」
奥のテーブルに、恐らく勉強道具が入っているのだろう、学生鞄を置いて、椅子を引き寄せながら問いかけてくる。
「今日は用事があったんです」
ちょうど、私の言葉を待っていたように、ドアがノックされて、お医者様と看護婦さん、それと、私のお母さんが姿を見せた。
「おはようございます、天野さん。その後、お加減はいかがですか?」
お医者様は私に軽く言葉を掛けながら、こゆきちゃんのベットの前に進む。
「はい。おかげさまで元気にしております。背中の痛みも、もうほとんど無くなりました」
「それはよかったです」
にこやかに微笑むと、こゆきちゃんの前に腰掛けた。
「どうです? まだどこか痛みますか?」
「ううん、痛くないです……」
目線の高さを合わせ、優しげに問いかけるお医者様に、こゆきちゃんが答える。
いくつかの質問が繰り返され、最後に背中を看る。
ばさりと上着を脱いだこゆきちゃんの背中を、軽く撫でたり押さえたりしながら、更に質問を重ねる。
こゆきちゃんの答えは「ううん」とか「痛くない」とかばかりで、痛みはもう引いているのだと解った。
もしかすると、私よりも治りが早いのかもしれない。
こゆきちゃんの背中には傷跡ひとつなく、透き通るような白さが目を引いた。
服を着直すこゆきちゃんに背を向け、お医者様はお母さんに声を掛ける。
「思っていたよりも、かなり早い回復です。条件が付きますが、退院しても良いでしょう」
「はい。ありがとうございます」
「ありがとうございます」
その言葉に、お母さんと私はそろって頭を下げた。
診察が終わると、引き続き警察の方とも話があるのだと言って、お母さん達は部屋を出ていった。
「よかったですね、こゆきちゃん」
「うんっ」
私は軽く抱き寄せながら頭を撫でる。
これで、こゆきちゃんが私の家にくるという話は、ほぼ決まりになった。
「今日は、退院のお祝いですね」
更に撫でながら、そう言う。
部屋の端の方で赤くなっている、荒川君には、そのとき気が付いた。
「べつに、見ようとしていた訳じゃなくて、ただ、一番奥にいたから、出るに出られなくて……」
わたわたと、奇妙な身振りを加えながら弁解する荒川君を、当のこゆきちゃんはまったく気にしていなかった。
私の胸元で、ごろごろと喉を鳴らしている。
「もう良いです。こゆきちゃんは気にしていない様ですから」
「…あぁ、…それに、ちゃんと下を向いていたから……」
「解りました、智子には言いません」
「ちょ…、だから見てないんだって…」
「では、そう伝えましょうか?」
「……いや、それはやめてくれ」
「はい」
「ふにゃぁ?」
くすっと笑いながら答える私に、こゆきちゃんが顔を上げる。
「気にしなくて良いです」
そう言いながら、もう一度頭を撫でた。
「うん」
「こんにちは……」
「はい。こんにちは、朝香」
いつも通りの挨拶を交わした朝香は、しかし、ドアを開けた状態で立ち止まる。
「あれ? 志郎君。どうして居るの?」
「勉強をしに来たんだよ、まじめにね」
そう言いながら、私のお弁当箱から卵焼きを箸で摘んでいる。
「あ……」
「あ、ごめん、食べる?」
声を上げたこゆきちゃんに、とっさに謝りながら卵焼きを戻す。
「ううん。食べてもいい」
「あぁ、ありがとう」
「……お勉強?」
その光景を、半ば呆然と見ながら朝香が呟いた。
「どうぞ、朝香。中に入ってください」
「あ、ごめん」
ドアを開け放したままだったことに気が付いたのか、慌てて入ると勢い良く閉める。
「なぁ天野。この弁当、やけに人参にこだわってないか?」
「気のせいです」
そう答えつつ、小さく切った人参の入ったポテトサラダと口にする。
ちなみに、先ほどの卵焼きにも人参が入っていた。
「……そうか?」
荒川君は、何とも言えないような表情をしながら、甘く煮込んだ人参を一切れ食べる。
「お弁当食べてたんだ。…てことは、朝から来てたの?」
「はい」
テーブルの上に鞄を置きながら問いかける朝香は、なぜか少し距離を取っているように見える。
「朝香はもう食べてきましたか?」
「うん、そういう約束だったから」
「………」
なにか、引っかかりを感じた。
「私は今日は、朝からお医者様に用事があって来ていたんです。荒川君は、待ち合わせ時間を聞いていなかったので、朝の内から来ていただけです」
「ふーん」
「あぁ、そうだな、俺は誘われてなかったし、邪魔だったか?」
「ううん、そうじゃないの。……智ちゃんの言った通り、かな」
「何です?」
「…なんでもない」
曖昧に答えながら、鞄を開けて勉強道具を取り出し始める朝香。
私はそれ以上何も言わなかった。
荒川君も少し怪訝な顔をしたけれど、黙ったまま、手にしていた菓子パンの包みをくしゃりと潰した。
「あれ? 志郎。来てたんだ」
相変わらずノックと同時に戸を開けながら、智子が入ってきた。
開口一番は、まさに予想通りの言葉。
「あぁ」
「ふーん」
荒川君の返事に、微かに、意味ありげな笑みを浮かべながら、奥のテーブルに向かう。
私は自分のお弁当箱を包んで、鞄に入れながらいつもの挨拶をする。
「こんにちは、智子」
「…ん。こゆきちゃんもこんにちは」
それに目線で応えて、こゆきちゃんに言葉を掛ける。
「……こんにちは」
こゆきちゃんは、最後のサラダを飲み下してから応える。
そして、そろえて箸を置き、ぽんっと手を合わせると、
「ふに」
と言った。
「ふふ…、なにそれ」
「こゆきちゃん。ごちそうさまでした、です」
「…に? ごちそうさまでした……」
みんな、くすくすと笑いながら、こゆきちゃんを見ていた。
私は素早くトレイを片付けると、簡易テーブルをたたむ。
「あれ、そこで勉強するんじゃないの?」
「はい。今日はみんなに大事な話があります」
そう言ってみんなを見渡す。
もっとも、まだ知らないのは智子と朝香だけ、しかも昨日の話から、もう想像は付いているだろうけど。
「実は…」
「……みゆちゃんが、志郎君と付き合うことになった、とか?」
「………え?」
「………は?」
朝香の突然の発言に、私と荒川君が同時に声を出す。
「ちょっと、朝香」
隣から智子が突っつく。
「ちがうの?」
「…違います」
「あ、そうなんだ」
「………」
「………」
窓の外を、ごうっと風が吹き抜ける。
妙な沈黙が、部屋を包んでいた。
荒川君がちらっと智子を見る、智子は苦笑いを浮かべつつ視線を逸らした。
「そういうことか」
「その…ようですね」
「なに?」
朝香は意味が解らないと質問する。
「勘違いだよ。高瀬のね」
「はい。勘違いです」
「…はは、ちょっとね」
荒川君と私にそう言われて、智子は頭を掻きながら笑った。
「そうだと思ったんだけどなぁ」
「残念ながら、大外れだ」
なるほど、昨日からの荒川君の行動は、そう取られてもおかしくない。
野崎君のこともあって、智子もそうだと思ったのだろう。
荒川君は、私にだけ見えるように、自嘲気味に笑った。
「それじゃあ、大事な話って何?」
「はい。これから話します」
すっかり話の腰を折られてしまったけど。
「実は、こゆきちゃんが今日で退院して、私の家で暮らすことになりました」
「へぇ」
「わぁ、おめでとう」
軽い驚きの声を上げる智子と、素直に喜んでくれる朝香。
「案外早かったね」
「はい。正式にはまだ決まっていないのですが、今、お母さんが警察の方とお話ししています。恐らく、問題はないでしょう」
「じゃあ、今日は退院祝いだね」
待ってましたと言わんばかりに、朝香が声を上げる。
「おまえら、毎日お祝いやってないか?」
「良いじゃない、べつに。みんな嬉しいことなんだから」
智子も嬉しそうに笑って言った。
「まぁ、そうかもしれないけど…」
「でも、さすがに今日は何も用意してないよ。昼ご飯も食べてきたしね」
「じゃあ、明日ね。場所はみゆちゃんの家?」
こうなると、放って置いても話は勝手に進んでいく。
結局、明日は昼食に合わせてパーティー。午後からこゆきちゃんのための買い物に出かけることになった。
その様子を、黙ってみていた荒川君が不意に言葉を挟む。
「ところで、一緒に暮らすことになったって言うことは、結局、身元は解らないままなのか?」
「はい。今朝聞いた話では、市内のすべての小・中学校を当たってみたそうですが、該当者はいなかったそうです」
「そう言えば、こゆきちゃんって小学生なの?」
ふと、朝香が疑問を口にする。
「……いえ。それは解りません。だから中学校も含めて調べてくださったんです」
「小学生じゃないの? 見た感じからして」
智子の言葉に、みんなの視線がこゆきちゃんに集まる。
「……案外、中学生じゃないのか?」
「………って、志郎。今、どこを見ながら言った?」
「いや、どこって……」
慌てる志郎君を見て、どこを見て判断したかが解った。
「そう言えば……」
口元に手をあてて小さく呟いた朝香が、にやりと笑う。
そのまま静かにベットの向こう側に回り込むと、こゆきちゃんを後ろからがばっと取り押さえる。
「ふにゃぁ!?」
「ふっふっふ、逃がさないからね」
楽しそうに言いながら、こゆきちゃんの胸をまさぐる、と……、
「うっ……」
そのままの体勢で動かなくなってしまった。
「朝香?」
「………」
黙ったまま、手だけをわきわきと動かす。
「ふにぃ…」
「………」
呆然としたように手を離し、ベットから降りる朝香に、智子が言った。
「負けたね」
「………ちょっとだけね」
「ふふっ、どれどれ」
小さく笑った智子が、嬉しそうにこゆきちゃんの背後に回る。
「えい」
「にゃああ」
背中を丸めて逃れようとするこゆきちゃんを、しっかりと抱え込む。
「おぉ? ほんとに大きい。これは…美汐もやばいんじゃないの?」
両手で胸を触りながら、智子がこちらをのぞき見た。
「嫌がってます」
「大丈夫」
何が大丈夫なのかは解らないけど、智子はやめるつもりが無いらしい。
「ふふふ、久しぶりに揉みごたえのある胸だわ、これは」
「う〜…」
部屋の隅の方で、朝香が小さくうめいた。
「朝香、これでちょっと負けてるだけ?」
「……ちょっと…だけ」
「うーん、しっかし、顔つきに比べて、体つきはしっかりしてるんだね」
その言葉に、ふと先ほど見たこゆきちゃんの背中を思い出す。
真っ白な肌に、すらりとした背筋。
後ろから見た限り、全体的に細めの体型だったように思えたが、脇からウェスト、そして腰骨に向かうラインは、確かに年頃の女の子のそれだった。
いつも大きめの服を着ていたので解らなかったが、改めて見てみると、胸も結構大きい。
「………」
服の上からでは、体つきはよく解らなかった……。
ちらりと、荒川君を見る。
「やっぱり……」
「…っ、ち、ちがうって」
目線だけで、私が何を考えていたのか解ったのだろうか?
「まだ、なにも言っていません」
「あ」
「なに? なんの話?」
慌てる荒川君に気付いて、智子が質問してくる。
「実は……」
「わぁあ!?」
「秘密だそうです」
「…って」
思わず立ち上がった荒川君が、そのまま固まる。
「秘密?」
横目で荒川君を見ながら、智子が言った。
「はい」
「………凄い慌てようね、志郎」
「………」
「後でね」
「……あぁ」
「それより、智子。そろそろ放して上げてください」
「あ、ごめん」
言われた智子がぱっと手を離すと、こゆきちゃんはそのまま前のめりにベットへ突っ伏した。
「大丈夫ですか?」
「……にぃ…」
支え起こしてみると、耳まで真っ赤になっていた。
「智子、やりすぎです」
「ごめん」
素直に謝ると、ぽんっとこゆきちゃんの頭に手を置いた。
「ふにゅぅ」
私はそのままこゆきちゃんを抱き寄せて、優しく撫でてあげる。
胸の先が、服の上からでも解るくらいぴんっと立っていた。
こんこん。
静かになった部屋に、ノックの音が響く。
「ただいま」
ドアを開けたお母さんは、なぜかそう言いながら入ってきた。
みんなが順番に挨拶をする。
それに笑顔で応えながら、こゆきちゃんと私の前までくる。
「警察の方の了解も頂きました。毎日通院するという条件で、退院しても良いそうです」
「わぁ」
「おめでとう」
朝香と智子が声を上げる。
こゆきちゃんは、ただ嬉しそうに、
「ふにぃ」
と笑っていた。
荒川君に部屋から出てもらって、こゆきちゃんは着替えを始めた。
ベットの脇に納められていた、ブラウスとスカートを取り出して手渡す。
「ブラジャーは使ってないんだね」
「……そうみたいです」
上半身裸になったこゆきちゃんを見ながら、智子とそんなことを話す。
改めて見ると、やっぱりこゆきちゃんは綺麗…だと思う、本当に。
その後、私たちは黙ったままで、こゆきちゃんの着替えをじっと見ていた。
かちゃりとドアを開けると、そこには誰もいなかった。
「あれ? いないの?」
「はい」
「先に帰ったのかもね、志郎のことだから」
遠慮…したのだろうか? そうかもしれない。
お母さんは買い物をして帰ると言っていた。
私たちはこのまま、こゆきちゃんと一緒に家へ向かう。
「では、行きましょうか」
「うん」
担当してくださったお医者様と看護婦さんにお礼を言って、みんなでそろって病院を出る。
外は昨日に引き続いての快晴。今の時期、この町では珍しいことだった。
「幸先が良いね」
智子が言った。
それでも風は強く、冷たかったが、今は気にもならない。
家までの道のりを、こゆきちゃんの手を取って、ゆっくりと歩いていった。
鍵を開けて家に入る。
「おじゃまします」
「おじゃましま〜す」
「……おじゃま…します」
順に声を上げながら入る二人に習い、こゆきちゃんも挨拶をする。
「はい。どうぞお上がりください」
そして私は、軽く苦笑しながら続けた。
「でも、こゆきちゃんは、明日からは『ただいま』と言ってくださいね」
「……うんっ」
……つづく。 |