『”ものみの丘”に吹くそよ風』
第十四話
「お久しぶりですね、天野さん」
「はい。お久しぶりです」
緩やかに、記憶が戻りはじめる。
そうこの人とは、小雪を拾った頃に一度、会ったことがある。
「あの子…小雪は元気にしておりますか?」
「あ……」
それは当然の質問だった。
あの時、草壁さんは私に、『この子を預けたい』と言った。
小雪のお母さんと知り合いだった草壁さんが、他人に預けた小雪の事を心配しない筈は無い……。
しかし……。
「………」
「どうかなさいましたか? あの子に何か?」
答えられないでいる私に、草壁さんが重ねて質問する。
「あの…、小雪は、一昨日から帰ってこないんです」
「帰ってこない?」
「はい。今までにそんな事は無かったのですが……」
「………」
「ですから、今日これから、小雪を探しに”ものみの丘”に行こうと思っていたところです。多分、”丘”にいる、そんな気がして……」
「………」
「…草壁さん?」
黙ったまま軽く俯いていた草壁さんが、不意に顔を上げる。
「あの子は、”丘”には戻っていません」
「え?」
「私は今、”丘”から降りてきたところです。あの”丘”に小雪はいませんでした」
「………」
一言に”ものみの丘”と言っても広い。
草壁さんが会わなかっただけで、何処かに小雪がいる可能性は十分ある、でも……。
草壁さんの瞳を、真っ直ぐ見つめ返す。
綺麗な澄んだ瞳、ずっと見つめていると、まるで吸い込まれていきそうな感覚さえする。
ふっと、草壁さんが目を伏せた……。
そして再び私を見つめ返す。
「……?!」
なにか…、さっきとは違う、明確な違和感。
「天野さん。最近少し変わった女の子と出会いませんでしたか?」
「え?」
「……いえ。何でもありません」
草壁さんはそのまま私に近付き、そっと、額に触れた。
「………」
冷たい……。
冷たくて、
白い、そう真っ白な……、
………
…………
『…人の温もり』
『願い』
『それは”罪”なのだよ』
(どうして…)
『…祈り』
『希望』
『後悔…』
(どうして)
『ずっと……』
『……に災禍をもたらす者は…所詮………』
『我々に…災厄を………』
『それでも……』
『奇跡を…』
『それでも、もう一度』
どうして…?
『……ているのだよ、私が……を求めた……に…』
…………
………
「天野?」
「………え?」
突然掛けられた荒川君の声で、不意に我に返る。
「あ……」
草壁さんは、私のすぐ前に立っていた。
「……覚えて、いるのですね」
『なにを?』そう問う前に、
「はい」
私は、返事をしていた。
「あの子は、小雪はまだ”丘”には戻っていません。多分、あなたの側にいるのでしょう」
そう言った草壁さんは、少し悲しげに見えた。
それはいつか見たことのある表情。
「私は暫く”丘”の方に滞在しておりますので、もし小雪が”丘”に来ましたらちゃんとお知らせいたしします」
「……はい。ありがとうございます」
「ではまた、近い内にお会いしましょう」
そう言いながら草壁さんは、後ろに下がって望美ちゃんの手をとった。
「はい。また……」
「”丘”に家なんかあるのか?」
草壁さんが立ち去って暫くしてから、不意に荒川君がそんな事を言った。
「……あるのでは…ないですか?」
見かけたことは無いけれども。
そもそも、草壁さんはあの”丘”キツネ達と知り合いだと言っていた。もし”丘”に住んでいるのだとしたら、それも素直に納得できる。
改めて、道の先、”ものみの丘”の方を見上げる。
この位置からだと”丘”がかなり大きく見えた。
「……で、どうするんだ、これから」
「どう…しましょうか?」
まだ時間は十分にある。
”丘”に小雪は居ない、それなら他の所を探すしかないだろう。
しかし、宛がある訳では無かった。
「…今日の所は、病院に戻ろうかと思います」
「そうか。俺はここからの方が家に近いから、このまま帰るよ」
「はい」
「じゃあ、また明日な」
「はい」
荒川君はそのまま背を向けて歩き出した。
「………明日?」
その言葉に気付いたときには、荒川君の背中は人混みに紛れてしまっていた。
コンコン…。
いつものように軽くノックをする。
「はい」
聞こえてきた返事は、私の予想していた声とは違った。
かちゃりとドアを開けてみる。
「ふにゃ?」
「あれぇ? みゆちゃん、もう帰ってきたの?」
「早い…と言うより、途中で戻ってきた?」
「はい」
部屋の奥の方のベットに、こゆきちゃんを挟むようにして、智子と朝香が腰を掛けていた。それに向かうように、一人の看護婦さんが椅子に座っている。
ノックに返事を返したのはこの方だろう、更に私にぺこりと頭を下げてくれた。私もお辞儀を返す。
にこりと笑った看護婦さんは、
「では、私はこれで」
と言って席を立った。
「あ、ありがとうございました」
「いえいえ」
智子のお礼に軽く応えながら、その看護婦さんは私の横を抜けて廊下に出る。
「では」
ドアが閉まりきるのも待たずに、朝香が声を上げた。
「あのねあのね、恐い話教えてもらったの」
「恐い話?」
今時、怪談でもしていたのだろうか?
「朝香、そんなことより。どうしたの? ”丘”には行かなかったの? それに志郎は?」
「はい。”丘”までは行きませんでした。途中で古い知り合いに会いまして、小雪は”丘”に戻っていないと教えて頂きました」
「……ふ〜ん」
「それと、荒川君はそのまま家に帰りました」
「そう」
「それでね、みゆちゃんっ」
「はい。恐い話ですね」
早速、今聞いたばかりの話を披露しようとする朝香に、私は苦笑しながら、先ほどまで看護婦さんが座っていた椅子に腰掛けた。
「でね、出るんだって、この病院」
「幽霊がですか?」
「じゃなくて、”天使”が」
「…天使、ですか?」
「うん」
見ると、反対側に座る智子が笑っていた。
「朝香。順番に話さないと、訳解らないって」
思いつくままに喋ろうとする朝香を、智子が牽制して話を整える。
「え? あ、えっとね、最初は……なんだっけ?」
「”天使室”の話でしょう?」
「そう。え…っとね、この病院にはね、”天使室”っていう部屋があってね、天使が眠っているの」
もう一度、ちらっと智子を見る。相変わらず笑ってはいるが、言葉を挟むつもりは無いらしい。
「でね、その天使は何年かに一度だけ目覚めて、”奇跡”を起こして助からないはずの病人を助けてくれるんだって」
「と言う話が、何かの漫画であったね、話してた訳」
ぼそりと智子が呟いた。
「漫画の話なのですか?」
「ううん、違うの。そんな漫画もあるけれど、ここの病院には本当にいるの」
「本当に、天使が?」
「うん」
「それが、恐い話なんですか?」
「……え?」
そのままの状態で朝香が固まる。何かを思い出そうとしているように、微かに首を傾げていた。
それを見て智子が、クックックと喉を鳴らす。
「これからが恐い話になるんでしょ。今までのは余興、と言うより冗談みたいなもの」
どうやら朝香に変わって智子が聞かせてくれるらしい。
「そもそも、今”天使室”と呼ばれている部屋には、いつの頃からか一人の女の子が眠って居るらしいんだけれど、その子の幽霊らしい物が”出る”っていう話」
「………」
「夜、夜勤の看護婦さんが見回りしていると、廊下を走る音が聞こえるんだって。それで、こんな夜中にって注意しようと階段を上っていくと、廊下の向こうにその姿が見えるんだけれど、突き当たりまで行ってすぅっと消えていなくなるんだって」
「はい」
「そこが、例の”天使室”の前、で、中を覗いてみても、もちろんその子が起きた気配は無し」
「………」
普通に聞けば、病院にはよくある怪談話の一つ、だと思う。
「他にも、夜中にロビーをうろついていたり、曲がり角ですれ違ったりと色々あるそうなんだけど、共通する特徴は、背中に羽根が生えていたって言うのよ」
「羽根…ですか?」
「そう、だから”天使”」
「………」
「それが、別に悪さをしてる訳じゃ無いんだけど、凄く目撃件数が多くて、一般の入院患者の中にも、たくさん見た人がいるんだってさ」
「その部屋がねっ」
突然朝香が声を上げる。
「その”天使室”が、ここのひとつ上の部屋なんだって。恐いでしょう? 夜中に降りてきて、こゆきちゃん、取り憑かれちゃうかもよ!?」
そう言いつつ、こゆきちゃんをガクガクと揺らす。
「ふにゃあぁあぁあぁ……」
「でも、朝香? その人は死んではいないのでしょう?」
「え、うん。そうだけど」
「生き霊って事かな? 話からすると。自分が植物状態にあることが理解できずに、魂だけが彷徨っている、ってところか」
智子がさらっとまとめてみる、が、更に朝香が言いつのる。
「でも、もしかして、自分を助けてくれなかった病院の人を恨んで、復讐のために出てきたのかも」
「そうは言っても、悪さはしてないんでしょう?」
「……うん、今のところはそうみたいだけど」
「朝香は、どうあっても凶悪な生き霊であってほしいの?」
智子が苦笑しながら言葉を挟む。
「別にそうじゃないけど、幽霊って凶悪なものでしょう?」
「それは差別ってもんでしょう」
朝香の言葉に、更に苦笑しながら切り返す智子。
幽霊相手に差別もないと思うけど、確かにそうだと思う。
「本当に、ただ外の世界を歩きたくて、出てきているだけかもしれませんよ」
「そうそう、邪険にしたら可哀想だよ」
「ん〜、そうかな?」
「ま、そう思ってきなさいって」
「うん。……あ、それと、まだあるの!」
そう言って朝香は再び話し始めた。
「あっち側にある産婦人科の棟でね………」
結局そのあとは、延々と季節外れの怪談話で終わってしまった。
「…で、勉強したっけ? 朝香」
「……また明日、ね」
時間も午後5時を過ぎ、そろそろ帰ろうかと言うとき、智子と朝香はそんな言葉を交わしていた。
「では、こゆきちゃん。また明日来ます」
「うん」
私はいつもの様にこゆきちゃんの頭を撫でてあげた。
嬉しそうに目を細める、その表情が可愛くて、私は何度も撫でてあげた。
「みゆちゃん、そんなに撫でてばかりいると、禿げちゃうよ?」
朝香に言われ、やっと手を離す。
いつだったか、同じ様な言葉をかけられたような気がする。
私はくすっと笑ってもう一度、
「また明日」
と繰り返した。
帰り道。
智子と朝香に別れを告げて、一人で真っ暗な道を歩く。
「………」
また、何かを忘れている。
何だっただろう?
草壁さん……。
そう…そうだ、草壁さんの言葉。
『天野さん。最近少し変わった女の子と出会いませんでしたか?』
それは、どういう意味だったのだろう?
確か、居なくなった小雪の話をしていたはずだ。
最近出会った、少し変わった女の子……。
こゆきちゃん、の事だろうか?
しかし、草壁さんはこゆきちゃんの事など知らないはず。
それ以前に、何故ここで女の子の話が出てきたのだろう?
まるで……。
「………まさか…」
それは、いつか自分でも考えたことのある”空想”。
こゆきちゃんが……?
「まさか…」
もう一度、声に出して呟いて、私はくすっと笑った。
……つづく。 |