『”ものみの丘”に吹くそよ風』
第十三話
「なに?」
私の言葉に、智子が聞き返してきた。
「”丘”に、”ものみの丘”に小雪を探しに行くつもりだったんです」
「今から?」
ちらりと時計を見る、もう午後1時を過ぎていた。
ここから”丘”まで行くなら、片道1時間ぐらいは掛かるだろうか?
「はい。日が暮れる前には戻りたいと思いますので」
「わかった、気をつけてね」
「…私も一緒に行こうか?」
「いえ、朝香は勉強を続けてください」
「そうそう、あんたはあんまり余裕無いんだから」
「でも、市立工業って、須佐野高校より簡単じゃないの? 拓臣ちゃんそう言ってたよ」
「それで、余裕のつもりでいて、万が一落ちたらどうなるの?」
「浪人だろうな、やっぱり。それ以外は専門学校か」
「やるって決めたなら、きちんとやらないと後悔するよ」
「うぅ〜、わかったよぉ」
智子と荒川君に責められて、流石の朝香もまだ行きたいとは言えないようだった。
「じゃ、俺が一緒に行こうか?」
「はぁ?」
突然そう言った荒川君に、私より先に智子が声を上げる。
「どうしてそうなるの」
「いや、何となく」
相変わらず荒川君は、突然予想外なことを言い出し、周りを驚かせる。
「久しぶりに行ってみたくなったんだ、あの”丘”へ」
「行ったことがあるのですか、”ものみの丘”に……」
「もちろん。夏場にはよく行くよ、冬に行くことは無かったけどね」
そう言って、窓の外、”ものみの丘”の方角を見る。
外は晴れ渡っていて、降り注ぐ陽光が”ものみの丘”を白く輝かせていた。
ここから望めば、外の寒さなど嘘のように思えるほど、光が満ちていた。
「わかりました。私は別に構いません」
「まぁ、良いか。どうせ志郎がここに居ても、なんの役にも立たないからね」
「別に役に立ちたくて、ここに来た訳じゃ無いんだけどな」
「そう言えば、志郎君、どうしてここに居るの?」
今更な質問をする朝香に、荒川君は答えた。
「何となく、だ」
使い終わった紙皿を、重ねてビニール袋に入れ、さらに智子の鞄に入れる。
カップの類は専用のバッグに詰めて、そして鞄へ。
「凄い鞄だな、しかし…」
「滅多に使わないけどね」
最後にテーブルに掛けてあったクロスをたたみ、鞄に詰め込みながら智子が答えた。
「普通は持ち運ばねぇよ、こんなに」
「まぁ、私の道楽の一つね」
ぽんっと鞄を軽く叩き、その上に学生鞄を置く。
「さて、こっちは勉強を続けましょうか、と言うより、朝香はこれから始める所だね」
「うん」
きれいに片付いたテーブルの上に、再び勉強道具が広げられる。
「では、私はこれで」
「じゃあな」
私に続き、挨拶をした荒川君がドアを開けた。
「ん、じゃあまた明日。志郎はまた来年」
「またねぇ」
「………」
軽く言葉を掛けながら手を振る二人と裏腹に、こゆきちゃんは、ただぼうっとこちらを見続けていた。
「”丘”なら、こっちの方が近いぞ」
病院を出て、駅前の国道を隣町に向けて歩き出そうとしたとき、荒川君がそう言って商店街の方を指さした。
「商店街ですか?」
「そう、商店街をまっすぐ抜けた突き当たりに、”丘”の登り口があるんだ。知らなかったのか?」
「はい。いつも、隣町の方から登っていました」
「ふーん、そっちの方が登りやすいかもしれないな、そっちに行くか?」
”丘”は、草原部分と雑木林の部分とに分かれていて、私たちが俗に”丘”と呼んでいる草原の部分は、どちらかと言うと隣町の方から登った方が近い。
こちらから登ると、雑木林を突き抜けることになるだろう、けど…。
「いえ。こちら側から行きましょう」
「わかった、案内する」
隣町まで行くには”丘”その物を回り込まなくてはいけない、恐らくこちらから行った方が時間が掛からなくて済むだろうと思った。
それに、私の知らない”丘”への近道を、教えて貰えるのは良いと思う。
これから何度か、足を運ぶことに成るのかもしれないのだから。
「こうやって、天野と二人だけで歩くのは初めてだよな」
商店街に向かって歩き出すと、突然、荒川君がそう切り出した。
思えばそうかもしれない。私と荒川君が会うときは、まず間違いなく智子が居たのだから。
「はい。そうですね」
「天野のそばには、いつも高瀬が居たからな」
「はい」
「知り合って結構経つのに、まだまともに話をしたことも無かったと思わないか?」
「……そうかもしれません」
私は隣を歩く荒川君を、仰ぎ見るように振り返った。
こうして見ると、かなり背が高かったことがわかる。
「……いろいろ、話をしてみたかったんだ」
「私と、ですか?」
「あぁ」
そう言って、ちらりとこちらを見る、一瞬目があった。
「高瀬は、よく天野の事を話すんだよ、俺と二人の時には」
「………」
「…5年前、あいつの姉さんが死んだとき、俺は何もしてやれなかった」
再び前を向いた荒川君は、唐突に昔のことを話し始めた。
「ただ泣き続けていたあいつに、言葉も掛けられなくて、俺もただ泣き続けてた、なのに……」
もう一度、私をちらりと見る。
「なのに、知り合って間も無かった天野は、ちゃんとあいつに言葉を掛けることが出来たんだよな」
「それは、私が智子のお姉さんと、直接面識が無かったからでしょう。もし知り合いでしたら、たぶん私も泣いていました」
「いや、そうじゃ無くて、…俺も、言葉を掛けることは出来たはずなんだ。ただ、何を言って良いのか分からなかった、どう言えば泣きやんでくれるのか分からなかったんだよ」
荒川君は、そこでふぅっと一息ついて、
「なのに、天野は声を掛けることが出来た。そしてあいつは泣きやんだ」
軽く目を閉じた。
「………」
「いろいろ…、思うことがあったんだ」
再び開いたその目は、どこか悲しげだった。
「去年、あいつが剣道やめて、工芸大付属を受けるって言ったとき、俺は”やっぱり”って思った。姉さんのこと、それと婆さんのことで、あいつは変わったんだと思った」
「………」
「でも、違ったんだよ、あいつは。ただ変わってしまったんじゃない、自分の意志で変わって行ったんだ。そうだろ?」
「はい」
「そのときに聞いたんだよ、天野の事を」
「私の?」
「変わらないでいる強さ、変わって行ける強さ。全部、天野に貰った言葉だって、嬉しそうに言ってた」
「……私は…」
「あいつは天野に感謝してるんだよ、本当に」
そう言って、ぴたりと立ち止まって私に向き直った。
「俺は、ずっと高瀬の側にいた、ちゃんと解っているつもりだった、だけど…」
微かに俯いて苦笑する。
「なんにも解って無かったんだなって、実感したんだよ」
「私は何も、大したことは言っていません」
「それでも、言葉はちゃんと高瀬の中に残っている。…そう、大それた事を言う必要なんて無かったんだ。あいつのことを思って、言葉を掛けてやるべきだったんだ」
「………」
「今も、あいつが一番信頼しているのは天野だ。だから…、だから一度、ゆっくり話をしてみたかった」
「…はい」
クリスマスだからだろうか、商店街はいつもより賑やかだった。
そして多くの学生にとっては、明日から冬休み。早速私服に着替えて出歩いている同年代の若者が多かった。
「賑やかだな」
「はい」
そんな中をゆっくりと歩く。
「ひとつ…気付いたことがあります」
「…なんだ?」
「荒川君が、野崎君に告白するように仕組んだ理由です」
「別に仕組んだ訳じゃない。ただ、拓臣が坂上と一緒にいたいと言うから……」
「それだけですか?」
「……他に、何があると思う?」
「私は、荒川君自身が、変わってしまうことを恐れているんじゃないか、と思いました」
「……なに?」
「先ほどの話の続きです。”変わって行くこと”と”変わってしまうこと”は違います。智子は自分の意志で進むべき道を決めました、自分で”変わって行った”のです。でも、荒川君にとっては、智子は”変わってしまった”様に感じたのでしょう?」
「………」
「荒川君は、今のままで居たかった、でもみんな変わって行ってしまう。だからせめて、あの二人には変わってほしくなかった、ずっと二人で居てほしいと、そう思ったのではないですか?」
「…あぁ、そうだ」
「………」
「そう…だと思う。俺は…俺にはまだ、変わって行く強さなんて無いんだよ」
「”変わらないでいる強さ”と言うのもあります」
見上げると、荒川君は目で『解らない』と言っていた。
「状況が変わっても、変わらない物はあります。今日、荒川君がお昼ご飯を買いに行っている間に、智子とそんな話をしていました」
「高瀬と?」
「はい。高校が別々になっても、智子と朝香と私、荒川君と野崎君、そしてこゆきちゃんはずっと友達だって、そう話していました」
「………。ふっ、そうか」
荒川君は微かに笑いながら、そう呟いた。
「俺は、やっぱり解ってないんだな」
「誰かを理解するなんて、簡単に出来ることではありませんよ。私も、智子のすべてを知っている訳ではありません」
「確かにそうだけど……。あぁ、俺もひとつ解ったよ、高瀬が天野を信頼している理由だ」
「はい」
「傷ついているときに慰めてもらった、なんて、そんな物だけじゃない、そうたぶん……」
その時……、
「…あっ……」
足下で、小さな声が聞こえた。
続いて”どん”という音と共に、荒川君が軽く揺れて、私の前に、小さな女の子が倒れ込んできた。
「うわっと」
慌てた声を上げ、荒川君がしゃがみ込む。
「大丈夫か?」
「すいません、大丈夫ですか?」
言葉を掛けながら、手を差し出して助け起こす。
「……ふ…ふぁぁ〜〜〜ん」
予想通り、その女の子は、起きあがりつつも大きな声で泣き出してしまった。
「うぁ」
荒川君はどうして良いのか解らずおろおろしている。
とっさに周りを見渡してみるが、この子の出てきた路地の方に母親らしい人は居なかった。
取りあえず、抱き寄せて頭を撫でる。
「ごめんなさい、ケガはありませんか?」
そう言って、女の子の体を払いながら、ケガを確かめる。
大きなコートを着ていた為だろう、足にケガは無かったが、手のひらを大きく擦りむいている。
「ちょっと待っていてください」
女の子はまだ目に涙を溜めていたが、早くも泣きやんでいた。
私はハンカチを取り出すと、近くにあった植え込みの上から雪を取り、ぎゅっと握って解かす。
「ちょっと染みるかもしれませんが」
「ふにぃ〜」
一瞬、こゆきちゃんみたいな声だと思って、思わず微笑んでしまった。
その手を取って、傷に付いた泥を拭ってあげる。
「痛くないですか?」
「うん、…大丈夫」
まだ小学校には行っていないだろう、年の割にしっかりしている。
私はその子の手を両手で包み、小さくおまじないをしてあげる。
「はい。イタイのイタイの遠くのお空に飛んでいけ」
そして、ぱっと手を離す。
「……え?」
傷が…消えている?
「望美」
「あ、母様」
不意に後ろから声が掛けられる。
振り向くと、そこには一人の女の人が立っていた。
長い髪、雪のように白い肌、吸い込まれるような瞳……。
この…人は……?
奇妙な既視感に捕らわれている間に、女の子はその人の元に駆けていった。
「どうしたんですか? 父様は?」
「ん〜、どこかに行ってしまいました」
女の人はくすっと笑いながら、
「仕様がない父様ですね」
と言って、望美…という名前なのだろう…その女の子を抱き寄せた。
「こちらの方は?」
「…えっと……」
「すいません、不注意でぶつかってしまって、ケガをさせてしまいました」
その子が答える前に、荒川君が頭を下げる。
「まぁ、そうでしたか。すいません、こちらこそちゃんと見ていなかったもので」
まるでそうすることが当たり前であるように、女の人も頭を下げた。
「あの、手を擦りむいていたと思うのですが…」
「はい、ありがとうございます」
私の言葉に応えながら、女の子の手を取る。
一瞬、その目が軽く細められた。
「大丈夫です、もう血は止まっているようですから。ご心配をお掛けました……」
「いえ…」
応えたとき、その女の人と、真っ正面から目が合った。
「あなたは、……天野…美汐さん?」
記憶の奥から、ゆっくりと、ひとつの名前が浮かび上がってくる。
私はこの人を知っている。
そう、この人は……、
「草壁…明日香さん、ですか?」
……つづく。 |