第十二章 知識人の役割
 
 今日、知性の文化と感性の文化の担い手は分化する傾向にある。学問にしても芸術にして
も、専門化と細分化が進み、双方について広汎かつ十分な知識ないし技能を習得することは、
現代社会では困難になっているのであろう。従って、等しく磨き上げられて程よく融和した知性
の文化と感性の文化が、生活の文化を引き上げてくれることを期待するのは仲々むずかしい
時代なのであるが、それでも生活の文化の質的向上を可能にするのは、知性の文化と感性の
文化以外にはあり得ない。そして、今日の社会で、主として知性の文化を担う人々が知識人な
いし有識者と呼ばれている以上、知性の文化を生活の文化に反映させ向上させるのは、第一
義的にこれらの人々の役割である。
 なお、ここでは、知識人ないし有識者を著名な学者や文筆家等に限定せず、更に広く、知性
の文化の分野で相当程度の水準に到達している、すなわち高度の論理的思考能力と言語的
表現能力を備えている人々を全て含めることとする。従って、このような知識人ないし有識者
は、学界や文壇以外にも、社会の中核集団、更にはそれらのいずれにも属さない人々の中に
も、あるいは顕在的にあるいは潜在的に少なからず散在しているはずである。
 それでは、これらの知識人の知性すなわち論理性は、生活の文化にどのようにして反映され
るのであろうか。
 
T 中核集団との関係」
 
中核集団間の調整−−強権
 先ず、既に見てきたように、生活の文化を作り上げているのはその社会の全構成員である
が、それを意識的に変化させる力(権力や影響力等)を持っているのは、その社会の中核集
団である。中核集団は、その活動目的に社会の思考・行動様式を合致させるために、法律や
制度を制定したり影響力を行使したりする。中核集団ないし中核集団を構成する下部集団(日
本の場合は政・財・官およびマス・メディア等)が確固とした方向性をもってその権力と影響力
を行使すれば、その社会の思考・行動様式をかなりの程度まで変えることも可能である。
 しかし、明確な方向性がないままに、下部集団がそれぞれの利害関係に従って恣意的に活
動する場合には、それぞれの下部集団に関係する更に下部の集団や個人の活動もそれに連
動して、相互に激しい競争関係に置かれるため一見活気のある社会に見えるかもしれない
が、実際には、お互いの勝手な活動がお互いの足を引っ張り合ったり活動の効果を打ち消し
合ったりして、社会全体から見ると無目的的に右往左往しているだけという状況に陥る危険性
がある。また、そのような状況では、社会全体の思考・行動様式も支離滅裂になり、それに伴
って社会の構成員同士の利害の衝突が多くなって、生活の文化が停滞したり低下したりするこ
とになりがちである。
 このように、特に、中核集団や下部集団の価値観ないし利害関係が対立し混乱している場
合には、生活の文化の停滞や低下を防ぐために社会全体の立場から何らかの調整が必要と
なる。最も簡単なのは、ホッブスが「リヴァイアサン」で主張したように、中核集団の上に独裁者
のような更に上部の権威が現れて、価値観や利害関係を強制的に統一し調整することであ
る。このやり方で社会の秩序を辛うじて維持している国や社会は、人類の歴史上はもちろん、
現代の社会でも珍しくない。しかし問題は、このようにして統一された価値観や利害関係が、統
一前よりも社会全体にとって好ましい結果をもたらすという保障は全くないことである。
 既に学んできたように、このような強権によって保たれる秩序が、いずれは富の偏在や人権
の抑圧につながらざるを得ないのは、人間の本性に基ずく歴史の必然であり、そうなれば生活
の文化の質的低下は免れない。そうかと言って、現在の強権を別の強権に代えても、この泥
沼から脱出することはできない。強権に頼らなくても、秩序の保持と生活の文化の維持・向上
ができるような、社会の価値観を造り出す以外に道はないのである。人類の永い歴史を通じ
て、高い論理性に裏づけられた普遍性のある価値観を提示して来たのは、常に、哲学者や思
想家あるいは宗教家をはじめとする知識人たちであった。

中核集団間の調整−−論理
 他方、このような知識人たちの知的努力の成果を受け入れて、取り敢えず強権的政治体制
を卒業した先進国社会ないし民主主義社会では、複雑な社会的利害関係の調整は関係集団
の間で相互に行なわれなければならない。しかし、利害関係者というものは、特に関係者が多
くなればなる程、簡単には引き下がれないものである。そこでこの場合に、強権に頼れない以
上、利害関係者の主張の理不尽な部分を抑制する役割を担うことができるものがあるとすれ
ば、民主主義社会では、それは普遍性を持った論理以外に考えられない。利害関係者は一般
に、自らの主張の論理的根拠が独り善がりで普遍性を欠き、無理押しすれば社会的支持を失
うと悟ったときに初めて、自らの利益と社会的利益との調整を受け入れる傾向がある。そし
て、いずれの利害関係者の立場にも片寄らず、社会全体の利益に通じるような普遍性を持っ
た論理を提供できるのは、現代の社会でも知識人以外にあり得ないのである。
 ただし、このような知識人の論理が、直ちに中核集団さらには社会全体に受け入れられて、
生活の文化の向上に貢献できるというわけではない。まず、知識人側の問題から言えば、当
然のことながら、知識人の論理が常に正しいという保障は全くないからである。同じ現象の分
析・解釈や同じ目的を実現するための論理でも、より上位の価値に対する視点ないし配慮の
違いによって論理構成は如何ようにも変ってくることは、ホッブスとルソーとの比較でも見てき
た通りである。知性の文化で、長期的かつ広い視野に基づいた、バランスのとれた論理を生
み出すためには、豊かな感性、特に対人的感性と、更には最低限度の品性による方向づけが
不可欠の基礎的条件であり、これを欠くと、論理が途方もない方向に迷走する可能性は否定
できない。 
 また、知識人の専門化が進んでいるため、例えば経済政策の問題を論じる際に、人権や環
境等の自分の専門分野以外の要因に十分な配慮を欠く場合には、自分の専門分野の範囲内
では理路整然としていても他の専門分野の論理と連結できず、従って、全ての要因を包含する
現実の社会への適用は不適切になる。すなわち、論理の価値は、どれだけ広く関連分野を視
野に収め、その中から重要度のより高い要因をどれだけ深い洞察をもって選び出し、目指す
結論に向けて、どれだけ整合性のある論理を構成できるかに掛かっていると言うことができ
る。専門化が進めば進むほど、専門家は、社会全体の枠組みすなわち文化についての最低
限の素養を身につけておかないと、大局を見失うことが多くなるのである。
 それに、本書では快適さと精神的充実感の追求を、人間ないし人生の究極的目標として話を
進めているが、仮に、人間は神の栄光を地上に具現するために存在するというような仮説を唱
える人がいるとすれば、この人にとっては生活の文化の質的向上の意味も全く異なってくるか
もしれない。神の栄光とは何か、それを誰が解釈するのかという問題から始まって、両者の議
論を噛み合わせることはむずかしいであろう。どちらも歩みよれず、しかも社会全体としてどち
らかを選択しなければならないような場合には、選択の基準は究極的目標の普遍性の有無な
いし高さに求めるほかない。この意味でも、論理を構成し議論する場合には、その論理の根源
にある究極的目標ないし原理は何であるのかを、常に自覚し明らかにしておくことが大切であ
る。
 
論理の優劣の基準−−普遍性
 また、知識人も人間である以上、自分自身が何らかの利害関係に関わっている場合には、
論理を曲げてでも自分の利益を守りたいと思うこともあるであろう。その場合、自我を確立した
人であれば、自分を偽って論理を曲げたことについて自責の念に駆られるであろうが、中途半
端な自我しか確立できていない二流、三流の知識人にとっては、論理を曲げることくらいはさ
ほど気にするほどのことではなく、鉄面皮に強弁するか、これこそ知恵と才覚の見せ所と開き
直ることもあるであろう。この種の人は、知力に比較して、特に人間性に対する感性の成熟度
に問題があり、知的誠実さの面で品性に欠けるところがあるのかもしれない。そして、現実に
はその程度の知識人と、その程度の論理が圧倒的に多いのであるが、それでもその程度の
知識人でも、直接利害関係がない場合には、時に知性の高みに立って立派な論理を導き出す
こともあるので、知識人の層は厚ければ厚いほど良いのである。
 ただ、このように、知識人の論理にもいい加減なものがあるし、そこにつけ込んで、知恵者の
集まりである中核集団が世論操作に利用したくなることもある以上、知識人の質、論理の質お
よび社会がそれらを受けとめ判定する能力如何によっては、生活の文化が歪められる可能性
もなきにしもあらずである。従って、論理は常に、知識人と中核集団との間で、また知識人同
士の間でも点検され、評価され磨き上げられなければならない。主張と主張が対立した時に、
その優劣を判定する基準は論理性の高さであり、論理と論理が対立した時の判定の基準は
普遍性の高さなのである。
 
中核集団の抵抗
 ところが、そのようにして磨き上げられた論理でも、必ずしも中核集団が受け入れるとは限ら
ない。中核集団の側にも問題があるからである。もっとも、中核集団の構成員と知識人との間
には、知恵の分野で活動したいと思ったか、知性の分野に関心を持ったかという性向の違い
はあっても、知能的にはさほど差があるとは考えられないので、中核集団側の論理受信能力
自体に特に問題があるわけではない。問題は、中核集団が高度の知恵者の集団であることに
あるのである。
 知恵の本質は、状況対処能力である。知恵者にとっては将来起こるかどうかわからない状況
を考えることよりも、現在起きている状況をできる限り自分たちに有利に処理することの方が
はるかに重要である。その際に特に留意するのは関係者の広い意味の力関係であって、その
力関係をどれだけ正確に測定でき、その力関係にどれだけ正確に比例させて、支配関係など
まで含む広い意味の利害を配分できるかによって、状況対処の成否が左右される。
 これに対して、知識人の拠り所としての知性の本質は、論理性である。知恵の働きが、力関
係に応じた利害の配分で一段落つくのに対して、知性は、そのような配分は社会的観点から
見て公正なのか、長期的に見て過不足ないのか等、論理的な考察を求めて止まない。その考
察のひとつの結果が、前項「生活の文化の質的向上とは」で示されたような枠組みないし方向
づけの必要性の指摘につながってくるのであるが、これらの枠組みないし方向づけを改めて見
直してみると、現実問題として、中核集団の短期的状況対処の知恵と相容れない部分が少なく
ないことがわかってくる。 
 先ず第一の、経済活動における分配の問題であるが、中核集団が権力集団ないし権力を志
向する集団である以上、富の分配も中核集団およびそれに影響力を持つ関係集団等、力や
影響力を持つ集団に有利に行なわれる傾向があることは否定し得ない。そこに、力関係だけ
ではなく、社会発展の長期的観点から、社会的公正の観念も視野にいれた知性の論理が介
入してくることは、いささか迷惑であろう。しかし、特に先進民主主義諸国では、中核集団自身
が、富の過度な集中の排除等の知性の論理を積極的に取り入れた分配政策を実施している
例も見られる。これは、知性の文化が社会の構成員すなわち市民の知的水準と政治への参
加意識を高め、それが中核集団も無視できない圧力となって作用した結果、生活の文化の質
的向上をもたらした例である。ただしこれも、知性の論理の圧力が弱まれば、いつでも、強者
の知恵が勢いを盛り返してくるであろう。
 第二の、生産活動や消費行動から発生する資源問題や環境問題も、長期的観点からは人
類の生存に関わる重要問題である。そこから、物資の大量生産は永久に続けられるのであろ
うか、人間の生産活動(労働)は多ければ多いほど(逆に言えば、趣味や文化的活動などの経
済的利益を伴わない活動は少なければ少ないほど)良いのであろうか、購入できる物の量に
比例して消費者の満足感は増大するのであろうかといった、知性の文化の側からの疑問が生
じてくる。先進国か開発途上国かによって程度の違いはあるとしても、長期的かつ論理的に考
える限り、いずれについても否定的な答えが出る可能性が高い。しかし、短期的には、中核集
団の構成員特に企業とその関係者の利害に大きく影響するので、中核集団としても、知性の
論理をそのまま受け入れることは簡単ではない。
 知性の側からは、消費者に対しては、将来の資源問題や環境問題も考慮に入れた上で、よ
り大きな快適さと精神的充実感をもたらすような思考・生活様式はどのようなものか幾つかの
選択肢を提供し、他方、生産者に対しては、このような生活様式に沿った物資ないしサービス
の合理的な生産こそ、結局は社会にも生産者自身にも最大の利益になるものであることを説
得し、更に為政者に対しては、これを促進するような政策を提示することができれば、問題の
解決に少なからず役立つであろうが、これは知性をもってしても容易なことではない。従って、
これからも長期にわたって、知性と知恵の押し合いが続くことになるであろう。
 第三の精神的充実感の追求に関連する学問、思想、信仰あるいは表現等の基本的人権の
保障は、独裁国家や専制国家の中核集団にとっては論外であろう。民主主義国家の中核集
団にとっては、これらは個人の確立を前提条件とする民主主義の実現のために不可欠な要因
のはずである。しかし、それでも、構成員があまり個人を確立してしまうとコントロールがむず
かしくなるという、いわば支配する側の知恵の論理からか、中核集団のみならず極く私的な小
グループに至るまでの多くの集団や組織で、社会の構成員に対する情報の提供のみならず、
その内面に関わる権利にすら少なからざる制約を課したくなる誘惑に駆られている傾向が見
受けられる。
 第四は、個人と社会との関係の問題であって、権力側が個人の権利を尊重し、個人は社会
的利益のために、ある程度の権利の制約を受け入れるという原則は、民主主義社会の総論と
しては誰も異論のないところであろう。しかし、各論となると日常生活に密接に関係しており、
具体的な局面ではしばしばトラブルにつながる可能性があるため、中核集団としては、知性の
論理もさることながら、関係者の力関係に配慮した、知恵による取り敢えずの解決を優先せざ
るを得ない。
 それに、以上の第三までは、知性側による方向づけの対象が主として中核集団であったの
に対し、ここでは、中核集団も含めた社会全体の構成員たる、個々人に対する直接的な働き
かけも重要になって来る。ところが、自分の生活と自分の利益を守ることが個々人の最大の関
心事であるような社会で、その個々人に、ある種ある程度の個人的利益は社会全体の利益の
ために制約されざるを得ないという知性の論理を納得させるのは、必ずしも容易なことではな
いのである。
 第五の、時代の変化に合わなくなった思考・行動様式の改革も中核集団だけではなく、社会
の構成員ひとりひとりに直接関わってくる問題である。しかし、中核集団のような上部集団から
その下部集団さらにはその関係集団・組織等の、複雑に絡み合って動きがとれなくなった利害
関係のしがらみや思考・行動様式が、文化遅滞の大きな要因になっており、改革が容易でな
いことは否定できないであろう。
 第六の、感性の文化の向上を通じての潤いのある社会の構築については、物質的繁栄の追
求に忙しい中核集団ほど、経済的利益に直接つながらないこの種の問題に対する関心が薄
いという傾向があるが、感性の文化の向上それ自体が中核集団の知恵の論理と相反するわ
けではないことは、感性の文化の大切さを説く知性の論理にとって、不幸中の幸いであろう。
 
一般大衆との連携
 以上のように、知識人の知性を中核集団に反映させて、生活の文化の質的向上を図ろうと
する試みは、一方では、知識人自身の資質の問題と、他方では、中核集団の知恵の文化の
壁に阻まれて、どんな社会でもうまく行くという保障は全くない。
 しかし、生活の文化を維持・形成しているのは中核集団だけではない。中核集団に属してい
ない多くの人々や、中核集団に属してはいても、そこから離れた私的な立場も持っている人々
は、生活の文化に及ぼす直接の影響力は中核集団のそれにはるかに及ばないとはいえ、こ
れらの人々が何らかの動機で知性と感性を磨く機会を得、これを基にそれぞれの立場を通じ
て生活の文化にひとつの方向性を与えることができれば、中核集団にさえ影響を及ぼすことも
可能なのである。そして、知識人からであれ、一般大衆を通じてであれ、中核集団の思考・行
動様式に反映される知性と感性の文化の割合が多くなれば多くなるほど、その社会の質は高
まり、住み易くなるということができる。
 この観点から、知性の文化の働きかけの対象として、一般大衆と呼ばれる人々を忘れるわ
けには行かない。    
 
U 一般大衆との関係
 
知性の文化への誘(いざな)い−−価値観の確立
 本書においては、これまでに取り上げてきた知性の文化の担い手としての知識人、および権
力ないし影響力の行使者として広義のエリート集団である中核集団に実質的に属さない人々
を、一般大衆と総称する。従ってここで言う一般大衆には、知識人とは呼ばれないまでもそれ
に準ずる見識を持っている人や、中核集団には属していても、そこでの地位等の関係で中核
集団の構成員としての意識が薄い人から、知識人見習い中の学生や、漫然と遊び暮らしてい
る若者たちまで、全てが含まれている。これは、知性の文化の側からの働きかけの内容ないし
都合に合わせた、いわば文化政策の視点からの分類であり、必ずしも知的水準や社会的階
級に対応した分類ではない。仮に、知的水準だけを基準にすれば、中核集団に属するか否か
は問わず知識人と一般大衆に大別され、しかも、中核集団の大部分の構成員は一般大衆に
含められることになるであろう。
 一般大衆をこのように考えた場合、実際問題として、これらの人々の全てに同じ手法で知性
の論理を提示しても、期待通りに受けとめてもらえるかどうか疑問である。経験や知的能力の
違いから受け手の受信態勢ないし理解能力に余りの差があるので、対象に応じて説明の仕方
を変える必要があるであろう。実際、私自身にとっても、少なからぬ哲学書は理解困難であり、
より噛み砕いた解説書が必要である。従って、多くの人々に知性の論理を発信するためには、
上級、中級、入門の三段階くらいに分けて難易度を調節するような配慮が求められるのであ
る。
 一般大衆への働きかけの目的が、この人々を知性の文化に誘(いざな)うことにあるのであ
るとしたら、中核集団に対しての、権力や影響力の行使に一定の枠をはめ方向づけることを
主目的とするアプローチと異なり、一般大衆に対する知性の文化の側からのアプローチは、知
性の前提条件とも言うべき個人レベルの自我ないし価値観の確立を促し助長するところから
始めないと、効果は余り期待できないであろう。自分自身への内面的な問いかけが、知性の
文化への入り口であるからである。
 しかし、これは、口で言うのは易しいが、実際には極めてむずかしい作業であり、結局は
個々人の自覚に待つほかないと投げ出してしまうのが、苦労も少なく正解なのかもしれない。
そして個々人も、命令型の宗教や権威に仮のアイデンティティを見い出し、現在の生活の文化
が与えてくれる生活条件をあるがままに受け入れ、その中で自分の知恵や才覚に応じたほど
ほどの人生を送ることができるのであれば、何も内面的な問いかけなどという七面倒臭い問題
に関わる必要などないのではないであろうか。
 ところが、現実はそう簡単ではない。現代は、一般大衆といえども、質の高低はあるとはいえ
それなりの自我も持っているので、仮のアイデンティティに安住して、ものを考えずに無抵抗な
一生を送り通すことは困難な時代なのである。実際、まわりを見回しても我慢できないような不
条理が満ち満ちている。国際的には武力衝突や経済紛争の問題から、国内の経済不安や治
安問題、そして職場での不満や家庭内の不和あるいは子供の教育問題など、どれひとつとっ
ても、快適さや精神的充実感を逆なでする問題であり、権利意識に目覚めた人間としては、あ
るがままに受け入れて諦めてなどいられるわけがない。
 
職場での価値観
 卑近な例で考えてみると、会社や官庁をはじめとする集団や組織に所属した経験のある人
は誰でも感じたことがあるはずであるが、指導者や上役が設定する目標がしばしば目先の些
細な利害にこだわって哲学を欠く一方、その指導方針は、仕事の質よりも、残業や休日出勤
等の目に見える量的な部分を高く評価したがる傾向が見られる。このような指導者や上役の
下では、部下は、快適な職場環境や仕事を通じての精神的充実感を得ることは殆んど不可能
である。
 それでは、指導者や上役は、いつでもどこの社会でもそんなものなのかというと、必ずしもそ
うではなく、大局的視点と明確な目的意識に基づいて仕事の重要度を判定できる、いわゆる将
の器が指導者や上級の地位に就く割合が高い社会もある。これは、結局、その時代と社会の
文化が、どのような資質をより高く評価するかに掛かっているのである。その評価基準は、恐
らく歴史的、社会的背景の中から造り出されるものなのであろう。
 急速な工業化を伴う経済成長期に、全人生を生産活動ないし仕事に投入することも厭わな
い多数の勤労者の存在、あるいはそれを高く評価する生活の文化の存在は、なにものにも代
えがたい資産である。これを欠くばかりに、多くの資源を持ちながら、経済成長が離陸できない
でいる国は数知れない。ただ、人生の全てをいわゆる「仕事」に捧げるとなると、失うものも少
なくない。
 ここで「仕事」というのは、経済的利益を生み出す活動ないし所属する集団や組織の勢力拡
張の為になると見なされる活動であり、急激な経済成長期には、そのいずれにも属しない活動
は、どれほど情熱を傾けようと「仕事」としては評価されない傾向が見られる。そこで、社会全
体がこのような「仕事」だけを高く評価し、「仕事」に注ぐ時間とエネルギーで自分の社会的評
価も決まるとなれば、「仕事」の時間を削って内面的な問いかけをすること、すなわち内面的な
活動などなかなかする気にならず、従って、知性の文化や感性の文化に対する関心も芽生え
ない。
 この場合の価値観は、集団や組織ひいては社会の価値観すなわち経済的利益あるいはそ
れに直結する「仕事」にぴったり同一化した、いわゆる仮のアイデンティティなのであるが、経
済成長期には、それで十分、誰にも昇進や収入増加の機会が保証され、それなりに満足した
人生を送ることができるので、「仕事」に仮のアイデンティティを見出す人々が大量生産される
ことになる。
 仮のアイデンティティの問題点は、内面的な対話を経ずに他の価値観を借用する場合が多
いために、価値観に奥行きないし深さがないことである。経済団体や会社に代表される集団や
組織が追求する価値が経済的利益にあることは、その存立の動機からして当然なのである
が、個人が追求する価値は、本書の立論の筋道に沿えば、個々人の快適な生活と精神的充
実感のはずである。個人のレベルでも、経済的利益は快適な生活確保のための必要条件で
はあるが、それだけでは精神的充実感を得ることができないことは、これまで見て来たとおりで
ある。ところが、個人の価値観を、経済的利益や勢力拡張を存立目的とする集団や組織の価
値観に同一化した場合には、精神的充実感を得るためには何が必要か、何を為すべきかとい
う、人間の部分の価値観が全く欠落してしまうのである。
 その上、与えられた自然環境や資源状況あるいは社会制度の中で相互に影響し合い、相乗
効果や相殺効果を生み出す、集団や組織の経済的利益の追求や勢力拡大のための個別の
活動が、最終的に個々人に常に最大の快適さをもたらすためには、このような種々の与件や
効果を計算に入れた、緻密な生産ないし活動目標の設定が必要である。周囲の状況を顧みな
いやみくもな生産の拡張や、がむしゃらなだけの活動は、資源の浪費や時に経済的な損失さ
え発生させるのみならず、時に、そこに関与する個々人に過重な労働を課し、また、社会との
つながりを意識することのできない労働は精神的な空虚感をもたらしたりする。
 
仕事依存症
 このように、元々、集団や組織の存立目的でしかない価値観に個々人が仮のアイデンティテ
ィを託し、更にそれが、長期的、社会的な展望がないまま目先の事柄を処理するだけの「仕
事」、にまで矮小化されてしまっているような状況の下では、個々人の視野が社会に向かって
広がることはむずかしく、木を見て森を見ない、重箱の隅を突つくような仕事ぶりが蔓延せざる
を得ない。そしてついには、「仕事のための仕事」すなわち「仕事」そのものが目的となってしま
い、何でも良いから兎に角「仕事」と名のつくことをしていないと不安で仕方がないという「仕事
依存症」に行き着くことになる。
 精神病理学によれば、この仕事依存症というのは歴とした心の病気なのだそうであり、そこ
から、過度の完璧主義とか、それを達成するために自分のやり方を他人にも強制したがる支
配欲といった、いろいろな症候群が出てくるのだそうである。ひとつの社会の中である種の病
人が圧倒的に多くなれば、むしろ、それが普通の人ということになり、「その仕事は本当に必要
か」「何のためにするのか」などという疑問を持つ人間は、「やる気がない」「変わっている」など
というレッテルを貼られ、病人仲間から排除されたりする。それでは、病人仲間に入っていれ
ば問題ないかというと、「仕事依存症」に特有な支配欲のために、お互い同士の悶着は避けら
れず、特に立場の弱い者は強いストレスを受け続けるであろう。しかし、同じ病に冒されている
以上、弱い者も、いずれ指導者や上役という強い立場になれば、その時点での弱い立場の者
を、仕事依存症症候群で悩ませることになるのである。しかも、仕事依存症患者は、その「や
る気」と「勤勉さ」および、内面的な問いかけなどという余計なことをしないで上からの命令だけ
を忠実に実行する「使い易さ」を評価されて、しばしば昇進の機会に恵まれるため、予備軍は
後を絶たない。
 先に卑近な例として取り上げた、集団や組織内の指導者や上役に部下が感じる不満や反発
は、たまたま知恵や才覚に優れた民族性に、急激な経済成長が重なった結果形作られた、こ
のような生活の文化に起因するものであると言うことができるであろう。
 封建制度や専制体制の下でも弱い者は苦しめられたのであるが、この場合は苦しめる者と
苦しめられる者が明確に分かれていたために、解放の追求に際して敵・味方の区別は比較的
簡単であった。それに対し、近代国家のこのような生活の文化の下では、お互い同士立場を
入れ替えながら締め付け合い、窮屈にし合っているようなもので、ここから抜け出すためには
誰に照準を合わせて闘ったら良いのか、判断に窮するところがある。ひょっとしたら、自分自身
の生活を不快にし精神的充実感を得にくくしている張本人は、このような生活の文化に適応し
ながら少しでも有利な立場に立とうと、仕事依存症症候群に振り回されている自分自身なのか
もしれないのである。
 もちろん、知恵や才覚と併せて、個人と個々の集団の目先の利益を超えた、より高い次元の
価値を考える能力にも優れた人物が、指導者や上役になる例も少なくない。そして、このような
人々の下では、良好な職場環境も期待できないわけではない。しかし、このような指導者や上
役といえども、短期的利益および労働の質より量を重視するのがその社会の多数派の思考・
行動様式および評価基準である場合には、基本的にそこから逸脱することはできない。むし
ろ、地位が上がれば上がるほど、それを保持するためにも、その思考・行動様式は、その社
会の生活の文化の枠によってしっかり制約されてしまうのである。
 そのため、長期的かつ社会的視野に立ち、目的と状況に応じて物事の軽重を判断できる、
いわゆる将の資質をより高く評価する社会と、仕事依存症症候群を勤勉の証としてより高く評
価する社会とでは、同じ程度の能力を持ちあわせて生まれても、成長の過程で身につける
「器」の大きさに少なからざる差が生じてくる。そして、社会を構成する集団や組織のなかの枢
要な地位をより多く占めるのが、高い判断力の基礎となる「知性、感性および品性」を備えた
将の器か、あるいは目先の利害に敏感な「才覚」と、目的意識の薄い「勤勉さ」が取り柄の仕
事依存症型指導者なのかによって、その社会の住み心地は大きく変わってくるのである。
 それでは、自分が属する社会や集団や組織が、そして多分自分自身も、全体として知性、感
性、品性に乏しく、住み心地が悪いとしたら、このような状況の下で、快適さと精神的充実感を
求めるにはどうすればよいのであろうか、と、自分自身への問いかけが始まれば、そこに、知
性の文化への展望が開けてくる。
 
アイデンティティの渇望
 かつて石原莞爾(1889〜1949)という軍人がいた。石原は、1904年の日露戦争の一年
前に、14歳で 陸軍幼年学校に入り、陸軍士官学校、陸軍大学校を経て、1941年に中将で
予備役に編入され敗戦を迎えるまで、すなわち生涯の大部分を帝国軍人として過ごした。30
歳の頃、中国に駐屯していた日本軍の司令部に派遣されたが、その時、妻に次のような手紙
を書いている。
 「実を申せば私も信仰心のない、はかない男です。然しつくづく此頃考えますと、これから先も
今日迄の様な空虚な生活はどうしても送って行きたくないのです。世の波にもみ流されて一生
を送るようなことはどうしてもしたくありませぬ。よかれ悪かれ堅い根底ある地盤を踏みしめな
がら意義のある生を送りたいものだ。」
 この頃から石原は、日蓮宗の信仰生活に入り、また、軍事学を修めて、ヨーロッパ戦史の研
究に基づく世界最終戦争論を樹立、満州での戦争に指導的役割を果たすことになる。その
後、中国の民族運動に目を向け、日中提携により和平を探るための方策として東亜連盟論を
主唱し、41年の予備役編入後は、東亜連盟運動の指導に専念した。そして、敗戦後は、全面
的武装放棄を唱えるに至る。 
 石原の軍人としての経歴は、最高ではないとしても、それなりのエリート・コースをたどったと
言ってよいであろう。それが、軍人として純粋培養され、社会を見る目は国家主義と皇国史観
に凝り固まり、個人としては階級社会の軍隊で出世階段を昇ることが生きがいといった帝国軍
人の一般的イメージと異なり、われわれと同じように、仮のアイデンティティで送る人生に虚しさ
を感じていたという事実は興味深い。
 知性の文化に足を踏み入れた石原の思想は、時代的、社会的な背景や軍人としての人間
形成の制約もあったためか、人類共通の知的財産の域にまで高められることはなかったが、
日本の歴史に名を残したことにより、われわれは、知性の文化に関わりを持った帝国軍人が
いたことをしることができた。
 してみると、名前も残さず、結局は世の流れにもみ流されてしまったかもしれないが、時には
自分の人生に疑問を持ち虚しさを感じた帝国軍人たちも、少なからずいたのではないかとも考
えられる。そのような人々が、真のアイデンティティを求めて知性の文化に足を踏み入れようと
した時に、その人々に考え方の道筋を正しく示し導いてくれるような、また、知性の論理を損得
計算に優先させる知的誠実さを評価するような、高い知性の文化が存在していたら、日本が
歩んだ方向も少しは違っていたのではないであろうか。知識人の役割と責任は重いのである。
 他方、その思想自体に対する評価は別として、仮のアイデンティティでがんじからめになって
いた典型のように思える帝国軍人でさえ、真のアイデンティティを求めていたことを教えてくれ
る、石原莞爾のような人物の存在には勇気づけられるものがある。どのような教育も、どのよ
うな社会環境も、真のアイデンティティに対する人間の渇望を、完全に抑圧することはできない
ことを示しているからである。まして、そのような抑圧のない社会では、驚くほど多くの人々が、
顕在的あるいは潜在的にアイデンティティを求め、あるいはそのための道しるべを求めている
に違いないのである。
 
知性の文化への入り口
 知性の文化への第一歩が、人間の成長の一過程としての青春期のアイデンティティ追求の
衝動であるとしたら、一定の水準以上の知能(たぶん、読書能力)を持っている青年たちは、
学生をはじめすべてが知性の文化に足を踏み入れる可能性を持っているのである。実際に
は、かなり多くの青年たちが、知性軽視の風潮や生活の文化の影響を受けて、知性の文化に
背を向けたまま社会に出てゆく。
 この人たちが社会の荒波に揉まれ種々の不条理を体験して、自分の人生のあり方を自分自
身に再び問い直す時が、知性の文化に目を向ける第二の機会である。この人たちは各年代に
またがって存在するが、特に、広い意味の中年層が多数を占めているはずである。ただし、少
なからざる人たちは、知恵と才覚万能の社会生活の中で、まとまった論理的思考の習慣を失
っているために、自分だけの力では、この自分自身への問いかけに対する答えを探しあぐね、
知性の文化に触れることなく、「仕方がない」というあきらめと共に生活の文化の世界に戻り、
一生を送ることになる。
 しかし、この人たちの、自分自身に対する問いかけは、実体験からでてきたものであるだけ
に切実であり、また、自分自身に問いかけるだけの知的能力を備えているのであるから、思考
の方法や道筋についての適切な助言や示唆があれば、かなり高度のアイデンティティにたどり
つくことも期待できるはずである。特に、中核集団に属しながら改めて自分のアイデンティティ
を問い直そうとしている人たちが、自分自身で考え判断する能力と習慣を取り戻すことができ
れば、中核集団の知恵の文化に、この人たちを通じて知性の文化を注ぎこむことも可能にな
る。
 それでは、そのような適切な助言や示唆とは具体的には何かということになると、これは知識
人の出番なのであるが、知識人の助けを待つまでもなく、この人たちあるいは私たち自身で始
めることができることもある。それは、職場をはじめとして自分自身が属する集団や組織で体
験した不快感を、自分自身も他の人々に及ぼしているのではないか、もしそうであるとしたらど
うすればよいのかと自分自身に問いかけることから始まる。
 最も単純な解答は、他人からされたくないことは自分も他人に対してしない、ということであ
る。ところが、何をされたくないか、何をしてはならないかということになると、その時々、場面場
面で千差万別であり、ひとつひとつ列挙するのは困難である。そこで、あらゆる場合に通用す
る判断の具体的基準が欲しいのであるが、そんなものは存在しない。ただ、少し遠回りではあ
るが、その判断を、より適切にすることができるようにするものはある。それが知性であり、感
性特に対人的感性であり、そして品性なのである。
 
新しい価値体系の発見
 そうすると、知性、感性、品性を身につけるにはどうしたらよいか、というのが次の問いかけ
になる。これもまた、具体的な解答はさまざまであり、そろそろ知識人の助けが必要になるの
であるが、最も一般的には、まず本を読むということに尽きるであろう。仕事に直接役に立つ
本を離れて、そうかといって最初から難解な哲学書に取り組む気にもなれないというのであれ
ば、古典として既に評価が確立している東西の小説から始めるのもよいかもしれない。
 それに、一般に哲学書というものは、それを読むこと自体に喜びを覚える人すなわち哲学的
訓練を受けた人は別として、そこからすぐに何か役に立つ示唆を得ようとして読む人は、期待
を裏切られることが少なくない。哲学専攻者でないわれわれ一般人には、はっきりした問題意
識に基づいて特定の本を読む場合を除き、論理的思考の訓練以上の具体的果実を哲学書か
ら摘みとることは、なかなかむずかしそうである。
 小説と哲学書の中間には、それぞれの読者の能力と関心に合致したさまざまな種類の本が
存在している。いずれをとるにしても、知性の文化が文字の文化から発展したことを考えれ
ば、知性を求める人にとって、本を読むことの重要性は改めて指摘するまでもないであろう。
 いろいろ読んだり考えたりしているうちに、自分の知性や感性は、目先の利害にしか関心の
ない上役たちのそれよりも高くなっているのではないかという自信がついてくると、今まで癇に
さわるばかりであったその人たちの行動様式を客観的に見て、自分がしなくてはならない行
動、してはならない行動の参考にすることができるようになってくる。また、学歴や地位や財産
のような目に見える世俗的な価値体系以外にも、知性や感性あるいは品性といった、内面的
な価値の系統があることがわかってくる。
 更に、自分をとりまくさまざまな不快な事柄の改善は、個人レベルだけではなく、その社会の
生活の文化の質的向上を通じてのみ期待できるものであることに気づいて、関心の対象が社
会レベルに広がると、そこに新しい世界が開けてくる。生活の文化の質的向上を目指して知性
の文化や感性の文化の分野で活動する、志を同じくする人々の存在を知り、この人々と直接
連帯できればもちろんのこと、心の連帯感を持つだけでも、百万の味方を得たように感じるこ
とができる。ここまでくれば、個人にとって新しい人生への開眼であると同時に、社会にとって
も、生活の文化の質的向上のための新しい貢献者の誕生ということができるであろう。
 このように、自分自身への問いかけを始めた人々が、知性の文化および感性の文化という
共通の道筋をたどって、ついに社会的人間としての自覚に到達し、その社会の文化を向上さ
せることによって、自分だけでなく他の人々と共に快適な生活を分かち合うことに精神的充実
感を持つことができるようになるために、知識人側からの適切かつ具体的な助言や示唆が強く
期待されるのであるが、今日の社会でその成否を大きく左右するのがマス・メディアの働きで
ある。


第十三章 マス・メディアの役割
第十三章 マス・メディアの役割
                                     トップへ
第十三章 マス・メディアの役割
第十三章 マス・メディアの役割