第八章 アイデンティティ 
  
T アイデンティティの概念
 アイデンティティについては、既に、第五章の「文化相対主義の陥穽」の項で、民族のアイデ
ンティティについて触れ、この言葉の使い方には注意が必要である旨指摘したが、ここで取り
上げるのは、個人のアイデンティティの問題である。
 民族のアイデンティティが民族の独自性という意味で使われることが多いのに対し、個人の
アイデンティティは「自分は何者か」という意識と関連しており、日本語では「自我同一性」とか
「存在証明」とかいう言葉で表わされている。「自分は何者か」という問いに対する最も単純な
解答は、アイデンティティ・カード(身分証明書)によって得ることができる。すなわち、身分証明
書を発行できるような組織に属していれば、「自分は何者か」を本人が特に意識しているかどう
かにかかわらず、その組織が証明してくれるのである。ただし、現在の日本では、政府が国民
に身分証明書を発行する制度をとっていないので、組織に属していない自由業の人々や主婦
たちが、本来の意味の身分証明書を取得することは必ずしも簡単ではないが、運転免許証や
パスポートがその役割を代行してくれることもできる。いずれにしても、この場合に証明される
べき身分は、最低限、国籍、氏名、性別、生年月日であり、それに職業と写真が加われば十
分であろう。この場合のアイデンティティは、他人と区別された自分の存在という客観的事実で
あると言ってよい。 
 しかし、現代の社会では、両親の国籍が異なり、更に自分は、両親の国籍以外の国で生ま
れ育ったというような例も、ますます珍しくなくなってきている。このようなケースでは、複数の国
籍を持つ可能性もあるし、法律上の国籍は決まっても、文化的には他の国や他の民族に対す
る帰属意識の方が強い場合もありうる。そうなると「自分が何者か」を証明してくれる相手は必
ずしも自明ではなく、先ず自分が選ばなければならない。この場合には、法律上か制度上か、
あるいは個人の意識上かの違いはあっても、結局は、いずれの国、社会、あるいは個別の組
織ないし集団に帰属しているかという個々人の「帰属意識」が、アイデンティティの重要な要素
になってくる。
 それでは、帰属すべき国や集団が決まれば、アイデンティティの問題は解決するのかという
と、必ずしもそうではない。国や集団は、それぞれ独自の文化すなわち価値観ないし思考・行
動様式を持っているが、いずれかの国や集団に帰属したとしても、その価値観に全面的に適
応できるとは限らない。それに、帰属先が国や社会のように大きくなればなるほど、また、民主
化が進めば進ほど、その価値観すなわち思考・行動様式も多様化し、選択の余地が大きくな
って来る。更に、既存のいずれの思考・行動様式にも満足できず、従ってそれに同一化するこ
とに抵抗を感じる場合すら出てくるであろう。その時にどうするかは人によって異なるが、一般
的には、自分を曲げて、国や集団の既存の思考・行動様式に合わせるか、あるいは、自分自
身の価値観に従って行動するか、更には、強い信念の持ち主の場合には、国や集団の既存
の思考・行動様式を、自分自身の価値観に合わせて変えるように働きかけるかのいずれかで
ある。
 民族のアイデンティティを強調する立場からは、前者の、集団の文化に個人の価値観を合わ
せることを求める傾向が強い。しかし、既に見てきたように、文化にも迷走したり暴走している
ものもあり、常に誰にでも良いものであると言えない以上、集団の文化に無条件に同一化する
ことを拒む人がいても不思議はない。もっとも、既存の価値観に満足できず、それに順応したく
ない場合でも、常に自分自身の価値観が確立されているわけではない。それを確立するため
には、「本当のところ、自分は何をしたいのか」「何をすれば、充実感を得られるのか」ひいて
は「いかに生きるべきか」という内面的対話、哲学的な思考が必要になる。そして、その結果導
き出された自分自身の価値観に忠実に行動すること、すなわち自己の価値観に同一化するこ
とが、個人のアイデンティティの確立なのである。そして、この種の思考は、目先の利益や力関
係をいかに素早く見て取り、有利に立ち回るかという生活の知恵とは異質の、より長期的、よ
り精神的視点からの論理的考察が核心となる知性の文化に属する知的活動である。  
 いずれにしても、ここまでたどってきて初めて、個人のアイデンティティは、自分を他者と区別
するための「身分証明」から、国や民族等の既存の実体ないし価値観への「帰属意識」を経
て、自分自身の内面への問いかけを通じて確立された「自我への同一化」を意味する概念に
到達したわけである。
 なお、民族のアイデンティティ(独自性)を、時に見られるような、主観的かつ日常的な価値観
にまで広げることなく、共通の歴史や言語といった客観的かつ限定的な実体にとどめておけ
ば、民族のアイデンティティと個人のアイデンティティ(帰属意識ないしは自我同一性)の衝突を
避けることは可能であろう。
  
U 自我同一性としてのアイデンティティ 
 人間は、この世に生を受けてから、親や周囲の年長者の影響を受けながら成長して行く。一
般的には、幼年期・少年期ごろまでは、物の見方、考え方も身近な親や年長者の影響を強く受
け、自分から、それに同調ないし同一化しようとする傾向が強い。これによって社会性を身に
つけて行く。しかし、自我の発達に伴って、自分自身の物の見方、考え方すなわち価値観が形
成され始めると、周囲の影響から離れて、内的な自分自身に同一化しようとし始める。こうし
て、他人にではなく、自分自身に同一化した、言い換えれば自分だけの物の見方、考え方が、
自我同一性すなわち本来のアイデンティティなのである。ただし、これは丁度、思春期あるいは
反抗期の頃に強まる心の動きであるが、未だに人生経験も浅いため、気持ちははやっても、
まだ、はっきりとした自分自身は見い出せていないのが普通である。そこで、人間は、自分だ
けの物の見方、考え方、ひいては「自分は何者か」「如何に生きるべきか」「何をなすべきか」
等の、自分自身への問いに対する答えを求めるために、通常、次のような過程のいずれかを
たどることになる。
 @自分自身だけにかかわる個人的な問題として、突き詰めて考えて行く。この場合、先人が
切り開いてきた哲学や宗教が、ヒントを与えてくれることもあるであろう。うまく行けば、高度の
個の確立を達成できるかもしれないが、行き詰まって心の支えを失うと、最悪の場合には、自
殺などによる思考の停止に救済を求めることもある。実際には、この内面的な問いかけに、心
から納得できる解答を得ることは、必ずしも簡単ではない。その時点では、これこそ自分が求
めていた解答だと思っても、暫くすると、周囲の状況が変わったり疑問が生じて来たりして、再
び問いかけを始めなければならないことも珍しくない。しかし、この問題に繰り返し真正面から
取り組み、論理的思考力を鍛え上げて行くことによって、知性も高められて行く。従って、アイ
デンティティはひとたび確立されれば不変というものではなく、内面的な成長に伴って新たに変
化することもあり得るのである。
 なお、アイデンティティと宗教との関係は必ずしも簡単ではないが、個々人の内面を通じての
神との直接の対話を認める宗教が、信者のアイデンティティの確立を助長する役割を果たす
可能性を持っているのに対し、神自身あるいはその代理人の一方的な命令への無条件の服
従を求めるだけの宗教は、信者のアイデンティティの確立をむしろ妨げる方向に作用する傾向
があるということができるであろう。
 A「如何に生きるか」といった、自分自身の内面との(あるいは神との)対話に関心のない人
や、論理的に突き詰めて考えるのが苦手な人も、なんらかの価値観なしに生きて行くことはで
きない。そのような場合に、特定の人(指導者、師、ボス等)あるいは自分の所属する国家や
組織(会社、官庁、宗教団体、各種グループ等)に同一化し、そのような特定の人物や組織の
価値観を、そのまま自分のものとして受け入れるという選択がある。ただし、本人は、借り物の
価値観ではなく、あくまでも自分自身の価値観であると信じている、あるいは信じようとしている
場合が多く、一見アイデンティティが確立しているように見える。しかし、自分自身への内面的
問いかけを通じて確立されたものではなく、実際には他者の価値観に左右されるという意味
で、「仮のアイデンティティ」と呼ぶべきであろう。身近なところではいわゆる会社人間等がその
例であるが、実際には、人類の歴史を通じて、このタイプの人間が圧倒的に多かったものと思
われる。
 何故ならば、元来、「自分は何者か」「何をなすべきか」との問いかけに対する解答を模索す
る意味があるのは、その問いに対して複数の解答の可能性がある場合のみである。古代国家
成立以来の人類の歴史の大部分を占める、生まれた時から、氏素性によって生涯の職業や
地位が予め決められていたような固定社会では、大部分の人々にとって、自分は何者で何を
しなければならないかは、予め定められており、自分では殆んど選択の余地はない。実際、洋
の東西を問わず、封建制度の下では、生まれた時から予定されている自分の社会的役割に
同一化するほかに道はなく、その役割を超えて自我を発揮しようとすれば、しばしば周囲との
摩擦が生じ、社会的に排斥されることも少なくなかった。それを避けようと思えば、分をわきま
えて、自我を抑制するほかない。自我を捨てて、君主の意思に自分を同一化することが忠誠
心として高く評価される社会では、自我同一化は、平穏な人生に波乱をもたらしかねない危険
な精神活動である。そのために、多くの人々は、生活の知恵として、ほとんど無意識の内に、
内面的な問いかけに目をつむる習性を身につけて来たのであろう。
 このような、特定の人物や組織の価値観に同一化する「仮のアイデンティティ」の問題は、う
まく行けば、大きな悩みもなく人生を送ることができるかも知れないが、その特定の人物や組
織が消滅した場合には、それに依存していた自己も崩壊しかねないリスクを負う危険があるこ
とである。これは、アイデンティティ・クライシスすなわちアイデンティティの危機ないし崩壊と呼
ばれる状況である。
 更に具合の悪いことは、このような人々が多ければ多いほど、確立した個人により構成され
ることを前提とする民主主義社会の形成・維持が困難になり、全体主義指向になりがちなこと
である。全体主義社会は、基本的に、少数の支配者に多数の大衆が、よく言っても同一化、事
実上は盲従することを強制する社会である。軍事的に強くなることはあっても、最大多数の最
大幸福とは無縁の社会であると言う意味で、文化的に民主主義社会より劣った存在であること
は、これまでの考察から、また歴史的事実からも明らかであろう。
 それにもかかわらず、アイデンティティという言葉が、この、自分自身以外の何か、例えば国
家や民族あるいはもっと広く、アジア人種といった集団の価値観への「帰属意識」ないし同一化
の意味で用いられることがしばしばあるのは、われわれ自身が、その属する集団から独立した
個人としてのアイデンティティすなわち自我同一性を意識する傾向が一般的に強くないこと、あ
るいはもっと積極的に、自我同一性よりも集団ないし強者との同一性を求めたがる傾向が強
いことを示しているのかもしれない。
 Bところで、この@にもAにも該当しないケース、例えば、このような内面的な問いかけと取
り組む意思や、あるいはそのために必要な知力がなかったり、そうかと言って、帰属し得る特
定の人物も集団もない人々が存在する。これらの中には、かつてはそれなりのアイデンティテ
ィあるいは仮のアイデンティティを持っていたのが、何らかの理由で、それを失い、いわゆるア
イデンティティ・クライシスに陥っている人々も含まれている。
 このような場合には、はっきりした価値観がないため、この人々の思考や行動の基準は、そ
の時々の気分や欲望が中心となり、気の強い人は自分勝手に、気の弱い人は不特定の周囲
の影響に左右されて、いずれも首尾一貫しなくなりがちである。この場合の気分や欲望も、確
かに自我の一種なのではあろうが、気分や欲望だけであれば、人間以外の動物にも見られる
自我である。従って、「今その欲望を満たすのと抑制するのと、どちらが自分の人生全体にとっ
て、より大きな意味を持つのであろうか」等の、多少なりとも知性的・哲学的な内面的対話に基
ずく価値観の選択を経ていない自我の場合には、如何にそれに忠実に同一化して行動したと
しても、これをしもアイデンティティと呼ぶのは適切ではないであろう。自我にも質の高低がある
のである。 しかし、実際には、このような人々も、社会の中で生活している限りは、その社会
の価値観ないし規範に、進んで同一化しないまでも消極的には従っている場合が多い。従っ
て、この人々がどこまで健全な社会生活を送れるかどうかは、その社会の文化自体の健全さ
と規範力の強さにかかっていると言うことができるであろう。特に、ある程度以上の知力があり
ながら、自己の内面との対話などには関心が薄いために、価値観が確立していなかったり希
薄であったりする場合には、生活の知恵は十分働くのみならず、余計な内面的拘束が少ない
だけに融通無碍に、良くも悪しくも、世俗的にはむしろ活発に活動する人々も少なくない。この
ような人々は、社会的規範を逸脱しない限り、その知恵と才覚で、世俗的な成功を収めること
も珍しくないが、内面的拘束力に欠けるところがあるため、周囲の状況次第では、しばしば脱
線したり、社会的規範を無視したりして、時には犯罪行為に走ってしまうこともある。
 人類の永い歴史の中で、国家や社会集団の拘束力が圧倒的に強い期間が大部分を占めて
いたこともあり、これまで生を受けた人類の大多数は、前記Aのような、社会集団ひいてはそ
の支配者の価値観に同一化した、仮のアイデンティティを心の支えとして生活して来たのであ
ろう。
 しかし、民主主義思想およびその前提である人権思想が普及するのに伴い、国家や社会集
団の拘束力・強制力がゆるんで来た社会では、前記Bのような、真剣な内面的対話を経て確
立されたアイデンティティは言うに及ばず、仮のアイデンティティすら希薄な人々がますます増
加している。そして、これらの人々が、その時々の気分とむき出しの欲望に従って行動する場
合には、社会の健全な秩序が乱され、結局、社会全体の快適さではなく、不快感が増大する
結果をもたらしかねない。 そうかといって、ひとたび民主主義的政治を経験した社会では、も
はや、再び国家や社会集団の強制力を強めて、その構成員に対する強度の締め付けを復活
させるわけには行かないであろう。それでは、アイデンティティが希薄で、むき出しの欲望と衝
動で行動する人々が増えている社会では、社会の健全な秩序を維持するためにはどうすれば
良いであろうか。それは先ず、これらの人々に、その属する社会の文化に誇りを持たせ、それ
に同一化することが、精神的充実感も含めた最大の快適さを享受するための最善の道である
と思わせるような、質の高い文化を作り上げることである。そして、その文化の、柔らかく包み
込むような、しかも毅然とした道徳的拘束力と方向づけに期待するほかに、特効薬は無いので
はないであろうか。
 
V アイデンティティの確立
 以上のように、アイデンティティの確立は決して容易ではないことを考えると、中世から近世
にかけての典型的な封建制度下に限らず、大多数の個々人の自我が徹底的に抑圧されてき
た人類の永い歴史を通じて、その時代時代の社会常識や固定観念に抗してアイデンティティを
敢えて追求し、人間のあるべき生き方を探ろうとしたのは、人類全体から見ればごく少数の、
特殊な意識を持った人々であったと言うことができよう。しかし、このような人々の中の、特に
才能に恵まれた一握りの人々の知性から、多くの試行錯誤的考察を経て、ついに現代の人類
社会の基盤となっている民主主義思想が生み出されて来たことは、社会を発展させる知性を
育むために、アイデンティティの確立が不可欠であることを示している。
 ひるがえって、今日の社会を考えてみると、国によって違いはあるが、少なからぬ社会で、そ
の構成員は、自分自身の能力に応じて自分の人生を選択する自由を享受している。従って、
本来は、自分自身を、自分がどのような生き方をしたいかを知っていないと、人生の選択もで
きないはずである。しかし、実際には、自分自身を常にしっかりと把握して、これこそ自分が求
める人生であると確信を持って生き抜ける人は、必ずしも多くない。
 先ず、思春期ないし青年期までは、殆んどの人は、それぞれの生まれと育ちの中で、親をは
じめとする周囲の人々や社会環境によって、本人にとって望ましいとみなされる成長コースを
たどる。この時期には、通常、進学先等の選択に際しての価値観は、主として親や周囲の示
唆や指示あるいは期待に大きく影響され、はっきりした自我は、普通は、まだ姿を現わしてい
ない。 
 「自分は何者か」「何をなすべきか」という根源的な問いかけに、個人差はあるとはいえ、人
生で初めて真剣に直面するのは、一般的には思春期から青春期にかけてである。異性、しか
も決して自分の思い通りにならない異性の存在を意識することを通じて、他人と異なる自分の
存在が意識の表面に現れてくるのがこの時期であるからなのかもしれない。
 この時期は、人生で最も多感な時期であり、将来の職業の選択とも関連して、自分自身の関
心事や価値観すなわち自我が、具体的に形造られ始める時期でもある。現代の社会では、就
職してしまうと、日々の仕事に追われて、内面的な問いかけなどしている心のゆとりは殆んどな
くなってしまうので、思春期から、就職するまでの青年期の数年間は、自我の形成にとって、極
めて大切な時期なのである。
 ところが、少なからぬ若者たちが、この時期に、入学試験勉強で知識の詰め込みに忙しく、
内面的な思考は停止を強いられ、あるいは入学後は、受験勉強の反動かもしれないとしても、
遊びにかまけて自ら思考を放棄したりで、明確な自我ひいては自我同一性、すなわちアイデン
ティティの確立に至らないまま過ごしてしまう傾向が強い。その状態で就職すると、今度は、じ
っくりと思考する時間が殆んどないため、大部分が、就職した組織や所属した集団の価値観
を、取り敢えずそのまま自分の価値観として取り入れ、自我の肩代わりをさせることになる。そ
のように本当の自我が確立していないと、他者との関係を通じてしか自分の存在を確認するこ
とができないので、しばしば、人生競争で「他人に勝つ」ことによる優越感によって、他者と異な
る自分を確認しようとしがちにもなる。そのような人にとっては、出世競争に破れることは、自
分の存在意義を全面的に否定されるほどの打撃であろうが、一般的には、組織や集団の中で
無我夢中で働き、順調に昇進して行く限り、普通の人の場合、その組織や集団の価値観が本
当に自分の価値観なのだろうかなどと疑問を抱くこともなく、それなりに幸せな一生を送ること
ができるかもしれない。
 しかし、残念なことに、ピラミッド型の人間社会では、最後まで順調に上昇し続けることのでき
る人は、決して多くはない。大部分の人は、人生のどこかで挫折したり、失意を味わったりする
のが普通である。そして、多くの人にとって、挫折や失意が、改めて自分の人生の意味を問い
直すきっかけになることが少なくない。もちろん、輝かしい前途を約束されているにもかかわら
ず、常時、内面的な問いかけを怠らない、極めて優れた知性の持ち主もいないでもないが、こ
のような人々は、現在も含め、人類の歴史を通じて、常に、極く限られた存在でしかなかった。
 普通の人の場合、就職し、結婚し、子供を育てている間は、少しぐらいつまづいても、人生の
意味を問い直しているゆとりなどはない。自分が夫であり、妻であり、あるいは親であることは
紛ごう方なき事実であり、自分の人生は、家族のため、自分自身のためにもかけがえのないも
のであることは、自明の理なのである。ここには、自分は何のために生きているのかなどという
疑問が生じる余地はない。従って、久しく忘れていた自分のアイデンティティを改めて意識する
のは、通常、子供が親の手を離れ、経済的にもゆとりができ、夫婦の絆も多少なりとも弛んでく
る中年以降であろう。この時期、ふと自分の過ごしてきた人生を振り返って見て、これで良かっ
たのだろうか、何かし残していることがあるのではないであろうかと自問する人は少なくないよ
うである。しかし、その内面的問いかけに適切な解答を見い出し、新たなアイデンティティを確
立できる人は必ずしも多くない。大部分の人々は、何か満ち足りない思いを抱きながらも、充
実感を得る方法を探しあぐね、これまでの延長の人生を送ることになる。 
 しかし、人間の寿命がこれだけ延びて、体力や経験等が、少なくとも前半と後半で別人のよう
に変わり得ることを考えれば、これからは、ふたつの人生を生きるつもりで人生設計をする必
要が出て来ているのかもしれない。すなわち、主として知恵と体力を基礎に、専門的能力や特
技を身につけ、他人と競い合いながら快適な生活の基盤を固めることにエネルギーを注ぐ前
半部分と、他人と比較した地位や経済力の高低に一喜一憂する競争的価値観に距離を置き、
知性や感性の文化を通じて、自分自身の内面的な充実や社会への貢献に価値を見いだす後
半部分である。そして、このふたつの部分を悔いなく生き抜くためには、前半部分の更に前
半、すなわち、社会に出るまでの青春期に、人生の前半部分だけではなく、後半部分について
も、いずれはアイデンティティを確立できるようにする基礎を作っておくことが必要である。
 人間の一生には、「鉄は熱い内に打て」という諺もあるとおり、その時々にしておかないと、時
宜を逸する事柄がいくつかあるようである。幼児期に、親や周囲の大人たちの豊かな愛情に
包まれて育つことは、その後の感性の発達に大きく影響すると言われている。同時に、この時
期のしつけも、将来の人間形成にとって極めて重要である。記憶力旺盛な学令期に、人間とし
て必要な知識を植えつけることや、肉体的成長期に身体を鍛えておくことは不可欠である。そ
して、自我が発達する青年期は、未だ現世的利害にとらわれることなく、自分の内面と正面か
ら向き合っての対話を通しての論理的思考力を培っておかなければならない時期である。とり
わけ、現代は、ひとたび社会に出ると、余程そのつもりで努力しないと、自分の内面との論理
的な対話能力を伸長させることなど困難な時代である。従って、この時期に、自分の内面と論
理的に対話する能力を十分に養っておかないと、周囲の状況に適応し対処することに殆んど
のエネルギーを注ぎ込んで来たのちに、中年期以降になって、再び自己と向き合う状況に置
かれた時、内面との対話によって本当の自分を見い出すことは、かなり困難な作業になってく
る。
 実際、自分の内面と対話する能力にしても、論理的に考える能力にしても、ほかの計算する
能力や読む能力、あるいは走ったり、跳んだり、泳いだりする肉体的能力と同様に、繰り返し
練習しない限り向上は期待できない。ところが、酒は練習すれば強くなると言って、不条理な無
理強いをする人や、ゴルフは数をこなさなければ上手くならないという正論で、練習の必要性を
強調する人は少なくないが、毎日短時間でも良いから内面的対話や論理的思考の練習をたゆ
まず続けることの大切さを説く声はあまり聞こえてこない。しかも、思考能力も分野によって異
なり、自然科学分野の論理的思考能力が高まったからといって、社会科学分野や人文科学分
野の論理的思考能力が高まることにはならない。従って、アイデンティティを確立するために
は、日頃から、個人と社会との関係についての論理的思考と、それを基盤にした「如何に生き
るべきか」という内面的対話を怠らないことが必要であり、特に青年期に、この分野での思考
能力すなわち知性の基礎を作っておくことが必要なのである。
 また、自我を形成する過程で、知性だけでは足りない部分や行き詰まった部分を埋め合わ
せ、方向づけてくれるものとしての豊かな感性を養っておくための努力も欠かすことができな
い。そして、このような知性と感性の相互作用で確立された個々人のアイデンティティが、更に
高い知性と感性を磨き上げ、それが再び日常生活に反映されて、社会の基盤である生活の文
化が向上させられることになるのである。
 こうして、アイデンティティと知性および感性との関係、ひいては、それらと文化との関係が明
らかになって来たが、更に、知識や知恵にくらべて見えにくい知性や感性よりも、もっと目に入
りにくく、しかも生活の文化の質的向上に不可欠な「品性」についても触れておきたい。
 

第九章 品性
第九章 品性
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第九章 品性
第九章 品性