第一部 文化の構造
  
 第一章 文化人類学と文化
 
T フィールドワーク
 
 カメルーンは、アフリカ大陸の中部、赤道のやゝ北側に位置しており、国の西側は大西洋の
一部であるギニア湾に面し、そこから周囲を時計回りにナイジェリア、チャド、中央アフリカ、コ
ンゴそして再びギニア湾に面するガボンといった国々に囲まれている。その国土は、アフリカと
いうと一般的に頭にうかぶ熱帯雨林(ジャングル)だけではなく、サハラ砂漠の南端に近い北部
の乾燥地帯や、涼しく爽やかな高原地帯、あるいは野性の動物たちが遊ぶサファリ・パークな
どが混在して変化に富み、ミニ・アフリカとも呼ばれている。
 このカメルーンが、毎年七月から八月にかけて、大学の夏休みを利用して訪れる日本の文
化人類学者や学生たちで時ならぬ賑わいを見せる。この人たちの多くは、中部アフリカ一帯に
居住するバーカ族(一般的にはピグミー族という呼び名が使用されているが、彼ら自身の呼称
はバーカ族である)の生活を調査、研究の課題としている。十年以上も継続して毎年訪れてい
る学者もいれば、半年ないし一年の長期間にわたってバーカ族の村落に住みつき、彼らと同じ
生活をしながら調査、研究を続ける学者や学生もいる。これが文化人類学の、フィールドワー
クないし野外調査と呼ばれる、現地に密着した研究活動である。
 何を調査するのかというと、バーカ族の人々の生活の全てなのだそうである。この人々の体
型や顔つき等の外観から始まって、住居の作り方、朝起きてから夜寝るまでの生活習慣の一
切、ものの見方考え方、数のかぞえ方、狩猟採集の仕方、食べ物の種類や保存方法、他の部
族との関係、冠婚葬祭の決まり、音楽やダンスなどの娯楽、病気の種類や治療法、生活用品
や道具の種類や使い方などなど、あらゆることをノートに記述し、写真に撮り、テープに記録す
る。そして、このような観察の結果をとりまとめて、民族誌と呼ばれるレポートを作成すると、フ
ィールドワークは一応完了する。
 このフィールドワークは、今や、文化人類学者になるために不可欠な通過儀礼のようであり、
それだけに、フィールドワークをするだけの体力も気力もなくなった中年以降に文化に関心を
持った人間は、文化人類学から門前払いされているような寂しさを感じないでもない。フィール
ドワークをしないと、本当に文化の研究はできないのであろうか。逆に、フィールドワークをすれ
ば、必ず文化の本質が見えてくるのであろうか。バーカ族についてフィールドワークをしている
若い研究者のひとりが、「このフィールドワークが何のためになるのか、ふと疑問に思うことも
あるのです」と洩らすのを聞いて親しみを覚えたのは、フィールドワークの比重が余りにも大き
い伝統的な文化人類学に反発を感じる人間の、ひがみの裏返しなのかもしれないが。
 人類学の起源は古く、世界各地の古代の人たちも、自分たちと異なる民族や、野蛮人とみな
した人種の体型や習俗に興味をもって研究したようである。しかし、人類学が科学の一分野と
して認識されるようになったのは、ヨーロッパから見た「未開地域」の植民地化が進み、「未開
人」に接する機会が増大してきた十八世紀末から十九世紀以降で、主として欧米の学者によ
る「未開人」の研究の進展に負うところが大きい。それが更に、人間の体型や頭蓋骨の形など
の生物的側面と、思考・行動様式などの文化的側面のいずれを研究対象とするかによって、
自然人類学と文化人類学とに分類されることとなった。このように人類学は、元来、人間その
もの及びその生活習慣の観察と記録を主たる研究の手法としており、従って、その人類学の
一分野である文化人類学が、ある人間集団の実証的な調査、研究のために、その究極的な
手法としてフィールドワークを重視するのは、当然のことなのであろう。
 
U 文化人類学の理論
 
 文化の研究に際して、植民地主義の進行と歩調を合わせて十九世紀後半に登場し、人々の
人種観ないし人種差別観に大きな影響を及ぼした社会進化論を忘れることはできない。 社
会進化論とは、ひとことで言えば、個々の生物の進化の原理を説いた「種の起源」で知られる
チャールズ・ダーウィンの進化論を、人間社会に適用するものである。社会進化論派の多くの
学説は、人間社会は野蛮→未開→文明の段階を経て進化すると説いた。これに、三大人種と
される白人種、黒人種そして黄色人種の間には、生物的進化の観点から生理学的な根拠に
基ずく優劣の差があると主張する「学説」が加わる。このふたつの学説を、様々な発展段階に
ある現実の諸社会と、それを構成する諸民族に当てはめて検証すると、世界の諸民族を、ヨ
ーロッパの近代文明を頂点として、進化の度合いによって序列化することができるというわけ
である。このような人種差別観が、未開民族を文明化するのは文明国の責務であるとする主
張につながって、植民地主義の理論的根拠となり、更に特定の民族の優秀性の主張に基ずく
他民族の支配と迫害を招く一因となったことは、二十世紀を生きてきた人々の記憶に、未だに
生々しい歴史的事実として刻み込まれている。
 ただし、社会進化論だけが無批判にもてはやされていたわけではない。これらの社会進化論
者の多くが、むしろ頭の中だけで理論を組み立てる傾向が強かったのに対し、二十世紀に入
る頃から、フィールドワークによる実証的調査を重視する研究者がふえ始め、その研究の中か
ら、社会進化論とは相容れない文化の様相が、相次いで発見されて来た。そこから生まれてき
た最も重要な視点のひとつが、文化相対主義的なものの見方、考え方であると言ってよいであ
ろう。   
 既に序章でも触れたように、文化相対主義とは、個々の文化はそれぞれ固有の価値を持っ
ており、その間に優劣の差をつけるのは不適当であるという考え方である。多くのフィールドワ
ークを通じて、現存する個々の社会集団の文化は、一見して野蛮ないし未開に見えるものでさ
え、決して過去に存在した文化の化石ではなく、実際には、与えられた条件に最大限に適応し
つつ、今日まで発達してきたものであることが見出された。仮に科学・技術面での格差や貧富
の差に基ずく生活様式の違いはあっても、それぞれに固有な歴史の上に築き上げられて来た
社会組織や人間関係は、それぞれの社会の価値観に対応して高度に発達しており、例えば金
銭的に豊かな社会が、貧しい社会に比べて、人間性の観点からも常に豊かであると断定する
ことはできないことが明らかになった。それぞれの人にとって、それぞれの価値観に最も合致
した文化が最も優れた文化なのであり、いずれの文化がより優れているかを客観的に決定で
きるような基準は、存在しないのである。このような文化相対主義的考え方は、文化人類学者
の間では既に二十世紀前半には主流になっていたようであるが、世界的に広まったのは第二
次大戦後であり、文化に多少なりとも関心を持つ一般の人々の間では、二十世紀後半の支配
的な考え方になっていると言うことができるであろう。
 文化相対主義は、熟練した研究者による、主として未開社会の文化すなわち思考・行動様式
の全てについての克明な調査・研究の賜物である。それに、地球上を覆う近代化の波にいず
れは埋没し、消えて行く可能性の高い未開社会の文化を記録に残しておくことは、人類の歴史
を研究するための、貴重な資料としても重要である。この意味でフィールドワークを通じての詳
細な民族誌の作成は、それ自体が学問的に十分な意味を持ち、そこに、多くの研究者がこれ
に全力を投じてきた理由を見出すことができる。学問の主要な手法のひとつに知識の集積が
あるが、民族誌の作成は、その手法から生まれた成果である。
 他方、学問には、同時に、ものごとの意味を論理的に執拗に問いつめて行く側面もある。こ
の傾向が強い人にとっては、未開社会の文化の詳細な研究から、何を、何のために導き出す
かが、より重要な課題であろう。確かに、民族誌による知識の集積の結果、人類は、文化の多
様性と、それをお互いに尊重し合うことの必要性を学び取ることができた。しかし、それぞれの
文化が、それぞれの歴史的条件の下で発達させて来た固有の価値を持ち、これまでと同様に
これからも、外部からの干渉なしにそれぞれに与えられた環境条件に適応して行けば、他の
文化と優劣のつけがたい固有の文化を更に発展させて行くことができるのであるとしたら、お
互いに干渉せずに棲み分けることこそ、お互いの幸福を保障する道であるということになって
しまうのではないであろうか。これでは、植民地主義肯定の極端に走った社会進化論を折角克
服した文化相対主義が、逆に、文化鎖国主義の理論的根拠として利用されることになりかねな
いが、それは文化相対主義の理論が心に描いた終着点ではないであろう。
 実際、文化間の優劣はつけがたいと言っても、個々の文化のいろいろな側面を比較してみる
と、ある文化ではある側面が優れ、他の文化では別の側面が優れていると考えざるを得ない
ケースを挙げるのは、さほど難しくない。一般的には、優れた側面を多く持つ文化が、優れた
側面の少ない文化よりも優れた文化であると考えるのが、常識であろう。もちろん、優れている
かいないかの基準を何に求めるかは、文化の本質である価値観に関わる重要な問題である。
同時に本書の主題のひとつでもあるので、これについては、文化相対主義の問題と共に章を
改めて考えてみることとしたい。
 以上のように、文化相対主義が、重要な歴史的使命を果たしたことは否定できないところで
あるが、今や、人類社会の文化の一層の理解と発展のために、文化相対主義を乗り越えた理
論の構築が、文化人類学の新たな課題として求められているように思われる。もっとも、文化
人類学者の間では、既に二十世紀の半ば頃から、社会や文化の進化ないし変化についての
新しい考え方の探究が始まっている由であるが、未だ明確な理論として提示されるところまで
には至っていないようである。社会進化論が提示されたのが十九世紀後半で、現実の社会風
潮となって猛威をふるったのが二十世紀前半であり、そのころ既に文化人類学者の間では主
流となっていた文化相対主義的考え方が一般に広まったのが二十世紀後半であったことを考
えると、文化人類学の新しい理論がわれわれの常識となるのは、早くても二十一世紀に入って
からということになるのであろう。
 本書において、私は、文化とは何かという問題から始めて、文化を形作り、変化させる要因
を探り、文化の優劣を左右する基準にまで迫ってみたいと考えている。その意味では、及ばず
ながら文化人類学の末端をけがすことになるが、他方、文化人類学の専門的訓練を全く経て
いないこともあってか、例えば、「挨拶」の仕方ひとつとっても、多くの文化人類学者の関心事で
ある、民族や社会による相違や多様性よりも、むしろ、誰もが挨拶をするという共通性の方に
関心が向く傾向が強い。共通性ないし普遍性の研究も、文化人類学の研究方法に既に含まれ
ているのかもしれないが、本書では、必ずしも文化人類学の枠や方法にこだわることなく、独
自の視点で文化の問題を考えてみたい。


第二章 文化とは何か
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