女性排除の「伝統」
 
 1. 「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコ世界遺産に登録されることとなったが、この霊
場と参詣道に属する大峯山寺は女人禁制とされている。
 日本相撲協会も、女性が土俵に上がるのを拒否しているようであるが、館内に入るのは受け
入れているのに対して、大峯山寺の場合には、寺の建物だけではなく、麓の登山口から足を
一歩も踏み入れてはならないとされている。
 いずれも、その女性排除の理由として「伝統」をあげているが、上の二つの例に限られず、
「伝統」とか「伝統的慣習」といった言葉は、日本だけではなく世界各地に見られる女性排除や
差別の風俗習慣の理由として重宝されている。
 女性排除の伝統ないし慣習の背後には、土俵や寺院のような神聖な場所には女性を入れて
はならないという考え方があり、その理由はさすがに今時は明言しにくいようであるが、根底に
は女性は汚(けが)れた存在であるからという意識があることは疑問の余地がない。 そしてそ
れは、闘争による出血と死に対する男性の恐怖心が、女性の生理や出産に伴う出血などに対
する嫌悪感を招き、出血だけではなくその出血の主体である女性自身も汚らわしい存在であ
るとみなした、われわれの祖先たちの原初的思考に源をたどることができる。
 科学的思考も論理的思考も存在せず、ものごとを専ら直感や思い込みだけで解釈し処理し
ていた原始時代には、われわれのご先祖は「死」と「血」と「女性」と「汚れ」を感覚的かつ短絡
的に結びつけて、女性は汚れた存在であると考えたのであろう。
 それを、人間の身体の仕組みや血液の役割などについての知識を持つ現代人の感覚で批
判するのは無意味であり、人類の歴史の歩みの中で生まれてきた多くの思考様式のひとつと
して受け止めればよいだけのことである。
 しかしそのような非論理的・非合理的な思考様式が現代まで生き延び、「文化」や「伝統」の
名で正当化されているのは何故であろうか。
 
 2. ある思考様式が長期間にわたって存続する主な理由は、大別すると二つ考えられる。
 
 第一は、そのような思考様式を受け入れることが生活や人生に快適さをもたらすと多数の
人々に受け入れられる合理性(論理的な説得力)を持つことである。たとえば、男と女と子供が
バラバラに生活するよりも、一緒に助け合って暮らす方がより安全かつ安定的に生きることが
できるという事実が、過去から現在まで、家族の形成という思考様式の合理的な根拠であり続
け、人種を問わず受け入れられ維持されている。
 しかし、家族の内容についての思考様式は、一夫多妻や大家族から事実婚や核家族などま
で、安全や安定確保の必要性の度合いを始めとする時代背景によって変化していることも忘
れてはならない。
 すなわち、女性の自活が困難であった時代には男性の経済力に依存せざるを得ず、女性が
従属的な立場に置かれる家族制度が優勢であった。しかし、女性の経済的自立が可能になり
社会的発言力も高まってくるにつれて、家庭内での女性の立場も改善されるような家族制度に
変化してきているのである。
 時代背景や社会環境の変化に対応した思考様式の変化をあるがままに受け入れるか、ある
いは社会的摩擦を引き起こしながら頑迷に抵抗して時代背景や社会変化への対応を遅らせ
るかは、その社会の構成員たる国民の、洞察力や想像力をはじめとする知的水準に負うとこ
ろが大きい。
 
 第二は、権力者や社会的影響力を持つ者などが、ある思考様式が自らの利益や思い込み
に合致するので存続させたいと考えて力で押しつける場合である。この場合には、その思考様
式は必ずしも多数の人々に快適さをもたらすことにはならない。
 権力や財産の世襲を正当化し少数の権力者によるその独占を図るために、血筋や家柄の
尊重という思考様式を強く打ち出し、たいした血筋や家柄もないため権力や財産に近づく術
(すべ)のない人々からの疑問や反発を力で押さえ込んでいられる限り、その思考様式は世代
を超えて存続し、ついには「文化」とか「伝統」の名で権威づけられるようになるのは、その典型
的な例である。
 この思考様式に対する疑問や反発が、権力者による押さえ込みを跳ね返す力を持てば、こ
の思考様式すなわち「文化」や「伝統」は存続できなくなる。
 
 一般的には、日々の生活に関連する思考・行動様式ないし文化・伝統は、社会・生活環境に
適応しながら上記の第一の過程を経て形成されたり変化したりする傾向が強い。
 これに対して制度的な文化・伝統は、社会的な階級や勢力間の力関係に応じて、第二の過
程を経て形成され変化することが多い。従って、その形成・変化の過程では対立する勢力間に
力の対決が生じやすく、発展の度合いが低い社会では武力や暴力で、他方、発展した社会で
は政治力で決着することになるが、発展した社会といえども民度が下がれば武力や暴力が再
びものを言うようになる。
 
 3.一般に、「文化」とか「伝統」は「善いもの」という前提の上で論じられることが多い。しか
し上記の観察から、思考・行動様式としての文化や伝統は、形成され変化した時点での時代
背景(勢力関係)や社会環境にそれなりに対応したものであるとしても、一概に「善いもの」と断
定できるほど単純なものではないことがわかる。
 形成された当時は必要かつ善い「文化」であったとしても、時代や社会の変化について行け
ず不要ないし有害な文化や伝統になってしまうものもある。そのような文化や伝統は消えて行
くかと思うと、必ずしもそうではない。人間には習慣を変えたがらない性癖や頑固さがあるの
で、男尊女卑のように、論理的な根拠がなくむしろ有害な文化や伝統でも、放っておくと意外に
永く存続してしまうのである。
 保守主義者を名乗る人々の中には、1000年も2000年も続いた文化や伝統は、続いたと
いう事実だけで今後も存続させる価値があり論理的根拠など不要とする論者もいるが、これは
典型的な思考停止型の主張であり、社会の発展と文化の向上にとって有害である。
 ある文化や伝統が善いものであるのか、有害なのかを判定するためには判定の基準が必
要であり、これがないと議論は噛み合わず、強い方や声が大きい方の言い分が通ることにな
る。
 それでは、ある文化や伝統の価値を判定する基準は何かというと、結論だけ言えば、その文
化や伝統が社会ないし多数の人々に快適さと充実感をもたらすか否かである。快適さと充実
感をもたらす文化や伝統こそ存続させ向上させるべき善いものであり、それをもたらさない文
化や伝統は変化するか消滅して行くことが、社会全体の発展と文化の向上のために必要なの
である。 
 (文化や伝統の価値判定の基準の詳細については、本ホームページ所載の拙著「文化とは
何か」第三章「生活の文化」をご参照願いたい)
 
 4.このように文化や伝統といえども全て善いものというわけではないので、ある制度や慣
習の存在を「文化」や「伝統」と呼ぶことでその存続を正当化しようとするのは無意味である。
それらの制度や慣習の存在に疑問が生じた場合には、個々の事例についてその存在理由の
正当性を検討し、存廃の是非を決めなければならない。
  女性排除や女性蔑視の文化や伝統について言えば、昔から続いてきたからというだけの理
由でこれからも存続させるべきであるとの主張には、女性排除や女性蔑視自体についての合
理的な評価や意味づけが欠落している。男性の不条理な優越感を満たすために人類の半数
を占める女性の大部分(頑迷な男性の思い込みに過ぎない文化・伝統論に同調して女性排除
や女性蔑視を肯定する女性が一部存在するのは、不可解であるが事実である)に無意味な不
快感を与えるだけの文化や伝統である。 
  確かに、大峯山寺や日本相撲協会による女性排除の文化・伝統によって直接影響を受け
るのはごく少数の女性である。しかし、こうした文化や伝統が未だに地中深く根付いている社
会では、女性の社会的活動や進出への制約、夫婦別姓制度採用への抵抗など、より多くの女
性の生活や人生に影響のある問題についても、女性排除や女性蔑視の主張が折にふれ声高
に唱えられる。これらの思考傾向は深層でつながり合っていて、もぐら叩きのように次から次
へ機会を見ては浮かび上がってくるのであるから、多数の女性に影響のある問題にいつ飛び
火してくるかわからない。
 さらに、こうした不条理がまかり通る風土のもとでは、弱者としての女性の問題に限らず、愛
国心や忠誠心あるいは義理人情など男性にも関わる問題についても、抵抗が弱いところには
いつでもどこにでも強者の論理が押しつけられることになる。女性排除や女性蔑視の文化・伝
統は決して女性だけの問題ではないのである。
  
 結局、文化や伝統の名の下にお互いにどこまで不条理を強いたり強いられたりするかは、マ
スコミを含めた社会の構成員の知的抵抗力すなわち知的思考能力の高さにかかっている。し
たがって、不条理の火の粉が身に振りかかると感じた場合には、あるいは選挙であるいは言
論で、またあるいは不買運動などの実力行使で抵抗の意志を積極的に示さない限り、人は快
適な社会・生活環境を確保し維持することはできないのである。
 (知的思考能力の重要性については、「文化とは何か」第十二章「知識人の役割」をご参照
願いたい)
                           (2004年10月20日記)
                       
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