南部とは・・・新しく南部に住もうとする人たちのために

第三章  「 南部 」 と 「 黒ん坊 」 ( 下 )


* ネル・アーヴィン・ペインター ( Nell Irvin Painter ) *


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 連邦議会は、これらの前向きの圧力、後ろ向きの圧力のすべてに反応する形で、1965年の選挙権法を通過させた。  これによって、有権者の大部分が選挙権を剥奪された来た地方では、 連邦による選挙の監視と一連の事故防止措置とが設けられることになった。  1965年以後は、南部の黒人たちが有権者登録し選挙を行うようになって、南部の政治に改革が生まれた。  この改革はレーガン大統領の時代に一寸ひるんだが、終わってしまうことはなかった。  ミシシッピ州では、これらの変化を容易に追うことが出来る。

 1964年以降、MFDPは民主党の大統領候補指名大会で、 公認の、しかし百合のように白いミシシッピ民主党と、1980年まで議席を分け合って来、この年初めて合同した。  1986年には、ミシシッピの有権者はマイケル・エプシー ( Michael Epsy ) を再編入*84 以来の最初の黒人下院議員に選んだ。  エプシーの当選は多くの白人の投票にも頼ったものではあったが、1965年の選挙権法が仮に無かったら、 黒人たちは、エプシーの当選を更に容易にした彼等の一票を投じることなど、決してできなかったであろう。

 1955年から65年にかけての公民権運動は非暴力のデモに民衆が参加するというのが特徴だったが、これが、 南部の社会を目に見える形で、また見えない形で多様に変革した。  確かに参加者はその運動で獲得できると思ったことに対し非常に大きな希望を抱いたのだが、結果は彼等の期待ほどではなかった。  と言っても、人種差別が社会的、経済的、政治的に多様な効果を伴った人種征服の一つのシステムであるのと全く同じ様に、 公民権運動で勝ち取られた変化はいまだに拡大しつつあるし、数も多くまた多様でもある。  公共の宿泊施設の利用*85 と投票とに先ず向けられた努力が、 次には職を求める非常な関心に移って行くという変化が、最も顕著であった。

 これは第一義的には重点の置き方の変化である。 というのは、1960年代の初めですら、要求は 「 仕事と自由 」 であった。  マ−チン・ルーサー・キングはこの変化を具現した人である。 差別の行われているバスに反対して抗議する事で彼の公的生活を始め、 ストライキをしている下水施設労働者との連帯を示しながら彼は死んだのであった。

           人種差別廃止とその反動  振り返ってみると、1964年公民権法の中で最も目立つ部分は、 雇用者や組合が人種 ( や性別 ) を理由に差別することを禁止したタイトル・セブン ( Title VII )*86B である。  この条項により、労働者は全米有色人向上協会 ( NAACP ) のような公民権を守る機関の援助を通常は受けて、組合や雇用者を訴え、 雇用される権利や仕事上の昇進を求める事が可能となったのである。  この事は南部の黒人労働者にとって、狭い選択の幅しかない 「 黒ん坊 」 向きの仕事から抜け出し、 それ以前は白人にしか適用されなかった先任権*86 の順番に沿って昇進出来るということを意味した。

 三つの南部の産業−−鉄鋼 ( アラバマ州バーミングハム*86Aとメリーランド州バルチモア )、 タバコ ( ヴァージニアとノースカロライナ )、および繊維 ( ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージャ ) で、 黒人労働者が雇用と昇進に対し機会均等を求める訴訟を起こして組合及び雇用者に勝った。  白人たちが、南部では新しい分野の比較的給与の良い産業に職を求めてこれらの産業分野から脱出して行ったこともあり、 1960年代後半以降、黒人労働者には製造業で働ける機会が増えていった。 永いこと白人の領分だった繊維産業では、 この変化がはっきりと反映している。

 ( 1964年公民権法によって作られることになった ) 雇用機会均等委員会が、 繊維産業でタイトルセブン*86Bが守られているか監視を始める前の1966年には、 黒人たちは掃除人の地位にまとめられていて、繊維産業労働力のたった8%を占めるに過ぎなかったが、 1968年までには繊維産業労働力のなかでの黒人の比率は13%に増え、 それ以前は許されなかった職工と言う半熟練職種に就く人も出てきた。  1970年代始めまでには、南部の繊維産業では圧倒的に女性が増え、工場によっても違うが、25乃至85%の黒人比率となった。  ジョージャ、サウスカロライナ、ノースカロライナ各州では1976年に繊維産業のすべての職種の26%を黒人が占めた。  黒人労働者の約3分の1は職工だったが、それでも、年俸制*87 の地位にまで上がった者はほんの一握りであった。  今日でさえ黒人の女性が繊維産業 ( 或いは他のどんな南部の産業でも ) で秘書として雇われることは希である。

 1960年代の末頃の繊維産業においては、黒人女性たちはウエートレスとか召使とかの低賃金の仕事から、 半熟練の仕事に移ることに熱心であった。 先輩の白人たちの多くと違って、黒人の繊維労働者は農業から直接工場にきたのではなく、 従って白人労働者がそうだったほどには雇用者の温情主義を有り難いと思わなかった。  この違いのため、黒人を多く雇った南部の産業では組合の組織化が促進された−− 特に永いこと組合の組織化に逆らってきた繊維産業がそうであった。

 多くの大変信心深い黒人労働者たちが、1960年代に公民権運動にあたって教会での人間関係を使って以来、彼等は、 経済的社会的向上のために集団的手段を用いようと努めてきた。 だから彼等の心の中には組合に対し共感するものがあったのである。  多くの南部黒人労働者は、組合組織を通じて経済的に力をつけようというキャンペーンを、 公民権を求める闘争の延長と見なしたのである。 前者は階級的な連帯であるし、後者は人種的連帯であるというだけの違いである。  1960年、70年代には、未だ多くの南部白人は、集団的行動をすることに慎重だったのだが、黒人たちは公民権運動の際、 貧乏人たちの権利の追求に効果があると分かったあの大衆行動を巧みに用いたのだった。  例えばサウスカロライナ州のオネタ ( Oneta ) 紡績やノースカロライナ州のJ.P.スチーヴンス ( J.P.Stevens ) 紡績などでは、 黒人労働者たちの熱情的な支持が組合に勝利をもたらした。

 こうして公民権運動によりもたらされた変化と同じくらい基本的な変化が起った結果は、必然的に複雑であり、 あるレベルでは衝突も起った。 20年以上もたった今、連邦政府による立法の跡を辿ると分かるように、 様々な南部黒人が人種的利害をそれぞれ人によって違う風に理解していると言うことは理解できる。  公民権法は南部のアフリカ系米国人労働者が家事手伝いとか農業とかよりは組合化されやすい工業的な仕事に就くことを可能にした。  一方、労働組織が今度は人種的連帯と言う公民権運動の基本精神に立脚しこれを強化していった。  しかし同時に、参政権による政治的効果により、人種的分裂の起こる可能性も示される。  深南部で起こった下記の一例はこの事を示している。

 1985年のアラバマブラックベルト*88 不正投票事件は無党派の黒人政治団体に対するレーガン政権の敵意を示すものとされているが、 これはこれらの裁判の国家的重要さに鑑み正しい解釈と言えよう。 手短かに言うと、 米国法務省は不正投票の疑いで数人の黒人被告人を裁判にかけたが、彼等は有名な公民権活動家たちであり、 中でもアルバート・ターナー ( Albert Turner ) は有名だった。  1960年代にはマーチン・ルーサー・キング牧師の親しい仲間でアラバマ州のSCLCのリーダーだった彼は、 1968年にはキングの随員として行進に参加している。

 1980年代中頃にはターナーと彼の仲間は、 貧民と黒人がほとんどを占めるアラバマブラックベルトの住人の利益を守ると誓うことによって、ある程度の政治的成功を収めていた。  彼等に対抗する勢力としては、地域の権力構造と和解する事に賛成の黒人政治家たちがおり、 彼等は永いこと経済的政治的権力を握ってきた連中*89 と協同するのは大変良い戦略だと考えていた。

 この不正投票裁判では原告全員と、たった一人を除くすべての被告とが黒人であったけれど、 マスコミの報道はこの事件を人種の違いと言う視点で描写した。 すなわち、ターナーと彼の一派は黒人側を代表し、 彼等の敵側を白人側とした。 なぜなら、アラバマ州において、また法務省において、力を持っていたのは黒人ではなかったからである。  ターナーとその仲間たちは、このような色分けに反発する貧乏人たちを代表すると言う公民権の伝統を継承し続けた。  一部の微罪以外はすべて無罪という裁判の結末は、被告達がはっきりした公民権運動家だったこと、 黒人組織により支援されていたことなどを考えると、黒人側の勝利と見なされた。  これは、現代史という有利な立場からして正当な決着ではあったが、アラバマブラックベルトにおいては、 まさに彼等の最大の利害そのものであるこの件に関して、黒人たちは必ずしも一枚岩ではなかったという、 興味深いポイントをぼやかしてしまったのである。  この不一致は、人種問題からだけでは明確に選り分けられないイデオロギー的、経済的な事柄に関するものだったのである。

 南部の公的生活において人種の持つ意味が薄れてくると、アフリカ系米国人たちはどんどんイデオロギー的に多様化して行き、 その結果、政治的にも多様化して行くと予想される。 しかし、南部では貧民が黒人の中に特に多いという事実が有り続ける限り、 また人種差別が現実として存在し続けるかぎり、南部における政治は黒人側と白人側とを示し続ける事だろう。  ともあれ、一つだけはっきりしていることがある。白人優位の強固なシステムの崩壊と人種差別時代の終焉は、 「 黒ん坊 」 についての議論を無意味にしたのである。
           
南部人になれた南部黒人

 今世紀の半ば以降、多くのことが変わってきたとは言っても、経済力が白人エリートに独占されていたので、 特に田舎では余り変化がなかった。 殆どの南部一帯、特に田舎の地方で、拡大を続ける政治改革の中で、 黒人たちが彼等の公民権を行使し始めた。 ヒスパニックやアジア人やユダヤ人などから成る非南部人の流入が増すにつれて、 南部社会を二つの人種だけから成る文化的に単純な一枚岩の社会だなどと総括してしまうことは出来なくなって来た。  現代の南部は50年前のそれとは違うが、それは主に、南部黒人が ( 南部白人と同様 ) 異常に多数他地へ去って行った事による。  特に、かつては黒人が沢山住んでいた深南部でこの人口流出がその土地の人的地図を塗り変えてしまった。  しかし大変面白い事だが、1975年と1980年の間に、この人間の潮の干満が変わって、 この期間には南部黒人がたった22万人しか他地域へ流出しなかったのに、 41万5千人も、他地域から黒人が南部に流入してきたのであった。

 他地域から 南部から黒人が移動したことによる文化的影響は、全国的、否、国際的な範囲にまで及んだ。  20世紀を通じてブルース、ジャズ、ゴスペル音楽はあまねく認められた表現形式となってしまい、 今日ではその演奏家の多くは南部人でもなければ黒人でもない。  人種が何であろうと、どの地方に住んでいようと、今日の米国人たちは、黒人の創造した文化の幾つかの側面に、 かつて無いほどに触れていると言える。 公民権運動のお陰で、南部に住む非南部人たちは、公的生活の事実上すべての面で、 例えばハイウエイパトロール、銀行の窓口係、選挙立会人、市町村長などをしている南部黒人に身近に出会うと言って良い。  こんなことは、つい最近とも言える1960年代までは、聞いたこともなかった事である。  いろいろな口実を使って、米国他地域でと同様、人種差別は南部でまだ残っている。  しかし、南部黒人たちがかつて無い程、芸術家として、労働者として、 また知識階級として彼等の力を振う事が出来ている事も事実である。

 南部黒人が南部を彼等自身の地域だと主張するように益々なってきた一方、南部白人の側でも、この要求を認めることを、 時には渋るが、しばしば好意も示すようにもなって来たというのは、新時代の象徴的な出来事である。 良く知られた実例として、 この種の名誉回復要求*90 がノースカロライナのサマセットプランテーションで起こっているが、ここでは、 1986年以降、レイバーデイ*91 に何家族かの黒人奴隷の子孫たちが集って会合を開いている。  自分の祖先がサマセット ( somerset ) の奴隷労働者である事を探し当てたあのドロシー・スプリュイル・レッドフォード ( Dorothy Spruill Redford ) に刺激されて、 先祖が一つの王国を築いたこれらのアフリカ系米国人たちは、 今や、彼等の貢献が表彰されて然るべきだと主張しているのである。*90  南部の過去の歴史も南部の未来も、黒人という側面を取り入れなくてはいけないのだ

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訳者注

*84 再編入 ( Reconstruction ) とは、南北戦争直後の南部諸州の合衆国への復帰統合過程の期間 ( 1867-1877 ) を言う。 この期間だけは北部の命令で南部にも黒人議員が存在した
*85 それまでは黒人は普通のホテルには泊めて貰えなかった
*86 seniority という米国によく見られる会社内の年功序列制度。 昇進、首切りはもちろん、駐車場の場所に至るまで、 同職種なら1日でも早く就いた人が有利な扱いを受ける権利がある
*86A 英国の Birmingham 市はバーミンガムと発音されるが、米国アラバマ州の同名の市はバーミングハムと発音される
*86B タイトルセブンとは1964年制定の11篇の個別法から成る公民権法の第七篇で雇用に関して性別、年齢、 人種などによる差別を禁止した立法
*87 米国では管理職、専門職は年俸 ( salary ) 制、労働者は一般に時間給 ( hourly wage ) 制である
*88 同州の黒人が特に多く住む地帯
*89 白人エリートのこと
*90 この人達が祖先の奴隷としての痛ましい思い出を恥ずかしがらずに事実として認めて行こうとしている所に意義がある
*91 米国の祭日で労働者の日。 9月第一月曜日
 

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