南部とは・・・新しく南部に住もうとする人たちのために

第一章  歴史的に特別な地域 ( 後半 )


* ポール・D・エスコット *


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人種差別と社会的不平等の影響

 米国人は、南部の歴史と南部の生活とには人種的不公正の跡が深く刻まれていると思っている。 結局は南部とは昔は奴隷制度の土地、 その後は人種差別の土地だったので、非南部人たちは何世代もの間、 人種的迫害は南部にだけ限定される非アメリカ的現象だと思いたがってきた。  人種差別にこういう地方による差異があると思うのは彼等の誤解だとしても、 人種的不公正が南部の歴史にたっぷり染み込んでいるという点では、これら非南部人の考えは確かに正しい。

 人種差別の影響は長い年月続いてきたし、今日でも南部の一部と言っても良いほどの関係にある。  とは言え、非南部人たちも、南部の人種関係に多くの進歩の跡が有ると気がつくのではなかろうか。 幾つかの尺度によれば、 現在の南部は他の地方より遅れているというより、むしろ先に進んでさえいる。

 とは言え、克服すべき旧い遺物も沢山あり、注意深く観察すれば直ぐに気付くように、 良く知られた進歩の跡がある一方では、問題点も多く残っている。 人種差別は他の地方同様、南部でも未だに生活の一部であり、 その遺物はこれから先も、何十年と消えはしないだろう。

 南部の歴史に関する事実で、面白いがしばしば見過ごされる点がもう一つある。  それは、南部では白人の間にも顕著な不平等と争いとが有ったという点である。  南部の指導者たちはそれは違うとずっと主張してきたが、最初は奴隷の反乱の恐れに備えて、 のちには白人の優越の名のもとに、白人全体が団結する必要から、すべての白人の地位は平等であり、 その人種ゆえに彼等は兄弟であるという主張が、繰り返しなされたのであった。

 ジョン・C・カルフーン ( John C.Calhoun ) *16 はこういう主張をした一連の南部指導者の一人である。  とは言え、南部の歴史の大部分にわたり、富は白人の間でも大変不平等に分布してきた。  南北戦争から最近に至るまで、機会が均等に得られたためしなど無かった。 白人同士の間で抗争があったのも驚くに当らない。  その最も顕著な例はポピュリスト ( Populist ) 運動 *17 である。

 フォークナーのザ・ハムレットには、ポピュリズム ( Populism ) *17 を生むに至った状況が書かれている。  1890年代頃のほとんどすべての南部の郡にあてはまると思われる、この貧困に打ちひしがれたある郡に住む最も裕福な男 ウィル・ヴァーナー ( Will Varner ) について、フォークナーは次のように書いている。

 ( 彼は ) その地方での最高位の男だった。 一つの郡では土地を一番沢山持ってたし、選挙された公職を勤め、 隣の郡ではジャスティス・オブ・ピース ( Justice of Peace ) *18 をやり、その両方の郡で選挙管理委員長をしていたので、 自分で法律を作り出すとまでは行かなくても、少なくとも諸般の助言や意見は彼から出るのだった。

 農場主であり、高利貸しであり、獣医でもあった。 ジェファーソンの町の判事ベンボウ ( Benbow ) は、かつて彼を評して、 行儀の良い人はラバ *19 を飼ったり不正投票したりは決してしないものだと言った。 彼はその郡の良い土地のほとんどを所有し、 残りのほとんどについての抵当権を持っていた。 村の中心部に商店を持ち、綿繰機を持ち、製粉場と鍛治屋を所有していた。

 というわけで、控え目に言っても、そこの住民がヴァーナーと関係のない所で取り引きしたり、綿繰りをしたり、 自分のための粉挽きをしたり、馬に蹄鉄を履かせたりしたら、不運な目に遭うと考えて良かった。  ウィル・ヴァーナー一族は、殆どの人たちが力を失って行った時代に富を増やして行ったのだった。

 無数の人々が借金生活に入り、自分の農場を失い、小作人になっていったので、彼等は農民同盟 ( Farmer's Alliance ) を結成し、 金銭や債務に影響を与える基本的な変革を要求し始めた。 民主党が同盟の提案を受け入れるのに失敗したとき、 怒った白人農民は人民党 *17 を作り、黒人共和党員と連帯して南部の政治の基礎を揺さぶった。

 しかし1890年代の末には、ポピュリストたちは民主党主流派に打ち負かされた。 彼等は、 圧力とあくどい欺瞞とで何度となく酷く弾圧されたので、1920年までには、米国の社会主義者の大部分はオクラホマ、 アーカンソー、テキサス各州の、まだ憤慨し続けているかつてのポピュリストの残党たちの中に存在するだけになってしまった。

 このようにして、黒人も白人も、基本的構成そのものが多数の人々にとって大きな不満の種であるという状況の社会のなかで成人して行くという体験をしたのであった。  これらの不満はまた多くの人にとっては、変革しようと思っても出来ないという感じのものなのであった。  奴隷たちが彼等に対する虐待に憤り、数回にわたり反乱のため立ち上がっ事もあったが、大部分の個々の奴隷や白人貧民は、 エリートの権力は手強すぎてとても打倒できないという意識を持ちつつ生き、そして死んでいったのであった。

 ポピュリストの議席喪失と敗北の後、黒人や現状不満派の南部白人たちは、彼等の主張は事実上絶望的なものなのだと、 またもや知らされた。 南部の経済的困難のため、その後何世代にもわたり、彼らは全くと言って良いほど成功の機会に恵まれなかった。

 こういう不満は、このような社会の深層に潜ってしまうということはなかった。  一人の南部史学者 ( 彼も南部人である ) が指摘したように、 南部の人たちは、自分が小さな火薬の樽の蓋の上で生きており、緊張を何とか処理する方法を見付けざるを得ないと言うことを知っていた。  そして、恭しく見掛け上誠実に振舞うことで摩擦を和らげるか、 婉曲にかつ如才無く振舞って摩擦を全く回避するかの、二種の解決策が普通取られた。

 南部の人たちが、その恭しさの点で有名であり続けたのは偶然の結果ではない。  南部の、とくに貧民層が、マナーの良さの点で完璧な専門家だと定評があるのも、何も不思議なことではない。  彼等はそうでなければならなかったのだ。 生き延びて行くためには白黒両人種の貧しく弱い層は、 敵意を持ち脅迫的なエリートたちを宥めなくてはならぬ場合がしょっちゅうだった。  彼等の人生の成功の見込みは、彼等に対し権力を振う人々とどう上手に如才なくやって行くかという事と直結していたのだ。

 フォークナーの描いたような郡における権力の現実を考えてみれば、 あのウィル・ヴァーナーに反対し立ち上がるというような事が普通の人に出来るものだろうか。  面倒を避けようと思えば、そんな事は出来っこなかった。

 南部では人々は婉曲に遠回しに交流しあう傾向があると言うことを、非南部人は最後には学ぶ事になる。  南部人は権威に対し礼儀正しく敬意を持つように育てられたのだ。 彼等はノーと言う事を避けようと努める。  彼等は率直な摩擦や拒否よりは、うわべだけの合意の方が好ましいと考える。 南部人の沈黙は、しばしば言葉よりも雄弁ですらある。  彼等の快いマナーから期待されるほどには彼等の行動が熱心でないという事も分かってくるだろう。

 米国の多くの他の地方では、ビジネス上の議論の中で 「 それには全く反対だ 」 とか、「 そんなのは旨く行かない。  それとは違うやり方をすべきだと思う 」 とか言っても、その言い方は充分受け入れられる。  しかし南部の普通の職場では、そういう率直な会話は生まれない。  北から移ってきた北部人たちの多くは、長ったらしい会議の中でぬかるみに嵌まった感じになり、全く酷い提案、 実行不可能なような提案を考えつく。 驚いたことにこの酷いアイデアは丁重に、時には敬意を以て迎えられる。  人々はその案に積極的なように見える。 しかし会議の後、その提案を裁決すると、挙手する人は誰もいない。 コミュニケーションは、成立したのである。 ただ、新参者がガックリするような欺瞞と礼儀正しさとによって成立したのである。

 コミュニケーションのスタイルの違いから、非南部人が仕事仲間たちと気持良い関係を作るのが難しくなる事がある。  新参者にとっては普通の率直さが、南部人には攻撃的で押し付けがましい振舞いと映るかもしれない。  逆に、南部人の仲間の側からの親切に教えてあげようと言う意図からの助言を、新参者は気付かないかも知れない。

 冗談や機知も直ぐには理解しあえないかもしれない。 非南部人にとっての最良の道は、 忍耐強くなって南部人たちが互いに関わりあっているやり方を観察することである。  ある事に直接立ち向かうより、注意深く観察する方が、きっと多くの情報が得られるだろう。

 南部の社会的関係を特徴づける婉曲さが良く分かるようになる前の非南部人たちは、 彼等の日常の経験から間違った結論を引き出すことが時々ある。  一人の新参者が彼の家の手入れをして欲しいと思い、評判の良い業者に頼んだ。  南部に限らずどこでも職人をある約束に縛るのは難しいものだが、このケースは特別に腹立たしいものであった。

 業者はある決まった日に来ることを承知したが来なかった。 憤慨したこの人は南部人は経営の仕方をまるで知らないと結論し、 あいつらは 「 いいかげん 」 で 「 信用できない 」 と言った。 あるいはその業者はそうだったかもしれないが、 彼はお客様をがっかりさせたくないばかりに不正確な答えをしたという可能性のほうが高い。

 もう一つの違いはビジネスの会話の中でのとりとめないおしゃべりの役割である。  南部の人にとっては、これは社会組織の中の必要不可欠な潤滑剤であり、 より重要な事柄に取りかかるためには、これを無しで済ませてはならない。  南部の人に 「 単刀直入 」 を押し付けたら最終納期はかなり遅れるだろう。  注意深く聴けば、南部人たちがお互いを感覚で把握し合い、自分の知りたいことを間接的な仕方で発見して行くということが分かり、 一見目的もないような冗談話が、時には会話の核心を成していると悟る事ができるのだ。

 未経験の人にとって、このコミュニケーションのやり方は大変腹立たしいものだろうが、 強大な人種的社会的不平等を発生した社会にあっては、理解できる発展過程なのである。  恭しさ、如才無さ、婉曲さなどは、かつて深刻に分裂した社会を機能させる助けになっていたし、 今日でも社会的な交わりを易しくしているのである。
          
福音派は多数、異教徒はほとんど無し


 南部の宗教的人種的構成は、南北戦争前にすでに南部以外での構成とは大きく違い出して来ており、 その影響は今日でもまだ非常にはっきりと残っている。 北部の経済で工業化が盛んになった後、 大工業都市では厖大な数の職が新たに発生した。

 一文無しの移民−−その多くはカトリック教徒とユダヤ人だった−−が、アメリカで新生活を始めようとこれらの大都市にやって来た。  何百万人ものイタリア人、ポーランド人、ロシア人、その他が大西洋を渡って来た1870−80年代、南部の経済は崩壊しかけていた。  1924年に制定された移民制限法の通過の後まで南部の経済がひどいままだったので、 これら異教徒アメリカ人の着実な増加は、南部を避けるようにして起ったのだった。

 その結果、大部分の南部人は、歴史的にアイルランド、イタリア、ドイツ、ポーランド、ロシアなどの系統ではなく、 カトリック教徒やユダヤ人はこの地域にはほとんどいないことになってしまった。  南部人は、白人黒人とも圧倒的にプロテスタントであり、その中でもバプチスト派とメソジスト派が非常な多数派であるので、 「 バイブルベルト 」*20 という言い方が長いこと確立してきた。

 南部人のすべてがキリスト教原理主義者 ( fundamentalist ) *21 ではないにしても、大部分は福音派の新教徒でであり、 似た教派の人たちの中で生活することにしか慣れていない人達である。

 数年前、ノースカロライナ州の或る歴史のクラスで、マサチューセッツを築いた清教徒たちの宗教的信仰が討議されていた。  議論がカトリック神学に対する清教徒たちの敵対の話に移ったとき、一人の若い婦人ははっきりと当惑してしまった。  自分の混乱を良く整理しようと努めた後、手を挙げて彼女は 「 カトリック教徒ってクリスチャンですか 」 と本当に本気で質問した。  プロテスタントというのは、カトリックの信仰や慣行にプロテスト ( 抗議 ) した人達のことなのだという他人の指摘があって、  彼女はかつて知っていたその事実を思い出せたのだった。

 とはいえ、彼女の混乱は本物だったし、それは理解できる。 この学生は、ただ、カトリックの知り合いが実際にいなかっただけなのである。  彼女はノースカロライナ州の小さな町で成人したのだが、 そこは南部全体の中でも、19世紀に移民を最も少ししか受け入れなかった町だったのだ。  多分、彼女が成人するまで知り合った人々は皆バプチスト派かメソジスト派か、 或いは何か他のプロテスタントの宗派の信者ばかりだったのだ。

 我々だって皆そうなのだが、彼女も記憶にしまい込んで使ったことのない事実よりは、 自分が毎日のように使った情報の方を先に思い出したのだ。


「 その通りですよ。ジムとタミーは天国から追放され私が代わりに任命されました 」*21A

 非プロテスタントが身の回りにいないということで、宗教についての多くの南部の言い回しを説明できる。  多くの地域社会では、善良で思いやりのある、憐れみ深い人のことを 「 クリスチャンピープル 」 と言う。  それは、キリスト教徒の理想が行動の支配的規範だからである。  多くの南部人も、人に聞かれればユダヤ教徒やヒンズー教徒や仏教徒にも良い人がいると認めるだろうが、 南部の非都市地域ではそういう人は殆ど見掛けられないのである。

 同様に、集会に出席した人は皆キリスト教徒だと言う仮定をして、公共の席での祈祷でイエスの名を出すことも、 不注意な話ではあるが、歴史的には理解できるのだ。

 南部人が外来者に対して、どこの教会に行ってますかと尋ねるのは、決して詮索好きだからでなく、親しみをこめてなのである。  南部は北東部が経験したようなプロテスタントとカトリックの永い抗争を経験していないから、 教会について尋ねることはいけないことではないのだ。 加えて、南部では教会への出席は国家の規範より上位の事柄である。

 教会に出席する人の数からも、他地域の米人より南部人の方が信心深いと分かるが、これはまた多分、 南部の田舎の小さな町の性格にも起因するものである。 多くの南部の地域社会では、 教会は礼拝の場であるとともに、社交活動の中心でもある。 社交、求婚、レクリエーションなどが教会の活動と結び付いているので、 他人を教会に招くのは、地域社会の一員になるよう招いている事でもある。

 これらは、まあ結構な考えなのだが、南部人たちの宗教経験の狭さが視野の狭さを生むという事にも注目しなくてはならない。  人間はすべて挑戦と変化への出会いで成長するのだが、経験の幅が限られてしまう南部人が直ぐに世界的視野を獲得するとは期待できない。  パット・ロバートソン ( Pat Robertson ) *22 は全ての人に対する宗教の自由を支持したが、 彼が唱えた学校での祈祷 *23 なるものが、キリスト教のお祈りであると同様に、ユダヤ教、ヒンズー教、 イスラム教のお祈りでもありうるとは思えない。 ロバートソンと彼の支持者たちの多くが、 多様な社会においても公に支持され得る学校祈祷の在り方をすべて深く考え尽くしたとはとても思えない。

 今日南部一帯に起こっている巨大な変化は、信心深い南部人に対し警鐘を鳴らし文化摩擦を作り出す可能性もあるだろう。  人間社会にとって変化とは常に落ち着きを失わせるものであるが、今日の米国での最大の変化は南部で起っている。  公立学校における不適切な教育、すなわち性教育、進化論、「 非宗教的ヒューマニズム 」 *24 などについての恐れ*25は、 種々の都市地域でも、また現在急速な変化にさらされているのんびりした田舎の地域でも、表面化して来ている。

 南部人と非南部人との接触が増すにつれ、少なくとも短期的にはお互いが相手との違いに一層気付く事だろうし、 摩擦もある程度は避けられないだろう。
           
非南部人たちと南部の未来

 以上の考察から当然生まれる疑問は、南部で起こりつつあるこの前例のない変貌の中で、 非南部人がどんな役割を果たすだろうかということである。 南部の経済を現在改造しつつある変化の規模は、 かつて米国の或る地方に起こったどの変化にも負けぬほど大きく、これに応じて習慣、価値観、生活様式などへの影響も甚大である。  非南部人住民は、ある意味ではこの変貌の徴候の一つであると同時に、彼等といえども、多くのものを失う危険があると言える。

 南部の人達は進行中のこれら多くの変化を喜んでいる。  この地方を長らく苦しめてきた貧困と経済停滞から脱却できる事を彼等が喜ぶのは当然である。  多くの南部白人が人種差別に固執して抵抗して来たけれども、 ジム・クロウ ( Jim Crow ) *26 という暗雲を払拭したことには、計り知れぬ良い効果があった。

 南部人 ( とくにビジネス社会のリーダーたち ) で、時計を逆に回そうという人はもうほとんどいない。  この変化は、南部の人たちの生活に良いものを多く与え、さらに、新しいイメージや新たな自信も与えてきた。

 しかし南部の近代的変貌は、何世代にもわたり持続してきた思考法や生活様式にも、必然的に影響を与えつつある。  貧困と人種差別とが無しで済ませるのは喜ぶべき事だとしても、田舎の文化と強固な均質社会とに付随するあの土着感や、家族、親族、 地域社会の強い連帯感などが無くなっても喜んで良いものだろうか? 

 国勢調査の定義によると、1940年には人口の三分の二が田舎的だったのが、1970年には三分の二が都市的になってしまった。  1957年くらいまで、最大の雇用分野だった農業は、今や南部労働者のたった5%或いはそれ以下を占めるのみである。  劇的な経済発展に伴い、数十万人の移住者が米国内他地域や世界各地からやって来て、それぞれの文化的背景を持ち込んで、 社会関係を容易に緊密にさせてきた宗教的・人種的な均質性を多様化させてしまったのだ。

 多くの南部の家族は、彼等が尊重している色々の事柄のはざ間で、今、苦しい選択を迫られている。  生れ故郷の郡の田舎の土地に住む妻の両親の隣で生活する若い夫婦は、 一方の職業経歴を高めるアトランタへの昇進の異動を受けるべきか否か決めねばならない。 彼等は、より大きな富や成功と、 今まで築いてきたその土地や地域社会との緊密な連帯とを、両方とも所有し続けることはもはや出来ない。  経済の各要素がより全国的、全世界的な範囲に及べば及ぶほど、より多くの南部人たちがこのジレンマに直面せざるを得ないだろう。


  「ところでジェシー君、君はとても立派なお方だ。だがサウスカロライナは解放されるの を好まなかったらどうするの?」*27


 意思と環境の作用とで、南部の人達はその地域的な不利さの中から、彼等の大変貴重な特性を鍛え上げてきた。  困難を通じて一人一人が持久力と忍耐心を養ってきた。  南部の文学には、この相互依存的環境の中にあって激しい独立心を抱くという登場人物がたくさん出て来るが、 こういう文学は、南部の生活を正確に反映したものである。 多くの南部人たちは、 結果が望んだものすべてでは有り得ないことを十分知りながらも、可能な最善を尽したのだった。  しかし、貧しく、機会に恵まれなかったがために、彼等は生活上の物質的豊かさよりも、家族、友人、自然、 そして人間に価値を認めることを学んだのであった。

 今世界は、これらの南部的価値、とくに南部の文化にとり不可欠な地域密着感、土着感などを必要としている。  ある日の新聞をちょっと広げてみただけでも、現代の世界に住む多くの人々が、 地域社会からすっかり切り離されたという感じを抱いているということが、はっきりし過ぎるくらい良く分かる。

 彼等は隔絶され疎外されていると感じており、社会的に、或いは個人的に、破壊的なやり方で行動する。  南部の地域密着感と、人間関係における暖かさや個人への関心は、今後とも保たれ育成されなくてはならない特性である。

 選択は最終的には南部に住む人々の手に委ねられている。 彼等は、どちらの価値を保存し、 どちらの価値を取り替えるべきかを選択できる。 もし彼等がこの挑戦に敏感であるなら、変化の内の望ましい要素は受け入れつつも、 伝統的南部の最良の部分は持ち続けることができるだろう。  この過程において、新しく南部に移ってきた人々が、その結果に大きく寄与出来るだろう。

 この本をあなたが今読み始めているという事自体が前向きな兆候である。 あなたが知りたがっており、 勉強を始めるばかりになっているという事を示している。 それはとりもなおさず、 あなたがこの米国の特殊な地域に幸せに上手に溶け込んで行ける可能性があるということだ。  あなたが南部について勉強するときには、南部が与えてくれる伝統遺産について真剣に考えて頂きたい。  南部に住も事になった時は、この地方がその過去の最良のものと将来の好機とをうまく融合させて行くのを、 自分はどうやって助けてあげられるかとよく考えてみて頂きたい。

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*16 南部のサウスカロライナ州出身で副大統領にもなった政治家、思想家 ( 1782-1850 )

*17 ポピュリストとは 1891-1905 にかけて存在した人民党 ( People's Party ) の党員の事。  その人民党の主義政策をポピュリズムと言う。 現在使われているポピュリズムという普通名詞的な意味とは違う

*18 小さな揉め事を裁く地方判事

*19 雄ロバと牝馬を掛け合わせた雑種

*20 アパラチア山脈山麓を北から南に走る地帯を指しファンダメンタリスト *21 が多く住む。  それ以外も、信心深い福音派プロテスタントがほとんどである

*21 聖書の記述を素直に字句通りそのまま信じようと言う20世紀になって生まれたプロテスタントキリスト教の一派の信仰運動に属する人達で、 地動説、進化論などを信じずこれらを学校で子供に教育することも拒否する

*21A ジム・ベイカー ( Jim Bakker ) とタミー・ベイカー ( Tammy Bakker ) は元テレビの伝道礼拝番組の伝道師夫婦。 「 主をほめたたえよ 」 ( Praise the Lord ) という番組に出ていたが ( リンゴの樹にはPTLのロゴ、左にTVカメラが有る ) 信者から集めた金を横領して現在入獄中。 代りに起用されたのがこのファルウェル ( Falwell ) だが、 彼も似たりよったりの人に過ぎないと、アダムとイヴを誘惑して罪を犯させ天国追放の目に遭わせた蛇になぞらえている。  現在米国大衆の多くはテレビの伝道師にロクな人間は居ないと考えているのに、この種の番組は花盛りである。  ベイカー夫妻については第5章後半に詳しく出てくる。

*22 レーガン大統領時代に大統領を目指した南部の人。 黒人を差別する姿勢を訴えた ( こんな最近に公然とこういうことを唱える候補者がいるということが、何とも 「 南部らしい 」 )。

*23 南部の学校では日常的に生徒にお祈りをさせる。 たとえば学校対抗のスポーツ試合の前に審判を囲んで全選手が祈祷したりするが、 内容はキリスト教のお祈りそのものである。 入学式などで全生徒にお祈りさせる場合にどういう内容のものにすべきかと言う議論がなされたわけだが、 結局キリスト教のお祈りとほとんど同じ物になってしまうという事

*24 人は神の助けと力によらずとも自己の意思で正しく生きられるという考え

*25 進化論や地動説などを子供たちに教える事はファンダメンタリストたちにとって 「 不適切 」 であり、 これらを教えようとする学校を拒否する。 彼等が子供を公立学校に行かせず自宅等で教育することも許されている。  南部では、今もこういう人たちは少なくなく、その中には地域の有力者も少なくない

*26 ジム・クロウとは黒人自体を軽蔑的に意味し、また黒人差別やその制度をも意味する。  この差別に基づく差別諸法令をジムクロウ法と言った

*27 ジェシー・ジャクソン (Jesse Jackson ) はサウスカロライナ州出身の黒人の民主党の有力者で人種偏見を除こうと言う差別反対主義者。  1988年の大統領予備選挙にも出馬した黒人牧師。 一方ストロム・サーモンド ( Strom Thurmond ) も同じサウスカロライナ州出身で約100才まで現役だった共和党選出の連邦上院議員 ( 訳者も何度か会って話をしたことがある )。  かつては白人の優越性を保持しようという立場の人だった ( 詳しくは第6章第5節参照 ) ジェシーはシリアに捕らえられた米国人抑留者を助けるべく奔走したが、これに対しストロムは 「 サウスカロライナではそんな事してくれなくていいよ 」と牽制している。
 

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