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南部とは・・・新しく南部に住もうとする人たちのために

第七章  米国の中の異国  南部の経済の変貌 (下)

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* デイヴィド・R・ゴールドフィールド、トーマス・E・テリル *
David R.Goldfield & Thomas E.Terrill


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 というわけで、国民に意識されるという点に関する限り、南部がポピュラーになったのは、 ジミー・カーター氏*253 が大統領に選ばれた時、グリッツ*35 とは何かと言う事でヤンキーたち*256 が辞書に飛び付いたり、 スーパーマーケットの他国産食品売り場に駆けつけたりした時よりは、ずっと以前の事である。  南部は音楽や文学のお陰ばかりでなく、そのライフスタイルや経済的有望性のお陰でも、再びこの国の中心になったのである。  ゆったりとした歩調は南部にはもちろん昔からあった。  しかしそれは、常に、歯が抜け落ちたままでいるほどの心身の貧しさや、 葛の茂みに囲まれて錆び付いたシヴォレーに乗るといった事で示されるような開拓者的原始性というような荒々しさを伴ったゆったりさであった。  所が、今の南部のゆったりさは、清潔で光り輝き、ガラスと鋼鉄で飾られ、屋内は給水給湯が行き届き、 エアコンつきのゆったりさなのである。  南部は今やかつての 「 米国経済の最大の問題 」 の地*304 から、一世代のうちに約束の地*153 へと変貌し、 「 上等な暮らし 」*158 の宝庫になったのだ。 北部大都市のゲットーでも、ヴェトナムの田んぼでも、大学のキャンパスでも、 アメリカ風の幸せの追及をしたくてももはや手に入らなくなってきたこの時代、 皆が何かに対して怒りを感じていたように思えたこの時代、南部は幸せな場所の様に見えた。  ウォーカー・パーシー ( Walker Percy ) がそのような状況を、 彼の1966年の小説 「 最後の紳士 」 ( The Last Gentleman ) で次のように述べている。

 南部の幸せを侮ってはいけない。 それは絶対に壊れない幸せのように見える。 すべての人達が実際幸せなのだ。  婦人は美しく魅力的だ。 男達は健康で仕事も旨く行っているし、面白い連中だ。 北部が持っていたものはみんな持ってるし、 それ以外のものも持っている。 歴史も、追憶の香り豊かな土地も、楽しい会話も持っている。  神を信じているし、憲法により守られてもいる。 その上おまけに金持ちになりつつある。  昔は手酷く負けたが今は立派に勝っている。

 だからと言って、北部人たちが南部に対して彼等の心をはっきりと開いた訳ではない。  南部への憧憬の幾分かは、南部の特質とされるものは賞賛に値するというよりは、むしろ異国趣味的な物 ( ないしはグロテスクでさえある物 ) だという彼等の伝統的認識から来ている。  南部に移住した多くの北部人たちが報告する所によると、彼等が南部に移住するという知らせを発表すると、 友人たちや親戚たちがお気の毒にと言い、その後直ぐに、食べ物はどうするのか、読み物はどうするのか、と尋ねたという。

 しかし彼等の認識がどうであれ、かつて無かった程たくさんの北部人が南部に住み、働き、子育てをし、 また引退後の生活をしようとやって来た。 1世紀前に希望に胸を膨らませ、目を輝かせて西部へと進んでいった人々と同じ様に、 今米国人は1世紀前ヘンリー・グレイディが言った 「 この国の星である南部に行こう 」 と言う呼び掛けに応じたのである。  1960年代に南部の人口は7百万人以上も増加し、 1970年代始めには南部は米国人の三分の一以上を抱えるこの国で最も人口の多い地域となった。  1960年代には、この百年間で初めて、南部を出て行く人よりも南部に入ってくる人のほうが多くなった。

 新しい人たちが入ってくると共に、かつて無かったほどの雇用の増加が起った。  1965年からの10年間に全国平均が12%なのに南部では22%もの雇用の増大が見られた。  南部の職業従事者のほぼ半分がサービス産業と政府機関で働き、第3位はずっと下がって製造業の16%だった。  南部は、その短かかった工業化の歴史を殆ど振返る事もせず、まっしぐらに脱工業化時代に突入して行った。  実際、南部は工業化時代を省略して直接サービス産業時代に飛び込んだのだ。 バーミングハムや幾つかの家具製造、 紡績産業などは例外だった。 このため、工業に必要な厄介で高価なインフラストラクチャを作らずに済んだのである。  流入者の 「 質 」 は高かった。 なぜなら、銀行業、保険業、政府機関や会社の事務部門などは、 高い教育を受け熟練した個人を必要としたからである。 こういう人たちの流入がさらに消費者需要に拍車を掛け、 新しいサービス産業の活動を生み出した。

 報道機関も南部好みの風潮に好意的であった。  1976年2月のニューヨークタイムズ紙の連載記事と、これに続く3月のタイム誌のカヴァーストーリー*305 「 南部に行こうとしている人達 」 とが、 サンベルト地帯を全米の人々の関心の的にした。  これらの記事は、喧騒に満ち、朽ちかけ、犯罪に悩む北部の都市を示す写真や記事と並べて何度も掲載された。  南部の景観を写す写真にもっともよく出たのは、ビル建設のクレーンであり、「 人手を求む 」 と言う言葉が 「 サー ( sir ) 」 や 「 マーム ( ma'am ) 」 といった礼儀正しい言葉と同じくらいよく出てきた。  ヒューストンの市長のフレッド・ホフハインツ ( Fred Hofheinz ) は、この1976年のタイム誌の記事に対する感想を要約して、 「 南部と南東部とは新しい米国工業地帯の最前線であり、ここではまだアメリカンドリーム*306 に誰でも手が届くのだ。  これは新しいデトロイト、新しいニューヨークだ。 ここにこそ活躍の場がある 」 と述べている。  一部の北部人たち、特に役人たちは、サンベルト地帯の急激な繁栄に感心するどころか、脅威を感じた。  南部の事業を著作権侵害や不当競争やで訴えたが、会社が鍵と株と給与を持って北から南部に移って行くという想像は正しくなかった。  サンベルト地帯の経済発展の多くは、支店増設や、地元で成長した企業の出現や、 これらの新会社にサービスを提供するために設立されたり増設されたりした企業やに因るものであった。

 南部の経済成長はそれ自身の力ではずみがついた。 熟練度は上がり、給与水準も上がった。  大学は拡張され、教科の質は向上し、学科が増設された。 立派な美術館とか、交響楽団とか、 バレエやオペラの団体と言った北部の都市に普通ある文化活動が、南部にも出現し拡大して行った。  IBMからマクドナルドハンバーガーに至るまで各大企業の支店も直ぐに出来た。  こういった便利さと活況とが今度は第一線を引退した退職者たちを引き付ける事になった。  フロリダ州は一年中 「 郵便箱経済 」 で全国の先頭に立った。 つまり、 何万人もの退職者が北部の各州や年金基金から小切手を受取るからである。 70年代には南・北カロライナ州、 ヴァージニア州を含む南部諸州、メキシコ湾沿岸の各地なども退職者天国になった*307。  その成長速度は1980年代に入ってやや鈍ったが、南部は相変わらず米国経済の本流に入り続けた。  所得は全国平均の約90%に達した。総務、管理、事務、技術、あるいは専門職の人たち、 つまり新中流階級が、1980年には数の上で半数以上に達した。  1975年以降の10年間に、農業の生産額は2倍以上になったが、農業従事者の順位は下がり約100万人にまで減った。  1940年当時は何と1千300万人もが土を耕していたのである。
         
過去の遺風のなごり、サンベルトを覆う影

 サンベルト地帯の過熱の中で南部が経済発展したからと言って、 必ずしも北部の焼き直しがもう一つ出来たと言うわけでもないので、未解決の問題が残っていた。  摩天楼や巨大なモールにより見え難くなったとは言え、旧い経済体制の残滓は、そうたやすくは追放されなかった。  サンベルトと言ってもそれは大都市地域の現象であり、インターステート高速道路沿いに限られた経済で、 裏通りには滅多に陽は当らなかった。 1970年代中頃、田舎に住む南部人はこの地域の人口の3分の1を僅か上回る程度だったのに、 貧困階層の55%を占めていた。 南部の田舎での失業率は都市の中心部のそれよりも37%も多かった。  ジョージャ州の田舎のペリー*308 選出の下院議員ラリー・ウォーカー氏は 「 ジョージャ州からアトランタ市を取ってしまったら、 我々はミシシッピ州程度にも達しないと聞いている 」 と述べている。

 こういった裏通りをドライブすると、道路は舗装されてないだろうし、電柱も来てないだろうし、 家々----と言うより掘立小屋と言ったほうが適切----の特徴は、垂れ下がったベランダ、ガラスが破れボール紙を当てた窓、 錆だらけの屋根と言う有様である。 ジャーナリストのジョエル・ギャロウ ( Joel Garreau ) は 「 こういうのを見ると、 思わず 『 神様、こんな所には誰も住ませないでください。 こういうのは廃棄してください 』 と思う 」 と書いている。  こういう田舎の貧民の大部分は黒人である。 1983年時点で、南部の田舎の黒人の子供達の3分の2以上は貧困生活をしていた。  6才未満の黒人の田舎の子供についてだけの数字は信じられないことだが80%だった。  南部の田舎に住む黒人婦人は58%が貧困者であり、白人婦人の数字より1倍半以上も多かった。

 旧き悪しき時代においては、田舎の小さな町の住民は、地面を引っ掻くようにして得た収入の不足を補うために、 その地方の紡績工場でいわゆる 「 お勤め 」 をしていた。  所が、こういったお勤めはさらに安価な労働力を求めて、工場の海外移転が行われたり、全く閉鎖されてしまったりで、 南部の田舎からどんどん無くなって行った。  大都市地域では便利な設備が急速に整っていったが、南部の田舎ではそれが無かったので、 変化して行く経済環境に太刀打ち出来なかった。 南部の小さな町はあのラリー・マックマートリー ( Larry McMurtry ) の、 後に映画化された小説 「 最後の映画上映 」 に出てくる町によく似ていた。 それは滅び行くテキサス西部の町で、 両親たちとは全く違った未来を掴み取ろうと努力する若い住民たちを描いたものである。  例えばカロライナ地方のピドモント紡績業地帯*113 一帯では、チャイナグロゥヴ ( China Grove ) 、ウェアショゥルズ ( Ware Shoals ) 、 ペルザー ( Pelzer )*309 などの町で、劇場が閉鎖されていった。 これらの町はすべて19世紀後半に紡績業によって生まれた、 たった一つしか産業がない町であり、20世紀後半の海外との競争、機械化、企業合併などで息の根を止められたのであった。

 紡績工場の閉鎖は町の閉鎖を意味していた。1906年、リーゲル ( Riegel ) 紡績会社は、 サウスカロライナ州ウェアショゥルズの町をサルーダ ( Saluda ) 川沿いに建設した。  1984年の末、この会社は工場を閉鎖し、900人を仕事から放り出した。  若者たちは仕事を探しに町の外に出たので、町の住民の60%がすでに仕事を引退した人たちになってしまった。  リーゲル社は町の税収の60%、学校予算の20%を負担していた。 町長のヒュー・フレデリック ( Hugh Frederick ) はこの状況を、 失望を面に出さずに 「 リーゲル社は町を建てた。 紡績工場の回りに住宅を建てた。 水道、電気、会社経営の商店も作った。  状況は悪いが我々にはまだ人材がたくさん残っている・・・。 我々は勇気のある諦めない人達だ 」 と述べた。

 ピドモント地帯*113 の他の町でも、これほど突然に死がやって来ないとしても、長期にわたる衰退は始っていた。  サウスカロライナ州のチェスター ( Chester )*310 の町では、町の中心街に空っぽのショウウィンドウが点在するようになった。  同州のホイットマイア*311 では巨大な紡績会社J.P.スチーヴンスが人員整理を行った後、デパート、ドラッグストア、 洋品店などが町を去って行った。 美容院と教会は残ったが若い人たちは去っていた。

 南部の大都市域ですら、陽ざしが影ってきた。  テキサス州やルイジアナ州では、石油の過剰生産のため不動産業や貯蓄貸付銀行の破産が発生した。  新しい仕事が生れたと言っても、大部分はハンバーガーを焼いたりホテルの部屋を清掃したりする最低賃金の仕事だった。  サービス経済は労働力に二つの階級を作った。 すなわち、主に北部から来た高学歴のホワイトカラーと、 南部出身の低賃金の未熟練労働者である。  すでに1974年に、アトランタのファーストナショナル銀行の会長エドワード・D・スミス ( Edward D.Smith ) は、 「 アトランタの町でビジネスマンの集まってる所に行ってご覧。 そのうち少なくとも半分は地元出身ではないよ。  ジンジャーケーキ*312 に5ドル付けて賭けても良い 」 と言っている。

 現在では、これらビジネスマンの一部は海外からきた人である可能性もある。  1980年代、南部は外国からの投資において全国一だった。 南部の中規模の都市で、スーパーマーケットの棚に並ぶ産物、 ショッピングモールで耳にする方言、学校での英語教育プログラムなど、異国人の存在を示す多様性がない所など、もうほとんど無い。  過去において北部に移民が押し寄せた時のように、サンベルト地帯の経済は東南アジア、 ラテンアメリカなどから沢山の移民を引き付けた。  普通の労働者は彼等の給料が東京から来ようがトゥペロ ( Tupelo )*313 から来ようが頓着しない。  しかし、もし経済危機が起れば、トゥペロが、いの一番にそれを感じるだろう。  1971年、ミシシッピのビジネスマンのスチュワート・ガンミル3世 ( Stewart Gammill III ) は、上記の趨勢を観察し、 外国資本の会社が南部にどんな影響を与えるだろうかと疑問に思い、歴史的に見ると過去にこの地域にやってきた企業は、 「 南部の天然資源、教育水準、生活水準などにあまり注意を払わなかった。  逆に、企業の関心は、白人、黒人を問わず彼等の低い学力と政治的無関心とを維持することにあった。  そうしておかないと、長期的利益や潜在的成長力がたちまち脅かされるからである 」 と考えた。

 質の高い生活水準に対する関心は南部の経済発展と密接に関連している。 何故なら、誘致する側は、 魅力を持たせる主要素としてその地域の環境を良くしようとするからである。  皮肉にも誘致側の努力が成功を収めるとそのセールスポイントが脅かされる。  サヴァンナ川*314 一帯の製紙業、アラバマ州の田舎の核廃棄物、リッチモンド地域の化学工場、ルイジアナ州の石油化学工業、 そしてほとんどどこでも発生している自動車排気ガスなどが、南部の自然を危機にさらしている。  1970年代と1980年代初期に通過した州の環境立法と各地における成長を制限しようという擁護運動とが、 今、最も深刻な汚染源に歯止めを掛けようとしている。 だが、うまいビジネスチャンスを台無しにすることへの伝統的な恐れが、 良い環境を破壊することへの懸念よりも優先されてしまう傾向がある。

 過去において南部は、環境問題について考えるような贅沢を許されなかった。 しかし今は、環境保護の為ばかりでなく、 未来の経済の繁栄のためにも、それをしなくてはならない。 質の高い生活と言う問題は、サービス産業の幹部たちにとって、 ますます重要になってきている一方、彼等の事業では全国的競争が熾烈である。  喧伝されたサンベルト対フロストベルト*315 の分裂は今日では的はずれである。 1980年代半ばまでに、 北東部と中西部の持っていたかつての経済は、著しい復活を ( 少なくとも専門家の目からすると ) 経験した。  メイン州、マサチューセッツ州、オハイオ州などは西暦2000年までに新しい職を作り出すという点で最も有望な州のリストに名前が出てきた。  雑誌はピッツバーグとバルチモア*316 とを「最も住みよい都市」だと推奨した。  クリーヴランド*316 ですら新聞に好意的な言葉を多少は掛けて貰えるようになってきた。

 北部がこのように立ち戻ってきたように見える理由として、北部諸州が工業化社会からサービス経済に向かって困難な移行をする際に、 経済発展にとって建物の基礎のように大切なものを幾つか、中でもとりわけ、高度な教育システムを温存するようにした、 と言う事実が挙げられる。 たとえばマサチューセッツ州では毎年生まれる2千人もの博士のうち半分以上が州内に残る。  マサチューセッツ工科大学の卒業生だけでも1970年以降1000以上の企業を興している。

 大学教育は経済発展の大切な味方となってきた。 ノースカロライナ州のリサーチトライアングルパークは、 この傾向をいち早く示したものである。 南部には幾つかの立派な大学がある。しかし南部の小学校、 中学校は他地域のそれより遅れている。 どの南部の州でも教師の給料が全国平均に及ばず、 南部の成人の3人に1人が高校卒の資格を持たないとしたら、南部はサービス経済の事業を行うには魅力的な場所とは言えない。  前テネシー州知事で現在テネシー大学総長のレイマー・アリグザンダー ( Lamer Alexander ) も、 「 もしミネアポリスでは90%の人が高校教育を受けて居るのにテネシーではそれが67%だとするなら、 我々はミネアポリスについてなど行けない。 追い付くなんてとても無理だ 」 と述べている。

 言い方を変えれば、経済発展のペースを落さず、国内経済、国際経済の中で競争して旨くやって行くためには、 南部に産業を誘致しようとする人たちは、彼等の宣伝文句を書き直さないといけないし、南部の諸州は彼等を応援するために環境問題、 教育問題で主導権を執ってやり遂げないといけない。 それ行けやれ行け型の人達が低賃金と、組合活動が存在しない事と、 税金が低い事とを誘致のためのインセンティヴとして提供していた時代はまだ終っていない。  1970年代の中頃、フィリップ・モリス社が、 紙巻タバコの主力工場をノースカロライナ州のキャバラス郡の政庁所在地であるコンコード ( Concord ) の町*317 ( 大都市シャーロットの近く ) に設置しようとした事がある。  当時、キャノン ( Cannon ) 紡績会社がこの町および周辺の郡の雇用基盤 ( と政治 ) を支配していた。  或るキャノンの従業員が述懐する所によると 「 チャ−リー ( キャノン ) 様が誰か他の会社がここに入ってきて賃金が上がってしまうのが嫌なんだ」という次第で、 フィリップ・モリス社の工場は、組合化された労働力であるという事と、 彼等がその郡で普通とされた賃金より1時間当たり1ドル高く取っているという事とで、二重の脅威を与えたのである。  偶然ではないと思うが、キャバラス郡は労働組合が米国で最も少ない郡であった。 ついに、 フィリップ・モリス社は工場をその郡の中ではあるがコンコードの町の外にある土地に建てざるを得なかった。  商工会議所が 「 ようこそキャバラス郡へ 」 と言う公式の歓迎を決議しようとした時も、投票は賛否同数になってしまった。  このタバコ製造会社はそれ以前にもピドモント地帯のあちこちで辛い放浪の旅を経験している。  たとえばサウスカロライナ州のグリンヴィルを立地の候補の一つとした事もあったが、 ある地元の建設会社の幹部の 「 あんな奴等をこの土地に入れるな 」 とい言う意見に遭遇して、それで終りとなってしまった。

 こういった反対派の策略は、ピドモント地域のもっと大きな都市の中心部でさえも時には起こった。  1974年、ラリー*318 の商工会議所は、ゼロックス社が労働組合を持つ工場を近郊に立地しようとした時に、 これを阻止しようとした。 同社の賃金体系は州の平均の2倍であった。  当時、その商工会議所はノースカロライナ州が 「 優良で高賃金の企業の誘致で近隣の各州に負けないように 」 なるための産業開発債券の発行を認めようという事で、 全員投票をしようとしていたというのにである。  数年後、この商工会議所は再び実力を行使してミラー醸造社 ( Miller Brewing Company )*319 を門前払いにした。  同社も同様に高賃金と組合化された労働力で有名であった。  ジャーナリストのマーシャル・フレイディ ( Marshall Frady ) が、南部では 「 工場を熱心に誘致する事は二つ目の宗教になった 」 と表現したが、 地域によっては宗派の違いは厳格に区別したという事だろうか*320。

 1980年代の末までには、誘致の全国的競争が過熱して来て、こういった挙動はほとんど無くなったが、 旧い経済的考えは相変わらず残っていた。 1989年6月、シャーロット・オブザーヴァー紙の見出しは 「 製造業の受入れ態勢は絶好 」 と高らかにラッパを吹き鳴らした。  同紙は製造業にとって最も魅力的な州を決めようと、シカゴの或る会社が行った全国調査を引用した。  ノースカロライナ州は5つの選択基準の総合で4位になった。 雇用のコストでは1位だった。  と言う事は、失業保険や労災保険支払いのような基本的福利厚生費が全国最低だという事である。  この調査はまた、政府の財政政策 ( ということは税金の安さ ) の項でも高い点----10位----を与えた。  他方、ノースカロライナ州は生活の質の高さの項では全国46位になってしまった。 この調査では生活の質とは、教育、医療施設、 生活費、交通手段の事である。 1世紀前に若しこの州の経済の様相を調査したとすれば、労働者搾取、低い税金、貧しい教育、 最低限に止まっている公共サービスなどが、主な特徴として挙げられたのではなかろうか。  過去100年の間にこの州の経済的条件が米国の他の地域に比べ、改善の度合いでは非常に大きかったことは明らかである。  しかし、これらの統計的に見た弱点は依然として存在しているばかりか、地域の指導者たちがその事を自慢してさえいるのである。

 だが、サンベルト地帯を覆うこれらの影が、第二次大戦後南部に起った、米国の最も貧しい地域から最も豊かな地域へ、 最も沢山人間を輸出していた地域から、北部や外国から最も沢山人間がやってくる地域へ、 そして主要商品作物農業*31 と低賃金産業に頼っていた経済から、多様なサーヴィス経済へ、 という著しい経済的変貌を覆うような事があってはいけない。  この地域には過去の弱点が幾らか残っているとしても、 過去の長所も残っている。 特に過去の遺産と自分の生まれた土地についての強い愛着、そして何よりも礼節と言ったものが残っている。  では、今後経済的に成熟を続けていっても、これらの長所が南部には存続するものだろうか?  南部はちょっと例を挙げただけでも戦争、貧困、人の流出など多くの巨大な変化に耐え、そして南部であり続けてきたのだ。  新たに南部へやってきた人達の多くが南部のライフスタイルに魅せられ虜になったのと丁度同じ様に、 南部が新しい繁栄と旧い文化とを融合し続けるチャンスは十分にある。  雑誌サザン・エクスポージャー ( Southern Exposure ) の編集者ボブ・ホール ( Bob Hall ) は ( 南部の特質を盲目的に述べ立てるというよりも、南部の欠点を指摘すると言う態度で ) 「 南部に関しては純粋なものなどもはや無いが、我々に何かを与えてくれる確率は、多くの他の地域よりも南部の方がずっと高い。  何故なら他の地域では、そんな可能性などとっくに無くなり、根絶やしになってしまっているからである 」 と述べている。


転載後記

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訳者注

*304 フランクリン・ルーズヴェルト大統領が1938年に言った言葉。 第一章参照
*305 その雑誌の表紙に写真やイラストが載っている記事、つまりその号の最も主要な記事
*306 誰にでも物質的豊かさを得る機会が平等にあると言うアメリカ社会の理想
  *307 米国では第一線を引退した退職者達のうち豊かな層は、 気候温暖で治安もよく物価も安い南部に家を買って転居し ( フロリダ州は所得税すら無い ) のんびりした第二の生活を始める事が多い
*308 Perry は同州中央部の人口1万足らずの町。 ミシシッピ州は米国で最貧の州
*309 それぞれ、ノースカロライナ州西部、サウスカロナイナ州西部、同州西部に在る人口2千人程度の小さな町
*310 チェスターはサウスカロライナ州北部の人口7千人ほどの町
*311 ホイットマイアもサウスカロライナ州西北部の人口2千人ほどの町
*312 ジンジャーブレッドと言う事が多い。 生姜風味の甘いケーキ
*313 トゥペロはミシシッピ州北東部の人口約2万の小都市。 東京との対比である
*314 サウスカロライナ州とジョージャ州の境を流れる川
*315 発展するサンベルトに対比して、衰えてきている北部及び北東部諸州の事をフロスト ( 霜 ) ベルトと、ここでは言っている
*316 ペンシルヴェニア州南西部の大都市ピッツバーグは鉄鋼業の町として栄えたが最近は米国鉄鋼業の衰退に伴い衰退している。  メリーランド州北部の大港湾都市バルチモアも同様に衰退する北部の大都市とされているが、この雑誌は両市の将来の復活を期待している。  クリーヴランドはオハイオ州北東部エリー湖沿いの大工業都市
*317 ノースカロライナ州最大の都市シャーロットの北にある人口2万弱の小さな市
*318 ノースカロライナ州の州都
*319 有名な米国のビール会社
*320 南部の人達は熱心なキリスト教信者だが工場誘致にも同じくらい熱心になった。  しかし、結局違う宗派に対しては寛容でないのと同様、他州からのすでに組合組織のある会社の進出は排斥したという意味

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