フリーマンの随想

その12. 独りで歩くか、みんなで歩くか

*日本人には「独り」が嫌いな人が多いが・・・*

(11.14. 1998)

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第一章

*私がウォーキングを毎日やっている事を聞きつけたのか、足柄工場時代の友人の永高さんが、 「自分が会長をやっている Saturday Walkという会に入って一緒に楽しく歩きませんか?」 と誘ってくださった。わざわざ私の家まで来て説明してくださったところでは、 現在はメンバーがすでに50名近くも居て、この地域の富士フイルムの各事業所でかつて働き、 現在は定年になった男女とその家族がほとんどであるとのこと。
以前親しくしていた懐かしい方々のお名前も多数名簿に載っている。 毎月1回土曜日、鎌倉とか丹沢とか箱根とかを10kmほど楽しく歩くのだという。 素晴らしい活動を始めたものだ。多くの中高年者の生活に喜びと健康を与えるに違いない。
妻は「(毎土曜に英会話の勉強に通っているので)私は行けないけれど、 皆さんと楽しい時間が過ごせるのだから貴方はぜひ一緒に歩いていらっしゃいよ」と勧める。

*ここからこの話は始まる。私は永高さんの真面目なお人柄は好きだし、 メンバーには旧知の懐かしい人たちが多い。 持て余すというほどではないが、たっぷりと時間のある今の境遇だから、 普通なら「ふたつ返事」で参加する所だが、私には心の中に何か僅かにひっかかるものが有って、 その場ですぐには「ハイ」とお返事が出来なかった。 それが何故なのか、何なのか、自分にも当初はわからず、原因が見えてくるまでに一日かかった。 こういうことは珍しい。

*以下、大変理屈っぽくなって恐縮だが、原因はどうもこういう事らしい。要するに、 私は何事も一人でする方が好きなのだ。ウォーキングにしても、普通の人なら「旅は道連れ」 とも言うように、一人で歩くよりは二人、三人でおしゃべりしながら歩くほうが楽しく、 長続きするのではないか。
その典型が近頃どこに行っても溢れている「オバサン」たちのグループだ。とにかく、 列車の中でも、歩きながらでも、景勝地でも、レストランでも、 彼女らは楽しそうに大声で「のべつ幕なし」にしゃべりながら精力的に行動している。 まるで周囲に誰も他人が居ないカラオケルームか貸切りバスの中とでも勘違いしているかのように・・・。

*私はあの連中が苦手で、出来るだけ離れるように逃げ回っている。旅のときくらい、 「更け行く秋の夜、旅の空の、わびしき想いに独り悩む・・・」 というほど深刻ではなくとも、たとえば列車の窓の外の景色は静かに眺めて物思いに耽りたいのだが、 その願いはいつも彼女らにより粉砕される(あのオバサンたちはきっと物思いになど耽らないのだ!#) ・・・どうも日頃の恨みがつい出て脱線してしまった。

*年のせいか、最近は過去の楽しかった、あるいは苦しかった思い出を反芻したり反省したりする事が多い。 それでは精神が老化すると、出来るだけ現在の社会や将来の計画について考えるよう、 自分を戒め努力しているが、いずれにせよ、私は独りになって静かに考え事をしたい・・・。 そのためには静かな環境に自分を独り置く時間を、毎日作りたい・・・。 それが私の毎日の単独ウォーキングや折々の気ままな旅行(単独または妻と二人) の基本のスタンスだったのだ。 その私が、他人の作ったプランに乗って、何十人もの他人とペースを合わせて歩くのか???

*ウォーキングにしても一人で歩いていれば、面白い景色や美しい花に巡り合ったとき、 好きなだけ立ち止まって鑑賞していられる。面白そうな横道が有ったら、 予定を突然変更してそちらに入って行く事も差し支えない。 突然草むらに横になりぼんやり雲の動きを眺め続けていてもよい。疲れたら直ぐに家に帰る。 こういうささやかな自由も、上述の独立静寂と共に、 今の私にとっては何物にも代え難い人生の貴重な条件なのである。 だから、私は今まで、あまり他人とは一緒に歩かなかったのだ・・・。

*と、この辺のことがだんだんと自分の頭の中で整理され、はっきりしてくると、さて、 永高さんのお誘いを受けて仲間に入るべきかどうか、悩ましくなってきた。 「でも、考えてみればひと月に1日じゃないの。あとの29日は一人で歩けば良いのだ。 たまには大勢で揃って歩くのも悪くはないのでは・・・」と思い至り、 早速翌日「お勧め通り次回はゲスト参加します」とお返事した。(以上10月27日記)

#:この話を妻にしたら「オバサンだって一人なら物思いに耽る人もいる。 二人なら静かに話す人も多い。三人以上だとほとんど必ず、突然賑やかになるのだ」という。 これが「姦しい」という字が作られた数千年前から変らぬ真実なのだろう。

第二章

*その後11月7日にこのグループにゲストとして初参加した。 コースは蓑毛−蓑毛越え−大山神社下社−ケーブル下という徒歩約2時間の、 ある程度の起伏を伴った丹沢の山道だった。毎日1時間以上、 休まずに速足で丘陵地を歩き鍛えている私の下肢にとっては、 涼しい秋の曇天という当日の状況もあって、何の問題もないハイキングコースであった。

*さて、ほぼ四十年ぶりに、34人もの仲間と一緒に、グループにペースを合わせて長時間歩くのは、 私にとってどういう体験だったか?

*昔一緒に働いたり遊んだりしたことのある懐かしい人も少なからず居たこのグループとの半日は、 気疲れのない楽しいものであった。私は時折彼らと世間話や思い出話をしながら歩き、 それ以外は転ばぬよう足元を見つめながら一歩一歩坂道を踏みしめて歩いた。 終着地点で全員で食べた名物の豆腐料理の昼食も楽しかった。 この場で皆さんから幾つもの重要な情報を仕入れる事が出来たのも有益だった。楽しい一日だった。 私は「次回から正式に仲間に入れて頂き、一緒に歩こう」と決めた。

*一つ、印象深い体験をした。朝、出発地点で全員が集まり、私を含む新参者の自己紹介が有った後、 リーダーの発声に従い5分ほど全員でストレッチ体操をしたことだ。
途端に私の頭に次のような思い出がよみがえってきた。米国工場を運営していた時、 私は日本の工場で有効であった種々の活動を徐々に導入しようと努めた。提案制度、 小集団活動による業務改善、 作業者の設備自主保全活動その他米国では当時あまり一般的ではなかった種々の活動である。 いずれも、日米管理者たちの理解と努力もあって、スムーズに受け入れられ、相当な成果を収めた。 所が、二つだけ導入がほとんど不可能だった活動が有る。

*それは始業前の全員体操と作業中の指差呼称だった。 どちらも予期せぬ災害を未然に防ぐという効果があると頭では分かっても、彼らは強硬に辞退した。 仕方ないので体操はエアロビクスのようなのにして任意参加とし、半数くらいは参加しただろうか。 彼らの反発の理由は、全員で揃って、他人に指示された通りの同じ動作をするという 「全体主義」への強い嫌悪と、強い自意識だったと、今では理解しているが、当時は少々腹が立った。
彼らはたとえどんなに有益でも、号令され揃って同じ事をやらされるのは大嫌いらしい (日本人には逆にこういう揃った行動に抵抗感の少ない人や共感を覚える人が多いようだ)。

*これに反し、提案制度、小集団活動による業務改善、作業者の自主保全活動などは、 参加は自主的だし、活動中は自分独自の創意や個性が発揮できるし、 自分の技能・知識の向上にも役立つ。他者との競争や表彰もある。 結果として新しい何かが生まれる。だから、米人たちも喜んで積極的に参加したのだと思う。

*給料を払っている会社が提案した体操に対してすら拒否反応を示した彼らが、 もしこういう同好会的なグループで「さあ、揃って体操しましょう」と言われたら、 一体どういう反応を示すか面白いな・・・と考えながら、私は素直に参加し体を動かしていた。 私はやはり日本人なのだ。

*「そう言えば、 たしか米国の学校には全員揃ってやるラジオ体操式の体操や鉄棒跳び箱のたぐいは無かった。 体育の時間は各人が好きなスポーツを好きな仲間と楽しむというスタイルだったと思う。 子供たちが私的にクラブに入りコーチに就くということは有るが、 日本の少年チームのように、全員で一緒にへたばるほどランニングしたり、 指導者の罵声?のもとで「しごかれ」たりという光景はついぞ見た事が無い。 でもこういう基礎訓練を経ていてないのに、 どのスポーツでも何故か彼らは日本人よりずっと強いんだよなー・・・」 などと考えながら屈伸しているうちにストレッチ体操は終了し、私たちは元気に出発したのであった。 (以上11月8日記)

第三章

*考えて見ると、この私の「他者に干渉されたくない」、「出来れば何事も一人でやりたい」 そして「独りで静かに考え事をしていたい」と言う願望は、青年の頃からのものであったようだ。 私は「人間好き、つきあい好きではあるが、組織に組み込まれるのは嫌いな人間」であるように思う。 所が社会に出てからは、日本的な会社組織の中で、それが目指す集団主義が正しいと考えたので、 その方向に自分を(時には他人までも)鍛え直して集団の良き一員に組み込むべく、また、 集団の良きリーダーたるべく、数十年懸命に努力し続けてきたのだった。

*それはそれでまた、おおいに興味のある、大変有益な人生修行の体験でもあったのだが、 会社を辞める数年前頃から私が「会社組織を一日も早く抜け出て、 自由な、誰にも干渉せず干渉もされない人間(フリーマン)になりたい」 と渇望し始めたのは、実は前述の私の本性が眼を覚まし始めたからなのだろうと思う。 そして、会社を辞め組織から離れてみると、 自分本来のスタンスが再び自分に戻ってきたことが、はっきりとわかる。

*息子が貸してくれた植村直巳さんの自伝的冒険記録の本を、数年前に5冊続けて読んだ。 彼はエヴェレストのような単独登頂が不可能なような山には、 国際的なグループの一員となって参加し成功したが、 基本的には単独行動での登頂や冒険を目指していた。日本では登山家の中にも、 同じ大学卒とか、何らかのグループを作って行動する人たちが多いようだから、 彼などは日本人としては、かなりな異端者だったと思われる。しかし、 彼のようなのは日本以外ではごく普通に見られる登山家の行動スタイルではないかと思う。 彼は決して人間嫌いの変り者ではなく、 西堀栄三郎氏など多くの内外の友人たちから敬愛された、実に心の暖かい優しい人であった (余談だが彼の名前が今回広辞苑第五版に収録された)。

*ただ、彼の心の中には「集団の中の良きメンバーであるよりは独立した優れた個人でありたい」 という意識が、平均的な日本人たちよりはすこぶる旺盛だったように思える。私はそこに強く惹かれた。 岡本綾子とか落合博満などという人たちも、植村さんと似たタイプのスポーツマンであるようだ。

*米国の私の住んで居た地方では、家族が一軒きりで(時には老夫婦二人きりで) 森の奥の、そのまたずっと奥の方で暮らしているというようなことが珍しくはなかった。 悪者が襲ってきたらどうするのだろうと思う。 警察を呼べたとしても来るまでに30分以上はかかる。 だから、彼らは何挺もの銃をいつでも使えるようにして持っている。 銃は自分と家族を守るための必需品なのだ。予告なく不審な人が敷地内に入ってきたら先手で撃つ (という警告の立て札が立っている #)。ではそんな苦労をしてまでなぜ森の奥にこもるのか? 彼らは静けさと独立性(周囲の誰からも干渉されない状況)を強烈に欲するからだと思う。

*私の秘書をしていた女性も、郊外の湖のほとりの申し分のない住宅地に住んでいたが、 50才近くになってから、森の奥に数万坪の土地を安く(多分坪100円くらいなのだ!)買い、 家を建てて夫と共に移っていった。車を飛ばせば20分くらいで一応のショッピングは出来るが、 ほとんど誰も周りに住んでいないこの森の奥に彼女はなぜ移っていったのだろう。 私には今もって理解できない。でも、彼女のようなケースは珍しくはないのだ。 ご主人は暇さえあれば一人で楽しそうにブルドーザーで開墾に励んでいるという。 朝夕は戸口に種々の野生の動物が訪ねてくるともいう。 彼らはその静寂な自然と独立性をこよなく愛してるかのようである。

*私はしかし、たとえ「車で繁華街まで30分で行けるよ」「土地は1万坪只でもいいよ」と言われても、 隣家が1kmも離れているというような森の奥に孤立定住したくはない(時々行く別荘なら良いが)。 そういう点では、彼らと私とは、はっきりと違う人種である。この違いは先月(その10) の後半に書いた「文化の違い」どころか「遺伝子の違い」とでも言うべきものであろう。 彼らには入植期のあの開拓者たちの遺伝子が濃厚に承け継がれているのではないだろうか。

*私はと言えば、やはり誰にも「干渉せず干渉もされない」無職の身を、 「東京」まで1−2時間のこの「自然」の美しい「地方」の小都市の「住宅地」に置き、 「隣組」に囲まれて暮して行くのが妥協の結果というか、消去法的に最良の選択らしい。 しかし、それだけに、今後もひと月に29日、毎日1時間以上は一人っきりで静かな田舎の小道を歩き回り、 自然の移り変りを愛で、独りで静かに考えに耽るという喜びを大切にして生きて行こうと思う。 (以上11月10日記)

#:私の記憶に残る最も強烈な立て札をご紹介しましょう。"Trespassers will be shot. Survivors will be shot again.(侵入者は撃つ。死なない奴は何度でも撃つ)"

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