フリーマンの随想

その77. 制服に反抗し続けてきた私


( Sept. 6, 2007 )


このホームページには、「 あくまで前向き 」 ということで、過去の回想は含めないと決め、そう公言しても来たのですが、今回初めてその約束を破ってしまったようです。

***
1.祝儀不祝儀の黒い礼装

 先月、東京のある斎場で、在職中会社で2年後輩だったH君の葬儀があり、カホルと一緒に参列しました。 彼は私たちと共に若い頃コーラスのグループを作って、一緒に歌った仲間でした。

 目的地近くの地下鉄の駅で降りて少し歩きだしたところで 「 熊井さん 」 と呼ばれて振り向くと I さんです。 彼は私が米国の生産会社の社長をしていたころ、ニューヨークで販売会社の社長をしていて、ずいぶんお世話になった方です。

 涼しげなグレイの背広姿の彼に 「 こんな所で遭うとは奇遇ですね。 今日はまたどこに? 」 と聞くと、「 H君のお葬式ですよ 」 と言うではありませんか。 言われてみれば彼もH君とは旧知の仲で、参列するのも当然のこと。 しかし、彼は平服です。 私と同様に黒のダブルの服に黒いネクタイでもしていれば、即座に同じ斎場に行くのだと分かったのに・・・

 そういえば米国では、結婚式でも葬儀でも、参列者は男女ともみな平服で、男は普通の背広に普通のネクタイでした。 それがどんなに快適で便利なことであるか、私も実感していたし、そのことをこのホームページでも 以前紹介しました。 しかし、帰国後、私はたちまち日本的慣習に戻って、猛暑のさ中なのに、その日も黒づくめの暑苦しい 「 いでたち 」 でした。

 あえて確かめる事はしませんでしたが、I さんは、日本には私と同じころ帰ってきたのですが、米国生活の中で 「 良いと思ったこと 」 を、日本でもいまだに取り入れ実行し続けているようです。

 そんなこともあったので、翌週の猛暑の中の姪の結婚式には、カホルも私も、花嫁の両親に断った上で平服で参加することにしました。 式場に着いてゆっくり観察すると、年配の男性で平服だったのは私のほかには2人きり。 うち一人は英国人でした。 若い男性たちまでが全員黒の礼服でした。 女性はと言うと、中年以上はカホルの他は全員黒い礼服でしたが、新婦の友人の若い女性たちは半数強が黒い服、残りはしゃれた涼しげな平服でした。 若い女性たちはこういう点では慣習から抜け出そうとする意志が強いようですね。

 結婚式や葬式での黒い礼装は、季節を問わず男女を問わず、日本ではほとんど当然のこととされています。 一種の 「 制服 」 みたいなものです。 何を着てゆこうかと悩む必要がない点は便利ですし、あえて逆らうほどのことでもないと思う一方、何となく無言の強制をされているような窮屈な感じもします。

 それに、葬儀はともかく、めでたい結婚式の参列者が男女とも黒づくめというのは日本特有に近い?慣習で、考えてみると異様ですね。 私はこれからは、冠婚葬祭とも、できる限り平服で出席して見ようかなと考え始めている所です。 と、ここまで書いてきて、やはり私の生涯を通じての 「 制服嫌い 」 について書いておきたくなりました。

2. 制服を着たくなかった私

 私は少年時代から、制服というものが、なぜか大嫌いでした。 身なりや服装について他人から指示され 「 決めごと 」 を押し付けられことに猛烈に反抗していました。 また自分が 「 世間の常識 」 に沿った身なりをすることも大嫌いでした。

 中学生の頃は、第二次大戦の敗戦の直後でしたから、生徒も制服どころではなく、日本軍や米軍の軍服の放出品を改造して着たりしている生徒も少なくありませんでしたし、当然のこととして頭髪は丸刈りと決められていました。

 この丸刈り頭の強制が嫌で、私はその都立の旧制中学を3年で自主退学して、服装も頭髪も全く自由な、ある私立の高校への転校試験を受ける事にしました。 当時は現在とは逆で、公立校の方が一般的には私立校より学力、進学率のレベルが上でしたから、私の場合も勉学の面ではわざわざ転校する必要はなかったのですが、私の志願した私立校は例外的に優秀な学校でしたし、しかも服装や頭髪の 「 自由 」 が完全に保証されていたのでした。

 受験のための成績証明書を貰いに行ったら 「 他校の編入試験を受けて落ちても、もうこの学校には戻らせてあげないよ 」 とその都立校の担任の教師から警告されましたが、そんなものは無視しました。 高校の貧乏教師だった父も、そして母親も、生活が苦しい中、交通費や授業料の負担が高くなるこの転校に賛成してくれたことに、今も本当に感謝しています。

 15歳でのこの転校と同時に私は頭髪を伸ばし、旧海軍の紺の軍服を母が自分の手で改造してくれた背広風の洋服にYシャツ・ネクタイという姿で通学しました ( 写真左 )。 1948年のことです。 当時はほとんどの高校で、丸刈り以外の頭髪は許されていませんでしたから、この時代に私はずいぶんと風変りな外見の高校生だったわけです。

 手許に私が1951年に大学に入学した時のクラス全員の記念写真があります。 この49名のクラスでは、ほかの全員が詰襟金ボタンの制服に角帽という姿なのに私一人が無帽の背広姿です。 母にねだって角帽と詰襟の学生服を買うかわりに、質素な紺の背広を買ってもらったのでした。

 当時、この大学の角帽と制服、バッジなどは、家庭教師をする場合でも絶大な信用を得る 「 最高のブランド 」 でした。 いや、家庭教師の場合だけでなく、どこに行ってもこの大学の角帽と制服、バッジ類を身につけているだけで、周囲から一目置かれたのではないかと思います。

 一方、私はと言えば、こういう制服姿でないので、家庭教師の生徒の家を訪れると、初対面の瞬間、親から一瞬不審、不安の眼で見られたのを覚えています。 でも生意気盛りの私は、「 官 」 の権威の象徴としか思えないあの 「 ブランド 」 学生服と角帽を拒否し 「 容器ではなく中身で人間を判断してくれ 」 と居直って、強がっていました ( 写真右:プライバシーを考慮し、親友たちの顔に醜いモザイクをかけたことを深くお詫びします )。 現在は、大学生たちは何を着ようと、どんな髪型をして通学しようと、何も言われない自由な時代ですから、こんな話をしてもピンと来ないと思いますが、当時の私は私なりに懸命に 「 世間の常識 」 に抵抗しながら、自分の自由や個性を追求していたのでした。

 とにかく自分の髪形や服装を他人に決められたくない、世間の常識に縛られたくない・・・という思いは、あれから半世紀以上もたった今も、私の生き方の基本となっています。

 地域のボランティア活動でも、私服のままで出来るものには私は参加しますが、制服、制帽などの着用を義務づけられるものには参加しません。 腕章程度なら何とか我慢します。 でも、制服制帽をむしろ誇らしげに着用して活動している方たちを見ると、「 私はだめだ 」 と、かたくなに身を引いてしまうのです。 ここまで来ると、もう 「 制服アレルギー 」 状態です。

 改めて周囲を見渡すと、中学は勿論、高校も、そして私立も公立も、女も男も、ほとんどの学校の生徒が制服を着て通学しています。 あれから60年も経った今、驚いたことに状況はほとんど何も変わっていないのです! ( 男子大学生のほとんどが当時は学ランに角帽姿でしたが、それは飽くまで強制ではなく、自分の選択でそうしていたに過ぎません ) 私がもし今15歳に戻ったとしたら、再び抵抗を開始しなくてはならないのです。

3.制服を着せたくなかった私

 自分が制服を着たくないのですから、他人にも制服を着せたくありません

 私が米国で工場の経営をしていたころ、日系の企業の各工場では作業場内で日本風の制服制帽を米人たちに強要して、制服嫌いの米人たちと、しょっちゅうイザコザを起こしていました。 当時 ( あるいは今でも? ) 日本国内の工場では、受付の女性までもが制服を着ているのが普通でした。

 無塵の清浄な環境を要求する職場、逆に油や煤塵にまみれて働かなくてはならない現場なら、それぞれに適した作業服を着用する合理的理由があります。 しかし、受付や事務職場はもちろん、製造現場の中にも作業服を着る必然的な理由などない職場はいくらでもあります。 日本の多くのの工場ではそういう職場でも制服を支給し、着用を強要し、定期的に洗濯までしてあげ、無駄な費用をかけています。 従業員も私服が汚れないからか、あまり嫌がらずにそれを受け入れています。

 でも、米人たちは制服を着たがらない点では私に引けを取りません。* 彼らが制服を嫌う理由はただ一つ・・・「 個性が発揮できない 」 です。 それなのに無理に制服を強制し、コストをかけてまで士気を沮喪させる必要がどこにあるのでしょうか? と言うことで、私は作業服の着用は、それが必須な特殊作業の職場だけに限ることにしました。  日本でなら作業衣上下を支給している作業場でさえ、腕の安全保護上必要な厚手の長袖の上着だけを支給し、下半身は私服OKとしました。 もちろん、米人たちは職場内でも個性を発揮できると喜んでいましたし、制服購入代金や毎週の洗濯代金も節約できました。

 そんなある日、東京から労働組合の委員長が視察に来て、私がコンコンと上記の理屈を説明してあげたのに、帰国後 「 米国工場では現場で作業衣を着用せずに働かせている・・・ 」 という不満気味?の報告書を書いて本社の社長にまで提出したのです。 幸い社長は私の説明と理屈を理解してくれ、問題にはなりませんでしたが、委員長の 「 頭の固さ 」 に私は非常に落胆したことでした。

 日系他企業の日本人幹部が見学に来られたときにも、「 制服を着せないで社員の一体感が保てるのですか? 」 と聞かれて驚いたことがあります。 今思うと失礼な返答でしたが、私は思わずムッとして 「 では、皆が同じ制服を着れば社員の一体感が醸成できるとお考えなのですか? 」 と聞き返してしまって、ちょっと気まずい雰囲気になったことを覚えています。

 結局、私の一生はなぜかわかりませんが、制服への反抗に終始してきたようです。

*: 米国の工場の組立てラインで、作業者たちが思い思いの私服で働いている光景をTVでご覧になった方も多いでしょう。 ところが、そんな彼らも、会社が記念日などに社名ロゴ入りのシャツを作って配ったりすると、会社には着てこないが、自宅では得意げに着用して近所の人に自慢したりしています。 その辺はちょっと理解できません。
 一方、私は異常に長いピアスやネックレスは機械に巻き込まれたら危険だから、またとがった指輪は製品を傷つけるからなどと、いくつものアイテムの作業中の着用を禁止しました。 また、大部分の化粧品に含まれるある成分が製品の性能を損なうので、一部の職場内での化粧品の使用を禁止しました ( 電車やバスは全くない地方で、全員が自家用車での通勤ですから、これはどうにか可能でした )。  これらの規定は採用面接のとき理由を説明して納得させ、同意の署名をさせました。 採用後に命令したのでは、反抗されトラブルになるだけですから。


ご感想、ご意見、ご質問などがあれば まで。