フリーマンの随想

その73. 会社を辞めようと考えたわけ


* 米国から帰り退職して10年が経った *

( July 2, 2006 アップロード; July 7 一部のミス修正 )


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********** 最初の20行ほどは、「 あしがらみち 」 2006年6月度分に書いたものと同じです ***********

********** 既にお読みになった方は、その先からどうぞ ***********

 私達夫婦が8年近くの米国生活を終えて日本に帰って来たのは1996年の6月23日のことでした。  先月 ( 6月 ) の23日に家の近くのコースでゴルフをしていたとき、なぜかフッとそのことに気がついたのです。

 あれからもう10年も経ったのか・・・あのときの私は、馴れ親しんだ土地や 米国の友人たちとの別れに、 とても淋しい思いがしていた一方、故国に戻って子供たちや孫のそばで新しい生活に再出発できることへの期待と喜びにも、 心が震えていました。

 そして、40年以上も勤めた会社を辞めて、いきなりまったくの自由人 ( 無職 )になる日も、数日後 ( 6月26日 ) に迫っています。  このことについても、もちろん同様に、別離の淋しさや不安と、未知の世界への期待感とが、心の中で激しく混じり合っていました。  成田空港で入国審査を通過した瞬間の何とも言えぬ 「 終わった!という虚脱感 」 を、今でもありありと思い出します。

 あの日までは、昼間はほとんど英語しか 「 聞き、話し、読み、書き 」 しないため、知らず知らず 「 常に緊張 」 を強いられていました。  しかし、それ以上に、1300人もの従業員を預かる化学工場では、いつなんどき、大災害が起きるかわからないので、 心配性で完璧主義?の私には、責任者として 「 気の休まる 」 瞬間などほとんどなかったと言えます。  それに加えて、目標、品質、納期、上役、部下、顧客などなどのもろもろのプレッシャーが次々に襲ってくるのです。

 こういう状態から一刻も早く100%解放されたらなぁというのが、長い間の私の夢でした。  「 生涯現役 」 などという考えは、私には全くありませんでした。 私の神経はそれほど強靭ではないのです。

 あれからの10年、カホルに一時は死の影が忍び寄ったこともありましたが、二人とも、とにかく元気で生きてこられました。  二人目の孫にも恵まれ、健やかに成長しています。 私たちは世界中、日本中をあちこち訪ね歩くことも出来ました。

 40年以上も夢中で働いてきた会社の仕事から、ある日プッツリと100%離れてしまうこと・・・ そういう環境の中で人生に 「 ハリ 」 が保てるのだろうか・・・という微かな不安・・・は、幸いまったくの杞憂でした。  さきほど列挙したもろもろのプレッシャーが消滅することが、こんなにも幸せなことだったのだ・・・と今も実感し続けているのです。

 毎日遅くまで一生懸命働いている子供たちには申し訳有りませんが、この10年間が、私にとっては、 自分の一生のうちで一番幸せな期間だったと、いま確信できます。 こういう諸々のプレッシャーにさいなまれ続け、 苦しみもがいてきた42年間の後ですから、素直にこの幸せを受け入れて、これからも、もう暫くゆっくりと生きることにしましょう。  ただ、これからの次の10年は、今までの10年のような平坦な道ではないはずです。

********** 経緯・・・ここからが本論です ***********

 実は私は、退職の4年ほど前 ( 1992年の8月11日 ) に、近い将来の自分の退職についての考えを整理しまとめて、 ワープロの書類 ( *1 ) を作っていましたし、さらに1年半ほど前 ( 1995年の1月30日 ) には、 書面 ( *2 ) で当時の本社社長に退職を申し出てもいたのでした。

 しかし、たまたまこの直後に、世界最大の米国のライバル会社から、米国市場での営業活動に大きな圧力と制限がかかり、 会社は対抗上、急遽米国内にさらに二つも三つもの新工場を超特急で建設し、稼動させ、 生産を行わなくてはならないという事態になりました。

 「 こういう状況だから是非もう一期 ( 2年 ) 働いて欲しい 」 と社長からも要請されましたし、 この 「 国難 」 的な状況のもとで、対応策の責任者の一人でもある自分が、自分の考えや都合だけで辞めたら、 それは 「 敵前逃亡 」 にも等しく、米国工場だけでなく会社全体が困るということが、 自分自身でもはっきり認識できたので 「 わかりました。 あと2年働かせていただきます 」 ということになったのでした。

 あれからもう14年以上経ちます。 殺人罪だってそろそろ時効になるほど昔の話ですし ( 刑法改正で25年に延びるそうですが )、 私の余命も、もうそう長くはありませんから、 この辺で当時のことを、出来る限り率直に、しかし他人を無用に傷つけない範囲で書き記しておこうと考え、 二つの文書 ( *1 ) と ( *2 ) を、古いワープロのフロッピーから引っ張り出してきました。 ( これらを書いていた当時 「 きっと将来、これを読み直す日が来るだろう 」 と思っていました。 今日がその日のようです。  それにしても、8年も使わなかった埃まみれのワープロの中では、 乾電池が半分溶けていました。 よくあの古いフロッピーの内容を取り出すことができたもの・・・幸運でした )。

 私が10年前、自ら申し出て職を辞した理由は一つではなく、10ほどもあるのですが、 それらのうちの主なもの ( 赤字で示した ) を、 上記の二つの文書を使って、順に書いてみることにします。 当時書いた文章はできる限り変えず、 90%以上そのまま使っていますが、諸般の 「 差しさわり 」 がありそうな部分はカットしました。

********** 14年前、私が心に決めたこと ***********

1992年8月11日の手記 ( *1 )

 1.この米国工場の設立と建設、運営の仕事は、自分の会社への最後のご奉公と考えて全力を尽くし、 多くの優れた日米の部下たちの献身的努力にも支えられて、立派に成功した。 自分としても 「 よくやれた。 他の人がやっても、 多分これ以上には出来なかったろう 」 というひそかな自負もある。

 さかのぼれば、私は米国に来る直前まで、**プロジェクトのリーダーとして、数十億円の金を使い、 数十人の人たちをを4年間も率いながら、何一つ成果を出せずに 「 店仕舞い 」 することになった。  全く新規な商品の開発においては、この種の挫折は珍しいことではないとは言え、この屈辱的失敗の責任を負って、 私はその場で会社を辞めようと本気で考えていた。

 だが、そのとき突然与えられた米国工場の仕事を、会社が 「 敗者復活の機会 」 を与えて下さったのだと捕え、 もう一回だけ挑戦してみようと私は思い直した。  この新しい仕事に成功しさえすれば、会社への大きな負い目は感じずに辞められる・・・ そう考えて1988年11月、私は単身米国南部の田舎町へと渡ったのだった。

 4年の歳月が過ぎ、幸い、事は成功裡に非常にうまく運んでいる。  あと2年ほどすれば、過去の負い目をどうにか帳消し出来たと思えるように、 きっとなる。 そうなった時、私は直ちに会社を辞めるべきなのだ。  このことは、今からしっかりと心に決めておかないとならない。  そうでないと、時の流れと共に気持が薄れ、揺らいで、ズルズルと居座ることになってしまうから・・・

(14行略)

 2.一方では、このような海外子会社の設立や経営程度の仕事が、 私の能力の限界であったのかと思う。  私は決して本社の最上層部に座り、全社を自他共に満足できるように動かせるほどの器ではない。  その程度のレベルの自分であるなら、それなりの辞め時、 潮どきというものがあるのではないか。  あとに続く優秀な人たちは目白押しだ。 辞めろと言われるまで居すわるのではなく、進んで彼らに次の時代を譲るべきだ。

 3.一体、人生というものは、老いて力尽き倒れるまで仕事に燃え続ける ( べき ) ものなのか?  「 生涯現役が幸せとその人が思っているならそれも良いではないか 」 と、人は言うかも知れないが、 一体それは本当に自分に対し、また周囲に対して幸せなことなのか? 私にはどうもそうは思えない。  どこの会社でもワンマンのトップ以外のすべての人は 「 仕事の場で最後まで気兼ねやストレスの中に毎日揉まれ続け、 心身をすり減らし続けて一生を終わる 」 のではないだろうか。  働き続けるしか生活の手立てがないなら、人は老いても働くしかない。  しかし、働かなくても質素に、惨めでない程度に暮らせるという見込みが出来たのなら、 組織の中にいる者は後進に道を譲って次なる別の世界を味わった方がよいのではないだろうか。

 4.自分は幸せなことに若くして役員になれた。 しかし、当社の現状は、トップ以下が高齢化しても居座っている結果、現在、 当時の私に勝るレベルに成長した人材が、役員や部長に上がれないでいる。 「 後進を育て、 彼らに道を譲り気分一新を図る 」 という発想が全くないトップと共にこのまま仕事を続けていたのでは、彼らに気の毒すぎる。  粋がるわけでは決してないが、私だけでも 「 自分の意思による勇退 」 という行動をとって見たい

 5.米国に来て、リタイア後の毎日を、伴侶や子や孫たちと、また近所の友人たちと共に、趣味に生きながら、 底抜けに明るく、楽しく活動的に、ゆとりをもって暮らしている人たちを周囲に多く見るにつけ ( そういう人たちは米国ですら一部の恵まれた人々だけだとは思うが )、数十年全力をあげて仕事に打ち込んできた人は、 健康なうちに余生を 「 かねてからぜひやりたかった仕事以外の事 」 のために使ったり、 あるいは 「 ゆっくり静かに暮らしたりする 」 ものなのだな・・・またそうしないと、死の直前に深く悔いるのではないか・・・ と思えてくる。

 あの Beres 氏には 「 お前を見ていると、一つのことをしながら、もう次のことを頭の中で考え、 いつもセカセカし続けている。  今自分は余生の幸せをつくづく味わっている。 お前もぜひ65歳以前に自由人になり、ゆったりと人生を生きろ 」 と忠告された。  彼の生きかた、考えかたに共鳴したのも理由のひとつである。

 6.最後に、あえて言うなら、この会社全体を支配している現在の状況は、私という人間の考え方には全く合わないものだ。  経営指標のわずかな上下への対応にのみ汲々とし、 基本的に大切な人間一人一人の働く喜びの維持向上をなおざりにしているようにしか見えないトップと、 その意を推し量り、それに迎合することにばかり時間と精力を消耗し、自ら考え行動するという基本を怠っている ( ように見える ) 幹部ばかりだ。 彼らと共にこれ以上働く気力は、私の体の中からついに失せてしまった。

 7.( 以下5行略 )

*********** 社長あての辞任願い  **********

 **社長殿            小職の職務につきお願い申し上げたき件( *2 )( 抜粋 )        1995年1月30日

( 冒頭の14行略 )

 小職は、すでに6年以上日本を離れており、社内の他分野の業務についてはブランクが大きすぎます。  今後日本に戻ってから、本社でまったく新しい任務に就き、覚え、 会社に貢献できるだけの力が現在の自分にはもう有りません事を、誰よりも自分自身がよく弁えております。  これに対し、現在の仕事は、一番自分の専門、能力、力量に合っていますし、 私が役に立つとご判断くださるのであれば、ここを最後の職場とし、その発展に尽くしきるのが、 自分のためにも会社のためにも最善と思う次第です。

( 6行略 )

 ところが平成5年暮、急転会社を取り巻く事情が変わり、非常な難局が到来し、*、*両計画の検討が始まりました。  この危急存亡の折に、大切な新事業の建設が緒についたばかりの時に会社を去りたいなどと言い張る事は、 役員の一人としてあるまじき所業であると、後述の個人的事情との板ばさみで悩みました。  そして結局、この2工場が立ち上がり生産が順調に軌道に乗るまでは、 ご指示のある限り米国工場で頑張らせていただこうと考え直し、妻も私の説明を受け入れてくれました。

( 4行略 )

 後任を推薦せよという事ですが ( 以下6行略 )。
 米国工場長の仕事は非常に肉体的にキツイのです。 たとえば、夕方まで仕事をしてから、 100km離れた町まで自分で車を飛ばして打ち合わせをしてから、夜半にまた運転して帰宅するなどということは、 他人よりも頑健である点だけは自信のある小職でも、60歳を過ぎてからは、随分つらくなりました。  疲労のため居眠り運転しかけて大事故寸前という事もありました。 しかし、電車もバスもタクシーさえもない当地では、 出張ごとにこのような事を毎週でもやれないと務まらないのです。 日本の工場やニューヨークの事務所とは、 この点がぜんぜん違います。 50歳台半ば以下の若く健康な人を抜擢していただくのが最良と存じます。

 個人的事情としては、まず、妻の健康上の問題があります。  小職の母と妻の母の二人 ( ともに独り暮らし ) が高齢となり、 諸般の事情から、世話をする必要が出始めた事です。 妻にはこの6年間、非常に苦労をかけてきました。  妻は6年前、友人も家族も、一生の生き甲斐としてきた稽古事も、すべて置き去りにして米国についてきてくれました。  地元への奉仕活動なども多面的に続けてくれ、会社のイメージアップにも協力してくれました。

 しかし最近、とみに体力が弱り、一度日本〜米国間を飛ぶと、毎回数週間は寝込んでしまい、 さらにその後、何カ月も慢性の下痢が止まらないという程です。 いくら日米の医師が検査・投薬しても直りません。  出来れば一日も早く日本に帰り、ゆっくり治療したいと申しております。 と申しますのも、 老齢の母親の面倒を見る必要が出始めているのに、親に何かがあって帰国したら自分が病気になってしまうという現状では困るからです。

( 以下数十行略 )

 以上、誠に勝手ではございますが、なにとぞご理解、ご許可くださいますよう、お願い申し上げます。

********** 付記 ***********

 妻は帰国後1年半もしないうちに、心筋梗塞で倒れた。  もしもう1期 ( 2年 ) 米国のあの田舎町に駐在していたら・・・と考えると、やはり辞めて帰ってきてよかったと思う。

ご感想、ご意見、ご質問などがあれば まで。