フリーマンの随想

その60. 一つの思い出


* ウォルマート元社長 デイヴィッド・グラス氏のこと*

( Apr. 17. 2004 )


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 このホームページには、私は 「 過去のことはなるべく書くまい。 特に、単なる思い出話は書くまい。  努めて現在のことと将来の事を書くようにしよう・・・」 と心に決め、当初から実行してきたのですが、 今回のこの話は、最近友人に話したら 「 そういう話は是非書き残しておけ 」 と勧められたこともあり、 書きとめておくことにしました。 そうは申しても、何かみずから禁を破っているような抵抗感はありますが。  それはそれとして、数えるとこの随想も60回目となりました。 人間で言えば還暦です。  あと幾つ続けられることでしょうか。

 WAL−MART ( ウォールマート。 ロゴは WAL★MART 。 正式には Wal-Mart Stores, Inc. ) という小売業で世界最大の会社をご存知と思います。 経営難に遭遇している西友と数年前から組んで、日本にも進出してきていますね。  この会社については、私には忘れられない一つの思い出があります。

 1988年、私が米国南部の小さな州サウスカロライナの、そのまた小さなグリーンウッドという町に、 富士フイルムの米国工場を建設するために移住していったとき、この町には、ライバルの K-Mart も含め、 ローカル資本のスーパーマーケットが幾つかありましたが、 この全米一、いや世界一の巨大スーパー Wal-Mart の店は、まだありませんでした。

 その後数年して、このスーパーがこの町にも進出して来て、巨大な店舗を構えたとき(*1)には、 町中に大きな衝撃が走り、いくつかの既存のスーパーが、その後次第に消えて行きました。

 この強者 Wal-Mart に興味を持った私は、当時いろいろと調べてみましたが、この会社は、 これも米国の南部にある小さな州アーカンソー( クリントン元大統領の出身州 ) の、 しかも西北の一番隅っこに在るベントンヴィル ( Bentonville ) という、 大きな米国の州別の地図を虫眼鏡で探さないと見つからないような小さな田舎町で、創始者 サム・ウォルトン ( Sam Walton ) が、 1962年に、最初の小さな安売り店を開いた時から始まりました。 当時彼は44歳だったといいます。

 彼は 「 我々はより安く売る ( We Sell For Less ) 」 と 「 満足を保証します ( Satisfaction Guaranteed ) 」 の二つのモットーを店に掲げ、このディスカウントストアの店舗数を全米の中小都市(*2)を中心に次々に拡大して行きました。  そして、1991年には、ついに売り上げ世界一の小売業の地位を獲得し、 その翌年、彼はがんのため病死しました。

 というわけで、私が Wal-Mart の存在を知り、興味を持ったのは、彼の死の直前だったことになります。  なお、この会社がその後も大きくなり続け、2003年には、 世界のすべての企業の中で最大の売り上げ高を記録したということはご承知の方も多いと思います。

 サム・ウォルトンについての逸話を、当時、米人たちからいろいろ聞かされました。 彼の会社の本社は、 すでに米国有数の巨大企業になっていた当時も、上記の田舎町にあり、たしか、木造2階建てのオンボロ社屋で、サムは、 質素な身なりに野球帽をかぶり、ピックアップトラックを自分で運転して、毎日出社していたと言います。  誰しも舌を巻くに相違ない、徹底したケチケチの堅実ぶりです。(*3)

 彼は、生前、身内からではなく、部下の一人を後継の社長兼CEOに選びました。  それが、私がこれからお話しするデイヴィッド・グラス ( David Glass ) 氏でした。
           
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 イーストマン・コダック社のダンピング提訴により、日本の企業が日本製のカラー印画紙を米国に輸出できなくなったのは、 1993年から94年にかけてのことでした。  これに対処するため、私が経営の任に当たっていた富士フイルムの米国生産拠点では、急遽カラー印画紙を生産することになり、 そのための巨大工場の新設計画がスタートしました。 常識的にはすくなくとも3〜4年はかかると、 社内外の誰しもが考えていた 「 建設構想→工場設計→設備設計・製作・据付→試運転→生産開始というステップを、 たった2年でやってのける 」 という計画を決定し、社外発表を94年の2月に行いました。

 しかも、多数の米人技術者や作業者の新採用、教育、訓練と共に、数多くの特殊な独自の原材料を合成してくれる日本以外の国の会社の選定、 合成法の伝授と新規生産体制確立、質と量の安定供給の確認、各素材の安全性許可の取得、 などの数多くの課題も、非常に時間を食う仕事でしたが、これらも並行して乗り越える必要がありました。  日本製の原材料を一つでも使ったら、この場合 Made in U.S.A. と製品に書けないからです。   Made in U.S.A. なら、幾らで売ろうとダンピングだなどと難癖をつけられる筋合いはありません。

 2年後の1996年春までに 「 米国製 」 の製品が供給開始できるなら、 当時販売部門が抱えていた全米各地で働いている多数の米人セールスマンたちを雇い続けたまま、 欧州の某社から購入したカラー印画紙を ( 損益を度外視して ) 売らせて、 それまで獲得していた多くの大口の顧客たちをつなぎとめておくことができるという考えでした。 それ以上時間がかかるようなら、 もう市場からは相手にされなくなり、米国でのこのカラー印画紙のビジネスからは撤退するほかないという、まさに背水の陣でした。

 のべ数百人に及ぶ日本人チームの一人一人は、今考えても本当に素晴らしい専門家たちでした。 米人たちも、 本当に真剣に働き、習熟に努めてくれました。  彼らの献身的なの努力と協力のお蔭で、 業界の常識では不可能としか思えなかったあの計画より、更に1カ月早く生産を開始することが出来たのでした。
         
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 さて、この巨大な米国カラー印画紙工場から生産される ( 今まで、日本で生産し米国に輸出されていた数量よりずっと大きな数量の ) 印画紙を、どこに売るかです。 新規の大口のユーザーが見つからなくては、稼動が上がらないので採算が合わず、 これまでの苦労も何にもなりません。

 そこで全米一のスーパーである Wal-Mart の全店舗網 ( 当時約2千店舗 ) の写真プリントサービス窓口でも使って貰おうと言うことになり、販売部門の米人幹部たちの奔走の結果、 その商談がほぼ決まりかけてきました。

 その時、サム・ウォルトンから後継者として選ばれたばかりの新社長兼CEOのグラス氏が、最終的に富士の販売部門の招待に応じ、 「 その印画紙はどういう工場でどういう風に生産されているのか、自分のこの目で見た上で判断したい 」 と考えたようです。

 新工場の生産開始のお祝いから間もないある日、彼は本社のあるアーカンソー州の田舎町の空港から、社用の小型ジェット機に乗って、 4人ほどの幹部を引き連れて、私の住む町の空港にやって来ました ( 米国では、人口数万程度の小さな市にも、 たとえ定期便は来なくても、たいてい、広い立派な空港があるのです )。

 私は、事前に彼の経歴を紳士録で調べました。 全米一の小売業の創業者が自分の後継者に選んだ人物とはどんな人だろう。  もしかしたら有名な一流経営大学院出の俊秀ではないか・・・などと考えていたのでしたが、何と、 そこには卒業大学が書いてないのです。 と言うことは、おそらく高校卒か専修学校卒だということです。  途中入社で店員から店長へ、そしてトップへと駆け上がった人だとも書かれてありました。 どうにも不思議なことに思えました。

 その日、1996年の4月23日の朝8時半、 私は自分のリンカーン・コンチネンタルを空港にとめて、彼の到着を待っていました。  ジェット機から降り立ったグラス社長をタラップの下に駆け寄って出迎え、その顔を見つめながら握手をしたとき、  生れて初めてと言って良いほどの、何ともいえない 「 オーラ 」 を、私は感じました。  彼の鋭い眼光は、私の体全体を射抜くように強烈でした。 「 ああ、そうか。 これなんだ。  こういう人物だからサム・ウォルトンに選ばれたんだ 」 と、その場で納得できました。

 しかし、彼を私の車の助手席に乗せ、工場への10kmほどを自分で運転して連れて行く間、 私は彼との挨拶の会話を続けるうちに、彼が、その鋭い風貌に似合わず、明るい 「 とっつきにくくはない 」 人間だと言うことが、 次第に分かってきました。
         
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 彼とその部下たちを新工場の製造現場の隅々まで案内し、説明をしたのは、言葉の関係もあり、もちろん米人の現場の責任者でした。  私はその間、1時間以上も外で待っていました。  見学が終り出てくるなり、出迎えに出た私の手を握って、グラス氏は 「 この工場は素晴らしい。 気に入った。  だから、君の工場の印画紙を買うことにする 」 と言いました。 私は一瞬自分の耳を疑いましたが、 これこそ米国流のトップダウンの速戦即決経営の真髄なのだ! 」 と感嘆しました。  「 ありがとう。 会社に戻ってから良く皆で検討して・・・ 」 などと言う日本式のビジネスとの違いを、改めて痛感したことでした。

 あとで、案内役の米人責任者に 「 グラス氏は見学中どんなことを質問したの? 」 と聞いた時、私は再度驚きました。  彼は ( どうせ聞いても分かりそうもない ) 暗室内の設備、作業や技術的な問題は何ひとつ質問せず、 働いている米人作業者を次々に捕まえては 「 君はなぜこの会社を選んだのか 」 「 この会社で働いてどう感じているか 」 「 君は自分の会社をどう思うか 」 などと、矢継ぎ早に質問し、率直な答をしつこく求めたのだそうです。

 その後、彼を町のレストランにに案内しましたが、昼食を食べ終ると、彼はいきなり 「 この町にもウォールマートの店がある。  私は今からそこに行きたい 」 と言い出しました。 そこに連れて行ったら、 本社トップの抜き打ち訪問を受けた店長は腰を抜かさんばかりに驚いて応対したそうです。 グラス氏はフイルム売り場に行き、 富士のフイルムがコダックのそれより後ろ側に並んでいるのを見て 「 この町は富士の恩恵を受けている町ではないか。 逆にせよ 」 と 指示し、即刻その場でそれが実行されたと聞きました。 翌日にはその売り場には大きな垂れ幕もはられ、 そこには 「 ウォールマートは富士フイルムを支持する 」 と言うような意味の言葉が書いてありました。

 数日後、会社の米人幹部が私に 「 グラス社長はその日昼食を食べながら 『 この工場のマネジメントと雰囲気、社員の姿勢が気に入った。  アメリカ人従業員たちが、熱心に誇りを持って仕事をしていることに感心した 』 と言っていました 」 と報告してくれました。  それを聞いたときの嬉しい、誇らしい気持と 「 この会社で自分がやるべき仕事は終ったようだ 」 という感覚とを、 私は今でも昨日のことのように思い出します。

 その2カ月後、私は会社を辞め、日本に帰り、念願のフリーマンとなりました。  それから更に8年、あのグラス氏はまだ Wal-Mart のトップを務めておりますが、先日、人づてに聞いたら、 今も Wal-Mart は富士の印画紙を使い続けてくれているという事でした。
         
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*1 : Wal-Mart は主に人口5千人から数万人の中小都市 ( の郊外 ) に立地開業するのが方針のようです。

*2 : 当時の Wal-Mart の従業員に残したウォルトンの遺訓のいくつかが、私の手許に有ります。

 Wal-Mart is ordinary people joined together to accomplish extraordinary things.
 ウォルマートでは普通の人たちが集まり、普通でない特別のことを成し遂げるのだ。

 Exceed your customers' expectations. Give them what they want - and a little more.
  お客様の期待以上のことをしなさい。 お客様の望むものプラスアルファを差し上げなさい。
 Let them know you appreciate them.
 そして自分の感謝の気持をお客様に伝えなさい。

*3 : とは言え、彼は営業コストを引き下げ、売価を下げるためのベンダー主導型店鋪在庫管理による自動補充、 在庫情報常時把握システムの改革などには金を惜しまなかったとのことです。

ご感想、ご意見、ご質問などがあれば まで。