
富士フイルムの米国グリンウッド工場は、何もない野原に新設した工場ですから、
何もかも最初から作る必要がありました。就業規則のようなものも、
業種業態が異なる他の子会社のものを参考にするわけにも行かず、
一番最初に雇った米人のホワイト人事部長と二人で、毎日数項目づつ手作りで作ってゆきました。
私は当時56歳で「日本で、工場運営にまつわる大抵の事は経験したし、何とかなる」
と最初は考えていましたが、それはとんだ勘違いでした。
私が学生時代から数えて40年近くもの間、
新しい事に着手する際に取ってきた手法は、
1.参考書その他で先人や他社のやり方、その成功例や失敗例を十分調査する。
2.身の回りの先輩や知人に自分の考えを批判してもらい、疑問点を質問し、議論をする。
3.部下たちにも考えさせ、議論させ、意見を言わせる。
4.一人で熟慮する。(2、3、4は順不同)
5.これらを通してベストの解決法が自然に浮かび上がってくるのでそれを採用する事に決める。
といった一連の手順でした。これで、工場のトラブルの対処や新規課題への対応にあたっては、
ほとんど間違いなく有効な答を用意でき、問題を乗り切ってきたように思います。
ところが、米国ではこの手法が使えないと言う事を、つくづくと知らされました。
まず、この分野の日本語の参考書は殆どないし、現地の町にもろくな図書館はない。有ったとしても、
欲しい内容の本は少ないだろうし、ゆっくり英語を読んでいる暇も無い。米国初の生産拠点建設だから、
日本の本社内にもこの分野の知識・経験を持つ人はいない。教えを乞えそうな日系の先輩会社も近くにない。
現地には私一人でブレーンなんて洒落たものは誰も居ない。つまり、私の従来の手法は全く使えなかったのです。
たとえば、給与制度については、若いホワイト氏は新しい試みに挑戦したいらしく、
米国でその頃ボツボツ現れだした「全員年俸制度」にしようと提案してきました。
米国では日本と違い、管理職・専門職は年俸制度、作業者・事務員は時間給制度と言う二本立てが、
殆どの会社の決まりでした。年俸制度は(その5)にも論じましたが、勤務時間は問題ではなく、
業績・成果が問題であり、極論すれば「今日は自宅で仕事をする」でも良いのです。
病欠が多少有っても、遅刻早退が有っても、業績に影響無ければ給与は全額支払われる一方、
残業しても手当は付きません。一方時間給の人は、欠勤は勿論、遅刻早退も厳しく控除されます。
全員年俸制度だと、工場の作業者も年俸で収入が保証されるので、
「欠勤しても遅刻しても手取りが減らないのなら、ちょっと体がだるいから、
今日は病欠にして休もうか」ということになり、収拾がつかなくなるだろうというのが、
だれしも考える不安(性悪説)でした。しかし、これを採用した会社では出勤率は大幅に向上し、
生産性も上がっていると、ホワイト氏は主張しました。
当時日本の本社の人事部から若いM君が時々来て、相談に乗ってくれましたが、
彼は「全員年俸制度など人件費の高騰を招き、とんでもない。郷に入っては郷に従えで、
作業者は米国の伝統的な時間給にしましょう」と強く主張しました。
彼が紹介してくれたアトランタのある大学の教授に電話すると、日本人より上手な日本語で
「その地域の代表的米国企業のやり方(つまり時間給)を真似なさい。それがベストです」と言います。
私にはもう、どちらが正しいのか、さっぱりわからなくなりました。
その時、ホワイト氏が「熊井さん、日本では富士と言う会社はどこに他社と違う
独自性があるのですか?」「あなたはここにどんな独自の特色のある会社を作りたいのですか?」
と真顔で聞いてきたのです。その瞬間、私は40年近くにもわたる自分の課題対処法にはなかった物が、
パッと見えたような気がしました。つまり、周囲をいくら調査し勉強しても解答は得られないのだと・・・。
それは次の様な努力をしろ、という啓示でした。
1.自分は何を実現したいのか、自分はどういう状況が最善と考えているのか(vision)
を先ずはっきりさせる。
2.他に模範解答の種を求めたり、ひとの真似をしようとしたりしない。
3.これが私の会社だと胸を張れる、他社には無い独自の特色をつける(make a difference)なら、
その特色は一体何か? と自問し追求する。
4.その実現のためにはどうしたら良いいかを、自分の頭で考え抜き、
自分の心で悩みぬいて、自分一人の責任で決断する。
「お前は成人してから36年も経って、やっとそんなことが分ったのか」
と呆れ、笑われる方もいるでしょうが、私と言う人間はここでようやく急展開できたのでした。
もちろん、私は近隣の代表的な企業の人事部長たちを一人で次々に訪問しては、
率直に意見を聞いてまわりました。「全員年俸制度」で成功していると言う会社にも行き、
見学させてもらいました。各社の1年間の平均病欠日数なども調べてまわりました。
しかしそれはもはや、彼らの「良いとこ取り」をして結論にしようと考えたからではありませんでした。
どんな判断・決断の手法においても「知識は力」であるからに過ぎません。
私は、この地域の住民は信仰心も篤く、素朴でまじめな人たちだから、
こちらが彼らを信用すれば彼らはそれに応えてくれるだろうと考えました(性善説)。
それが私の作る会社の特徴だと考えました。
タイムレコーダも使わないと決め、作業者も全員年俸制度にすると決めました。
本社人事部には何も言いませんでした。言ったって反対されるだけでしょうし、
もし私の決断が誤っていたと明らかになったら迷わず会社を辞めよう・・・
もともとこの仕事は私の最後の仕事になるだろうと考えてここに来たのだから、
その最後の仕事くらいは自分の心の命じるままにやってみようと思いました。そうしたら、
急に気持がすっきり軽くなりました。皮肉な話ですが、人間「辞めてもよい」と腹をくくった時が
最もよい判断と決断ができるように思います。
7年後、私が辞めて日本に帰った後、
ある米人の技術者が「熊井さんは日本の本社より私たちの方に顔を向けていた」
と言っていたと聞いたとき、改めてそのことが分りました。
結果は1年もしないうちに明らかとなり、ずる休みなど無いこと*、
休業率は周辺のどの工場より格段に低い事、従って日本では必要だった休業予備人員も要らない事、
などがはっきりしました。成功でした。近隣の企業の中にも、その後、伝統的な時間給制度を止めて、
当社に倣う所がでてきました。
その他にも、日本の各工場では事務職も含めて全員に着せている作業衣については
「どうしても必要な職場でだけ、必要な仕様のものを着せ、他は私服で作業させる」とか、
交代作業をしても特別の手当を払わないとか、寄付の要請にはどういう方針・考えで応じ、
また断るかとかの沢山の方針を、日本でのしきたりや思考法を一旦完全に脱却した上で、
自信をもってゼロベースから決める事ができました。
主な判断の基準は「何が最も効率的で合理的か」と「何が最も米人従業員の人間性を尊重しているか」
の二つでした。この自分の頭と心で考えるしかない孤独で苦しい決断の連続の過程で、
私は「もういつどこでどんな課題を与えられても自分は独りで何とか独自の良い答を出せる」
という深い自信を得たように、今では思います。
*:実際は「会社は皆さんを信じる。だから皆さんはその信頼を裏切ってもしずる休みをしたら
即座にクビ」と明言し、実際にクビになったのは、5年間に1人だけでした。時間給の他社では、
風邪を引くと長期間ゆっくり休むのに、当社ではゴホンゴホン言いながら数日で出勤してきました。
賃金を貰っているのに申し訳ないと考えたようです。
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[追記]
この文章は米国で働いて居た頃の自分に戻って素直に書いてみたものです。
現在の私がこれに対し幾つかのコメントを付け加えたいと思います。
1.私の昔のやり方の部分は、書いているうちに、ふと小渕首相を連想してしまいました。
典型的な日本のリーダーのありよう、手法のような気がします。
2.会社が出来てから何年か経つうちに、日系の会社の中には、日本でのしきたり、
やり方をそのまま米国に持ち込んで米人に強要したり、逆に、
米人にすべて任せっきりにして決めたりしている会社も少なくない事を知りました。
どちらも問題が起きたようです。
3.現地社会から寄付の要請があると、日系企業の多くがすぐに「他社はどうですか?」
と尋ねるのは有名な話です。他社がやるなら、いやだけどやる。
でも他社がやらないのに自社だけがやるのはちょっと出過ぎなのでは・・・。
日本では普通の考えですが「自分の考えがない」態度と見なされ、非常に残念でした。
「横並びに他人の真似をせず、慣習に流されず、一人一人が自分の考えをしっかり持ち
自分はこう考えるからこうしたいのだと、それを言動に表わす」方向に、
もう少し私たちの心の重心を移したいものと思います。
4.ああいう純朴な土地柄だったから、あの私の考え方や決めた施策やが、
うまく機能したように今では考えます。人種や文化の異なる他の地方、他の国では、
また別の違うやり方を考え、選び、決断すべきでしょう。「世界中どこでも誰にでも通じるやり方なんてない」
ということを学んだ米国生活でもありました。