フリーマンの随想

その44. 老人会と老人化


* 「入りませんか」と言われて考えたこと *

(8. 28. 2001)


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あとひと月もしないうちに、9月15日の敬老の日がやってくる。

私の住む地方小都市では、各集落単位の 「 老人会 」 には、60歳から 「 はいれる 」 ことになっている。 しかし、最近は60歳以上の人口が急増しているし、 以前よりは総体的に皆若々しくなってきているので、自発的志望者以外はおおむね、 65歳を過ぎた頃に 「 どうです、加入なさいませんか 」 という勧誘が来るようである。 私も、1年前に誘われたが 「 いろいろやることが多くて、ちょっと今の所は・・・ 」 と、お断りしたのであった。

実際、その突然の勧誘の時はびっくりした。 改めて自分の歳を考えると、 勧められるのも実にもっともな話だと妙に納得する理性と、 「 老人会なんて冗談じゃないよ! 」 と反発する感情とが 7:3 くらいであったように思う。 落ち着いて回りを見渡すと、自分と同年齢の人や、少し若い人までが、既にたくさん入っていて、 市が主催する老人会のバス旅行などに、嬉々として参加しているのを見ることもあるし 「 そうか、自分も、もう老人なのだな 」 と、感慨にふけってしまった。

私の住む地域の老人たちが、老人会でどんな活動をしているのか、 私もよく知らない部分もあるのだが、ゲートボールのグループがあることと、 カラオケ ( 演歌ばかり ) や民謡や 「 お念仏 」 の同好会的活動があることだけは承知している。 でも、まったく気乗りしないなあ。 「 老人会すなわちゲートボール 」 と直結してしまう現状は、何とも安易だと思う。

というわけで、結論らしきことを先に言うと、現状の老人会は、カルチャーセンターや、 地域、民間有志等が主催する各種同好会、研究会、趣味の会、奉仕活動、政治活動などの中に、 あるいは自分の個人的生活の中に、活動の生きがいを見出した能動的老人たち ( A ) は放置しておいて、そういうものを持たない受動的老人たち ( B )だけをすくい取って慰安してあげる救済機構でしかない と私は思っていた

「 思っていた 」 と過去形で書いた。 老人会とは、所詮、そういう退屈し、老化した ( B ) グループの老人たちのためだけに存在する、一種の セイフティネット であるに過ぎないと私は思っていた。 それはそれで良いではないかとも思っていた。

ところが、もちろん、そういう面もあるらしいのだが、何人かの人にインタビューしてみたら、 ものごとはそう簡単ではなく、別の面の面白い話をいくつも聞かせてもらえた。 それによると、この近辺の人の移動の少ない地方小都市や農村などでは、 老人たちはほとんどが子供の頃から互いに知り合いなので、老人会には、昔を語り合う 「 半世紀 ( 以上 )後の同窓会 」 的な楽しさが有るのだそうだ ( だから、逆に 「 よそ者 」 は入って行きにくい )。

また、老人会は一種の男女交際機関でもあるという。 確かに人間何歳になっても、新しい異性の友人ができるということは、 たとえただの知己に過ぎなくても嬉しいことなのだ。 ましてや、 プラス・アルファの好意が芽生えたりしたら・・・。 たとえば、あるお婆さんが、行事のたびに、好意を寄せるお爺さんのために、 おいしいお弁当を作って行く。 それを妬んだ他の老人との間に 「 恋のさやあて? 」 のようなことが起きる・・・などという、微笑ましい話を幾つも聞かせてもらった。 そういうことであれば、沈みがちな老人たちの心が若返り、活性化するので、 結構な話ではないかという気もしてきた。

という次第で 「 老人会に入会したいな 」 というニーズの中身もさまざまであり、 上述のような同窓会的ニーズや男女交際的ニーズも大きいらしい。 「 精神的・肉体的に老化し、 職場や友人や家族からも離れてしまい、淋しくて仕方ないから、 人生最後の漂着地として老人会に入る 」 という消極的な動機はむしろ少数派らしいとまで分かってきたのである。

もちろん、私の市でも老人会は自動加入ではなく、当人の意思で入らない自由もある。 要するに、加入することで自分の生活の QOL、つまり 「 生活の質 」 が上がると思うのなら、ニーズが満たされるのだから加入した方が良いし、 逆にそういうニーズが全くない人は、加入する必要がないのだと思う。

これは信じられないような本当の話だが、 私の知人に、もう75歳ほどにもなるのに、仕事も立派に現役 (* 1) なばかりか、 自分の娘ほどの年齢の愛人との 「 関係 」 を頻繁にエンジョイしている男がいる。 こういう人には、老人会に入りたいなどというニーズは、多分決して無いだろうし、だいたい、 老人と見なしてよいのかどうかさえ疑わしい。

(* 1) :この人は自由業に近い自営の職業人であり、 この歳で現役と言っても、別に周囲に 「 老害 」 を及ぼしているわけではない。

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さて、話の焦点を変えて、後半は老人化について私の考えを述べてみたい。

まず 「 老人 」 とは、どう定義したら良いのだろう。 選挙権や飲酒・喫煙などの 「 社会的成人 」 基準は20歳以上と一律に定義されている。 一方では、 18歳でも精神的に充分に成熟している若者もいれば、25になっても30になっても、 幼稚極まりない未成熟の者もおり 「 個別的成人 」 度は、 人それぞれで大きく違うというのが現実である。

老人についても同様で、医療保険の優遇や公共施設の無料入場などの場合は 「 社会的老人 」 基準であるから65歳以上とか70歳以上とかで、 一律に老人と見なして良いだろうが、これに対して 「 個別的老人 」 度という観点もあるように思われる。

個別的老人度の評価には幾つかの観点があると思うが ( ここでは、 職業を引退した人を主な対象に考えている )、
  • その人が 肉体的に老人になってしまっているかどうか という事よりは、 精神的に老人になってしまっているかどうかという事の方が、 より重要であるように思う。
  • また、その人の交友関係が、 老人に有りがちな淋しいものになってしまっているかどうかという観点も、 大切なように思われる。

そこでまず 「 精神的に老人になってしまう 」 とは、一体どういう事だろうか。
  • 私は 「 好奇心と積極性 」 および 「 精神的自立度 」 が年々乏しくなるにつれて、精神的老人度が高くなって行くと言えるのではないかと思う。

たとえば、下手でもよいから、体を動かす運動以外にも、 頭や手を使う趣味を持っているなら、一人で、 あるいは友人たちと一緒に楽しく、創造的に時間を使うことができる。 さらには、 趣味、研究、社会奉仕などの団体に所属して活動する ようにもなり、人生に張りが出てくるので、老け込みにくい。

好奇心と積極性という点では、海外旅行をしようという関心、 気力、体力があるかと、自問してみるのも良いと思う。 海外旅行というのは、やはり一つのハードルであり、 これを飛び越せる人なら、大抵の事はできると思う。

また、堅い単行本を月に何冊も読むような人なら、 精神的に老け込んではいないだろう。 新聞や雑誌は読んで当然で、 これらすら読まないようになると、逆に、相当な老化という事になる。 パソコンを自分でどうにか操作できるかどうかという問いはどうだろう。 現代における好奇心と積極性の一つの尺度と言えないだろうか。

数十km以上離れた町に、または近くてもよいが、 大都会の繁華街などに、ときどきでも 「 一人で 」 外出する ( 用事がある ) のであれば、精神的自立度は問題ないだろう。 以上のような問いの殆どにYESといえる人なら、老人会に入っても、入らなくても、 充実した毎日を送れるのではないか。

次に、交友関係について言えば、望ましい状況は、 しばしば一緒に遊んだり飲食したり旅行したりする親しい友人が近くにいる事や、 真面目な話題を真剣に話し合える友人が身近にいる事ではないか。 もちろん、配偶者や他の家族ともこのような対話ができる状況が、非常に望ましいことではある。 ( 以前は、老人は家長として権力も有り 「 お祖父様、お祖母さま 」 と呼ばれて敬意の対象であったが、最近は 「 おじいちゃん、おばあちゃん 」 などと子供からまで軽く呼ばれており、家庭内の主導権も持たされていないことが多いようだ )

さて、肉体的老人度であるが、たとえ個人差は有るにしても、我々の体は所詮、 遅かれ早かれ老化してくるわけだ。 肉体的にたとえ不十分、不自由であっても−−− たとえばすでに肉体的障害が出てきていても−−−上述のような点で精神的に積極的に 「 自立 」 できており、また、よき友も多く持っている人なら、 老人会に入っても入らなくても、元気に楽しく生きて行けるのではないかと思う。

肉体的老人度について考えると、現在、自分で体を動かす運動 の趣味がある( 老人会専売特許のゲートボールはこの際一応除く ) ことは一つの指標になるだろう。肉体的老人度のもう一つの指標として、 急ぐでもなく、ゆっくりとでもなく、普通に歩いて、 30分で2km以上歩ける かどうかという問いはどうだろうか。 そして、歩く時には、 背筋が伸びており、両脚はまっすぐに前に向って出る 事が望ましい。

毎食の使用に耐える状態に整備された 「 自分の歯 」 が20本以上あるかどうかというような尺度も有るが、それよりも、 前歯が抜けてもそのまま放っておくというような状況があるなら、 それは肉体的というより、もはや精神的に老人化が進んでいる証拠である。

ただし、頭のボケの問題だけは、以上のようなこととは無関係にも起こりうるので、 深刻である。 痴呆化が進むと、仮に他の点でいくら健康であっても、個人としてでも、 団体に入ってでも、有意義で幸せな生活をすることがもはや不可能になってしまう。 もちろん、 老人会に入って活動することすらできない。

最後に、つけたりだが、自分の外見、身の回りについて、 若い頃と同じように関心を持っている (* 2) かどうかという観点もあるように思う。 例えば、若い頃と同様に身の回り ( 服装や靴、小物など全般、髪型その他 ) に気を使うことは、 老化による体型のくずれを少しでも抑える努力を続けている 事とともに大切で、 これらのことが 「 もうどうでもいいよ 」 となってしまうと、 精神的な成人病が随分と進行していると言えよう。 気がついたら、いつの間にか 「 家では一日中パジャマ姿で徘徊 」 していたなどという方はいないだろうか。

老人会の話のつもりが、途中から大分脱線してしまいましたが、今日はこの辺で。

(* 2):若い頃からあまり構わない人であっても、さらにずっと構わなくなって来てはいないか? と考えてください。
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[ 追加 ] あなたは、他人から 「 おじいちゃん、おばあちゃん 」 と呼び掛けられて、抵抗はありませんか?

ある日曜日の昼、NHKの素人のど自慢で、80歳くらいの老婦人だが、 大変元気でしっかりした出演者に対して、アナウンサーが、 まるで幼児をあやすような口調で 「 おばあちゃんは・・・」 と話しかけているのを聞きました。 また、毎日新聞で同じ頃 「 夏休みにはおじいちゃん、おばあちゃんと・・・」 という書き出しの署名入り記事を読みました。

そこで、この両者に、概要下記の質問を、メールで送ってみましたが、 共に回答は頂けませんでした。 皆さんはどうお考えですか。

私が小学生の頃は、祖父母のことは、相手と面と向っても、 また父母などに向って間接的に祖父母について言及する時も 「 おじいさん、おばあさん 」 と言っていました。 また、初対面の老人に対しても、そう言いました。 私だけでなく、東京の一般中流家庭の子女たちも、あるいは小説の中の登場人物なども、 そう話していたと記憶しています。

「 おじいちゃん、おばあちゃん 」 という言い方が次第に一般化してきたのは、 最近20年ほどのことのように思えます。 私は 「 ちゃん 」 は、面識のある年下の人、 たとえば弟妹、近所の子供、後輩などに使う言葉だと思います。 対等か年上の人には 「 さん 」 が良いと思うのです。

最近アナウンサーなどが初対面の老人に話し掛ける時 「 おばあちゃんはどう思いますか 」 などと、話しかけるのをよく耳にしますが、私には馴れ馴れしすぎる感じで不快です。 私は孫にも小学生になったら 「 おじいさん 」 と言いなさいと言っています。

マスコミでの用語としては、もう 「 おじいちゃん、おばあちゃん 」 が普通とされているのでしょうか。 そうだとすると、もう 「 おじいさん、おばあさん 」 という呼び掛けは消えて行くしかないように思われ、残念です。 かつては家父長として権限を持ち、尊敬さていた老人が、 最近は役割のない被保護者になりつつある現実の反映でしょうか。


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