フリーマンの随想

その28. ワープロと手書きは違うのか


* 私はどのように文章を作るか *

(2. 28. 2000)


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10年ほど前に、ある作家が 「 ワープロでは良い文章は書けない 」 とか 「 ワープロで書いた文章は、ペンで書く文章とは異質のものである 」 と書いているのを目にした記憶がある (#)。

最近も 岸 恵子さんが、ある広報誌の対談で 「 ワ−プロで書くと文章が自分の書きたいものとは別のものになっちゃうような気がする 」 と言っているのを読んだ。 彼女が実際にワープロを使って見てそう感じたのなら、 そういう人もいるのだろうと思う。 でも、彼女はワープロに触った事もなく、 そう想像して言っているだけかも知れず、この文章だけでは、どちらであるか読み取れない。

またその次には 「 ある脚本家は、原稿用紙に 「 雨 」 と言う字を書いて、この雨は自分の思っている雨じゃないからと書き直す。 何度も書き直し、ようやく気に入った雨が書けると、物語のイメージが、 次から次へと出てくる・・・」 という話も紹介されている。 インスピレーションが重要な創作的文章などでは、 そういう事もあろうかと思う。 しかし私はそこまで繊細ではない。

3年前、米国から帰国直後に、あるビジネス雑誌から連載の原稿を依頼されたとき 「 原稿はフロッピーで送って下さい 」といわれて、 日本も随分変ったものだと驚いた記憶もある。 今では、作家など文章書きのプロの間に、 ワープロ派は随分増えているのではないかと想像する。

今日は、私の独断的結論から最初に言おう。 理由や説明は後にする。

1. ペンで、不特定多数の他人に読ませるに足る文章をさらさらと書ける人は、 「 才能のある達人 」 である。彼等が最終到達点(つまり最終稿となり得る文章)に達するには、 手書きの初稿に対し、せいぜい、ちょっとした推敲を加える程度でよい。

2. 所が、私のような者は、最初に書きだした草稿を、何十遍も書き直し添削しないと、 この最終到達点には達しない。 そして、このような場合は、ペンよりもワープロを使ったほうが、 遥かに効率的に最終稿を完成できる。

3.しかし、ある人が手で書いてもワープロを用いても、最終到達点は 「 技術的には 」 差がない。 ワープロで書いた文章と、手書きの文章とが、質的に異種のものだなどという事はない。 共に 「 良いものは良いし悪いものは悪い 」 という同じ日本語の文章である。
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ここで 「 技術的には 」 とは、意志伝達手段としての文章の、誤字脱字、 文法的なミスや論理の曖昧さの有無、構成や表現のわかりやすさ、にくさなどを言っているのであって、 書かれた内容の精神的な高さ、学問的なレベル、面白さ、芸術性などを言っているのではない。 こういうたぐいのことは、その書き手の 「 才能の現われ 」 であり、 その文章の 「 中身 」の問題である。

凡人には才能ある書き手ほど立派な中身の文章は書けないことは言うまでもない。 一方、「 才能のある達人 」 は、 ひと筆でサラリと素晴らしい線を描きだせる才能豊かな画家や書家のようなもので、 たとえ締め切り期限を過ぎ、編集者を傍らに待たせながら書きとばしても、 立派な文章を書く事ができる。 それが 「 物書きのプロの天賦の才、修練の業 」 である。 こういう人は、ワープロを使おうが、ペンで手書きしようが、 ほとんど同じ文章の立派な作品をつくれる筈だ。 出来上がった作品を読んで、その 「 製造手段 」 を言い当てる事など、誰にもできない。

繰り返すが、私がこれから言おうとしているのは 「 中身 」 ではなく 「 外観 」 というか、 「 形式 」 というか、つまり修辞、文法、さらには論理・情報の伝達の精度や滑らかさを、 いかにして磨くかという話である。 おもに、学術論文や評論などの、非芸術的文章について、私は今、言おうとしている。

私のような凡人が、ペンで、満足の行く外観と内容の文章を書こうと思ったら、 原稿用紙は度重なる推敲の結果、たちまち真っ黒で判読不能になることだろう。 その点、ワープロを使えば、何度書き直し修正しても、そのようなことにはならないどころか、 外観は次第に整ってさえくる。 思い出した事を、あとから途中に挿入することも容易である。 そして、今まで書いてきたことが、奇麗に整理された形で、 読みやすい字で眼前に提示されている状況のもとで、先を書き進められる。 これこそが文明のご利益というものである。
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4. こういう点で、ワープロの出現は、文章を書くという作業の様相というか、 その際の人間の頭の使い方というか、そういうものを根本的に変えてしまった、 「 作文 」 における未曾有の大革命だったと私は思う。 これに比べたら、タイプライターの発明などは 「 清書の手段の機械化 」 であったに過ぎない。
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今日、私がこんな随想を書いているのは、私が今まで30編近くの随想を、 どのようにして書いてきたかということを説明してみたいと思ったからだ。 それは「 中身 」の方の話ではない。中身は、私の場合、日頃考えている事を、 ああでもないこうでもないと頭の中で熟成しているうちに、噴き出してくるだけのことだ。

ここでは、私がどのようにして、最終的な文章を完成するに至るのかという 「 手順 」 を、自分自身のためにも書き留めておいてみたいのである。

A. 私はまず、ワープロに向い、頭の中で醗酵している内容を、思い付くままに高速度で打ち込む。 タッチミスや変換ミスで、文章は誤字、脱字だらけであるが構わない。 50行くらい一気に打ち込んだら、一旦 手を休めてゆっくり読み直す。 誤字、脱字を訂正しながら、表現の若干の修正も加えて行く。 終ったら次を書き進み、同じ事を繰り返す。 一気に最後まで書くよりも、 このように途中で休んで整理してはまた前に進むのが、 私の頭脳の回転のリズムには合っているようだ。
このようにして全部書き終えたら保存する。 これが初稿である。

B. 数時間後、あるいは翌日、それを開く。今度は第二次の改良に着手する。

1. 説明不十分だと思う部分を書き足す。
2. 段落を入れ替えたり、文章を挿入あるいは削除する。
3. もっと良い表現があればそれに書き直す。 「 良い 」 とは、この場合、

* より正確、明確で誤解を与えない表現、
* より平易で、気取らず、気張らない表現、
* より理解しやすい論理の流れ ( 起承転結、三段論法など )、などである。

4. これをディスクに保存する。

C. また数時間後、あるいは翌日、それを開く。上記の1から4までを繰り返す。 1回の所要時間は10分程度である。

D. これを起床後と就寝前にほとんど毎日おこない、通常約半月かけて、 30回から50回繰り返す。

自分が本当に言いたい趣旨とは微妙に違う文章が出来てしまっていることに、しばしば気づく。 そういう時は、時には最初から文章を作り直してでも、 自分の言いたい事を正確に描写しきれている文章になるまで、何度でも削り直し叩き直す。 私に修養が足りないのか、初稿は、得てして激烈な文章になりやすく、 他人を傷つける恐れがある。 事後の推敲のときは気持が平静なので、 次第にカドがとれて失礼に及ばずに済むというメリットもある。

E. 書き改めてばかりしているから、誤字・脱字はいつまでも少しは残っている。 そこで、最終稿は最後に数回、ゆっくり読み直し、点検する。 最終の文章では通常、初稿の文章の中の文字の半分くらいが書きかえられてしまう。

次に、上述の第二次の改良の際の配慮を、もう少し具体的に詳しく列挙しよう ( 順不同 )。

* 形容詞、副詞はもとより、名詞や助詞も、類似の単語をたくさん思い出し、 その場に最も適切なものを選ぶ。

* 修飾語は、できるだけ被修飾語の近くに配置して、あらぬ誤解を防ぐ。

* 日本語として不自然でない範囲で、文には主語を入れるよう心がける。目的語もはっきりさせる。

* 無理のない範囲で、受動形を使わず能動形で書く ( すると、主語が自然に入りやすくなる )。

* どんなひねくれた読み方をしても 「 意図しない意味にとれられてしまう 」 ことのないよう留意する。
例えば 「 彼は学生の頃はハンサムだった 」 と書くと 「 では、今はハンサムでないのか 」 とカラまれるかもしれない。 この場合は 「 彼は学生時代ハンサムと評判だった 」 と褒めて 「 は 」 という危ない助詞を除く。

* 似たことだが、冒頭の 岸 さんの発言のような 「 二つの別の意味に読み取れる文章 」 にならないように努める ( あの文章は、対談の話し言葉を記録者が忠実に活字にしただけなので、 誰がどうと あげつらう つもりはない )。

* 送り仮名は、過去に 「 きまり 」 が何度も何度も変ってきた。 どれが絶対に正しいというものではないように思う。 私はその場の主観的な納まり具合のようなものを意識してその都度選んでいるので、 今日現在の規則には、合っていない部分もある。

* ある単語を漢字にするか、仮名で書くかについては、 その文章のスタイルや読み手の感じ方なども考えるが、 私の場合、一番の基準は、読んでいる人の眼に抵抗感が少ない事である。 たとえば 「 勿論 」 か 「 もちろん 」 かという例だと、前後が仮名ばかりの場合は、わざと漢字にするとスッと読める。 逆に前後が漢字なら、ひら仮名にした方が、読み手の視線がその部分を走って行くときに 「 抵抗感が少ない 」 ように思う。

* 標語や都々逸が声に出して読んだとき心地よいのは、もちろん、 5音と7音の組み合わせだからである。 普通の文章をこういう七五調で書くわけにも行かないが、読んだときに快感の残る文章と、 逆に、抵抗感のある文章とがあるように思う。 快感のある流れとリズムを見つけたいと、 私は努めている。

読み流したときに滑らかで 「 抵抗感が少ない 」 という意味では、 句読点も重要である。 句点は、特定の効果を狙うのでなければ、1つの文章を30字前後にするようにつける。 読点は、文字通り、音読したときに息をついたほうが聞いている人に楽なような所に入れる。 どちらかといえば、私は多めに入れる。

* 隣り合わせの二つの単語がくっついて、違う単語を連想させそうな時にも予防上、読点を入れる。 例えば 「 それはたちまち・・・ 」 というような文字列を見て、人によっては一瞬 「 はたち 」 とか 「 町 」 とかの単語を頭に浮かべ、次の瞬間 「 いや、そうではない 」 と思い直して 「 それは忽ち 」 だと理解するといったような事がないだろうか。 そういう人がたとえ10%でも居そうだと考えたら、私は 「 それは、たちまち 」 と読点を入れる (「 それは忽ち 」 と漢字にするのも一案だが、読みがちょっと難解である )。 「 ある日、本を読んでいると 」のように、2つの漢字が隣接すると別の意味が生じる場合にも、 同様の配慮をする。

* 漢字の方が仮名よりも、速読したとき、意味が瞬間的に理解できるので優れているのだが、 できるだけ多くの人に抵抗感の少ない 「 漢字交りのレベル 」 とはどの辺だろうか。 仮名が10字近く続くと読みにくいので、意識的に漢字を一、二字混ぜるように書きかえる。 前の段落で、私は 「 連想させそうなときにも 」 でなく 「 連想させそうな時にも 」 と書いた。

* 漢字と仮名の比率は、全体の文字の中で漢字が30%前後を私は目標にしている。 10%程度だと小学校低学年の作文みたいで読みづらいし、50%以上が続くと重苦しくなる。 1ページをサッと見渡して漢字の少ない部分があれば、無理のない範囲で漢字を投入する。 その逆もある。 これは、楽譜で言えば譜面ヅラのようなもので、本質的ではないが、 気分の問題である。

* 同じ単語が前後数行以内の範囲に繰り返し現われないように、別の違う表現を選ぶ。 6つ前の段落に書いた < 前後が仮名の場合はわざと漢字にするとスッと読める。 逆に前後が漢字なら、ひらがなにした方が、読み手の視線がその部分を走って行くときに 「 抵抗感が少ない 」 ように思う。> を例にとると 「 漢字にすると 」 に対応して 「 ひらがなにした方が 」 とし 「 スッと読める 」 に対応して 「 抵抗感が少ない 」 と書いて言葉の重複を避けた。

* 部分的に強調し読み手の注意を惹きたい部分にはカギ括弧や太字を使う。 しかし、これが多すぎると、いやらしくなる。

最近、続けざまに3人の方から、私の文章について好意的なお言葉を頂戴したので、 汗顔の思いではあるが、思い切ってこの随想を書いてみた。 「 豚もおだてりゃ木に登る 」 か。 でも、これだけ気を遣って書いていても、2年前に書いた最初のころの文章をいま読み直すと、 たくさんの不満が目につき恥ずかしい部分も多い。

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#: これは単なる想像だが、当時「 ワープロでは良い文章は書けない 」とか 「 ワープロで書いた文章は、ペンで書く文章とは異質のものである 」といっていた作家は、 もしかしたら、ワープロに触った事もなかったのではないか。 ワープロが 「 人間の頭の中にある言葉を忠実に効率よく活字に表記するだけのものだ 」 ということを知らず 「 人間を助けて単語や文章を考え出してくれる機械 」 だとでも誤解していたのではないだろうか。 或いは、食わず嫌いの負け惜しみ、 つまり、例の 「 酸っぱいぶどう 」 だったのかも知れない。

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