山というのは不思議なものである。 実際に登っても登らなくても逃げはしないし高いからといってそれがどうなんだ、とよくいわれる。 しかし頂上には実際に登らないといけない。そこが山の山たるゆえんだと思う。日本百名山でも有名な大峯山は、山上ヶ岳から1895mの弥山、1915mの八経ヶ岳を含む山全体をさす。中でも八経ヶ岳(別名仏経ヶ岳、八剣山)は、近畿・中国両地方の最高峰である。視界が良好なときは富士山を遠望することができるいうことから、是非とも登りたい山であった。 9月13日、少しシーズンではないが登ることにした。 ![]() 登りは行者還トンネル西口から登ることにした。 結果的にはこのチョイスが時間が遅くなる原因になったが、はじめは当然分からない。登山届を書き、歩き始めた。 出発は9時17分であった。 木の橋を渡り、渓流に沿ってなだらかな道を行き、川に架かる橋を渡ると、いきなり急坂が続く。 以前行者還岳からの帰りに下ったことがあるが、そのときより歩きにくくなった感じがした。 とにかく上に上に進まなければいけないので、ゆっくりゆっくりと登った。 何組かに追い抜かれた。学生の8人組みチームは2人が疲れたと言って脱落し、頂上をあきらめ山を下りてしまった。 それほど急なのである。このころからガスって来て暗くなってきた。雨が降らないようにと願いながら登った。 西口からの登山ルートは、健脚の人には面白いコースだろうが、こちらは体が思うようにいかない年代になってしまっている。かなり厳しい。 奥駆出合いには11時8分に着いた。木の切り株に腰をかけしばし休憩を取った。この時点では行者還岳からここまでのような道が八経まで延びていると思っていた。ここまでの到達時間もほぼ予定通りであった。 出合いからの道は登りになった。岩がゴツゴツする急な登りが続く。普通の人の倍かかって50分でようやくピークに着くと、三角点があった。ここが標高1600mの弁天の森である。 12時ジャストであった。 周囲には倒木が様々な形でその根をさらけ出し、オブジェとしても面白い。 写真などを撮ってから、歩き出した。道は緩やかに下って行く。この頃からガスがさらに濃くなり雨の心配をした。 なんとか持ってくれと祈った。 休憩を繰り返しながら(少し多すぎたが)歩く道は、緩やかに下って行く。 ブナ林の緑がガスで墨絵のようになり美しい。弁天の森から降りきったところが聖宝宿跡で、12時48分に着いた。 普通は20分ほどで来るらしいが40分かかっていた。やはり普通の人の倍かかっている。 ここ聖宝宿跡は「大峰奥駈け75靡き」の55番靡で、「講婆世宿」というのはここである。 逢いたかった理源大師が山伏姿で待っていた。 理源大師は天長9年(832年)2月15日現在の香川県本島で生まれ、16歳の時、弘法大師の実弟・真雅僧正の弟子となり、真言密教や奈良仏教を学んだという。聖宝尊師と呼ばれていたという。 ここが聖宝の宿跡ということで、納得できる。聖宝尊師は様々な仏教教学を学ぶ一方、弘法大師伝来の密教修行や修法にも精進した尊師は、貞観16年(874年)、43才の時に醍醐寺を開いた。 さらには役行者の開いた大峯山に「峰入り」をし、龍樹菩薩、役行者と続く「祈りの世界」を霊異相承として、修験道を真言密教の祈りの世界を中心に、理論と実践方法を大成させたことから「大峯山中興の祖」と仰がれた。 大峯山を「一乗菩提正当の山」とし、修行を通して自らの心と体で学んだことは「実修」という2文字であらわし、学んで得たことを人々のために行うことを「実証」とし、この二つの修行を「実修実証」として説き、醍醐寺をその中心とした。 延喜9年(909年)7月6日に78歳でなくなったが生涯「実修実証」の中に身をおき、醍醐教学を確立し、真言宗小野法流の基礎を築いたという。民間信仰である「修験道」と「密教」を融合させ、「民衆の救済」の為にその生涯を捧げたのである。宝永4年(1707)東山天皇によって「理源大師」の号が与えられた。 その銅像が目の前にあった。優しいお顔をしていた。銅像の前で男女二人連れがなにやら言い争いをしていた。 聖宝の宿跡からは急な登りが始まる。その前に腹ごしらえをした。聖宝の宿跡から少し歩いたところに大きな岩がありその下がややフラットになっていたので、そこで食べることにした。食べながらコーヒーをわかした。 昼食を終えて歩き出したのは、1時30分であった。 歩き出したがさすが「聖宝八丁の登り」という急坂で、嶮しい斜面をジグザグに登って行く。足腰の重い熟年ハイカーにはこの急登は堪えた。下ってきたいくつかチームにであったが登りの途中で出会った大学生は八経まで登ってきたという。 私と同年配のご夫婦は時間的にみて帰りが暗くなるので弥山で引き返したという。 やっぱり若い人たちは早い。こちらはまだ登りの途中である。一瞬引き返しを考えたが、真っ暗な下りは今まで何度も経験しているのでえいままよと、登り続けた。 ![]() 登りの最終段階で鉄の梯子がかかっている。やっと弥山小屋が見えてくる。目的地が見えてくるとほっとする。 時計を見ると、2時57分で、聖宝宿から約2時間かかっている。 休憩所にはテーブルがあり、そこにザックを降ろし、天川神社奥宮に参拝した。ザックがないと体が軽く、すいすいと登れる。 木の鳥居があり、尾根を少し登ると天川神社奥宮がある。尾根の周囲の木は枯れて白い林が広がっていた。 雲の切れ目で八経ヶ岳が見えた。今日はいけなかったがいつか登らなければいけない。石の鳥居と祠が見えてきた。 坪ノ内天川神社奥宮で大きくはないがしっかりした造りであった。 コーヒーを飲んだり、弥山頂上の案内板の前で、ちょうど登ってきていた二人連れに記念写真を撮ってもらった。 3時40分に弥山小屋を離れた。少しゆっくりしすぎた感じである。ザックのフィッティングが悪いのか肩が痛くなってきた。 両手で肩ひもを持ち上げると少し楽になった。 聖宝の宿跡に着いたのは4時50分で約一時間かかったことになる。時間がなくなってきたのでろくに休憩もせず歩き出した。かなりうす暗くなってきたが歩行が困難な暗さではなかった。6時に奥駆け出合いに着いた。 このとき弥山方面から3人連れの若者が降りてきた。聞けば天川村役場のある河合から八経に登り今着いたと言うことだった。 すごい健脚で、びっくりした。彼らは到着すると間もなく、行者還トンネル西口に向かって降りていった。 私たちも後に続いていったが、徐々に離され、やがては話し声も聞こえなくなった。 とにかく明るいうちに降りたいと一生懸命に歩を進めたが、あちこちの関節の回転力が鈍っているせいか気持ちに反していっこうにスピードが上がらなかった。坂の途中で真っ暗になり、ヘッドライトをつけた。 道がはっきりしているのでルートに不安はなかったが木の根っこやゴロタ石などに気を使った。 結局西口に着いたのは7時30分であった。奥駆け出合いから1時間30分かかっていた。 以前は1時間ほどで降りたのだが今回は大幅に遅くなった。 事故なく帰り着いたのでほっとした。体の汗を拭き、着替えをして車の運転席に座るとしんどかったところは忘れ、達成感だけが残る。これが山の魅力である。 車を走らせていると、先ほど追い抜いていった大学生3人がとぼとぼと歩いていた。 車を駐め事情を聞くと、バスくらいはあるだろうとタカをくくっていたらしく、自動販売機もなく道も明かりすらないことにびっくりしていた。水もなくなり湧き水を飲んで歩いてきたという。京都市内からミニバイクと125ccのバイクでやってきたという。 そのバイクを駐めた天川村役場はあと8kmほどあり2時間ほどかかる。いくら健脚でも河合から八経ヶ岳登山をし、行者還西口に降りてきた後の8kmはきついので、乗せてあげることにした。学生さん方は、山登りをしたいがどこがいいかと考え、近畿で一番高いところ八経ヶ岳に登ろうと言うことになったらしく、その無謀な計画と装備(ズック靴だった)に反省、と口々に語り合っていた。河合の役場で彼らを降ろし、帰途についたのはかなり夜も更けていた。
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