柳生街道
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忍辱山 円成寺
朝早くに、ホテルの送迎バスで近鉄奈良駅前のバスターミナルでバスを待った。柳生街道 忍辱山 円成寺
最初は私たちだけだったのが、にたような年頃で、にたような格好をした人達が40人ほど三々五々集まってきた。ほとんどがストックとバックパック姿である。若い人は二人ほどであった。
8時45分のバスに乗り、40分ほどかかって忍辱山(にんにく)円成寺のバス停で降りた。
はじめはこの「忍辱山」という字が読めなかった。
バス停の前は、いかにも奈良という風情であった。
道を教えてもらって少し歩くと、やがて柳生街道の名刹である円成寺が見えてきた。
ここには運慶最初の作品があるということで楽しみだった。

円成寺は歴史のある寺で、桧皮葺きの楼門、舞台付寝殿造りの本堂は共に重要文化財で、境内の奥まったところにある小さな春日堂・白山堂は日本最古の春日造り社殿として国宝なのである。
現在は山筋の寺ということだが、熊野古道を歩いてみてわかったが、現在の道から判断して山奥であっても、往時には人々が行き交うメインストリートであったことは間違いない。
境内は落ち着いた雰囲気でさすが名刹という感じである。
紅葉には少し早い時期だったが、それでも目を楽しませてくれた。
円成寺は天平の勝宝八年(756年)、聖武・孝謙両天皇の勅願により開創と伝えられる。
応仁の乱の兵火で主要伽藍を焼かれたが再興し、江戸期には23寺、寺領235石を有する大寺院であったという。
しかし、明治維新後、寺領を失い現在の大きさとなったのである。
楼門は室町時代で入母屋桧皮葺、庭園は平安時代で浄土式と舟遊式を兼ね備えた寝殿造系庭園で、池には紅葉が映りきれいであった。お目当ての運慶作の大日如来座像(国宝)は多宝塔の中に安置され、ガラス越しだが拝観できる。なかなかのものである。
一見の価値がある。
本堂には阿弥陀如来座像(平安時代・重要文化財)、四天王(鎌倉時代)が並ぶ。写真撮影禁止なのは残念だが、薄暗い本堂の中で凛とした雰囲気のあるいい仏像達である。
一巡後、一服をかねて本堂の広縁にすわり風情を楽しんだ。

柳生街道 忍辱山 円成寺
(楼門)
柳生街道 忍辱山 円成寺
(いかにも歴史ある感じ)

(春日堂・白山堂 (国宝)
柳生街道 忍辱山 円成寺
(宇賀神本殿 (重要文化財))
柳生街道 忍辱山 円成寺
(多宝塔。運慶作の大日如来がある)
柳生街道 忍辱山 円成寺
(運慶作大日如来像)

再び柳生街道にでると茶店があり、店頭で柿や野菜を売っていたので、柿を買った。
少し重たかったが季節のものであり、昼食後のデザートにすることにした。

円成寺を出て案内板に沿って進むと山道に入った。最初の登りの頂上にお墓があった。六地蔵もあり、道の周囲は薄暗い照葉樹林で、いかにも古道柳生街道という感じがした。
バスにたくさん乗っていたので、もっと大勢の人が歩いていると思っていたが、すれ違う人もはほとんど無く、専用道路のような感じであった。
道は、ほとんど手入れもされて無く、というより手入れをしているがそれを感じさせない地道のままであるが、街道の雰囲気としてはこれでいい。

柳生街道 忍辱山 円成寺 柳生街道 忍辱山 円成寺 柳生街道 忍辱山 円成寺 柳生街道 忍辱山 円成寺
柳生街道 忍辱山 円成寺

柳生街道は、いかにも古道という感じの山道が続く。
アスファルトの道もあるが、ほとんど地道で、所々にイノシシが何かを掘ったあとがある。足跡もいっぱいついていた。両脇にある畑もししよけの柵を強固にしている。昆虫も結構目について、あまり目にしないナナフシものろのろと笹の上にいた。
道は案内板がきっちりしているのと、山道の一本道なので迷うことはない。ただし一カ所、円成寺からの距離が間違っているところがあり、誰かがそれを訂正し書き換えていた。
普段味わえない、舗装されていない道の土の感触を踏みしめながら歩くのは気持ちがいい。道はやがて車も走れる舗装道路と合流する。この合流点からは平坦な道となり、やがて下り坂となる。きれいな茶畑が見える。
柳生街道 峠の茶屋
(木漏れ日に緑がきれい)
柳生街道 峠の茶屋
(ナナフシにであった)
柳生街道 峠の茶屋
(柿がたくさんなっていた)
柳生街道 峠の茶屋
(赤とんぼもたくさん)
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誓多林〜峠の茶や
左手に上水道施設を見ながらさらに下って行くと、山里に出て、T字路に突き当たる。たくさんの案内板がたっている。これは少し整理してほしい。
柳生街道はそこを右に折れる。右手には茶畑が広がり、街道沿いの小屋では農作物を売っている。
茶畑の上のほうには「五尺地蔵」があるというが、今回は時間もあまりないのでパスした。しばらく行くと誓多林(せたりん)の集落となる。集落の途切れたところに八柱(八王子)神社がある。
集落の守り神だ。
この八柱(八王子)神社の前の道筋に新しいトイレがある。椅子があるので休憩にいい。私たちもここで昼食とした。
街道歩きの二人連れが、道に迷ったことをいろいろいいながら追いついてきた。T字路で反対方向に歩いたらしい。1時間のロスタイムで、残念がっていた。もう一つのグループも通り過ぎていった。トイレ前で30分ほど休憩し、歩き始めた。途中きれいな糞ころがしが何匹かよたよた這っていた。  

神社を離れて程なく、行きたかった峠の茶屋が見えてきた。しかし店は鍵がかかりしまっていた。店は閉店しているようであった。いつか開店するのかどうなのかわからない。この200年前の江戸時代の建物をゆっくり味わいたかったがかなわなかった。ここでも2,3のグループとすれ違った。
茶屋前を離れてしばらく行くと、高円山ドライブウェイに突き当たる。案内板に沿って「地獄谷石窟仏」に向かった。
ドライブウェイは車のスピードが速く、横断時には気をつけなくてはいけない。  
柳生街道 峠の茶屋
(八柱(八王子)神社)
柳生街道 峠の茶屋
(いい雰囲気なのだが・・)
柳生街道 峠の茶屋
(峠の茶屋
柳生街道 峠の茶屋
(昆虫が結構たくさんいる)
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地獄谷石窟仏〜首切り地蔵
地獄谷への道の入り口には小さな駐車場があり。2台ほど駐めていた。いきなりの上り坂で道は地獄谷へと向かっている。左右は急な崖である。地獄谷というのにふさわしい道である。柳生街道 地獄谷石窟仏
史跡「地獄谷石窟仏」は金網で守られていた。
正面中央は盧舎那仏、左は薬師如来、右は十一面観音(室町時代くらいの追刻)だ。
三体とも緑色に苔むしているが、赤褐色の色がかなり色濃く残っている。
よく見ると、この三体のほかにも、石仏が描かれており、右壁には妙見菩薩、左壁には阿弥陀如来と千手観音が刻まれているという。
山伏が岩窟に寝起きして彫刻したとか、大仏殿建立のおりに石材採りの石工が彫刻したなどといわれているそうだ。   文化財だからガードしなければいけないのはわかるが、少し大げさすぎる感じもする。
こうした守りの施設を作らなければいけない国になってしまったかと、少し残念に思う。これまで何百年も、普通にそこにたたずんでいたのに、急に周りを固められ、少し憤慨しているのではなかろうか、あるいは人心の荒廃を憂えているか。

ドライブウェイからここまでのアップダウンで疲れたので、一休みすることにした。コーヒーをわかして飲んだ。

八一は、この地獄谷で、詠んでいる。

  いはむろ の いし の ほとけ に いりひ さし
           まつ の はやし に めじろ なく なり


すぐ近くに奈良の街があるとは思えないような、山深い谷間に地獄谷がある。
石窟は、凝灰岩をくり抜いたもので、仏像は、線刻で彩色されている。
聖が住んでいたという伝承があり「聖人窟」とも呼ばれる。
如来坐像が中心にある。

『沙石集』(1279年)『春日御流記』などには解脱上人の弟子の璋円は死後魔道に堕ちて、その霊が、ある女に憑いてその口を借りて、春日明神は、春日野の下に地獄を構えて、毎朝亡者の口に清水を注ぎ入れて、正念に就かせてお経を読み聞かせ、得脱させたという記述があるという。

そのことと、この石窟仏の製作時代とは関連がないらしい。
柳生街道 地獄谷石窟仏
(ここから下りばかり)
柳生街道 地獄谷石窟仏
(地獄谷への登り口)
柳生街道 地獄谷石窟仏
(蜂がブンブン)
石仏群から再びドライブウェイに戻り、「首切地蔵」に向かった。柳生街道 首切り地蔵
途中連れ合いが、イノシシをみたという。
そういえばこれまでの畑にイノシシよけを頑強に作っている畑が多かった。切り株の近くに蜂が巣を作っており注意を促す看板があった。
木々の間をしばらく行くと、右手に「地獄谷新池」が見えてくる。
途中の分かれ道で、右手に「春日山石窟仏」の表示のある標識があるのが気になったが時間がなかった。
柳生街道 地獄谷石窟仏
池からの坂道を下りると、道の分岐点あたりに、首切地蔵と大きな杉の大木が二本ある。
首切地蔵は、鎌倉時代の作だそうで、予想より大きく、その名のとおり首に切れ目がある。
荒木又右衛門が試し斬りしたという伝説がある。
木々に囲まれてたたずむ地蔵様は凛として好ましい。  
この道筋には杉の大木があちこちにそびえている。
折れて道に転がっているのもたくさんある。
それらが様々な形で歴史を伝えているような気がする。
しばらく石畳の道を下っていくと、右手に朝日観音がある。
早朝、高円山の頂からさしこむ朝日にまっさきに照らされることから名付けられたものだというが、現在の木々の茂り具合を見るととても朝日が差すようには見えない。柳生街道 朝日観音
季節によるのかもしれない。
この観音は、文永二年(1265年)鎌倉時代の作といわれ、古い。
石畳の道をなおも下り、橋を渡って、今度は左に谷川を見ながら下っていくと、右手に三体地蔵と夕日観音が見えてくる。朝日観音と同じ作者と思われるとのことだ。
夕日観音は、夕日を受けるとありがたさがさらに増すという。
弥勒信仰が盛んだった鎌倉時代のものであるという。
三体地蔵のある所までは急斜面で、何度も滑りそうになりながら、登った。
疲れた足に少しきつかったが、這うようにして上がった。 元の道に引き返すときも、きちんと足場を確保しながらでないと危ない。

寝仏はそこから程なくあるが、うっかりすると見過ごしてしまう。
しかし何よりも困ったのは、この滝坂の道は木々がうっそうと茂り、昼でも十分な明るさがなく、写真を撮るのに苦労した。写真が暗くなってしまうのである。かといってストロボはたきたくないしで、ぶれた写真がかなりあった。本来なら、三脚できっちりとりたいところである。
雨の降るときのこうした石仏群をきっちり押さえることができたらと思いながら歩いた。
(右の写真は寝仏)

八一は、この寝仏を見て、

   かけ おちて いは の した なる くさむら の
            つち と なり けむ ほとけ かなし も


と、詠っている。それにしてもうまく表現している。「かなし」はいとおしいという意味である。 寝仏は、道の脇にある。
一見何気ない石であるが、その裏には大日如来が横に刻まれている。てくてくマップの説明では、近くの四方仏の一体が転がり落ちたといわれ、室町時代の作と書いてあった。でもよく見ないととても仏様とは見えない。
柳生街道
(いい道が続く)

(滝坂三体地蔵菩薩磨崖仏)

(夕日観音)

(地蔵菩薩)
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滝坂道〜終点
この滝坂道は、春日山と高円山の谷あい、春日山原始林に流れる能登川の渓流沿いに続いている。柳生の里と奈良の町をつなぐ風情ある古道で、初めて歩いたがなかなかのものである。柳生街道のなかで、峠の茶屋辺りから滝坂道呼ぶ。
石仏の歴史をみても、さすが奈良で、皆古い。
この界隈は、平安時代から鎌倉時代にかけて南都七大寺の僧たちの修行の場となり、今でも静寂な雰囲気がただよっている。この石畳は江戸時代に奈良奉行所によって敷かれ、柳生の道場を目指す剣豪達が往来したという。映画のロケなど今でもそのまま使える。妙な人工物が少ないのもありがたい。

八一は、この滝坂でいくつか詠んでいる。

  かき の み を にないて くだる むらびと に
             いくたび あひし たきさか の みち


  まめがき を あまた もとめて ひとつ づつ
             くも もて ゆきし たきさか の みち


  たきさか の きし の こずゑ に きぬ かけて 
            きよき かわせ に あそびて ゆかな

  ゆふ されば きし の はにふ に よる かに の 
            あかき はさみ に あき の かぜ ふく


八一が散策した頃は、この滝坂も今以上に自然がいっぱいで、川で遊んでいると蟹もたくさん歩いていたことだろう。
ここ滝坂の道は、紅葉の名所でもあるという。歩いたのは紅葉には少し早い時期である。石畳のでこぼこ道は、湿っていると滑りやすいので気をつける必要がある。春日山原生林を巻くように続き、動植物も自然のままに豊富なので、ゆっくりと散策しながら歩くといいコースである。
そのためには、時間に余裕が必要である。紅葉の時期など日の暮れが早いので、滝坂道は真っ暗になる。昼でも薄暗いので、夕暮れは茜が差し込み幻想的かもしれないが歩くには注意が必要である。絶えず能登川のせせらぎの音が、都会の喧騒の中を行き来しているものにとってありがたい。
この日は近鉄奈良駅から乗り忍辱山のバス停で降りたが、便がもっと多くあれば歩き方もいろんなバリエーションができるのにと思った。
帰りは本来なら近鉄奈良駅まで歩けばいいのだが、時間も体力もなくなっていたので破石からバスに乗った。
この柳生街道は、都会の近くにあって、癒しの道である。残りの剣豪の里コースとまだ見ていない石仏を見に、あと何回か歩かなければいけない。  

(ここで白毫寺や新薬師寺方面に分かれる)

(高畑町にある地蔵様)

(鹿が迎えてくれた。さすが奈良

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