沖縄
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 那覇(2) 首里城
守礼の門

<守礼門>

首里城外の楼門の一つ。日本人ならほとんどの人が知っているのではなかろうか。
1529年に創建されたが、これも沖縄戦で焼失し、昭和33年に復元された。
中国から冊封使(国王になる事を形式的に認める使者)を迎える為、作られたと言われている。 この使者を乗せてくる船を御冠船(うかんしん)と言った。明治の初めに琉球王国がなくなるまで、 約500年続いたという。これはすごいことである。
門の中央に「守礼之邦」と書かれた扁額が揚げられている。これは「琉球は礼節を重んずる国である」という意味だそうである。 県の指定文化財である。

<国比屋武御嶽石門>

守礼門には裏から上がったので、途中まず石門があった。御嶽(うたき)で、ここは、琉球王府の行事や祭祀と密着した重要な御嶽だったといわれ、国王が城外に出かける時、旅の安全を祈願したという。創建は1519年頃といわれているが、現在のものは沖縄戦で一部破壊され、1957年(昭和32年)に復元されたものと、案内板には書かれていた。
現在、国指定重要文化財となっており、また、2000年(平成12年)には、世界遺産に登録された。

1933年には国宝だったというが、戦争は何もかも破壊してしまいやってはいけないと、つくづく感じた。

沖縄
(途中にあった花)
国比屋武御嶽石門
(世界遺産の碑

(案内板)
国比屋武御嶽石門
(国比屋武御嶽石門)

<勧会門>

首里城の城郭内へ入る第一の正門で、俗に「あまへ御門(あまえうじょう)」という。
「あまへ」は古い言葉で「よろこび」を意味しており、「歓会」はその漢訳になるという。
何となくイメージが分かる。
城主はここに迎えに来たのではないだろうか。
第二尚氏尚真王代(1477〜1526)に創建されたといわれるこの門は、中央部に木造の櫓があり周りの石垣も独特の形をしている。これも沖縄戦で焼失したが、1974年(昭和49年)に復元されたものである。

ここをくぐり、久慶門、冊封七碑、龍樋、瑞泉門、漏刻門、日影台、供屋などを見、広福門、奉神門をくぐるといよいよ正殿の御庭(うなー)に入る。

 首里城歓会門

 <首里城>

首里城は沖縄県那覇市首里にあり、標高約120メートルの那覇を見下ろす丘陵地にある。
1429年、琉球全土を統一した尚巴志が、はじめて統一王朝を樹立し、首里城を 拠点とする琉球王国を成立させた。
1879年、沖縄県の誕生により首里城の明け渡しまでの間、琉球王国が続いた。
王国の経済・政治・外交などの場だった。

1945年に沖縄戦で焼失するが、1992年、47年ぶりに復元された。
復元されるまで 過去3回、焼失している。 2000年12月に琉球王国のグスク及び関連遺産群として、ユネスコの世界遺産に登録されている。

「450年以上にわたり中国をはじめ、日本や朝鮮、東南アジア諸国との外交・公益を通じ、dくじの文化や芸能を花開かせてきた海洋国家『琉球王国』。首里城は 王国の政治や経済、文化の中心であり、琉球全体に広がる振興の拠点でもありました。首里城は国営沖縄記念公園として沖縄の歴史や文化を今に伝え、未来に受け継いでいくための整備が進められています」とパンフレットにあった。

また、
「今後の首里城の整備計画については「首里城はその役割から、大きく3つの空間に分けられます。正殿や南殿・番所。北殿、書院・鎖之間(さすのま)など、御庭(うなー)とよばれる広場を中心に、政治や外交が行われた『行政空間』。そして。新工場の聖域が点在する城内でも、最も神聖な聖地として崇められた、京の内の『祭祀空間』。さらに、国王とその家族が住む御内原と呼ばれた『居住空間』です。
現在(平成19年1月)「世誇殿」「黄金御殿(くがにごてん)寄満(ゆいんち)「二階御殿(にーけーうどぅん)」「淑順門」「美福門」などの計画・整備が進められており、完成後、随時追加開園していく予定です」
とパンフレットにあり、予想図が描いてあったが、できあがりが楽しみである。

私の想像以上に、琉球王国は権勢を誇り文化レベルも高かったことがわかる。

 首里城
(首里城から那覇の街を眺める。スタイルのいい石垣である)
シーサー
(シーサー)
龍樋
(瑞泉。龍樋(りゅうひ))
万国津梁の鐘
(万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね))
広福門
(広福門(こうふくもん))
日影台
(「日影台(にちえいだい)」という日時計)

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