矢田寺
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<矢田寺>
矢田寺は、奈良盆地が暮れなずむ頃に参詣した。
細い道をくねくねと登り、駐車場に着いた。
本堂で御朱印を頂こうと思ったがもう閉じかけていたのでやめた。間もなく入り口も戸板でふさがれた。少し遅かった。もちろん名物のあじさいはまだ茶色の茎だけが一面に立っていました。 このあじさいが一斉に咲けばすばらしいと思う。

ここ矢田寺(矢田山・金剛山寺)は、日本のお地蔵さま発祥の地である。矢田寺
「矢田のお地蔵さん」で親しまれている。地蔵さんの寺というだけあってあちこちに地蔵さんがある。

矢田丘陵の中心矢田山の中腹にあり、 日本最古の延命地蔵菩薩を安置している。今回は残念ながら見ることはできなかった。

今から約1300年前、大海人皇子(おおあまのみこ)が、 壬申の乱の戦勝祈願のため矢田山に登り、天武天皇に即位後の白鳳4年(672年)に智通僧上に七堂伽欄48カ所坊を造営させたのが始まりであるという。
当初は十一面観世音菩薩と吉祥天女を本尊としていたが、 弘仁年間、満米上人により地蔵菩薩が安置されて以来、地蔵信仰の中心地として栄えてきた。

お地蔵さんは、もともとは、仏教が生まれるよりもっと古い時代に信仰されたインドの「大地の神様」が起源で、「地上に存在する生命あるものの全てをやしなってくださる者」という意味を持っているという。
正式には「地蔵菩薩」で、梵語では「クシチガルブハ」という。 釈迦が亡くなってから、弥勒菩薩が悟りを開かれて法を説かれるまでの56億7千万年の無仏の間に出現され、その身を種々の姿に分身して衆生を救済することが、お地蔵さんの使命らしい。

各地のお地蔵様の多くは、右手に杖、左手に如意宝珠を持っているが、ここ矢田寺の地蔵は、そのほとんどが右手の親指と人差し指を結んだ独特のスタイルで、矢田型地蔵と呼ばれているという。 このスタイルの地蔵は、阿弥陀如来の来迎スタイルのようであることから、印地蔵・阿弥陀両方の功徳を備えていると言われている。

大門坊より本堂へ向かう参道の中ほど右側に、ひときわ大きい地蔵さんがあり、「みそなめ地蔵」と看板があった。 その昔、近在の農婦が自家製の味噌の味が悪くなり、困っていたが、ある夜のこと、夢の中に石のお地蔵様があらわれて、「我にその味噌を食べさせてくれたら、良い味にしてやろう」と告げた。 翌朝、矢田寺へ参って参道を見ると、夢にでた地蔵がいたので、早速味が悪いという味噌を夢のままに口許にぬったところ、家の味噌は味が直っていたそうである。
これを伝え聞いた里人たちは、新しい味噌を作ると味が良くなるようにと、こぞって地蔵の口許へ味噌を塗るようになったので、誰ともなく「みそなめ地蔵」と呼ばれるようになったらしい。
他にもここには四国88カ所巡りがあり、地図が掲示されている。
時間がなかったのでまわることはしなかったが、一度まわっても面白いなと思った。
境内には地蔵さんがたくさん立ち並び、他の寺と違うところはよだれかけが赤く、多くのよだれかけに般若心経が書かれていることである。写経をよだれかけにして、それを地蔵さんに結びつけるのだろうが皆結構新しい、ということはいつも誰かが付け替えているのだろう。

矢田寺境内には本堂をはじめ、 講堂、閻魔堂、阿弥陀堂、開山堂、天武帝尊像をまつる御影堂その他の堂宇並びに塔頭4ヶ坊(いずれも高野山真言宗)がある。
重要文化財は 木造地蔵菩薩立像((本尊)貞観時代)、木造地蔵菩薩立像((試みの地蔵)藤原時代)、木造阿弥陀如来坐像(藤原時代)、 木造十一面観音立像(奈良時代)、 木造閻魔王倚像(鎌倉時代)、木造司録倚像(鎌倉時代)、 木造釈迦如来坐像 (室町時代)、 絹本着色矢田地蔵縁起(鎌倉時代)、春日神社本殿 (一間社春日造・室町時代)、 梵鐘(寛元4年在銘・鎌倉時代)など多い。

奈良県指定文化財には、木造二天王立像(奈良時代) 。
石造十三仏像(安土桃山時代)は大和郡山市指定文化財である。


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