豊田トンド山円墳
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<豊田トンド山円墳>

奈良県天理市で、横穴式古墳が見つかったと新聞に出ていた。
2015年5月2日 現地説明会があるということで、出かけた。
天理教の駐車場に車を置き、それらしき方向に向かったが、カメラとバックパックと、そして手にパンフレット持った人が三々五々歩いていた。それで場所はすぐ分かった。

これまで何度かあちこちの現地説明会へ出かけているので、どこかで見た気もする人もちらほら歩いていた。
向こうもそう思っているだろう。

こうした現地説明会は、男女ともに私と同年代かそれ以上の人が多く、若い人は女性が多く、男性はほとんどいない。
若い女性はいわゆる「歴女」で結構熱心である。

さて「豊田トンド山古墳」は巨石を用いた横穴式石室で、発掘調査をした天理市教育委員会が4月27日に発表した。
石室が見つかった古墳は7世紀前半の円墳とみられ、直径は推定で約30メートル。
市教委は「周辺を拠点にした豪族・物部氏の首長クラスの墓だった可能性がある」とし、古墳を「豊田トンド山の円墳」と名付けることを検討しているという。

見つかった横穴式石室は奥行き9・4メートル、最大幅2メートル。
一辺3メートルの巨石などを積み上げ、床には30センチ程度の石を敷き詰めていた。
石室奥には、顔料で赤く彩色した跡も見つかっていた。
副葬品とみられる鉄の矢尻や大刀の破片も出土しそれらを現地説明会のテントの中に展示していた。
残念ながら盗掘されたとみられ、石室の天井を覆う石や石棺はなくなっていた。
もし盗掘されていなかったら埋葬者が誰か特定でき歴史的な価値を持ったと思う。

一部の石材には、石を割る際に生じる矢穴跡も残っていることから、後世に他の用途に用いられたらしい。
要するに盗掘に合い、大概のものは持ち去られてしまったということである。
物部氏は6世紀後半、仏教の受け入れを巡って推進派の有力豪族・蘇我氏との争いに敗れて衰退。
その後は石上氏と改めて存続したという。
一説には、ずっと以前から、ヤマトの建国にかかわっており天皇家よりも前にヤマトを治めていたのかもしれないといわれている。
物部氏は、日本の謎の一つでもであるといわれる。
そんな人物の墓かも知れない。
おもしろい。

天理市はほとんど知らない。
天理教の元のあるところしか知っていなかったが、今回説明会に参加し、古くからの里を歩き、古墳群を調べるとかなりおもしろい地域である。山辺の道は古墳をかすめるようにして奈良市内まで続いている。
 

(面白いTシャツ)

(削り取った山の上の方にある)

(発掘現場から天理の街を。昔は絶景だったろう)

(狭い山道を行く)

(たくさんの歴男、歴女)
 
(成り立ちや経緯を説明)
 
(天理教のヤングたち)
 
(数少ない副葬品)
 

(ベンガラや鏃が見つかったところ)

(奥の壁)

(よくこれだけの石を積み上げたと思う橋)

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