當麻寺
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<當麻寺>
當麻寺へは何度かいった。

當麻寺最古の僧坊である中之坊では、中将姫の守り本尊である「導き観音」を祀っている。當麻寺
その右手から繋がる「五色紐」に触れて"結縁"のお参りをすることができるという。
大和三名園の一として名高い庭園「香藕園」(史跡・名勝)や大円窓の茶室(重文)などが公開されているほか、霊宝館では、中将姫ゆかりの宝物などが数多く公開されている。

ここ當麻寺では、毎年5月14日に「聖衆来迎(しゅうじょうらいごう)錬供養会式」が行われる。
この行事は、観音菩薩・勢至菩薩などのいわゆる25菩薩に扮装した人々が、西方極楽浄土に模した 曼荼羅堂から、人間世界にあたる娑婆堂へ赴き、中将姫を蓮台にすくい上げて再び浄土へと帰る来迎 引接の様を、目の当たりに見せる宗教劇である。
この宗教劇は阿弥陀仏四十八願の第十九願「聖衆来迎願」の浄土宗的な理解を表すもので、阿弥陀仏が聖衆を伴って、極楽浄土から紫雲に乗じて臨終の念仏行者を迎えに訪れる来迎会を表現しているものである。
行事は當麻寺一山の僧衆と菩薩講の人々によって営まれる。
菩薩講は護念院を中心に組織されており、中心となる観音・勢至・普賢の三菩薩は毎年当麻組の人が勤めることになっている。
五月十四日午後四時頃からまず中将姫坐像を乗せた御輿が娑婆堂内に入れられた後、来迎の行道が始まる。
天人、龍樹菩薩、地蔵菩薩以下の諸菩薩が、それぞれ羽織袴姿の介添人に導かれて来迎橋を渡る。
観音菩薩は金の蓮台を手に中将姫を迎えに行くので、スクイボトケ、合掌しながら続く勢至菩薩はオガミボトケと呼ばれる。
この両菩薩は「練る」を形容するにふさわしい所作をする。
「一歩前進、半歩戻る」という歩み方で、体を左右にねじりダイナミックな独特の動きを見せながら来迎橋を歩む。
娑婆堂に至ると、観音菩薩の持つ蓮台に中将姫坐像から取り出した宝冠阿弥陀坐像が据えられ、再び来迎橋を渡り極楽堂へと引接の行道を行う。
行事の起源については、源信創始の説もあるが、使用されてきた菩薩面には鎌倉時代の作が含まれており、文献からは、『大乗院寺社雑事記』の長禄3年(1459年)4月14日条に「一,今日當麻寺迎講云々、毎年不退法会云々」とみられるのが行事を確認できる早い例である。
近年菩薩面が新調され、装いが一新された。


當麻寺は、推古天皇20年(612年)に用明天皇の麻呂子皇子(当麻皇子、聖徳太子の弟)が河内国交野郡山田郷に二上山万法蔵院禅林寺を建立し、天武天皇10年(681年)にその孫である当麻国見が現在地へ移したと伝わるが、天武天皇9年(680年)竣工して同13年(684年)に金堂・講堂・千手堂・東西両塔が完成し、恵灌(えかん)が導師となって落慶法要が行われたともいう。
當麻寺空海が留錫して真言宗となり、鎌倉時代以降は當麻曼荼羅図と中将姫伝説が阿弥陀信仰と結合して浄土宗が加わり隆盛した。平安時代の後期から興福寺の支配に入り、平重衡の南都焼き討ちにより曼荼羅堂・東西両塔を除く伽藍が消失、鎌倉時代の仁治3年(1242年)から寛元元年(1243年)にかけて曼荼羅厨子を修復して堂の改修が行われた。
建築では、寄棟造本瓦葺きの本堂(平安時代)、當麻寺曼荼羅厨子(天平時代)、双塔をなす東塔(天平時代初期の三重の塔)と西塔(天平時代末期の三重の塔)がいずれも国宝、入母屋造り本瓦葺きの講堂(鎌倉時代)が重要文化財。
彫刻では、金堂本尊の塑造弥勒仏坐像(白鳳時代)が国宝、乾漆四天王像(白鳳時代)が重要文化財である。
四天王像は多聞天像だけが鎌倉時代の補作で木彫。
講堂本尊の木造阿弥陀如来坐像(平安時代)、木造十一面観音立像(鎌倉時代初期)、木造吉祥天立像、木造地蔵菩薩像なども重要文化財である。
本堂本尊の絹本着色浄土曼荼羅掛幅は文亀2年(1502年)に根本曼荼羅を転写したものである。梵鐘は白鳳期の名鐘で国宝。金堂の南に立つ重要文化財の八角型石灯籠は白鳳時代に製作され、傘石が古風な形をしている。
塔頭の中の坊は、重要文化財の書院と茶室が片桐石州の作と伝えられる庭園(国名勝・国史跡)と調和し大和3名園に数えられる。奥の院の宝物殿は国宝の蓮華倶利伽藍龍蒔絵経箱(平安時代)を収蔵。
當麻寺
(講堂:重要文化財)
當麻寺 當麻寺
當麻寺
(三重塔:国宝)
當麻寺 當麻寺
當麻寺 當麻寺
當麻寺   當麻寺  當麻寺
(梵鐘は国宝。向こうは東大門)

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