久米寺
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<久米寺>

久米寺は、畝傍山の南に位置する仁和寺別院の真言宗のお寺で、久米寺橿原神宮一の鳥居を南に入ってすぐのところにある。寺そのものの名前は、「久米の仙人」の伝説で知っていた。久米仙人が、神通力を得て雲に乗って空中を飛びまわっていたが、ある日、川で美しい女性が洗濯しているところに遭遇し、その女性のふくらはぎに目がくらみ神通力を失い墜落したという話だけを覚えていて、一度いきたいと思っていた。

久米寺はもともと久米部(くめべ)の武人の住んだ地といわれ、推古天皇2年の時に聖徳太子の弟だった来目皇子の創建と伝えらる古寺という。来目皇子が幼少の頃眼病を患い両目を失明したが、聖徳太子のお告げにより薬師如来に祈願したところ平癒したと言われている。
これにより皇子は、自らを来目皇子と称したという。
創建のきっかけは、推古天皇の眼病全快のお礼だったと言われ、本尊の薬師如来は、眼病に効くと言われた。 

5月3日に久米寺練供養(くめでらねりくよう)の会式があり、二十五菩薩が練り歩く様子がみられるということで、それにあわせて出かけた。
久米寺練供養は春の農繁期前の祭典といわれる。通称、『久米レンゾ』(久米会式)と呼ばれている。奈良盆地の農村地域では、春の一日を骨休みの日と決めて、各村で楽しむ風習があり、これを「レンゾ」と呼んでいたという。久米寺練供養会式
境内には、本堂から護国道場まで約100mの掛け橋が架けられていた。
これは、現世(娑婆)と浄土をつなぐ来迎橋を示し、この橋を二十五菩薩が渡っていくのである。これは、西方極楽から阿弥陀仏が二十五菩薩を従えて迎えにくることを示している。
境内にはすでにたくさんの人が集まって会式を待っていた。
カメラマンもいい位置に陣取っていた。後の方からささやかにカメラを構えて待った。会式は、最初に大般若経の典読があり、檀信徒・仙人講・詠歌隊・僧侶、住職、稚児行列などバラエティに富んだ行列が続き、続いて薬師如来像を先頭に二十五菩薩が介添え人に導かれて長い橋を金堂に向かう。

二十五菩薩とは、観世音・勢至・薬王・薬上・普賢・法自在・獅子吼・阿弥陀・虚空蔵・徳蔵・宝蔵・金光蔵・金剛蔵・光明王・山海慧・華厳王・衆宝王・月光王・日照王・三味王・定自在王・大自在王・自衆王・大威徳王・無辺身の諸菩薩をいう。名札も一緒に渡るのでよく分かる。
菩薩になっていると目がよく見えないらしく、介添えがなければこの細い橋を渡れない。また長く待たされてむずかる子もいた。
会式が終わると来迎橋の上から餅まきがあった。これは予想外の出来事で、早速拾う準備をした。撒かれた餅はそれほど多くなかったが、結構拾った。
餅拾いは面白い。
会式が終わったあと改めて境内を散策した。
境内には京都の仁和寺から移築された多宝塔(重要文化財)や本尊の薬師如来坐像、久米仙人像などがある。
ここは弘法大師空海ゆかりのお寺でもあり、咲く花ではユキヤナギ、ツツジ、アジサイの美しいお寺としても有名である。
久米仙人は、欽明(きんめい)天皇の御代、金剛山麓葛城の里に生まれたとされている。
吉野山麓龍門ヶ獄で神通飛行術を取得し、空中を自由に飛べるようになった。
その後、百数十年もの間、久米寺に住んでいたといわれている。
久米寺 久米仙人
聖武天皇が東大寺に大仏殿を建立する際、勅命を受けた久米仙人は神変不思議の仙術を使い、国々にある大木大石の数々を三日三夜の内に大仏殿境内まで飛ばして集めて見せたという。
その甲斐あって大仏殿の建立はスムーズにできたと伝えられている。
その久米仙人の働きに深く感銘した聖武天皇は、免田30町歩を与えたということである。
この伝説は、今昔物語にも見られるが、東大寺の説明にはあまり出てきていない感じがする。
久米仙人のユーモラスな伝説のほうが人間くさくて、面白い。
これのほうが荒唐無稽だが、受け入れられる。


仙人の石像があるが、なるほどと思わせる容貌をしている。
これを刻んだ石工はすごくセンスとユーモアのある人だと見たがどうだろうか?
(2011年5月3日)


久米寺
(山門)
久米寺
久米寺練供養会式
久米寺練供養会式 久米寺練供養会式 久米寺練供養会式 久米寺練供養会式
 久米寺練供養会式 久米寺練供養会式 久米寺練供養会式
久米寺
(餅まきをまつ子。かわいかったのでカシャ!)  
 久米寺
(一生懸命。ボクは27個拾った
 久米寺
久米寺
(豪華な仏像) 
 久米寺
(お釈迦様に甘茶を)
久米寺
(なぜナマズなんだろう?) 
久米寺 久米寺 久米寺
(仙人を監視している感じ)
久米寺 久米仙人 久米寺 久米仙人

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