牽牛子塚古墳
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<牽牛子塚古墳>

2010年9月11日、牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)発掘現場を見学した。

場所は、橿原市との村境に近い明日香村大字越の丘陵の安定した場所に位置している。古墳の墳頂部の標高は126.3メートルということである。その小高い丘を登って頂上付近に、現場があった。牽牛子塚古墳
右手に玄室があり順番に中にはいることができたのだが、時間がなく上から見ただけだった。
牽牛子塚古墳は、終末期古墳である。
1923年(大正12年)3月7日、国の史跡に指定されたというから早くにその存在が認められていると言 うことである。
指定時には「あさがおつかこふん」の読みが付されており、「牽牛子」はアサガオの別称であり、説明してくれた研究員もそういっていた。今回の発掘調査によって、八角墳(八角形墳)であることが判明し、飛鳥時代の女帝で天智天皇と天武天皇の母とされる斉明天皇の陵墓である可能性が高まった。と研究員は締めくくった。

以前から、巨石をくりぬいて2つの墓室を設けた特異な内部構造で知られており、円墳と報告されながらも八角墳の可能性が高いこともあわせて指摘されていた。
斉明天皇陵と事実上、特定された。が宮内庁は別の古墳を斉明陵として管理している。
二つの天皇陵が存在する不自然さを前に、宮内庁は陵墓指定の在り方を見直す必要があるとは以前から言われているがそれをしていない。もっとフレキシブルに本当のことを国民に教えて欲しい。
宮内庁の陵墓指定は、調べると指定のほとんどが、江戸時代末から明治初期にかけて古事記や日本書紀、平安時代の法令集「延喜式」などの記述に基づいて行われ、学術的根拠は薄いと言われている。
宮内庁管理の「継体天皇陵」「文武天皇陵」は、研究者がそれぞれ別の場所の宮内庁管轄でない陵を発掘し特定したのに、宮内庁は依然として別の場所にあるとしている。現状を放置すれば、混乱を招くだけで日本史を必修科目にしようとする時、嘘を教えることにならないか心配である。新聞では、宮内庁はそれでも「・・興味深いが宮内庁として対応をとることはない」とコメントを返している。陵墓は国民の貴重な文化遺産でもありそれらの歴史の正しい理解をするためにも最新の研究成果を相互に生かした陵墓指定を行う必要がある。

そんな目で見ると、この牽牛子塚古墳も見過ごしてはならない陵である。

内部施設は、南にむけて横穴が開口するかたちの横口式石槨である。横口式石槨は、約80トンの重量をもつ1個の巨大な凝灰角礫岩をくりぬいて、約70トンの埋葬施設をつくったもので、その巨石は二上山西麓より運んだという。
石槨の幅は5メートル、奥行き3.5メートル、高さ2.5メートルの規模でその中は中央部に幅44.7センチメートル、長さ152.5センチメートルの仕切り壁によって東西2つの空間に仕切られた合葬墳であることが判明。

なお、古墳全体に使用された石の総重量は550トン以上と考えられる。運搬には丸太(ころ)を用いても数百人、地面を引きずったとすれば1,400人もの人員が必要であり、これについては、巨石を大勢で長距離運ぶこと自体に律令国家の権力を誇示する意図があったという見方がある。
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