毛原廃寺跡
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<毛原廃寺跡>

正月を過ごすため、浜松に向かい走ったが、そのまま行くのも面白くないので、普段走ったことのない道を行った。
国道165号を抜け、県道を走り山添村に入ったが、道の途中「毛原廃寺跡」という看板があり、気になったのでいったんは通り過ぎたがバックして、見に行くことにした。

説明板を見ると、全く記録に残っていない大寺院跡ということだった。山添村 毛原廃寺跡
奈良時代は、都の大寺院と肩を並べていたと思われる堂々とした七堂伽藍が立ち並んでいたことを示す礎石群が多数残っていた。
金堂は礎石の配置から、唐招提寺の金堂並の規模を誇っていたようである。
間口約24m、奥行き約13m、30数個の礎石が確認されていて、今も残っているのである。
周囲は、大半が民家の庭先や畑で、その中のそこかしこに礎石を見ることができる。
南へ40mほど下った場所には中門跡と思われる礎石が10数個点在。
さらに10m下がった地点にも南門跡の礎石が並んでいる。
塔跡の礎石は地中に埋まっているそうである。

七堂伽藍があったということは、この辺も人がたくさん住んでいて、伊勢からの旅人もよく通ったのではないかと推測する。
なにぶん寺に関する文献等ないので寺の名称もはっきり分からないらしく、とりあえず毛原廃寺跡として国の史跡に指定されているらしい。

付近から出土した軒丸瓦、軒平瓦はいずれも奈良時代後期のもので、廃寺跡より下流にある岩屋瓦窯跡で焼かれたことが発掘調査で判明している。
東大寺大仏殿建立のため施入された板蝿杣の境域内中心に位置したことから、東大寺の杣支配所とも考えられているという。

いずれにしろ今は山中でも当時は奈良と密接に関係があり、威風堂々としていただろうことがうかがえる。
もし残っていれば間違いなく国宝ものである。

文献がないというのが残念である。
戦乱の次期東大寺も焼き討ちにあったので、焼けたものの中に記録があったかも知れない。
廃寺跡から笠間川近くまで下りウォッチングした。
空き家になった家の前でおなかのすいた風な猫がないていた。
川の向こうは以外に広く、冬枯れているが田んぼがあった。
廃寺がある側は山裾がせり出している。わずかな平地に田を作っている感じである。
里山の典型のような集落であった。
そんな土地に興福寺に匹敵する寺が存在したということは驚嘆すると共に、当時の人々の行き来のダイナミックさを改めて感じた。


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