二上山 |
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<二上山> 二上山は、金剛生駒紀泉国定公園に含まれている。 葛城市当麻と大阪府太子町にまたがり、二上山火山群の主峰で、雄岳(標高517m)と雌岳(474m)があり、奈良からはほとんどどこからでもみることができる。 ![]() 古代の人々は、この二峰を男女の二神に見立て「二神山(ふたかみやま)という名前でも呼んだ。 トロイデ式の休火山であるがその火口は明らかではない。 石器に用いるサヌカイトや、建築用の松香石、研磨用の金剛砂の原料である石榴石などを産出する。 謀反の罪に処せられた大津皇子が雄岳山頂に埋葬されたとも伝えられ、葛木二上神社も鎮座している。 奈良盆地側からは日の沈む山であるため来迎思想も生まれた。 北方には県天然記念物の屯鶴峰もあって特色的な地形である。 北側鞍部を通る穴虫越えと南側鞍部を通る竹内越えは奈良盆地と大阪平野を結ぶ主要な街道で、奈良側には當麻寺や石光寺、大阪側には聖徳太子・推古天皇・孝徳天皇の墳墓がある。「河内飛鳥」とも呼ばれている。 山麓の村々では4月23日に豊作祈願の「岳のぼり」という行事が行われる。 その二上山へは2008年9月21日に一回目を登った。 それほどきつくない坂を上っていく。途中何人かのパーティとすれ違った。 この日朝はいい天気であったが、大阪の北の方が暗くなってきたと思ったら土砂降りになってきた。おまけに雷も鳴り出した。それがこの山にも向かってきた。雄岳の頂上に着いた頃はかなりの雨脚であった。カメラを防水のペンタックスに持ち替えた。 下り出す頃には雷が近くなってきた。これは危ないと思い山の中腹にあった東屋に避難した。 雷は100mくらい手前に落ちた。雷光が山に突き刺さる感じで、あたりがフラッシュをたいたように光り一瞬明るくなった。 そういうのが2,3発続いた。 毎日二上山に上っているという男の人と3人で雷雲の通り過ぎるのを待った。 30分ほどで雷も遠ざかった。もし東屋がなかったらどうしただろうかと、無事だったことがうれしかった。 雨の中を下りだしたが、降った雨で道がさらにぬかるんできた。 普段は流れていそうもないようなところも水が走っていた。それでも雨雲が切れて雨がやんできた。 カメラも一眼レフを使えるようになった。しかし空はまだ雨雲で暗いので、林の中はストロボが要った。 最近は下りが長くなると膝にくるようになったので、気をつけながら下った。 暗くなったよく滑る山道を下っていくと祐泉寺がある。 比叡山延暦寺(天台宗)の末寺で、永延2年(988)に性空上人が開創したという。 本尊は釋迦牟尼如来立像(高さ118cm)で脇侍は観世音菩薩と勢至菩薩であるという。 この日は時間がおしていたのでよらずに先を急いだ。 途中いくつかの地蔵様と大龍寺がある。 道はぬかるみ歩きにくかった。 雨で道に出てきたザリガニが迎えてくれた。 しばらく山道を下り、道がなだらかになったところに古墳がある。 鳥谷口古墳である。 土取り工事の際に偶然発見されたという。 ![]() 埋葬施設は、横口式石槨である。 石槨は、八石の二上山の凝灰岩を組み合わせたもので、底石・天井石及び北側石に加工途中の家型石棺の蓋石を利用していた。 底石は、縄掛け突起をもたない形態の蓋石を利用したもので、内面を上に向けておいていた。 天井石は、長い方に二個一対、計4個の縄掛け突起をもつ形態で、外面を上に向けて置いていた。北側石は2石からなり、東側が長い方に1対1個、計2個、西側が長い方に2個1対、計4個の縄掛け突起をもつ形態で、内面を内側に向けて置いていた。東西側石と南側石は切石を天井石や側石と組み合うように加工していた。 南側石は、2枚の石材からなるが、東側は柱状に細いもので、2枚の石材の間が、石槨の入り口となっていた。 加工途中の石棺石材を大量に使用していることから、被葬者については、非業の死を遂げ、二上山に葬られたという大津皇子の墓とする説がある。 鳥谷口古墳を過ぎしばらく行くと奇妙な形のお堂がある。 傘堂である。 真柱一本で宝形造りの瓦屋根を支える総欅作りの風変わりな建物で、江戸時代前期に郡奉行を務めていた吉弘統家が主君の郡山藩主本多政勝の菩提を弔うため、延宝二年(1674)に建立した「影堂」「位牌堂」という。 奈良県指定の有形民俗文化財である。 傘堂をすぎるとまもなく山口神社がある。 普段なら中に入るのだが、もう遅かったのでパスした。 民家が見え出す頃に、小さな公園のようなところがあり、そこに大津皇子の碑があった。 終点の當麻寺についた時にはすでに6時をすぎており、夕闇が迫っていた。 |
![]() (このころはまだ晴れていた) |
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![]() (ダイトレの案内板) |
![]() (道に水があふれ出した) |
![]() (東屋の、壁面にあった写真) |
![]() (神社の説明だがきちんと読めない) |
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![]() (葛木坐二上神社) |
![]() (水量が多くなった川) |
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![]() (道が川になった) |
![]() (雷をやり過ごし歩き始めた) |
![]() (太陽光電池も雨では寂しそう) |
![]() (巨大な岩) |
![]() (坂の途中にあるお地蔵さん) |
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![]() (町石?) |
![]() (大量の雨できつい流れができた) |
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![]() (大龍寺) |
![]() (石棺を外から見えるようにしている |
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![]() (山口神社) |
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![]() (夕闇が迫った當麻寺) |
二上山は面白い山である。 ![]() 火山でありながらその気配が薄い。 しかし紛れもなく火山ということは、山の形でわかる。 過去にこの辺を震源地とする大地震もあったということである。 大阪と近く高さも手頃なためかいついってもたくさんの人が登っている。 この日は前回行けなかった、鹿谷寺と岩屋、そして雄岳に向かった。崖に近い岩がむき出しの急坂を登っていく。 足回りはきちんとした準備が必要である。 前回は雷雨であったが今回もあまりいい天気ではなかった。 ![]() 鹿谷寺は、凝灰岩の石切場跡に造られた奈良時代、8世紀頃の石窟寺院跡である。 十三重多層塔と石窟を備え国の史跡に指定されている。 この周辺から和同開珎が出土している。 十三重石塔は高さ約5mで、石窟は幅約3mである。石窟正面に如来座像三体が線彫されている。 鹿谷寺を出て、雄岳に向かったが、結構きつい。かわいい犬を連れた人たちが追い抜いていった。 途中の鞍部には榊縛山さんの書の碑がある。 二上山をイメージした2個の石に彫られた歌で、 「トロイデ火山ハ静マリテ」 「女岳男岳ヲ拝ム里 尼上嶽ト誰カ言ウ」 と書かれている。 そこから雄岳はすぐである。 八一はここを、 ![]() あま つ かぜ の すさみ に ふたがみ の を さへ みね さへ かつらぎ の くも と詠んでいる。「かつらぎのくも」とは、この山は上代に雄略天皇が一言主神(ヒトコトヌシノカミ)にあい、共に馬を並べて猟をしたところであるといわれ、後には役行者が岩窟にこもって練行したところだという。それは一種怪異な思いにさせられる。 八一は、葛城山でわいた白雲が、山腹をはって二上山の全山を包み込むのを見て、この句を詠んだという。 前回の登山の際にはまさにそんな感じで、おまけに雷も落ちたのである。 この日も好天ではなく、何となくどんよりとした天気であった。 雄岳山頂には「岳の権現」と呼ばれる葛木坐二上神社(かつらぎにいますふたかみのやしろ)がある。以前は雨だったので見ることが出来なかった内部を見た。かわいい狛犬がこちらを見ていた。この神社の祭神は、豊布都霊神(建御雷神)と大国御魂神である。 山頂には二上山城跡があり、楠正成が築城したとする説がある。 大津皇子(663年〜686年)は、天武天皇(大海人皇子)の第3皇子で母は大田皇女(天智天皇の長女)となる。 同母姉に大伯皇女(大来皇女 おおくのひめみこ)、異母兄に高市皇子(たけちのみこ)、草壁皇子(くさかべのみこ 母は鵜野讃良皇女 うののささらのひめみこ)、異母弟に忍壁皇子(おさかべのみこ)らがいる。 大海人皇子と大田皇女との間に生まれた大津皇子は中大兄皇子の長女の子として寵愛を受けたが、大津皇子が5、6歳の時、母の大田皇女は亡くなってしまった。これにより父大海人皇子の正妃の地位は、鵜野讃良皇女に移った。 大津皇子は容姿端麗、博学で文章もうまく、成長につれ武も好んだという。 鵜野讃良皇女は皇后であり、やはり自分の息子のほうが可愛かったので、天武天皇に働きかけて草壁皇子を第一の皇太子にしてしまった。 鵜野讃良皇女は序列が上で、文武両道で人望のある大津皇子の存在が不安だったのか686年9月9日、50歳で天武天皇が没すると、早くも10月2日に大津皇子に謀反の動きありとして捕まえてしまう。 いわれなき謀反の疑いをかけられ、刑死する前、奈良橿原の磐余池の堤で涙ながらに詠んだのが、 ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ (磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日限りで、私は雲の彼方に去るのだろうか) である。 謀反の内容は明らかではなく、この時捕まった30余人の内2人を除いて罪を許されているという。 本当に謀反を計画していたのなら、神ともあがめる二上山の頂上などに墓は作れないとの見方がおおかたで、やはり冤罪と考えられる。大津皇子の像が薬師寺にある。 姉の大伯皇女(大来皇女 おおくのひめみこ)は、 うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む (この世に残された私は、明日からは二上山を弟と思って眺めよう) と詠んでいる。彼女は伊勢の海に出現する太陽神を祭祠した伊勢斎王であった。 その聖職にあった彼女が弟を落陽の山に葬ったのは、自ら祭祠していた太陽に愛する人の魂を託し、永世の蘇りを熱望したのであろう。 |
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![]() (石窟。那智山修験の卒塔婆が) |
![]() (木にまつわる万葉歌の板) |
![]() (十三重石塔。5mあるらしい) |
![]() (当時の風景を表した案内板) |
![]() (石塔の南面の舎利孔) |
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![]() (上り坂の途中にあった石碑) |
![]() (葛木坐二上神社) |
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![]() (登山道途中からの雌岳) |
![]() (高松塚の石もここから出た) |
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![]() (岩屋) |
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雄岳から案内板に沿って、下ると「石切場」跡がある。 ![]() 石は軟らかく細工し易いので、古墳時代終末期に高松塚を始めとする飛鳥の殆どの古墳の石棺や、川原寺、薬師寺、法隆寺などの基壇に用いられ、遠くは京都平安京の造営にも使用されたという。 中腹では安山岩も取れ、その中に含まれる硬いザクロ石(ガーネット)は、昔から二上山特産の金剛砂で、サンドペーパー、グラインダーの砥石等に利用され、また、雄岳の頂上付近からはサヌカイトも取れる。 二上山の尾根上は府県境界で、二上山と竹内峠を繋いでいる。 岩屋峠で、馬の背方面は直進、右に行くと祐泉寺方面にいく。 案内板に沿って歩くと、奈良時代の石窟寺院跡の岩屋がある。 凝灰岩の岩窟には中央部に三重の石塔を残して、北壁に三体の仏像がうき彫りされている。 寺の起源等、歴史は不明である。 ![]() 以前は雌岳中腹にあって岩屋杉と呼ばれていたという。 根周りは8mもある杉の大木は、その名を岩屋の千年杉と言われていたが、平成10年の台風で倒れ、今この岩屋の前に横たわっている。 岩屋を見た後、雌岳に登った。頂上はかなり広いスペースになっている。たくさんの人が思い思いにくつろいでいた。 しかし大きな日時計や不要な石碑など、首をかしげる施設があった。 こんなセンスのない施設を大金を出して作るのであれば山頂の景色にマッチした東屋風のものの方がいい。 ここは、かなり見晴らしがいいはずであるが、あいにくの天気で景色はよくなかった。 国土地理院の三等三角点がある。雄岳になく雌岳にある。 雌岳から下り、麓の食堂の前を通りかかったとき、ご主人を思われる方に声をかけたら、サヌカイトの原石を見せてくれた。 |
![]() (ここに建立した理由がわからない石碑) |
![]() (雌岳頂上の巨大な日時計。不要な施設だ |
![]() (サヌカイト原石) |
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