街道を行く

暗  峠
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ここ暗峠は奈良時代に都であった平城京と難波をつなぐ道で「奈良街道」と呼ばれた道の一つで、暗越とよばれて難波と平城京を最短距離で結ぶ道の峠であった。奈良街道としてのルートは、玉造から東成区の大今里、深江、東大阪市を経て生駒山系のここ暗峠を越えて奈良に入る。
往時の峠付近は大和郡山藩の陣屋や宿屋、茶屋が並んでいたという。

江戸中期には、伊勢参りの主要ルートであった。現在では、国道308号線となっている。
番号で言うと味も素っ気もないが、「国道暗越」などとしたらわかりやすいし趣もある。

さて、この峠越えの最寄り駅は近鉄奈良線枚岡駅である。私たちが歩いたのは、2月中旬で梅の一番いいときであった。
駅前の石碑には「元春日平岡神社」とある。もとは平岡と書いたのだろうが、日本の地名はしばしば漢字が違っているので気をつけなくてはいけない。
枚岡神社は河内の国一の宮と呼ばれ、それらしい威厳と景観を形作っている。
摂津の国一の宮である住吉大社と同格という。私はここを訪れるまで枚岡神社そのものをよくは知らなかった。梅の名所というのも知らなかった。
境内はちょうどその梅見の人でいっぱいだった。メジロがせわしげに梅の花の間を行き来していた。

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神社脇には、枚岡公園があり枚岡神社境内には枚岡梅林がある。
枚岡神社は河内国一宮だそうだがその格式にふさわしい立派な社殿の神社である。
御祭神は、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)、比賣御神(ひめみかみ)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、齋主命(いわいぬしのみこと)、經津主命(ふつぬしのみこと)ということである。どこでもそうだが祭神の名前は難しく覚えられない。

境内ではアマチュアカメラマンがたくさん三脚をたてて撮影していた。
気になったのは、菜の花の切り花に蜜をつけ、梅をバックにいいポジションにたて、鳥が蜜を吸いにくるのをねらって撮っていた。
これを邪道といえばいえるが、最近はお構いなしである。
デジカメなので、液晶画面をちらっとのぞいたが、前に菜の花の黄色があり、ヒヨドリなどが菜の花に止まり、反逆光で、確かにいい図柄であった。そういえば夏のうちに標本にしたトンボを、冬の霜の降りるところにセットし、それを撮ってコンテストに出して結構入選している。それと通じるものがあるような気がして、何となくなじめない撮影風景であった。

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生駒山越えの最短ルートだった暗峠は、古来、伊勢参りに利用され、旅籠や茶屋が立ち並ぶ賑やかな峠だった。
道沿いの石仏や道標にかつての趣が感じられる。
芭蕉は1694年(元禄7年)9月9日に奈良をたち、ここ暗峠を越え大坂に入り途中で『菊の香に くらがり登る 節句かな』の句を詠んだという。
その碑が、これである。

ここ暗峠は、国道308号である。
歴史的に有名な街道だがこれが国道かと思う道である。
とにかくせまく急な坂道で、曲がりくねっている。歩く分にはいいが、車でここを越えるのはかなり気合いを入れないとだめな気がする。

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街道筋にある観音寺の境内には、谷の南側に暗越奈良街道の古道が残っていて案内板がたててある。
通称「七曲りの道」と云われた難所だったらしいが、明治10年ごろに現在の道のように改修されたといわれる。
旧道を一度歩いてみたいと思った。
古道の前に、「木魚石」
(もくげいし)と呼ばれる木魚形のかなり大きな自然石がある。最初「もくぎょいし」と読んでしまった。大きさは長さ4.2m、幅3.7mもあり、こけむした風情が何ともいえずいい.
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(「ここの賽銭を持ってくやつがいる」といった)
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登りがゆるくなったところに堂がある。弘法の水と笠塔婆という案内板が建っている。
堂内には石仏があり、右手奥に結構高い笠塔婆(高さ181cm)がある。
鎌倉時代中期の弘安7年(1284年)に建てられたという。
「弘法の水」と呼ばれる湧水があるが、飲めないということであった。
昔は飲んでいたと思うのだが、水質が悪化したのか。
熊野古道でも時々弘法の井戸があるが、そのほとんどが飲めなくなっている。残念である。
ここならちょうど疲れたとき一服し、のどを潤せるのにと思った。

今の日本で声を大にしていいたいのは、不要な看板や案内板はつけないで、そして錆びたり不要となった看板は直ちに撤去してほしいということである。
この暗峠にもいくつか看板があるが、この写真の看板などは最悪のケースである。
「汚すまい自然はみんなの憩いの場」とあるが、そんなことはいわれなくてもわかっているし、あえていうことでもない。
この看板こそが自然や景観を汚して憩いの場を奪っているのである。さらに悪いことに道路の視界も遮っている。
このあたりのセンスが日本は江戸時代より退歩してしまっている。
写真左が今のもので右の写真は、きわめて荒っぽい合成だが、もしこの看板がなかったらこんなにきれいになるということを知ってほしいために載せた。
この不細工な役に立たない看板を撤去するだけで、一気に景観が回復するのがわかると思う。
不要なものがなくなることにより、この里山の良さがさらにアピールできる。

こうした安っぽい、役に立たない看板はあちこちにある。景観条例を作って、何よりもまず先に、行政や団体の不要な看板や汚い看板を撤去してほしい。
どうしても看板がいる場合は、トタンや合板製ではなく、きっちりとした金属製で何年も使える確かな素材で作ってほしいと思う。
ここでいえば、道の案内板をグレードアップし、そこに小さくメッセージを入れればことが済む。

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(昔懐かしい薪。我が家もあった。エコライフ
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(これで国道である。こういう国道は残しておいてほしい
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(地蔵堂の脇には、峠の説明板がある)
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(暗峠地蔵)
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(たくさんのパーティが歩いていた)
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 (日本の道100選の碑)

この峠には、かつては旅籠や茶店が20軒以上あったというが、今は土産物店があるのみ。それも積極的な販売をしていない感じである。
この石畳の道は、大坂城への通勤に利用していた大和郡山藩により施工されたという。
なかなかいい道である。
往事は、ここは治安が悪かったようで、井原西鶴の「世間胸算用」によれば、追い剥ぎがでたという記述がある。
そうだろうね。ここまでくる道でも寂しいところもたくさんあった。
左手の山道を少し登ると暗峠地蔵がある。その奥の方の山側からたくさんのパーティがやってきた。
別の道もあるのだろう。

暗峠の名前の由来は、三つあり、

一つ目は、神功皇后が三韓征伐に向かう時、朝の鶏の合図で出発することになってた。
ところが朝、鶏が鳴いたので出発したが、あまり早過ぎたらしく、峠の頂まで行ってもまだ暗かった。
そこで、暗峠と名付けたという説。

二つ目は、奈良時代、道鏡と称徳女帝の命で、和気清麻呂が大隅に流されることになったが、沙汰により「清麻呂を峠で暗殺せよ」との命令が下った。
ところがこの峠にさしかかると、にわかにものすごい雷雨となり天地が暗くなったために、清麻呂はあやうく難をのがれ、そこでここを暗峠というようになったという説。

三つ目は、郡山城を築城した時、この峠付近の山林から用材を搬出したが、当時は木がたくさん茂っていて昼なお暗かったので暗い峠と言い習わされ、暗峠となったという説。

などなど。

他にもいろいろあるらしいが私は三つ目の説が一番妥当なように思える。いずれにしろあまり明るいイメージはない。やはり「暗峠」なのである。
確かに追い剥ぎが好きそうな名前ではある。

道は、生駒山地を縦走する信貴生駒スカイラインを横切って続いている。
幅1.3mの小さいトンネルをくぐっていく。
しばらく行くときれいな棚田があり、眼下には奈良盆地が広がっている。
棚田は西畑の棚田である。道は、大阪側とは違い勾配は緩やかである。

沿道の家はほとんどが薪を蓄えている。ちょうど薪割りをしているお家もあった。途中地蔵さんやレトロな喫茶店が目についた。また、休耕田のような農地で、明らかに都会の人らしきグループが畑を作っていた。使わない畑を皆で作っているのかも知れない。

大都会の近くにこうした自然の多い里山が存在するのはうれしい。
ただし、奈良側の道路改修が進んでおり、これからさき平凡な道路に変わる可能性もある。便利さをとるか、あるがままを残すか、これから議論していかなければといつも思う。確かにこのあたりに住む人にとって快適な道路は必要かもしれないが、外国の峠道の何ともいえない風情をみるにつけ、日本も少し前まではこうだったと、思い少し寂しい気になる。

私のふるさと串本を走っていた国道42号線は、昭和50年代までダートだった。バイクで走ると顔が砂埃で真っ白になった。しかし景色はよかった。
この道もこれ以上の改修はしてほしくない気がする。


暗峠
(改修されつつある道路。もはや暗がりではない)
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(道路改修で隅に追いやられた
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(皆で耕している。いかにも里山という感じがいい)
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(かわいい地蔵さんたち)
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(道行く人を見守ってきたのだろう)
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(いろんな地蔵さんがある)

坂の途中には、防人の歌、

 難波津を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲そたなびく

が刻まれた碑がある。
その奥に地蔵石仏・六字名号碑がある。さらに右手奥上部に役行者・前鬼・後鬼像がある。

風雪に耐えてこうして旅人を見守ってきたことがありがたい。
この道は、きっと縄文時代以前からから開かれていたのだと思う。

防人の碑からまもなく道の左側の崖に、磨崖仏がある。
鎌倉後期の造立と推定されているが、蓮華座に立つ来迎阿弥陀像を半肉彫りし、左右には、観音・勢至両菩薩の種子を刻んである。というのだがはっきり見えなかった。
信仰心が足りないのかな。

磨崖仏から5分ほど下ると、石造阿弥陀立像がある。

上辺が少し欠けているが、蓮座に立つ阿弥陀如来を線彫りしたもので、なかなかのお姿で気合いの入った作りである。
石の右側面に文永7年(1270年) の銘がある。
作られてすでに700年こえているわけである。

古い石仏であるが、傷みがほとんど無いということは地元の人が、この仏様をずっと大事に祀ってきたと言うことである。


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(峠の途中にある阿弥陀様である)
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暗峠は、距離はそれほど無いが、いかにも歴史を感じるいい峠である。車で行く人には、大阪側からの登りはきついと思う。いろいろな人のブログを見ても、ほとんどが「酷道」と書いている。

坂を下り、人家の密集したところにくると、石佛寺(せきぶつじ)がある。融通念仏宗のお寺で、本尊は阿弥陀如来坐像ということである。時間が遅かったので見ることはできなかった。

その沿革はわからないのだが、このあたりの檀那寺として信仰を集めてきたという。

峠を無事越えて、小さな川に沿って歩き、南生駒駅に着いた頃は日も西にかなり傾いていた。  
 
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