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司会 阪神・淡路大震災の震災のあの恐ろしさや経験を忘れず、10年を経た今も各地でご活動なされている方々にお集まりいただきました。あの震災の折、住んでおられたところはどんな状況であったか、今どんな活動をなさっておられるか一言づつ自己紹介をお願いします。
市原 神戸の東灘区は激震で、住宅はほとんどが全半壊し、地区は壊滅状態でした。自治会1,600所帯の中で96名の方が亡くなりました。そんな誰も助けてくれない、助けに来ることもできない状態の中で、近所の人たちが協力して倒壊した家屋の中からのかすかな声を頼りに「OO さん元気を出して」と呼びかけながらお年寄りを救出するなど、近所の人の助け合いのありがたさを体験して、普段からの近所付き合いの大切なことをつくづく思い知りました。
今、震災の語り部として、命の大切さと近所付き合いの大切なことなどを、人と防災未来センターを訪れる人たちに語り伝えております。
井上 私の地区の被害も言葉に尽くせない悲惨なものでした。そのときの私は、地域のリーダーとして状況の把握などに活動しなければならない立場にあることが頭の中から全く抜け落ちて、自分のことと職場のことを心配しました。落ち着いたのは2日目になってからでした。
突然の大災害にあって、気が動転し冷静な対応をとれなかったこと、そして甚大な被害の中で仲間を亡くしたこと、なぜこんなにも多くの人の命を失なったかという反省が、その後の私の行動の原点になっております。こんな悲惨なことをくり返さないためには、身近な近所の人との付き合いが大切だと考えて、その後自主防災活動の普及に取り組んでおります。
加悦 私は当時まだ高校生でした。被災地外の兵庫県の北部に住んでいたので、被災状況をテレビで見ていましたが、被災地にあってはよその地区のことはもちろん、近隣のことさえも知ることのできない状態が判りました。その後県に勤めるようになり、4年前から災害の被害を少しでも軽減するため、また、行政サイドだけでは対応の行き届かなかった状況を思い起こしつつ、防災対策を強化する施策の推進に取り組んでおります。
川崎 当時西宮市の消防部長でした。震災直後、家族に安全な靴を履くこと懐中電灯を持つことを注意して、職業柄すぐに職場に駆けつけました。消防の役割は、消火・救急・救助ですが、そのいずれもライフラインが断ち切られ、被害状況の把握ができない状態にあっては、十分な活動はできず、ずいぶん悩まされました。一方で、例えば身近なところの救急から、やがて周辺地区への対応、次には食料を含めた救助の対応と、時と日を追って課題がどんどん変化しました。
こんな中で、それまでに消防活動の一環として各地で行ってきた協議会や自治会の防災指導が、何か機能しているだろうかと思うことがありました。そのことの検証はしておりませんが、あの混乱の中で多くの方々が比較的早く冷静に行動されるようになったのを見たとき、あの防災指導が何らかの役に立っているのだと思ったのも事実です。
そんな思いから、市を退職してからも防災強化のためにこれまでの経験を少しでも生かせたらと考え、各地の防災活動の支援に協力しているところです。
北川 当時西宮市消防局に勤務して、消防活動の裏方の業務を担当しておりました。住んでいるところは西宮市と芦屋市の市境の激震地区でしたので、震災直後はどんな衝撃であったかを思い出せないほどのショックでした。
それでも職業意識が本能的に働いて自宅から2キロほどの職場まで歩いて行き、地震から40分後には到着していました。いつもは交通量の多い国道43号線は、人も車も動くものはなく、電気は消えて真っ暗、音もなく死んだ街のようでした。職場に着くとすでに消防車は出動し車庫は空っぽ、しかし刻々と救助を求めて人が押し寄せてきます。資機材はすでに空っぽ、残っている隊員の手足だけが頼りで、大災害にあっての行政の力の限界を感じ、対応に歯がゆい悔しい思いをしました。退職後、この思いにかられて地域の自主防災活動に取り組んでおります。
細谷 私は保護司をしていました。私のところも激震地区で、直後は気が動転しておりました。近所の知り合いの人が「先生大丈夫か」と大きな声を掛けてくれたので、やっと気がついた感じでした。外に出てみると向かいの2階建ての家が平屋になっていて、中から「助けて」という声が聞こえます。電話も通じないし誰も呼べません。そこで2人で力を合わせて瓦をめくり、天井板を破いて助け出しました。町内を見て廻ると、こうした全半壊の家が、約6,500所帯の地区の1/3にもなる状態でした。近くの小学校に避難しましたが、死体を置く場所もない混乱状態でした。
こんな経験から人に頼るだけではなく、自分たちの町を自分たちで守る組織を作ろうと、平成9年に自主防災組織を作りました。
横山 私の甲子園のある西宮鳴尾地区では、各町内自治会の連合として、平成2年に自主防災の組織を立ち上げておりました。しかし、震災直後は町内会長のほとんどが被災して、組織として活動ができる状態ではありませんでした。私自身、かつて静岡県富士市に住んでいて、そこで東海地震に備えた避難訓練・食料の備蓄・家具の倒壊防止などいろいろの教育を受けておりました。この経験が生きて身近なところに避難所を確保すること、これを被災者に直ちに伝達することなど震災直後に即時対応ができました。このことから少しでも非常時対策の訓練をして体で覚えておくことは、とっさのときに役に立つものだとつくづくありがたいと思いました。
それと私は従来から「まちづくり」に関心を持っておりましたので、防災対策を含めて「まち」を全体的に捉える考えで、震災後に鳴尾地区の住環境保全の検討会をつくって活動し、平成12年度に地区計画を決めました。
司会 災害時に被害の情報収集が一日遅れれば、対応も一日遅れる。とくに地震にあっては突然にして停電し、電話も交通も遮断され地域も人も孤立の状態となる。
こんなとき誰がどうやって情報を集めてどう伝えるかは、防災組織活動の基本のようです。組織がうまく機能した例あるいは機能できなかった事情などを・・・
北川 西宮市には震災前から自治会とは別に防災活動に重点を置いた「自主防災組織」がありました。震災当時の市内のこの自主防災組織率は22%ほどでした。この組織が被災直後にどのように機能したかについて、このうち3地区を対象に各組織の会長にヒアリング調査を行ったことがあります。その結果3会長に共通することは、l 震災直後は防災組織としては全く動いていない、l 各会長とも自分と自分の身の回りへの対応で自主防災組織のことは全く頭になかった、l しかし数日して救援物資が届いてからは、被災者との連絡や物資の配布作業の段階になって防災組織で学んだことが大いに役に立ってスムースに行えた、l 防災組織を作っていてよかった、と言うことでした。
細谷 私のところでは、自主防災組織がなくて大変混乱しました。避難所も一杯で死体置場にも困りましたが、そのうち救援物資が届いて、今度は誰がどうやってこれを配るかで、いっそう混乱しました。公園や空地にテントを張っている人や家に残っている人もいましたし、各町の自治会長が誰で、どこにいるかも判りません。この混乱を救ってくれたのが、顔見知りの市場の元気な人と小学校の校長先生でした。この2人が各町内会の会長などを集めて、その人たちに腕章をつけさせたりして、やっと組織的に動けるようになったのです。
横山 私の地区には自主防災組織がありましたが、リーダーの大半が被災者で、震災直後は全く組織的活動ができませんでした。そんな中で動ける者が動くという考えで、支給された防災資機材のハンドマイクなどを使って、「余震に気をつけよう」とか「会館を避難所に開放している」とか周辺の被害の状態などを伝え廻りました。それがどれだけ役立ったか判りませんが、自分も少し落ち着いた気分になりました。
自主防災とは、まず一人ひとりが自分を守る、それからお隣を、そして町内へと活動の範囲・視点が広がることです。つまり自主防災組織とは、組織からの伝達を待つというものではなくて、自分の命は自分で守るという意識から出発するものでなくてはならず、いざというとき助けを待っていては間に合いませんね。いかなる役割分担・系統図があっても、その通りに動くのは平常時のことであって非常時はそうはいきません。一人ひとりが非常時に我が身を守る意識を持って訓練に臨むことが自主防災の基本だと思います。
加悦 防災強化とは、行政の行き届かないことへの対策を強化することで、そのために各地で防災活動に取り組んでおられる方々の意見を聞き、また手もお借りして地域の自主防災の組織化をすすめてきました。現在、県下の組織率は90%を越えて、全国的に見てもかなり高い率となりましが、この組織活動をどう維持していくかが課題です。
司会 自主防災組織はあった方がよいではなくて、なくてはならないものというお話で、県下の組織率も高くなったということですが、その組織が十分機能するためにどんな活動支援をされているか、そのあたりは・・・
加悦 県の支援の当初は、組織率を上げることに主眼があったので、組織の立ち上げのきっかけにしていただこうと、防災対応のいろいろの資機材を各地域に配布しました。その後、いわゆる防災訓練の支援なども行ってきましたが、最近は、防災活動を念頭に置いた地域の運動会とか仲間づくりを兼ねたお祭りや、子供たちに災害の恐ろしさを伝える紙芝居のイベントを行うなど、地域の結集にいろいろと工夫されるようになってきております。県ではこうした事例集をまとめて参考資料として配ったり、イベントの実施など実際の活動に対するアドバイザーの派遣などの支援をしております。
細谷 あの震災時の経験から自分たちのことは自分たちで守ろうという考えで組織を立ち上げました。防災組織の意義を広く皆に知ってもらうということで役員は2年交替とし、各町内会からPTAも含めた広い参加を求めて、防災訓練などのイベントをを行っております。とくに非常時に備えて各戸の家族構成の判る名簿作成に力を入れて、近所の身近な人が手分けをして毎年調査しております。
井上 地震時にはその地域の全員が被災者となりますから、元気で動ける人たちが地域のために動くことが自主防災の基本だと、私は各地の集会で訴えております。あの地震時に、神戸市内にも自主防災協議会があって、市内の約50%は組織化されていましたが、この組織はほとんと機能しませんでした。これは当時の防災協議会は防災というものを自分たちの問題と考えるよりも、自分たちは税金を払っているので防災は市の消防や対策本部など行政の役割ではないかという認識があったように思います。
このことを乗り越えて自分の命は自分で守るという認識に立たないと、自主防災に繋がりません。
火事に消防車が出動するのは平常時のことで、大震災などの非常時では通用しません。あの大震災時に市内の火災を神戸市の消防車はほとんど消すことができなかった事実を考えると判ることでしょう。つまり非常時において行政や人の助けを待っていると自分の命を守れないという認識があって、初めて組織の必要なことや、災害の怖さや訓練の必要なことが判るのです。
司会 その認識が薄れないように、どのような訓練をどうやって維持していくかが課題のようですが・・・
市原 震災後に町内単位よりも広いエリアにわたる防災コミュニティが結成されました。この防災コミュニティ主催の防災訓練はこれまでにわずか2回だけです。昨年その2回目の訓練に参加したとき、「こんなことをしてあのような震災に何の役に立つのだろう」という参加者の会話を聞いて、私は備えあれば憂いなしと自分に言い聞かせながらも虚しい思いをしました。
一方で身近な私の地区の自治会は、独自に年2回の防災やふれあい喫茶など近所付き合いの行事を行っています。悩みは、震災後に地区の約半分の住民の顔ぶれが変わったことで、新しい住民は参加を呼びかけても来てくれないことです。
川崎 訓練というものは体験することです。避難所まで寝たきりの老人をかかえてゆくにはどれくらいの時間がかかるかを計る、助けを求める大きな声を出してみる、声が出なければ何か鳴るもので伝えてみる、など何よりも体で覚えることです。
また地域には必ず法律や行政に詳しい人や技術者などいろいろの人たちがいますから、そういう人たちがいざというときに結集するためにも、日頃の顔合わせが大切なことですね。
司会 マンションの住民は地域や自治会に無関心ということですが、大災害にあっては誰とも連絡がつかずに孤独死などという事件も起こりそうですね。
横山 そういう心配から私のところでは、弱者が助けを求めるときは目印に赤い布を出して自ら知らせる、あるいは防犯ブザーを鳴らすなども地区計画で決めております。助けを待つのではなく、自ら助けを求めて自分でできることをする「自助努力」の心がけも防災訓練だと考えております。
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