
(略歴)
1930年1月生〜1995年12月没
1963年 早稲田大学大学院博士課程修了 工学博士
1968年 関東学院大学工学部教授、
1983年 同大学 理事 学長就任
- 武士道と騎士道
「40歳を越えてフェンシング部長に就任した時、自らもスクールに入門し、練習に励んだ結果、東京大会の一部門で、選手として入賞する成果を示した。先生は旧士族の家に生まれ、少年時代は剣道を学ぶ。15歳のときに海軍兵学校で終戦を迎えた。
更に、文学ドンキホーテを好んで研究され、「大学人なれど在野の野武士」とも喩えられる先生の、失敗を恐れぬチャレンジ精神は、この高邁な、狂気の、遍歴の騎士の像に、その投影を見ていたと想像される。
学長就任時には一部リーグに昇格したばかりのラグビー部に、全学的応援体制を敷いたり、ニュージーランド・オーストラリアに遠征させるなどして、今日堂々、学生王座に君臨するに到ったのも、礼節ある紳士の集団格闘技に共感する精神の故である。
学生時代からの油絵、写真、バラづくり、請われて茶道部に与えた書「信・愛・望」(信じ、愛することを望む)、建築構造に「美」を求めたデザインなどに、モノの形と人の生き方の双方に美を探究する、武士道・騎士道の感性が窺えるのではないだろうか。
- 遺されたもの
早稲田大学理工学部建築学科で建築構造学を専攻、松井源吾先生の指導を受けた19歳から、関東学院大学々長を退任、永眠される迄の46年間の研究者期間であった。「震動による鉄筋コンクリートのせん断破壊に関する解明、鉄筋コンクリート構造の耐震性の研究、高層建物の構造計画に関する研究」などをテーマとする豊富な論文、共同研究の成果があり、建築学会の構造設計計算基準の基礎データとなっている。また「建築技術史」の翻訳など技術論を探求した労作がある。
更に新潟地震、十勝沖地震の被害調査、中国塘山地震復興状況視察など精力的に活動されていた。
建築学者として遺された最大の傑作、横浜国際総合競技場には技術検討委員長として、設計から施工までの技術的検討を指導されたが、残念なことに完成を見ずして他界された。
- 都市防災研究会の誕生
1995年1月に阪神淡路大震災が発生。これを機に、市民参加による畢生の事業として「横浜防災都市懇話会」を企画・準備されたが、無念にも、その発会式兼第1回研究会開催の当日に急逝された。その後1年余活動は中断していたが、その遺志を継ぐ関係者によって、1997年3月に「都市防災研究会」として再生した。この会は現在NPO法人となり、着々とその活動を広めている。先生の冥界からの一層のご鞭撻を乞い願う次第である。