36b(2004年10月1日)

備えのないことは不幸であった

都市防災研究会理事・神戸支部長 西脇 顕正
  1. 被災10年目の発信
      高度成長の都市化の時代、優等生であった各地の中核都市、神戸もその一つであった。時代は様変わりし、少子高齢化社会の流れと共に都市は成熟都市を目指す環境に移行している。神戸の震災は、この都市構造変化の過渡期に発生し、未来像を確定できないまま、再建にスタートすることになった。
     戦後の戦災復興期の事業に一番遅れた都市は“神戸”である。軍事産業が主体で、急速な人集めを必要としたため、都市人口の急増は一時しのぎの結果、密集市街地、過密職住混成地域を発生させるとともに、行政の手の届かないところで権利輻輳した地区が多く出来上がった。国際都市と形容される多種の外国人混成地区も一つの要因と考えられる。これらの事柄が結合、複合して区画整理も都市計画道路も未完のところを多く残したことが戦災復興後進都市となった要因でもある。震災災害の集中したのも、これらの未整備地区である。戦後の復興事業の未完地区の整備を取り戻すが如き姿勢で、資金を集中投資して、極地拠点の事業を推進したことは、外見上の復興は立派に完成したように見えるが、その反面残された旧市街地(現在は老人街といわれている)の再建への勢いの無い現実に対して、反省と皆様の批判を待つところである。直接的には民意を積み残し、間接的には公共事業による施設需要の先行消費によって、旧市街地の復興のポテンシャルを低め、民活の再建意欲を失しなわしめた事になっている。

  2. 危惧される街づくりという復興の中味
     都市構造の変化の最たるものはモ土地利用モの変更である。不用になった海浜の工場跡地は、住宅団地には適地かもしれない。但し生活を支えるモ産業の流出モを前提として受け止めると、住みやすい処ではない。職場あっての生活であり、都市施設あってこその都心居住のモ利便地モである。都市機能と環境は投資によって補っていけば解決することであるが、現実は少し異なる。戦後の核家族化現象により都市は拡散・拡大をエネルギーとしたが、現在の社会現象としては核家族社会が再度、核分裂を起こし、極少核家族社会に変わりつつあることである。神戸を中心とした阪神間の住み分けは、旧市街地及び旧郊外団地に老人家族が取り残され、若者団地が新市街地を専有することになる。勿論、老人団地も若者と老人の混成団地も準備されているが、生活の積み重ねから生まれる“人情”“文化”互助社会モに寄りかかって生活していた老人達にとって同和してゆく時間があまりにも短いことを危惧することになる。下町のスタイルは職住混在の過密市街地が自然発生的に街区を作り上げ、住民は下請け工場に同棲する形で町の隙間を埋め、過密で劣悪な住環境を発生させたことは事実である。これらの地域を整理し都市環境として改善を必要とすることは優先問題ではある。しかし下町社会は、弱者が肩寄せあって独自・固有社会文化を作り上げ、そこに安住を求めていることを忘れることは出来ない。表面は整備されたが、裏面は空虚な現実が待っている。福祉のための社会計画(ソーシャルプラン)の下敷きのある街づくりが、今求められていると思う。災害が起きてから計画するものではなく、平時に準備するものである。

  3. 成熟という名の都市像
     一般的に都市はモ成熟"という言葉の連想でモ衰退モと結びつける。毎日新聞の一面トップのショッキングな記事が現実を語っている(H16.6.1)。震災12年目の神戸市街の実像である。ポイントを転記してみる。「阪神大震災で住宅が再建されずに残っている住宅空き地(中心市街地)が神戸市内だけで阪神甲子園球場の24個分を超える98万Fあることが分かった」「最も空き地が多いのは、火災で有名になった長田22万F、次に隣接地の震災倒壊の多かった兵庫区19万F」。これだけ見ると神戸の人口数が大幅に減ったままなのかと考えるが、行政人口は旧に復しているので、数だけで言えば完全復興完了である。それでは、これらの中心市街地に広い空き地を生み出して現在も利用用途が決まっていない原因は何処にあるのだろうか~~~。結果、原因は色々あるが土地利用の転換が、震災という引き金によって、一気に進んだことに求めることが出来る。一般的に宅地の供給は激増したが、下町の土地は再生の機会と必要性を失って反動的に土地利用は激減したと考えてよい。この現象は明らかにモ衰退モである。都市の空洞化であり、蓄積してきた、ハードでは都市施設、ソフトでは地域文化の消失、使い捨てに他ならない。地域社会という文化を生かした"街直しモ手法を置き去りにした“街づくり手法メに問題と原因を求めざるを得ないと考える。氏子の居ない氏神さんと、シャッターの下りた中心市街地商店街と老人が残された街、誰が見ても立派な街づくりとは言えないのではないか。(守るべき地域特性は平時に確認しておくべきではないか)

  4. “衰退”から”"成熟”への変換
     大村謙二郎・筑波大学院教授のご意見をお借りすると、「成熟化」と言う前向きの一面で見ると、その背景となる現実は価値のあるデータとして考えられる。短期的なトレンドに惑わされることの無い新市街地再生の方向性を見出すことが肝要である。日本の都市は最早、成長・拡大型、都市計画を続けることは理念的にも、現実的にも、困難である~~~と教授は記されている。都市は、その成長拡大路線から既成市街地のリニューアル、土地転換をはかる時代である。(私はこれを“街直し時代”と言っている) 街づくり研究団体、ボランテイア団体もたくさん組織され、市民の声は大きくなっている。活動も活発になっている。福祉社会の未来像が見えつつある。目的が定まってきた。決して風化していない。人が安定した生活、安住できる環境及び機能、福祉の充実した社会への成熟こそ神戸が求めようとする都市性の変換ではないか。


都市防災研究会生みの親
藤本一郎先生の人となり

藤本一郎氏

(略歴)
1930年1月生〜1995年12月没
1963年 早稲田大学大学院博士課程修了 工学博士
1968年 関東学院大学工学部教授、
1983年 同大学 理事 学長就任





  1. 武士道と騎士道
    「40歳を越えてフェンシング部長に就任した時、自らもスクールに入門し、練習に励んだ結果、東京大会の一部門で、選手として入賞する成果を示した。先生は旧士族の家に生まれ、少年時代は剣道を学ぶ。15歳のときに海軍兵学校で終戦を迎えた。
    更に、文学ドンキホーテを好んで研究され、「大学人なれど在野の野武士」とも喩えられる先生の、失敗を恐れぬチャレンジ精神は、この高邁な、狂気の、遍歴の騎士の像に、その投影を見ていたと想像される。
     学長就任時には一部リーグに昇格したばかりのラグビー部に、全学的応援体制を敷いたり、ニュージーランド・オーストラリアに遠征させるなどして、今日堂々、学生王座に君臨するに到ったのも、礼節ある紳士の集団格闘技に共感する精神の故である。
     学生時代からの油絵、写真、バラづくり、請われて茶道部に与えた書「信・愛・望」(信じ、愛することを望む)、建築構造に「美」を求めたデザインなどに、モノの形と人の生き方の双方に美を探究する、武士道・騎士道の感性が窺えるのではないだろうか。

  2. 遺されたもの
     早稲田大学理工学部建築学科で建築構造学を専攻、松井源吾先生の指導を受けた19歳から、関東学院大学々長を退任、永眠される迄の46年間の研究者期間であった。「震動による鉄筋コンクリートのせん断破壊に関する解明、鉄筋コンクリート構造の耐震性の研究、高層建物の構造計画に関する研究」などをテーマとする豊富な論文、共同研究の成果があり、建築学会の構造設計計算基準の基礎データとなっている。また「建築技術史」の翻訳など技術論を探求した労作がある。
     更に新潟地震、十勝沖地震の被害調査、中国塘山地震復興状況視察など精力的に活動されていた。
     建築学者として遺された最大の傑作、横浜国際総合競技場には技術検討委員長として、設計から施工までの技術的検討を指導されたが、残念なことに完成を見ずして他界された。

  3. 都市防災研究会の誕生
     1995年1月に阪神淡路大震災が発生。これを機に、市民参加による畢生の事業として「横浜防災都市懇話会」を企画・準備されたが、無念にも、その発会式兼第1回研究会開催の当日に急逝された。その後1年余活動は中断していたが、その遺志を継ぐ関係者によって、1997年3月に「都市防災研究会」として再生した。この会は現在NPO法人となり、着々とその活動を広めている。先生の冥界からの一層のご鞭撻を乞い願う次第である。

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