風のささやき

帰り行く春の夜に

芽吹いて行く者たちの色合いが
闇に溶け込み和らいだ夜に吹く風は
まるで赤子をあやす優しい心持のよう

身を寄せ合いヒソヒソと話をする
足元の草花の声も心なしか大きく聞こえる
月のまなこも明るく見開かれ
散り急ぐ桜の花びらも
焦れることを忘れてゆっくりと降りてくる
腕の時計の秒針も心なしか緩やかに
時を追いかけている

それでも巻き戻せずにまた
春の一日は夜に紛れ込んで
数え切れない昨日へと跡形を失くす
誰もそこには戻れない泡影の場所

明日がまた来るからと
過ぎ去り行く今日へは背中を向けて
けれど思い描いたような明日には
出会うことも終ぞ無くて

春の夜の風を吹き過ごすだけの
僕は歩く伽藍堂
ほんとうに何もない自分が浮き彫りに
費やした日々のあまりにも心許ない寂しさに

いつの間にかコートを脱いだ
人々の波に連なり
遠い家路へと足を速める

皆が笑っているその場所に
僕も迎えて欲しいと
ただ過ぎ去って行くとしても
笑いの中に過ぎていければと

固く結んでいた心の紐を解いて
僕はガラクタを捨て軽くなる
大切に見せかけた
本当は大切ではない
家路へと向かう地下鉄に乗り込む前に