風のささやき

工事現場で

いつの間にか背の高いビルが
空に向かって伸びている
そう言えば クレーン車が
随分と急がしそうに その手を
動かしていた頃が あったっけ
何か後ろめたさを 感じてでもいるように
黒い機械油が風に 引き千切られていったっけ

このビルの 完成の暁にはきっと
大勢の人が 蟻の巣のような地下鉄から
小難しい顔をして 這い出してくる
忙しさを 濡れ手で粟のように集め
目の前の出来事に 目を血眼にして

まだ 硬い鉄筋を
風に晒したままの 最上階の方では
太陽がまぶしく 反射している
自分の姿を誇示するビルの 驕りのよう

少し前までには ここに
一体何が あったのだろうか思い出せない
僕は毎日 足しげくその横を
通り過ぎていたはずなのに

まるで そこだけ
すっぽりと 記憶喪失にやられてしまったようだ
何の思い出も コトリとも出てこないから
僕はまた いつもの手慣れた仕草
知らぬ存ぜぬの 足を速めて

街では 姿失われるものが
忘れ去られるがままに 根こそぎ消されてしまう

圧倒的なビルの姿に 占拠される前に
確かにあったその場所
その笑い その悲しみ その悔しさも
子供の頃に読んだ ファンタジーの
脇役の言葉よりも 忘れられたものとして

そうして 皆が褒め讃えるんだ
素晴らしい ビルが建ちましたな
また いい世の中になりましたな なんて
にこやかな顔をして

考えてなくても いいことに
僕は とらわれ過ぎているのかも知れない
素晴らしい出来事に
難癖をつけようとする おかしな僕の頭も 
自己増殖を繰り返す 街の食欲に食べつくされて

(その前に春風に この身を委ねようと
 一生懸命に この手
 差し出しているんだけれど な)