風のささやき

僕の胸には

僕の胸にはポッカリと穴が開いています
最初はとてもとても小さな穴でした
蟻の一匹さえも通ることはできませんでした
だから僕は気にせずにいました

けれどそれからだんだんと穴は大きく育ちました
風がピューピューと音を立てて通り過ぎます
もう小さなミツバチならば通り抜けられそうです

それで僕も少し穴が気になり始めたのですが
痛くも痒くもなかったので
そのままにしておきました
正直言えば風が通り抜ける瞬間などには
少し気持ちよくさえあったのです
こんな穴も決して悪くは無いなと思っていたのです

そんな僕の穴をある日
友人が見ながら笑いました
へんな穴を開けてるんだねって
その言葉はとても冷たく
僕の穴を潜り抜けて
穴が少し大きくなった程です

それからだんだんと僕は
僕の穴が気になり始めました
確かに良く見れば
こんな穴を胸に開けているのは
僕だけのように思えるのです

僕はだんだんと人と会うのが怖くなりました
この穴を見たらあの友人のように
皆が笑い出すのではと
そんなことばかりが気になって
人に出会うと顔が熟したリンゴのように
真っ赤になってしまうのです
すると皆は熱でもあるのと心配するのです

それに人と話をしていてもどうでしょう
皆の言葉は僕の穴の中にすいこまれて
遠くうつろに響くだけです
皆が楽しそうに僕に笑いかけるのに
僕にはそれが遠い世界の出来事なのです
まるで海の底から世界を眺めているようです
寂しさがどんどん胸に積もります

この世でたった一人でいられたら
どんなにか楽だろうと
月明かりを浴びながら思った夜もありました

いつの間にか僕の胸に居座って
どんどんと大きくなる穴
僕だってこの穴を塞いで
例えば友達と
青い海に泳ぎに行ったりもしたいのです
けれど僕の穴にはしょっぱい波がどんどんと押し寄せて
苦しくなるばかりなのです

僕はいろいろなものをつめて
穴を塞ごうとしました
例えば固く冷たいコンクリート
例えば真っ白でフワフワの真綿
けれどどんなものを詰めても
逆に穴は大きくなるばかりなのです

ある夜僕は
神様に祈っていました
できることならこの穴を埋めてください
たくさんの春の陽射しで一杯にして

けれど僕の祈りも夜の闇には
むなしく響くばかり
願いがかなわず大きくなる穴に
僕はこのまま穴になって
空にとけこみ消えてしまうんだと
そんな最後を思っていました

ある春の日のことでした
いつものように一人でいた僕の穴に
どこからか飛んできたタンポポの種が
降りてきました
タンポポの綿毛は少し汚れていました
だいぶ長い距離を旅してきたのでしょう

タンポポは僕に言います
ねえここは居心地が良さそうだから
少し休ませてくれないかい

そんな風に僕の穴が誉められたのは始めてのこと
僕はドギマギとしながらも
うれしくてほんとうかいと
何度もききかえしたくらいです

僕はタンポポに話しかけます
君はどんなところを旅してきたの
どんな風景でその心を一杯にしてきたの

タンポポは僕がまだ
出合ったことのない風景を
僕に話してくれます
一面が紫のラベンダー畑
エメラルド色に輝く小さな湖

月の明りに照らされて
若葉の上で眠る春の夜が
どんなに気持ちいいものなのか
世界は僕の思う以上に
広くて果てのないものだと思いました

やがてタンポポはどんどんと大きくなって
黄色の花を咲かせました
そうして初めて僕の穴に舞い降りたときのように
綿毛に覆われたたくさんの種をつけたのです

タンポポは僕に告げました
もう旅立つ時間だよと
そうして僕の穴に勢いよく吹きつけてきた春風に
一斉に舞い上がったのです
どうもありがとうと言いながら

僕はたくさんの寂しさと
僕の穴から旅立っていったものたちへの
少し誇りを感じていました

タンポポの「ありがとう」の言葉は
僕にとても大きな勇気を与えてくれました
僕は少しづつですが
友達の間にも入って行けるようになりました

それから僕はいつタンポポや
突然のお客さんが訪ねてきてもいいようにと
僕の穴を綺麗な風景画や宝石
ギザギザのついた金貨などで飾りつけました
クリスマスのときなどには
小さな小さなモミの木に
ピカピカと輝く電球さえもつけました

するとどうでしょう
やがてそんな飾りに誘われたのでしょうか
たくさんのものが僕の穴を訪れるようになりました

ミツバチや紋白蝶、コガネムシ、トンボ
桜の花びら、菫の匂い、葉っぱの笑う声
小さな雨音や夕日の破片が紛れ込んだこともあります
黄色の落ち葉や雪の一片
小さな蟻が足元から這い上がってきたこともあります
中には僕の穴の中ですやすやと眠る
小鳥さえもいたほどです

そんなたくさんのものたちと僕は
たくさんの会話をするようになりました

中でも暖かな春風は
僕の胸にレースのカーテンをつけてと
お願いをしてきました
それで僕は真っ白なレースを穴に飾りました

それから春風は訪ねてくれるたびに
白いレースのカーテンをくぐり抜けて
僕に楽しい話をしてくれます

僕もそれでうれしくなって
ハーモニカを飾りました

ハーモニカは風が通るたびに
七色の不思議な音を出します
時として僕でさえ
どこからこんな音が出てくるのだろうと思うこともあります

けれどまだまだ汚い音もたくさん混ざっていて
どうすれば綺麗な音色に聞こえるのか
わからないことばかり
   
そんなハーモニカの音を耳にして
僕の穴を不思議そうに
覗こうとする者たちも出てきました

それでも皆といる楽しい時間の合間
とても不安になることもあります
これから僕の穴はどうなるのでしょう
もっともっと大きくなって
僕の体を飲み込んでしまうのでしょうか

それにたくさんのものを飾っても
飾り物がなくなってしまえば
僕の穴はまた真っ暗
誰もこなくなってしまうのではないかと
怖くなることもあります

それでも僕は思うようにしています
きっとこんな穴がなければ
僕の胸からはハーモニカの音色も
響くことはなかったでしょう
それは不思議なことでもあり
あるいは悲しいことでもあるのかも知れません
でもこの穴と一緒に生きていくしか僕にはないのです

今はただ僕の穴から
柔らかなハーモニカの音色が
たくさんのものに届けばいいと
それが僕の神様へのお願いごとです