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歴史 第三巻 タレイア ヘロドトス著
The History BOOK III THALIA Herodotus


邦訳:前田滋(カイロプラクター、大阪・梅田)
(https://www.asahi-net.or.jp/~xf6s-med/jherodotus-3.html)

掲載日 2021.7.14

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邦訳者(前田滋)の序

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底本(英訳文)

*The History Herodotus
 A.D.Godley
 Cambridge.Harvard University Press.1921
*The History Herodotus
 G.C.Macaulay
 Macmillan, London and NY 1890
*The History Herodotus
 George Rawlinson
 J.M.Dent,London 1858
*Inquiries Herodotus
 Shlomo Felberbaum
 work in progress 2003
*ギリシャ語の原文サイト
 Ιστορίαι (Ηροδότου)
 Istoriai (Irodotou)


~~~目 次~~~

1-6   カンビュセスのエジプト攻略
7-30  エチオピアとアンモンへの遠征とその挫折
31-38  カンビュセスの乱心
39-60  スパルタとサモス島のポリクラテスの抗争
61-87  マゴス僧によるペルシャ王位掠奪-カンビュセスの死
       -七人の決起-ダリウスの即位
88-160  ダリウスによる統治
88-117    徴税区(サトラペイア)
118-128   インタプレネスとオロイテス
129-138   デモケデス
139-149   サモス攻略-シュロソン
150-160   バビロンの反乱と鎮圧

(*)は邦訳者(前田)による注



1.さてこのアマシスに向けて、キュロスの子カンビュセスが支配下の他民族のみならずイオニアとアイオリスのギリシア人をも従えて征討(1)に向った理由は次のことにある。それは、アマシスにふかい怨みを抱いていた、あるエジプト人の勧めに従って、カンビュセスが使者を送ってアマシスの娘をもらい受けようとしたのが始まりだった。そのエジプト人は、かつてキュロスがエジプトで一番の目医者をアマシスに求めた折に、エジプト全土の医者の中から選びだされ、その妻や子からも引き離され、はるばるペルシャまで送られたことがあったのだ。

(1)B.C.525年

アマシスを恨んでいたこのエジプト人は、アマシスの娘を求めるようにカンビュセスをそそのかしたのだが、そうなれば娘を差し出した場合にはアマシスは嘆き悲しむだろうし、拒むめばカンビュセスの怒りを招くだろうともくろんだのである。アマシスはペルシャの力に怯えて困惑し、娘を与えることも、拒むこともできずにいた。カンビュセスが娘を正妻しようとしているのではなく、側室にするつもりであることがわかっていたからである。

これを考えあぐねた末に、アマシスはこうした。先王アプリエスの娘で、この一族でただ一人生き残っていた、実に背が高く美しいニテティスという娘がいた。アマシスはこの娘を衣装や黄金で飾りたて、自分の娘としてカンビュセスのもとへ送ったのである。

ところがしばらく後に、カンビュセスがアマシスの娘よ、と呼びかけながら彼女を抱きよせようとしたとき、娘が云った。

「殿様、あなた様はアマシスに馬鹿にされていることがおわかりになっておられませぬ。あの男は私を美しく着飾らせ、自分の娘として殿様のもとへ私を送り込んだのですが、実は私はあの男がエジプト人とともに謀叛を起し、命を奪ったアプリエスの娘なのでございます」

この言葉によって悪だくみが露見したことでキュロスの子カンビュセスは激怒し、エジプト征討に向わせたのだった。ペルシャ人はこのように伝えている。

2.ところがエジプト人のいうには、カンビュセスはこのアプリエスの娘から生れているので、自分たちと同族だという。そしてアマシスに娘を要求したのはキュロスで、カンビュセスではないというのだ。

しかし彼らの云っていることは間違っている。誰もがペルシャの慣習については知っているので、エジプト人も知っているはずなのだが、そもそも嫡出子がいるのに庶子が王位につくという慣習はペルシャにはないこと、二番目に、カンビュセスがアカイメニダイ家のパルナスペスの娘カッサンダネの息子で、エジプト女の子ではないことを彼らが知らないはずがないのだ。彼らは話をねじ曲げ、自分たちがキュロスの王家と縁続きであるような振りをしているのだ。これが事の真相である。

3.また次のような話も、私には信じられないのだが、伝わっている。あるペルシャ婦人がキュロスの妻妾たちのもとへ訪れたとき、カッサンダネのかたわらに背も高く眉目麗しい子供たちがいるのを見ると、感に堪えぬ風でとびきりの褒め言葉を発したのだった。そこでキュロスの妃カッサンダネがいうには、

「私がこんな風な子供たちの母であるのに、キュロスは私に恥をかかせ、エジプトから新しく来た女を寵愛しているのですよ」

カッサンダネはニテティスヘの反感からこういったのだが、そのとき彼女の一番年長の息子カンビュセスがいった。

「では母上、僕が大人になったらエジプトをひっくり返してやりましょう」

これをいったとき、かれは十歳くらいだったが、そこにいた女たちは驚嘆した。そしてかれはこのことを忘れずにいて、成人し王位につくやエジプトへ軍を向けた、というのである。

4.この出陣には、次のような偶発事態もきっかけになっていた。それはこういうことだ。アマシスの傭兵の中に、ハリカルナッソス生まれで知恵も力もある、パネスという兵士がいた。

この男がアマシスに何らかの恨みを抱いていて、カンビュセスに面談したいと思ってエジプトから船で逃げ出したのである。この男は傭兵隊の幹部で、エジプトの事情に詳しいたことでもあるゆえ、アマシスはかれを捕らえようと躍起になり、最も信頼できる宦官を三段櫂船に乗せて逃亡した男を追わせた。そして宦官はリキアでパネスを捕らえたが、エジプトに連れ帰ることはかなわなかった。パネスの知恵が宦官よりもはるかに勝っていたからである。

パネスは番兵に酒を飲ませて泥酔させ、ペルシャヘ逃れたのだ。ちょうどそのとき、カンビュセスはエジプト出陣の準備にかかっていたときで、水のない沙漠地帯をいかにして越えるか迷っていたのだった。そこでパネスは、アマシスに関する情報を教え、いかに進軍すべきかも進言した。すなわちアラビア王に使者を送り、安全に通行できるよう頼むことを助言したのだ。

5.実のところ、エジプトへの進入路は、この道しか知られていなかったのである。フェニキアからカディティスの街境(2)に至るまでの地城は、いわゆるパレスティナ・シリア人の占有地なのだ。

(2)ガザのことだろう。

私の見た限りでは、カディティスはサルディスに比べてさほど小さくない街だが、ここからイエニソスに至る間の沿岸の交易地はアラビア王の領土である。そしてイエニソスからセルボニス湖の間は再びシリア領となり、この湖に沿つてカシオン岬が海に突き出ている。

このセルボニス湖にはテュポンが埋められていたという伝説があるが(3)、ここからはエジプト領となる。イエニソスの街とカシオス山、セルボニス湖の間は三日の行程を要する広い地域だが、また極度に乾ききった地帯でもある。

(3)ギリシャ神話では、熱風と火山による作用はテュポンによるとされている。このテュポンはゼウスによって天空から落とされ、熱い火山地帯の地下に埋められた。そしてテュポンはエジプトの神となり、セルボニス湖に埋められたという伝説ができた。

6.さてここで、船でエジプトにゆくほとんどの人が気づかない、あることを話してみよう。エジプトには一年に二度、酒を満たした甕(かめ)がギリシャ全土のほかフェニキアからも運び込まれている。ところが空になった酒の甕が、この国のどこを探してもひとつとして見つからないのである。

では空の甕は一体どうなったのかと人は云うかもしれない。これについても説明しよう。それぞれの地区の長官は、自分の管轄する地区からすべての土甕を集めてメンフィスヘ運ぶことになっていて、次にメンフィス市民はこれに水を満たしてシリアの砂漠地帯へ運ぶことになっているのだ。つまりエジプトに運ばれた土甕は、空になるとシリアヘ運ばれ、すでにそこに運ばれていた甕と合流するのである。

7.ペルシャ人はエジプトを占領したあと、ただちにいま説明した方法で水を供給し、その通過路を確保したのである。

ところがその当時は水を用意できていなかったので、カンビュセスは例のハリカルナッソス出身の傭兵の話を聞くや、アラビヤに使者を送り、互いに誓約を取り交わして道中の安全を依頼し、これを確保したのであった。

8.さてアラビア人以上に盟約を尊重する民族はほかにいない。彼らが盟約を結ぶ方法はこうである。盟約を交そうとする二者の間にひとりの男が立ち、両者の掌の親指のあたりを鋭い石で切り、双方の上着の糸をを引き抜き、この糸に血を吸わせ、両人の間におかれている七つの石にその血を塗りつける。このとき、ディオニソスと天空のアフロディテ(ウラニア)の名を唱えるのである。

これが終わったあと、盟約を交した者は、異国人または同国人の相手を自分の友人たちに紹介するのだが、紹介された友人たちは自身もこの盟約を尊重する義務を負うことになっている。

彼らが信じているのはディオニソスと天空のアフロディテ(ウラニア)だけで、それゆえか髪の刈り方もディオニソス風にしているのだと云って、髪を丸く刈り、こめかみの毛を剃っている。彼らはディオニソスのことをオロタルトといい、ウラニアのことをアリラトと呼んでいる(4)。

(4)ムーバーズ(Movers)によれば、オロタルトは「火の神orath el」で、アリラトはhelelの女神で「朝の星」である。単純にいえばアリラトは女神となる。

9.さてカンビュスからの使者に盟約の誓いを行なったアラビア王は、次のような方策をとった。すなわちラクダ皮の袋に水を満たし、手持ちのすべてラクダの背にのせ、これを砂漠地帯まで率いてゆき、カンビュセスの軍がやって来るのを待っていたのである。

右は伝えられている説のうちで最も信用できるものを述べたが、伝えられているからには、あまり信用できない説も述べておかねばならない。

アラビアにコリスという大河があり、これはいわゆる紅海に注いでいる。アラビア王は、牛皮その他の獣皮を縫い合せて作った水導管を、この河から砂漠地帯まで設置し、これを用いて水を送った。そして砂漠地帯には巨大な水槽を掘らせて水を受け、これをしたという。

この河から砂漠地帯までは十二日間の旅程であるが、かれは三本の水導管によって三ヶ所に水を送ったと伝えられている。

10.さてアマシスの息子プサンメニトスは、ナイルのペルシオン河ロで陣を張り、カンビュセスを待ち構えていた。

というのはカンビュセスがエジプトに出陣したとき、アマシスはすでに生きておらず、四十四年間の統治ののち、この世を去っていた。その統治中、別段大した難事もおきず、死後はミイラにされ、神域内に作った自身の慕所に葬られた。

かれの息子プサンメニトスのエジプト統治中に、とてつもなく異常な出来事が起きたのである。すなわちエジプトのテーベに雨が降ったのである。テーベの住民のいうところでは、これ以前にも、私の時代に至るまでも、テーベには雨が降らなかったというのに。実際、上エジプトは雨の降らない所なのである。ただ、この時テーベ(5)に降った雨は霧雨だったのだが。

(5)現在のテーベ(ルクソール)は時に少量の雨が降る;ただし極めて少量で極まれ。

11.さてペルシャ軍は砂漠地帯を通過し、エジプト軍の近くに陣を構え、合戦に備えた。一方のギリシャ人とカリア人からなるエジプト傭兵部隊は、異国の軍隊をエジプト攻撃に導いたパネスに怒りを募らせ、この男を懲らしめようと、次のことを図った。

パネスは、幾人かの息子をエジプトに残していたが、彼らはこの息子たちを父親が見える陣営内に連れてきた。そして両軍の陣地の中間に混酒器をすえ、息子を一人ずつ引き出しては混酒器の上で咽喉を切り裂いたのだ。

息子たちを残らず殺戮し終えたあと、傭兵たちは混酒器の中へ酒と水を注ぎ、これを飲み干してから合戦に向った。戦いは激戦となり、両軍ともに多数の死者を出したが、ついにエジプト軍が敗走するに至った。

12.ここで私は、土地の住民に教えられ、合戦場で奇妙な光景を目にした。この合戦の死者の遺骨が、ペルシャ人とエジプト人それぞれ別の場所に散らばっていたのだが、ペルシャ人の頭蓋骨は非常にもろく、小石を投げつけるだけで穴があくほどなのに、エジプト人の頭蓋骨は石で叩いてもわれないほどに硬いのである。

土地の者が云うには、それを聞いて私もすぐに納得したのだが、次のごとき説明をしてくれた。つまりエジプト人は子供の頃から頭髪を剃っていて、頭蓋骨が陽にさらされて厚くなるのだと云っている。エジプト人の頭が禿げないのも同じ理由からである。世界中でエジプトほど禿げ頭が少ない国はない。

彼らの頭蓋骨が硬い理由はこんなことだが、ペルシャ人の頭蓋骨がもろいのは、彼らはティアラというフェルト帽をかぶり、生涯にわたって頭を陽に当てないからである。これが事の真相である。また私はパプレミスにおいてペルシャ人の頭蓋骨も見たことがある。彼らはダリウスの子アカイメネスに率いられてリビア人イナロスと戦い、これに討たれた兵士たちの遺骨だったが、その頭蓋骨も同じことだった。

13.戦に敗れたエジプト軍は、てんでんばらばらに潰走した。そしてメンフィスに立て籠もったので、カンビュセスはペルシャ人の使者をミティレネの船に乗せて上流へ送り、降伏の勧告に向わせた。

ところが船がメンフィスにやって来ると、エジプト軍は城塞から一挙に打って出、船を破壊し、船にのっていた者たちの身体を、肉屋が獣を解体するようにしてバラバラにし、これを城の中に運び込んだ。

その後エジプト軍は包囲攻撃を受けたが、しばらくのちに降伏した。エジプトに隣接するリビア人はエジプトの状況を見てこれを怖れ、戦わずして降伏し、みずから朝見の礼を取り、さらに貢ぎ物を献上した。キュレネ人とバルカ人もリビア人にならって同じ行勣をとった。

カンビュセスは、リビア人の贈物は万福の好意でこれを受け取ったが、キュレネ人から届けられたものは、私が思うに、銀五百ムナのみだったので、その額の少なさが気に入らなかったと思われるが、みずからの手でつかんでは兵士たちにばらまいてしまった。

14.メンフィスの城塞を占領して十日後、カンビュセスは、王位についてまだ六ヶ月のエジプト王プサンメニトスをはずかしめるつもりで、ほかのエジプト人たちとともに、街の外に引きすえ、次のことをして彼の胆力を試した。

すなわち、王の娘に奴隷の身なりをさせて水差しを持たせ、水汲みにやらせた。またエジプトの上層部の娘から選び出した者たちにも王女と同じ身なりをさせ、これに同行させた。

娘たちが泣いたり嘆いたりしながら父親のそばを通り過ぎると、父親たちは全員が、娘がひどい扱いをうけているのを見て、泣いたり嘆いたりしてそれに答えたが、ひとりプサンメニトスだけは自身のまなこで全ての事態をみつめると、うなだれるのみだった。

水汲みの娘たちが通り過ぎたあと、カンビュセスは、王の息子と同じ年齢のエジプト人を二干人、かれとともに連れて来させた。彼らは首に縄をかけられ、口には轡(くつわ)をかまされていた。

彼らは、メンフィスで船とともに殺戮されたミティレネ人たちの報復をするために連行されてきたのだ。王室の判官たちが、殺されたミティレネ人ひとりにつき、高貴なエジプト人十人の死をもって償わせるべしと判定したからだった。

前を通り過ぎる者たちの姿を目にしたプサンメニトスは、息子が死にゆくのを悟ったが、まわりのエジプト人たちがみな嘆きつつ涙を流しているというのに、かれだけは娘を見たときと同じ態度を取っていた。

この者たちも通り過ぎたあと、かつては王の取り巻きのひとりで、壮年を過ぎて全ての資産をなくし、乞食が持つような物しか持たず、兵士たちに物乞いをしている男が、たまたま街の外にすえられていたアマシスの子プサンメニトスほかのエジプト人たちの前を通りすぎたのである。この男を目にしたプサンメニトスは、頭を叩きつつその男の名を呼び、大声あげて泣き出したのであった。

ところでプサンメニトスには番兵がつけられていて、彼らは行列が通るたびにプサンメニトスの反応を細大もらさずカンビュセスに報告していた。プサンメニトスの態度を不思議に思ったカンビュセスは、伝令を送り、かれに訊ねさせた゜

「プサンメニトスよ、主君カンビュセスは問うておられる。娘が虐待され、息子が死にゆくを見ても、泣き声も上げす歎きもしなかったというに、カンビュセスが他の者から報されたところでは、そなたとは何の血縁もない乞食に向けて、あのような態度を取ったのは、なにゆえであるか?」

このように伝令が問い質すと、プサンメニトスが返答して曰く、

「キュロスの息よ、わが一族の不幸は、涙を流して嘆くにはあまりにも悲惨すぎるものにござる。しかしわが友人の不幸には涙を流さずにはおられませぬ。莫大な富や繁栄をうしない、老境にさしかかるというのに乞食にまで転落した、あの男には」

伝令がこの返答をカンビュセスに報告すると、そこに居並ぶ者たちはみな天晴れな答えだと頷いた。

そしてエジプト人の伝えるところでは、たまたまカンビュセスに同行していたクロイソスも、これを聞いて涙を流したという。同席していたペルシャ人たちも涙を流し、カンビュセス自身も哀れをもよおし、プサンメニトスの息子を処刑される者の中からはずすことと、プサンメニトス自身も街の外から自分のもとへ連れてこさせるように命じた。

15.ところが、使いの者たちが息子のところへゆくと、息子は真っ先に処刑されていて、すでに命を絶たれたあとだった。そこで彼らはベプサンメニトスをその場から連れ出してカンビュセスのもとへ届けた。その後かれは何の危害も加えられずに、カンビュセスのもとで余生を送ることになった。

そしてもしかれが余計なことに手出ししないことを自覚していたなら、再びエジプトの統治を任されただろう。というのも、ペルシャ人は王家の嫡流を尊重する傾向があり、たとえ他国の王家がペルシャに敵対したとしても、その嫡子に覇権を返還しているからである。

このような慣習を彼らが持っていたことは、多くの例が物語っている。特に、イナロスの子タンニラスに、その父の覇権を返したことと、アミルタイオスの子パウシリスにもその例がある。この男もまた父の王権を返されたのである。しかもイナロスやアミルタイオス(6)以上にペルシャに害を与えた者は、かつてなかったというのに。

(6)ペルシャ支配に対するエジプト人イナロスとアミルタイオスの謀叛はB.C.460からB.C.555まで続いた。

ところがプサンメニトスは悪事を企み、その報いを受けたのだった。すなわちエジプト人の叛乱の黒幕だったことが発覚し、これがカンビュセスの耳に入るや、プサンメニトスは牡牛の生血(7)をあおり、死を遂げたのだ。これがプサンメニトスの最期だった。

(7)血液が凝固して窒息すると考えられていた。

16.さてカンビュセスは、ある目的があってメンフィスからサイスへ移動し、実際それを実行した。かれはアマシスの宮殿に入ると棺部屋からアマシスの遺体を運び出させた。運び出しが終わると、次にその遺体を鞭打ち、毛髪を引き抜き、刺し棒で突くなど、あらゆる方法で侮辱の限りをつくした。

しかし遺体はミイラになっていて、傷つけられても損なわれることはなく、バラバラになることもなかったので、取りかかっていた者たちが疲れ切ってしまった。そこでカンビュセスは遺体を焼けと命じた。ペルシャ人は火を神と崇めているので、この命令は神を冒涜するものだった。

遺体を焼くなどということは、両国の慣習にはないことで、ペルシャでは今述べた理由で、人間の遺体を神に捧げることはよくないこととされている。一方エジプトでは、火は生ける野獣とみなされていて、捕まえたものをむさぼり、満腹すると喰ったものとともに死に絶えると信じられている。

それゆえ彼らの慣習には、死骸を野獣に与えるということは絶対にない。遺体をミイラにするのはそのためで、埋葬された遺体が虫に喰われるのを防ぐためである。かくしてカンビュセスが命じたことはいずれの国の慣習にもそむくことなのだった。

ところがエジプト人の話では、この仕打ちを受けたのはアマシスではなく、かれと同じ背格好の別のエジプト人で、ペルシャ人はこの男をアマシスだと思いこみ、これを虐待していたのだという。

彼らの話では、アマシスは、神託によって自分の死後、みずからの亡骸に起るであろうことをあらかじめ知っていて、その災いを避けるため、鞭打の刑で死んだ男の遺体を自分の棺部屋の戸ロに近いところに葬らせた。そして自分の亡骸は、息子に命じて棺部屋の最も奥まった場所に安置させたという。

しかし私の考えでは、アマシスが棺部屋のことや男のことを命じたなどということは全くの絵空事で、エジプト人は何の根拠もなしにみずからの尊厳を保つために、こんな作り話をでっち上げているのだ。

17.このあとカンビュセスは三つの遠征を計画した。すなわちカルケドニア人(8)、アンモン人、リビアの南の海辺に住むエチオピアの「長命族」(9)に対する遠征である。

(8)カルタゴ人のこと
(9)本巻二十三節

思案の末にかれが決めたことは、カルタゴには海軍を、アンモンには陸上部隊の一部を派遣することだった。そしてエチオピアヘは先ずスパイを送り、そこの王に贈物を届けるというロ実のもと、エチオピアにあると伝えられる「太陽の卓」なるものが真実あるかどうかを見届けさせ、そのほかのこともいろいろ探らせようとした。

18.この「太陽の卓」(10)は、次のようなものだと伝えられている。街を出たところに草原があり、ここにあらゆる種類の四足獣の肉を煮たものが所狭しとおかれている。これは、街公認の係員が夜のあいだに肉を草原に配置しているのだ。そして昼のあいだは誰でも欲しければ行って好きなだけ食べる。この肉は、土地の往民の云うところでは、大地によって常にもたらされる産物なのである。これが太陽の卓に関する話である。

(10)この話は死者への捧げもの、またはこの地域が豊穣の地であることを示しているのだろう。ホメロスには、神々がエチオピア人と饗応したという寓話がある。

19.ところでカンビュセスは、スパイを送ることに決めると、エチオピア語を解するイクティオパゴイ人をエレパンティネの街から呼び寄せた。

使者がこの者たちを呼びに行っている間に、カンビュセスは船団をカルタゴに向けて出航させようとした。しかしフェニキア人たちは出航したくないと云った。彼らのいうには、自分たちは堅い誓約に縛られていて、みずからの血筋に繋がる者たちに向けて出航することは神意にそむくことだというのである。フェニキア人が嫌がっているなら、残りの軍では軍勢が不足することになる。

かくしてカルタゴはペルシャに隷属することを免れたのである。というのも、フェニキア人はみずから進んでペルシャに臣従してきた民族であることや、ペルシャの全艦隊はフェニキア人に大きく依存していることもあって、カンビュセスはフェニキア人に無理強いすることは避けたいと考えたからである。また、キプロス人も進んでペルシャに服従し、エジプト遠征に加わっていた。

20.カンビュセスの呼び出しに応じてイクティオパゴイ人がエレパンティネから到着すると、かれはエチオピアでの口上を彼らに指示し、紫の外套や黄金でできた螺旋状の首飾りと腕輪、雪花石膏で造った香油壺、椰子酒用の瓶などの贈物をもたせて、エチオピアヘ送りだした。カンビュセスが使いを送ったエチオピア人というのは、どの民族よりも背が高く、容姿も美しい民族だといわれている。

彼らの慣習はほかの民族と異なる点が多いといわれているが、なかでも王を決めるやり方はほかの民族と違って独特である。国中で最も背が高く、かつその背丈に応じた力強さを備えている者を、王にふさわしいと考えているのである。

21.さてイクティオパゴイ人一同がこの国へ着くと、その国王に贈物を献上し、口上を述べた。

「ペルシャ王カンビュセスは、貴殿と親交を深め、かつは同盟締結を望んでおり、そのためにわれらを遣わされてござる。これなる献上品は、われらが王みずからが愛用しておる品々でござる」

しかしエチオピア王は彼らがスパイとしてやって来たことを見抜き、こういった。

「ペルシャ王は予と親交を深めることに重きをおいて、そなたらに進物を託したのではなかろう。またそなたらはわが国情を探るために来たのであるゆえ、真実を語っておらぬ。であるから、かの男も正義漢とはいえぬな。かの男が正義の士であるなら、自分の領土のほか、むやみに領土を望むことはせぬはずであろうし、何ら危害を加えておらぬ民を隷従させるようなことはしなかったはずである。そこでじゃ、この弓をあの男に届け、こう云ってやれ。

『エチオピア王はペルシャ王に勧告する。ペルシャ人がこの大弓を、予と同じように易々と引けるようになったのち、われらに優る大軍をもってこのエチオピア長命族を攻めるべし。しかしそれまでは、エチオピアの子らに他国の領土を望む気持ちを起さぬようにし給う神々に感謝せよ。』

とな」

22.こう云ってエチオピア王は弓をゆるめ、それを使者たちに与えた。それから紫の外套を手に取り、これは何か、またどのように造るのかを訊ねた。イクティオパゴイ人が色のことや染色のやり方について偽りのないように説明したところが、王は、ペルシャ人は人間も衣装もまがいものだといった。

王は次に首飾りと腕輪などの螺旋状の黄金の品について訊ねたので、イクティオパゴイ人がそれらの使用法を説明すると、王は笑いだし、それを足枷だと思っていたので、我らの国にはこんな物よりもっと強靱な鎖があるといった。

三番目にかれは香油について訊ね、使者がその製法と使用法を話すと、王は外套について語ったのと同じことを繰り返して口にした。ところが酒のことが話題になり、その製法を訊ねた王は、この飲み物が大変気に入り、お前たちの王は何を食べているのかと重ねて訊ねた。またペルシャ人は最も長くてどれほど生きるのかとも訊ねた。

使者は王が食しているのはパンであると答え、小麦がどのように育つかを説明し、またペルシャの最高年齢は八十年であるといった。するとエチオピア王がいうには、糞のごとき汚らしい物(11)を食していては寿命が短いのも道理である。この飲み物で心気を養わねば、ペルシャ人はそれだけの年も生きることはできまいと、イクティオパゴイ人に酒を指さしながらいった。酒に関してはエチオピア人よりもペルシャ人の方が進んでいると王はいったのだ。

(11)下肥によって育つ穀物のこと。

23.そのあと、イクティオパゴイ人がエチオピア人の寿命や食餌について質問すると、王は、自分たちの多くは百二十歳に達し、これを越える者もいることや、茹で肉を喰い、乳を飲んでいると答えた。

スパイたちが年齢の話に驚いていると、王は彼らをある泉に案内したのだが、ここで沐浴すると、油に浸かったように肌が艶やかになり、泉はスミレの芳香を発していたという。

水はとても軽い、とスパイたちはいうのだが、これに浮くものは何もないほどで、木でさえも、木より軽いものも浮くことはなく、あらゆる物が水底に沈むといった。その水が真実彼らの云うとおりのものであるなら、この水を常用していることで彼らが長命なのかもしれない。

その後、王は泉をあとにして彼らを牢獄に案内したが、ここではすべての囚人が黄金製の足枷をつけられていた。エチオペアでは青銅が最も希少で高価なのである。牢獄を見たあと、スパイたちはいわゆる太陽の卓も見物した。

24.太陽の卓を見たあと、最後に彼らが見たのはエチオピア人の棺で、これは次に説明するように、雪花石膏(ヒュアロス=水晶?)で造られる。

彼らは遺体を乾燥させるのだが、これはエジプト式そのほかの方法で行なう。そのあと、これを石膏で堅め、その上に死者の生前の姿そっくりな絵を描く。

それから中をくりぬいた柱状の雪花石膏の中に遺体をおさめる。雪花石膏は豊富に採掘され、細工しやすいものである。石柱におさめられた遺体は石材を通して透きとおって見え、悪臭はなく、不快をもよおすこともない。そして生前そのままの如く遺体の隅々まではっきり見える。

この石柱は、死者に最も近い親族の者が自分の邸に安置し、初物や生贄を捧げる。そして一年後には柱を運び出し、街の周囲に立てるのである。

25.すべてを見終えてスパイたちは帰って行った。そして報告を一部始終聞いたカンビュセスは怒りをつのらせ、すぐさまエチオピアに向けて出陣したが、それは兵站を準備する命令もなく、地の果てに軍を進めようとしている覚悟もなく、行なわれた。

カンビュセスは正気を失い発狂したようになって、イクテユオパゴイ人の報告を聞くや否や、ギリシャ人部隊にはその場に待機させ、全陸軍を率いて出陣したのである。

進軍してテーベに着いたとき、かれは自軍から五万を引き抜き、この部隊には、アンモン人を服従させ、ゼウスの神託所を焼き払うことを命じた。そしてみずからは残りの部隊を率いてエチオピアヘ向った。

ところが軍が行程の五分の一も進まぬうちに、準備していた食糧は底をつき始め、食糧がなくなったあとは貨物輸送用の動物も食べ、それも尽きようとしていた。

もしカンビュセスがこれに気づき、方針を変えて軍を引き返していたなら、最初に失策を冒したとはいうものの、かれは賢明な人物だっただろう。しかしかれはこの事態を考慮せず、そのまま前進したのであった。

兵士たちは地面から手に入るものがある間は、草を食べて命をつないでいたが、砂漠地帯にやって来ると、恐ろしいことをやってのける者が出てきた。それは、十人でくじ引きしてひとりを選び、その人間を食べたのである。

これを聞いたカンビュセスは、軍が共食いを起こすことを恐れ、エチオピア遠征を中止してテーベに引き返した。そのときには多数の兵士を失っていた。そしてテーベからメンフィスに下り、ギリシャ人部隊には出航させ、帰国させた。

26.エチオピア遠征の次第はかくのごとくだった。一方、アンモンに進軍した者たちは道案内を伴ってテーベを出発した。そしてオアシスの街(12)に到着したことはわかっている。このオアシスの街はアイスクリオニア族というサモス人が住んでいて、テーベから砂漢を越えて七日の行程のところにある。この場所はギリシャ語では祝福の島と呼ばれている。

(12)オアシスは単に樹木の生育している場所のことをいうが、ヘロドトスは固有名詞として使っている。これは彼が云うように、テーベから七日の行程にあるハルガの「大オアシス」のことである。

分遣隊がここまでやって来たことは伝えられている。それ以後のことについては、アンモン人自身および彼らから聞いた者以外、誰も知らない。この部隊はアンモンに到着していないし、引き返してもいないのである。

アンモン人の云うことはこうだ。ペルシャ軍はオアシスの街を発って砂漠の向こうのアンモンに向ったが、アンモンとオアシスの中間あたりで、朝食の最中に猛烈な南風に見舞われ、これが大量の砂を運んできて彼らを生き埋めにしてしまい、見えなくなってしまったのだという。これが、アンモン人の伝えるところである。

27.さてカンビュセスがメンフィスに帰り着いたころ、ギリシャ人がエポパスと称している聖牛アピス(13)がエジプトに出現した。アピスが出現するとエジプト人は早速一番の晴れ着を着て祝祭を開いた。

(13)第二巻三十八節

このようなエジプト人の振る舞いを見たカンビュセスは、彼らが自分の失敗を喜んでいると思い込み、メンフィスの役人たちを呼びよせた。役人たちが出頭すると王は、以前に自分がメンフィスにいた時、彼らはこのようなことはしなかったのに、軍の多くを失って帰ってきたときに合わせてこんなことするのはなぜかと訊ねた。

役人たちが返答するに、久しい期間をあけぬと現れない神がいま現れたことや、この神が現われると、エジプト人は国をあげて狂喜し、祝祭を開催することを説明した。これに対してカンビュセスは役人が偽りを申し立てているといい、虚言を弄したとして彼らを死罪に処したのである。

28.役人たちを死刑に処したあと、カンビュセスは次に司祭たちを自分の前に呼び出した。司祭たちが役人と同じ答え返すと、王は、人に馴れた神がエジプトに来ているかどうか、自分が確かめてやると云い、司祭たちにアピスを連れてくるよう命じた。

そうして司祭たちは牛を連れにいった。さてこのアピスあるいはエパポスというのは、二度目は妊娠できない牝牛から生れた仔牛のことである。エジプト人の伝えるところでは、その牝牛は天空からの光によって妊娠し、アピスが生まれるというのである。

アピスと呼ばれるこの仔牛には次のような特徴がある。これは黒牛だが、眉間には四角の白い斑点があり、背中には鷲に似た斑点があり、尻尾の毛は二重になっていて、舌の上にはカブト虫ようなものがある。

29.司祭たちがアピスを連れてくると、いくぶん狂気じみているカンビュセスは、短剣を引き抜くと、アピスの腹を突き刺そうとしたが、狙いがはずれて太股を刺してしまった。そこで笑いながら、この王は司祭たちに向って云った。

「お粗末なヤツめ。お前たちの神は、肉も血もあり、刃物で切られて反応するのか?エジプト人には、このような神がふさわしいだろう。だがお前たち、予を笑いものにしたお前たちは、無事では済まさぬぞ」

こう云ってかれは係りの者に命じて司祭たちを鞭打の刑に処し、また祭を祝っているエジプト人を見つけたときには、誰彼なしに殺せと命じた。

こうしてエジプト人の祭は終わり、司祭たちは処罰され、太股を切られたアピスは神殿の中で横たわり、死にかけていた。やがてアピスはその傷のために死んだが、司祭たちはカンビュセスに知れないようにして、これを埋葬した。

30.エジプト人のいうには、この邪悪な所業が報いとなって、その直後にカンビュセスは発狂したという。もっともそれ以前から、かれは正気ではなかったのだが。かれの最初の悪業は、同じ父母から生まれた実弟のスメルディスを死に追いやったことで、カンビュセスは嫉妬心から弟をエジプトからペルシャヘ送り返したのだったが、その理由は先にイクティオパゴイ人がエチオピアから持ち帰った弓を、ほかのペルシャ人が誰ひとり引くことができなかったのを、スメルディスだけがニダクテュロスほど(四糎)引けたからだった。

さてスメルディスがペルシャに去った後、カンビュセスは寝ている間に夢を見た。それは、ペルシャから使いがきて、スメルディスが王の玉座に坐り、その頭が天に触れている、と知らせる夢だった。

カンビュセスは弟が自分を亡き者にして王位につくのではないかと疑って自分の身を案じ、弟を殺害するべく、一等信頼できるプレクサスペスというペルシャ人を本国へ送った。そしてこの男はスーサヘ上ってスメルディスを殺したのだが、ある者は狩に誘い出して殺したとも云い、またある者は紅海(14)へ連れ出して溺死させたとも伝えている。

(14)紅海(Ἀράβιος κόλπος = Aravios kolpos;アラビア湾)ではなく、おそらくペルシャ湾である。ヘロドトスはペルシャとアラビア間の湾を知らなかったことがわかっている。

31.これがカンビュセスの悪業の数々の最初だと云われている。そして第二は、エジプトについてきた妹をあやめたことで、彼女はカンビュセスの妻でもあり、またおなじ両親から生まれた妹でもあった。

かれが妹と結婚したやり方はこうである。ペルシャではそれまで、自分の姉妹と結婚するという習慣は全くなかった。ところがカンピユセスは自分の姉妹の一人に恋心を抱き、この妹を妻にしたいと思ったのだが、それはペルシャのしきたりに叛することなので、王室の法官(15)を呼び、姉妹を妻にすることを認める法律がないかと、下問した。

(15)七人いた:エステル記第一章十四節を参照。

ここで、王室法官というのは、ペルシャ人の中から選ばれた者たちで、死ぬまで、あるいは何らかの不正が露見するまで、その職についている。彼らはペルシャ国内の訴訟を裁き、国の法律を解釈し、あらゆることが彼らに委ねられているのである。

この諮問に対して法官たちは、当たり障りなく、わが身の安全を図る抜け目ない返答をした。すなわち兄弟と姉妹の婚姻を認める法律は見いだせないが、ぺルシア王は、望むことは何ごとであれ許されるという法律があると返答した。

法官たちはカンビュセスを怖れ、以上のごとく法を破りはしなかったものの、法を守ることで自身の死を免れるために、姉妹との婚姻を望む者に都合のよい別の法を見つけ出したのである。

かくてカンビュセスは望みの女と結婚したのだが、その後間もなく、また別の姉妹を妻にした。カンビュセスについてエジプトにゆき、殺されたのは、このうち若い方の妻である。

32.この女の死については、スメルディスの場合と同じく二通りの話が伝わっている。ギリシャ人の説では、ある時カンビュセスがこの女の見ている前で、子どものライオンを仔犬と闘わせたのだが、仔犬が負けそうになったとき、その兄弟犬が革紐をひき千切って助太刀し、二頭の犬が仔ライオンに勝った。

カンビュセスはこの光景を見て喜んだが、そばにいた女はすすり泣いた。それに気づいたカンビュセスが、泣いた理由を女に訊ねると、女は、仔犬が兄弟犬を助けたのを見て、スメルディスのことを思い起こし、かれには報復を遂げてくれる者がいないことを思って泣いたのだと云った。

ギリシャ人の話では、こう云ったことで彼女はカンビュセスに殺されたという。しかしエジプト人の話では、二人が食卓についているとき、その女がレタスを持ってその葉をむしりとり、夫に向って、葉があるのとないのとでは、どちらが見栄えがよいかと訊ねた。かれが「葉のあるほうだ」と答えると、妻はそれに答えて、

「でもあなたはキュロス一家をこのレタスと同じように丸裸にしておしまいになりましたわね」と云った。

これに怒ったカンビュセスは身重の妻に飛びかかり、そのために女は流産し、命を落としたという。

33.カンビュセスが自身の家族に向けた気違沙汰の行ないは、このようなことだったが、その元となったことが果してアピスのことだったのか、あるいは人間に降りかかるさまざまなもめ事の果てだったのであろうか。実のところ、カンビュセスは生れつき神聖病(16)と呼ばれている重い病気を持っていたと云われている。それゆえ、身体が重い病気にかかっているなら心もまた病むことは、あり得ないことではない。

(16)癲癇

34.そのほか、かれがペルシャ人に行なった理不尽な悪業を話してみよう。かれが特に重用しているプレクサスペスという人物に向けて、次のことを云ったと伝えられている。このプレクサスペスは奏者番を勤めており、息子はカンビュセスの酌取小姓だった。さてカンビュセスがプレクサスペスに云ったこととは、

「プレクサスペスよ、ペルシャ人は予をどのような人間だと思っておろうか、また予のことをどんな風に話しておるかのう」
「されば、」とプレクサスペスが答える。
「ほかのすべてのことでは国民はお上を大いに褒めたたえておりますが、ただ御酒(ごしゅ)が過ぎるのではないかと申しております」

かくのことくプレクサスペスがペルシャ人のことを報告したところ、王は怒りを露わにして云った。
「なに?予が酒に溺れて狂乱し、乱心しておるとペルシャ国民が噂しておるのだな。それではやつらが以前云っておったことも偽りだったことになるな」

それというのも、これ以前に幾人かのペルシャ人がクロイソスとともに王と同席していたとき、カンビュセスが、父キュロスと比べて自分をどのような人間だと思うかを訊ねたことがあった。同席の者たちが答えるに、
「カンビュセスはキュロスよりも優れている。なぜと云うに、かれはキュロスの領土をすべて掌握し、それに加えてエジプトと海をも手に入れたのであるから」と答えた。

ペルシャ人たちはこう云ったが、居合せたクロイソスはこの判断に不満で、カンビュセスに向ってこう云った。
「キュロスの御子よ、みどもの見るところ、貴殿はまだ父上と肩を並べるには至っておられぬように存ずる。なんとなれば、父上は貴殿という跡継ぎを残されましたが、貴殿はまだ貴殿のごとき御子息をお持ちではありませぬゆえに」
この言葉はカンビュセスを喜ばせ、かれはクロイソスの判断を褒めそやしたという。

35.カンビュセスはこの時のことを思い出して怒り、プレクサスペスに向って云うには、
「ペルシャ人どもの云うことが真実か、それともそのようなことを口にしている彼らの方が狂つているのか、わからせてやろう。そこの戸口に立っておるお前の伜のことだ。もし予があの倅の心臓を射抜いたなら、ペルシャ人どもの云うことが間違っている証じゃ。射損じたときには下々の云うことが真実で、予の気が狂っていると云うがよい」

こう云いながら、王は弓を引きしぼって少年を射た。そして倒れた少年の身体を切り開いて傷口を調べさせ、矢が心臓を射貫いていることがわかると、カンビュセスは大喜びして笑い、少年の父親に向って云った。

「プレクサスペスよ、予が正気で、国民が狂っておることが、これではっきりしたであろう。世界中でこれほどまでに的を正確に射貫く男を見たことがあるか、云ってみろ」

カンビュセスの気が狂っていることに気づいたプレクサスペスは、自身に降りかかる災いを怖れてこう返答したという。
「神といえどもこれほど見事に射られることはないものと存じます」

カンビュセスの振る舞いはかくの如くだった。また別のときには、国内で一番高貴な者に匹敵する地位のペルシャ人十二人を些細な罪で捕らえ、逆さ吊りにして生き埋めにしたこともあった。

36.このような王の振舞いに対して、リディア人のクロイソスは王に諌言すべきと考え、こう云った。

「殿、何事につけ、血気にはやり激情に身をまかせられてはなりませぬぞ。どうか自制、自重なされませ。分別こそは賢明なることであり、先見の明は賢者の証にござる。しかしながら殿は些細な咎によってご自身の臣民を殺め、年端のゆかぬ少年の生命まで奪っておられます。

かくなることがたび重なれば、ペルシャ国民はやがて殿に謀叛を企てることにもなりましょう。そしてみどものことを申せば、殿の父上キュロス様から早くに、よかれと思うことは何なりと忠告し、助言するよう、切に頼まれておったからにござる」
クロイソスは善意から、このように忠告したのだが、カンビュセスはこう返答した。

「汝、ずうずうしくも予に忠告するとは大変結構なことよ。お主は自分の国をうまく治め、またわが父にはご立派な助言をしてくれた。すなわちマッサゲタイ人がアラクセス河を渡ってわが国に攻め来たったとき、こちらから河を渡って奴らを攻めるがよいとな。その結果、お主は国の統治を誤り、お主を信用したキュロスも破滅してしまった。もう勘弁ならぬ。予は長い間お主を処分する機会を待っておったのじゃ」

こう云いながらカンビュセスは弓をつかんでクロイソスを射殺そうとしたが、クロイソスはすばやく部屋の外へ走って逃げ出した。射抜き損じたカンビュセスは、かれを捕らえて殺せと従者たちに命じた。

ところが王の気質を心得ていた従者たちはクロイソスをかくまっておいた。カンビュセスが後悔してクロイソスを求めるようになったときには、かれを表に出し、命を救ったことによる恩賞を得るつもりだったし、またもし王が後悔せず、クロイソスを元に戻す気を起こさないのであれば、その時にはそのリディア人を殺すつもりだったのである。

実際、間をおくこともなくカンビュセスはクロイソスを慕うようになった。このことに気づいた従者たちは、クロイソスが生きていることをかれに告げた。するとカンビュセスは、それは嬉しく思うが、クロイソスを生かしておいた者どもは処罰はまぬがれぬ、死罪に処すと云い、その言葉どおりに実行したのであった。

37.カンビュセスはかくのごとき狂気の振る舞いをペルシャ人や同盟国民に対して数多く行なった。たとえばメンフィスに滞在中においても、古い墓をあばいて死骸を検分するなどということも行なっている。

またかれはヘパイストスの神殿に入り、そこに安置されている神像を愚弄したりしている。それは、このヘパイストスの神像が、フェニキア人が使用している三段櫂船の船首に備えつけられているパタイコイ(17)というフェニキアの神によく似ていたからである。パタイコイの像を見たことのない人のために説明すると、それは小人に似ている像である。

(17)ギリシャ人がフェニキアのパタイコイ(Πατάικος = Pataikos)というのはエジプトのプタ神のことで、これをギリシャ人はヘパイストスといい、小人の姿をしている。

カンビュセスは、司祭以外の者は立入ることが禁止されているカベイロイの聖廟にも入り込み、その神像を痛烈に嘲ったあげく、焼き払うということまでしている。このカベイロイの像もヘパイストスの像に似ていて、それはヘパイストスの子であると云われている。

38.さてそこで、どうみてもカンビュセスは極度に錯乱していたことが明らかだと私は考える。そうでなければ、信仰や慣習を愚弄することなど、誰も決してしないからである。実際、全ての国の習慣のなかで、どの国のものが一番かと訊いてみると、どの国の人々でも、考えた末に返ってくる答えが、自分の国の習慣だと云うに違いない。かくてそれぞれ自国の習俗が断然最良だと確信しているのだ。

だとすれば、宗教や習俗をあざけり、嘲笑するなどということは、狂人でもなければ考えられぬことである。誰でもが習俗についてこのような信念をもっていることは、さまざまな例から指摘できるが、そのひとつの証拠となる例をここにあげてみよう。

それはダリウスが王位にあったときのことである。国に来ていた幾人かのギリシャ人を呼び出し、かれは諮問した。どれほどの金をもらえば父親の死肉を食う気になるかと。そこで彼らは、いくら金を積まれても、そのようなことはしないと返答したのである。

するとダリウスは、次にカラティアイ人(18)という、両親の肉を食う習慣をもつインドの部族を呼んで諮問した。このとき、先のギリシャ人を立ち会わせ、通訳を通して話の内容がわかるようにしておいた。そしてどれほどの金をもらえば死んだ父親を火葬にする気になるかと訊ねた。するとカラティアイ人たちは大声をあげ、そのような忌まわしきことを云ってくれるなと口々に叫んだのである。習俗というものは、このように根強いもので、ピンダロスの詩に、慣習こそ万物の王なり(19)、とあるのは全く正しいと私は考える。

(18)本巻九十九節;パダイオイ人を参照
(19)「νόμος ὁ πάντων βασιλεὺς θνατῶν τε καὶ ἀθανάτων= nomos o panton vasilefs thnaton te kai athanaton」プラトン作ゴルギアス(対話篇)中にある、ピンダロスの未知の作から引用。

39.さてカンビュセスがエジプトに遠征しているとき、スパルタもサモスに侵攻し、叛乱を起こしてサモスを支配していたアイアケスの子ポリクラテスを攻めた(20)。

(20)おそらくB.C.532

サモス統治の初期には国は三つに分けられ、兄弟のパンタグノトスとシュロソンとでそれぞれ統治していたのだが、その後かれはその一人を殺し、年下のシュロソンを国外に追放し、サモス全島の君主となったのである。そしてエジプト王アマシスと盟約を結び、互いに贈物を交換していた。

このあと、時をおかずしてポリクラテスの勢威は大きくなり、イオニアその他ギリシャ世界にその名が知れ渡るようになった。それというのも、かれの軍事作戦はすべて成功したからである。かれは五十櫂船を百隻、弓兵一干を擁し、所かまわず掠奪していった。

ポリクラテスが云うには、何も奪わずにいるよりも、奪ったものを返してやる方が、より以上に感謝されるものだと。かれは数多くの島を征服し、陸地でも多くの街を占領したが、そのうち特に注目すべきは、ミレトスのために全軍をあげて支援にきたレスボス軍を海戦で打ち負かしたことである。サモスの城壁全体をめぐる壕を掘ったのは、この戦いで捕虜となった者たちだった。

40.こうなると、アマシスもポリクラテスの大いなる幸運に気づくようになり、そしてその隆盛がますます大きくなってゆくのをみて、次のような書簡を書いてサモスへ送った。

「アマシスよりポリクラテス殿へ一筆参らせ候。盟友の事業の成功を耳にすることは嬉しきことにござる。とは申せ貴殿のあまりなご成功は小生の懸念するところにござる。かく申すのも、神々の嫉妬深きことを小生は知っておりまするゆえに。そこで、わが身も含め、小生が気に留めおかれおる人々については、万事に成功をおさめることよりも、成功としくじりをないまぜて人生を送るのが望ましいと存ずる次第にござる。

と申すのも、幸運を持ちつづけた者で、悲惨な最期をとげなかった例を、これまで小生は誰からも聞いたことがないゆえにござる。さればどうか小生の忠告を容れられ、貴殿のご成功に関して次のことをなさるがよろしかろうと存ずる。

すなわち、貴殿が何よりも大切に思い、失えばこの上なく悔やまれるものは何かをよくよくお考えの上、その品を決して再び人々の目にふれることのなきよう捨て去るのがよろしかろうと存ずる。そしてこれ以後も、成功としくじりがないまぜになることがないようであれば、小生の助言を実行なされて事態の修復を試みなさるがよろしかろうと存ずる次第にござる」

41.これを読んだポリクラテスは、アマシスの助言を良しとし、失えば一等心乱れる財宝は何かと考えをめぐらし、次の結論に至った。すなわち サモスのテレクレスの子テオドロスの作で、自分が指にはめている黄金の台にはめられたエメラルド製の印璽だった。

この指輪を捨て去る決心をすると、ポリクラテスは五十櫂船を用意させて船員とともに乗り組み、出帆を命じた。そして島から遠く離れたところで指輪を抜き取り、船上にいる全員の見ている前でこれを勢いよく海に投げ捨てた。そのあとは船を戻して屋敷へ帰り、失ったものを惜しんで悲嘆に暮れていた。

42.ところがそれから五、六日目に、ひとりの猟師がたまたま見栄えのよい大きな魚を捕まえ、これをポリクラテスに献上しようと考えた。そこでこの漁師は魚を持って王宮の門前へ行き、王に拝謁したい旨を告げ、それが許されると、その魚を献じていうには、

「王様に申し上げます。私はその日暮らしの一漁師でございますが、この魚をとりましたとき、これは市場へ持ってゆくよりも、王様と王様のご権勢にふさわしいと考え、ここに持参し献上いたす次第にございます」

ポリクラテスは漁師の言葉に喜び、
「お前は誠に良いことをしてくれた」
と言葉を返し、
「お前の言葉にも献上品にも、重ねて礼を言うぞ。しからば予の晩餐にお前を招いてやろう」
漁師はこの栄誉を誇りに思って家へ帰っていった。そして召使いたちが魚を開いてみると、その腹中にポリクラテスの印璽があるのを見つけたのである。

指輪を見つけて取りだすと、彼らは喜び勇んでただちにポリクラテスのもとへ持参して王に渡し、それを見つけたいきさつを語った。このようなことは神の意志によるものとポリクラテスは考え、自分のしたこと、そして自分に起きたことの一部始終を書き留めてエジプトヘ送り届けた。

43.ポリクラテスの書簡を読んだアマシスは、誰も人の運命を変えることはできないことを悟り、ポリクラテスが投げ捨てたものさえも見つけ出すというほどの幸運が続くのを知って、かれは最後には地獄を見るに違いないと見極めたものである。

そしてかれはサモスに使者を送り、盟約を破棄することを宣告した。それは、ポリクラテスが恐ろしくもひどい災難に見舞われたとき、その盟友のために、自分がひどい悲しみに襲われずにすむことを慮ったからである。

44.さて、スパルタ人が戦を仕掛けたのは、全てに勝利をおさめている、このボリクラテスだった。この遠征は、のちにクレタ島のキドニアに植民したサモス人の要請によるものだった。ちょうどその頃、キュロスの子カンビュセスはエジプト遠征に向けて軍を調えており、ポリクラテスはサモス人には知られぬようにして使者をカンビュセスへ送り、サモスにも使者を送り、援軍の要請をしてほしいと提案したのだった。

これの伝言を聞いたカンビュセスは、喜び勇んでエジプト遠征のための海軍を求める要請を使者にもたせてポリクラテスに送った。そこでポリクラテスは、自分に謀叛を企てている疑いの最も強い者たちを選び、四十隻の三段櫂船に載せて送り出し、カンビュセスには彼らを再び帰国させぬように依頼しておいたのだった。

45.ところが派遣されたサモス軍はエジプトには到着せず、航海の途中カルパトスまできたときに、仲間内で話し合った結果、それ以上船を進めないことに決めた、という説が伝えられている。そして別の説では、彼らはエジプトには達したが、監禁から逃れ、脱走したともいわれている。

彼らがサモスに帰航してきたところ、ポリクラテスは船を出して迎え撃ったが帰国組が勝利をおさめ、島に上陸した。しかし陸での戦には敗れたので、彼らはスパルタに向けて出航したのである。

ほかに、エジプトからの帰国者たちがポリクラテスを破ったという説も伝えられているが、これは私には本当とは思えない。彼ら自身にポリクラテスを上回る力があったなら、スパルタに援軍を求める必要はなかったはずである。そのうえ多勢の傭兵や自前の弓兵を擁しているポリクラテスが、帰国してきた少数のサモス人に敗れるというのは、どう考えても理屈に合わないことであるゆえ。

ポリクラテスは配下のサモス市民の妻子を集め、船をおさめる倉庫に監禁し、万一市民たちが帰国したサモス人に寝返ったときには、船の倉庫もろとも女子供を焼き殺すつもりでいたのだ。

46.ポリクラテスによって追放されたサモス人たちがスパルタに着くと、執政官たちの前に連れて行かれたが、そこで彼らは切迫している窮状を長々と述べたてた。すると最初の接見のときに、執政官が答えるに、話の始めのところは忘れてしまった、終わりの部分は理解できなかったと云った。

このあと二度目の接見に際して、サモス人たちは袋を持参し、何も云わず、ただ「袋にいれる粉がない」とだけ云った。これに対してスパルタ人は、「袋」( 21)は余計だと答えた。それでも彼らはサモス人の支援を決定したのだった。

(21)スパルタ人の云いたいことは「θύλακος = pocket」という言葉は不要で、「ἀλφίτων δέεται =alfiton deetai」と云うだけで充分ということだ。

47.そういうことでスパルタは準備を整え、サモスに向けて出兵した。このことは、サモス人の云うには、かつてスパルタがメッセニアと戦ったとき、サモス人が船隊を派遣してスパルタを支援した恩に報いるためだった。ただしスパルタ人の云うには、スパルタの出征はサモス人の要請によるものではなく、かつてスパルタ人がクロイソスのもとへ運ぼうとしていた混酒器と、エジプト王アマシスがスパルタに贈った胸甲が、サモス人によって掠奪されたことに報復するためだった。

この胸甲は、混酒器が掠奪される一年前にサモス人によって掠奪されたもので、麻の生地に、木綿糸による数多くの刺繍と黄金で装飾がほどこされているものだった。

驚くべきことに、これには三百六十本の極めて細い糸を撚り合わせた織り糸が使われていることである。にもかかわらず、その一本一本がはっきり見えるのだ。アマシスは、これと同種のものをリンドスのアテナにも奉納している。

48.サモス遠征に向けては、コリント人も一層熱心に協力した。というのはこの遠征の時代より一世代前、混酒器が掠奪されたのとほぼ同じ頃に、サモス人はコリント人に対しても悪辣な行為を働いていたからだった。

そもそもはキプセロスの子ペリアンドロスが、コルキュラの上流階級の子弟三百人を宦官にするために、サルディスのアリアテスのもとへ送ったことにある。その少年たちを引率していたコリント人がサモスに着いたとき、少年たちがサルディスヘ送られる理由を聞き知ったサモス人たちが、アルテミスの聖域に逃げ込むように少年たちに教えたのだ。

そして彼らはその哀願者たちを聖域から連れ出すことを許さなかった。 そこでコリント人は少年たちを食糧攻めにしようとしたが、これには祭りを催してサモス人が対抗した。この祭りはいまでもその当時と同じようにサモスで開かれているものである。すなわち少年たちが庇護を求めている間は、夜になると少年少女の舞踊を催し、彼らに胡麻と蜂蜜入りの菓子を持参させるという慣例をもうけた。これはコルキュラの少年たちに奪い取らせ、もって彼らの食糧にさせるためであった。

この行事は、少年たちを監視していたコリント人たちが彼らを残して立ち去るまで続けられた。その後、彼らはサモス人によってコルキュラヘ戻された。

49.ペリアンドロスの死後、コリント人とコルキュラ人とが友好関係にあったなら、この事件を理由にしてコリント人がサモス遠征に加担することもなかっただろう。しかしその島(コルキュラ)に植民地がつくられてからこの方、両国は同族でありながら互いに叛目しあっていたのである。このような事情から、コリント人はサモス人に対して遺恨を抱いていたのであった。

ペリアンドロスがコルキュラの上流階級の少年たちを選びだし、宦官にするためにサルディスヘ送ろうとしたのは、コルキュラに復讐するためだった。それというのも、コルキュラ人の方が先に彼に対してひどい悪事を働いていたからである。

50.ペリアンドロスが妻のメリッサを殺めたあと、この変事に加えてさらに別の惨事がかれにふりかかってきた。すなわちペリアンドロスにはメリッサとのあいだに二人の息子があり、一人は十七才、もう一人は十八才だった。

ある時彼らの母方の祖父で、エピダウロスの支配者プロクレスがこの二人を呼びよせ、自分の娘の息子たちであるゆえ当然のこと、ねんごろにもてなした。そして彼らが帰国するときに、プロクレスは彼ら送り出しながら次のように話しかけた。

「お前たちの母親を殺したのは誰だか知っているか?」

兄はこの言葉を全く気にかけなかったが、リコプロンという名の弟は、このおぞましい話に衝撃を受け、コリントに帰ってからは、母親を殺した張本人の父に自分から話かけることなく、父の話しかけには返事もせず、また問いかけにも答えようともしなかった。そこでペリアンドロスは怒りを募らせ、とうとう息子を邸から追い出してしまった。

51.この息子を追放したあと、ペリアンドロスは年長の息子に、祖父が彼らに話したことを聞いてみた。しかし息子は、プロクレスが親身になって接してくれたことは話したが、別れに際して祖父が話したことは全く気にしていなかったので、口には出さなかった。しかしペリアンドロスは、祖父が何か云ったに違いないといい、しつこく問い詰めた。

そこで息子もようやく思い出し、それを父に告げた。そして事情がわかったペリアンドロスは、弱気なところをみせまいとして年少の息子を住まわせていた者のところに伝言を送り、その息子を家におくことを禁じた。

そこから出された息子が別の家に行こうとすると、ペリアンドロスが息子を受け入れた者をことごとく脅かし、締め出すように命令したことで、そこからも追い出されるという始末だった。こうして息子は追い出されると次々に別の知人宅へ行った。それでも、ペリアンドロスの息子ということで、友人たちは怖れつつも彼を家に入れたのだった。

52.ついにペリアンドロスは布告を発し、息子を家にかくまったり、話しかけたりした者は、決められた額の罰金をアポロンに奉納すべしとした。

この布告が知れ渡ったあとは、誰ひとり息子に話しかけたり、家に入れようとしなくなった。息子は息子で、禁止されていることを犯すことが正しいことだとも考えなかったので、野宿することも厭わなかった。

四日目になり、腹をすかせ、身体も汚れたままの息子を見たペリアンドロスは憐れみを覚え、怒りが静まったのか息子に近づいて云った。

「息子よ、一体お前はどちらがいいのだ?今のような生き方か、それとも父に従い、ワシがいま握っている王位と富とを継ぐ方か。

ワシの息子すなわち、この栄えあるコリントの王子でありながら、このワシに寸分たりともしてはならぬこと、すなわちワシに叛抗して腹を立て、放浪者の生活を選びおってからに。と云うのもな、お前がワシに疑いの目を向けたことで何か不幸なことが起きたとしたなら、それはワシに関わる不幸で、ワシが受け止めるべきものなのだ。それはワシがしでかしたことゆえにな。

そこでじゃ、憐れみをかけられるよりは、羨まれる方がはるかにましなことだと肝に命じ、また親や自分より強い者に対して腹を立てることが、どんなに酷いことであるかをわきまえ、家へ帰ってこい」

このように云って、ペリアンドロスは息子の怒りを鎮めようとしたが、リコプロンは父にはひと言も答えず、ただ自分と話をしたからには父はアポロに罰金を払うべきだと云った。ペリアンドロスは息子の片意地をほぐすことも、抑えることできないことを見切り、かれを自分の眼の届かぬところに追いやろうとして、自分の支配下にあったコルキュラ島へ向けて、船で息子を送り出した。

息子を送り出したあと、このようなもめ事を大いに呪ったペリアンドロスは、その元になった岳父プロクレスに向けて軍を進めてエピダウロスを落とし、プロクレスを拘束した。

53.時は流れ、ペリアンドロスも盛りを過ぎ、もはや政務を取り仕切る力のないことがわかってきたので、コルキュラに使いを送り、リコプロンを呼び戻して君主につかせようとした。それというのも、年長の息子は知恵おくれのため、その任に堪えないことが明らかだったからである。

しかしリコプロンはこの話に対してもあえて返答しなかった。それでもペリアンドロスはこの若者にこだわり、次善策として自分の娘である息子の姉を使いに送った。姉の云うことなら耳をかすだろうと考えたからだった。そして姉が到着して説得した。

「リコプロンや、お前は国に帰って父の王位や資産を受け継ぐよりも、それが他人のものになり、また資産が奪われることになった方がよいというのかい?さあ、家へ帰るのです。そしてわが身をとがめ立てするようなこともやめなさい。

自尊心などというものは災いの元ですよ。災いを別の災いで癒してはなりません。多くの人は正義よりも道理を優先しています。また母の権利を追い求めた挙げ句、父の権利を失う人も多くいるのです。権力というものはうつろいやすいもので、多くの人がこれを欲しがっています。父も今は年老いて盛りを過ぎています。ですからお前が受け取るべきお宝を他人に渡してはなりません」

このようにして姉は父の指示通りに語りかけた。それでもリコプロンは父が生きていることがわかっているあいだは、決してコリントヘは帰らないと言い張った。

この返答を姉が持ち帰ると、ペリアンドロスは三度目の使者を送り、自分がコルキュラに移る代りにリコプロンがコリントに帰って王位を継ぐようにと、伝えさせた。

そして息子がこの提案を受け入れたので、ペリアンドロスはコルキュラヘ、リコプロンはコリントヘ旅立つ支度をしていた。ところがこのことを知ったコルキュラ人は、ペリアンドロスが自国にやって来るのを阻止するために、この若者を殺害したのである。このような事情により、ペリアンドロスはコルキュラ人に報復することをもくろんだのである。

54.スパルタは大軍でおしよせ、サモスを包囲した。彼らは城壁にとりつき、街の外側の海辺に立つ城楼に侵入したが、ポリクラテス自身が大軍をもって迎え撃ち、彼らを撃退した。

傭兵とサモス兵たちは丘の尾根に聳える城楼から出撃したが、スパルタ軍の攻撃に耐えたのはわずかの時間で、退却して逃げ出したが、スパルタ軍に追いつかれて殲滅してしまった。

55.この日、その場所にいたスパルタ軍の全兵士が、アルキアスやリコパスのごとき働きをしていたなら、サモスは陥落していただろう。このアルキアスとリコパスというのは、ただ二人して敗走するサモス人の群れとともに城壁内に突入したのだが、退路を絶たれてサモス市内で討ち死にしたのだった。

私はかれの出身地区ピタナ(22)において、アルキアスの孫でサミオスの子になる同名のアルキアスに会ったことがある。かれは、その盟友の中でもサモス人を第一に尊敬していて、父の名がサミオスと名づけられたのは、父のアルキアスがサモスにおいて武勇を立てて討死したことによるのだと話してくれた。またかれがサモス人を尊敬するのは、サモス人が祖父を国葬してくれたからだと語ってくれた。

(22)スパルタの一地区。ヘロドトスはアッティカ方言で「δῆμος = dimos」と呼んでいるが、ペロポネソス方言では「κώμα = coma」となる。

56.スパルタ軍のサモス攻城は四十日におよんだが、うまく攻略できなかったのでぺロポネソスヘ引き上げていった。

ここにバカげた説が流布していて、それによれば、ポリクラテスは鉛の硬貨に金箔を貼って土地の通貨に似せたものを多量に造らせ、これをスパルタ軍に与えて軍を退かせたというのである。ともかくも、これはスパルタのドーリス族がアジアに遠征した最初の例であった(23)。

(23)これは最初にあらず。ラコニアの定住者たちによる遠征が最初で、この国のアカイア族がトロイ戦争に加担したことが最初である。

57.スパルタ軍がサモスの攻撃をあきらめると、ポリクラテスの討伐にやって来たサモス人たちもシプノスに向けて海路去って行った。

それは彼らが資金に困っていたからで、その当時シプノス人は殷賑をきわめており、その島に金と銀の鉱山があったため、島嶼の中でも一等富裕だったのである。そして鉱山の収益の十分の一を費してデルフォイに献納した宝物殿は、この上なく見事なものだった。そして彼らは毎年の収入を自分たちで分け合っていた。

彼らが宝物殿を築造したとき、自分たちのいま現在の繁栄が永く続くかどうか、神託に問うた。下された巫女の託宜は次の通りだった。

  シプノスの公会堂が白くなり、
  市場の眉も白くなるとき、
  その時こそ明敏なる者、要り用となれり。
  木の軍勢と紅の使者とを警戒すべく。

しかしその当時、シプノスの市場と公会堂はパロス産の大理石で装飾が施されていたのでる。

58.託宣が下されたときも、サモス人がやって来たときでも、彼らはこの託宜の意味がわからなかった。そしてサモス人たちはシプノスに近づくや、ただちに船団のなかの一隻に使節をのせ、街へ行かせた。

その昔、船はすべて朱に(24)塗られていた。巫女が木の軍勢と紅の使者を警戒せよとシプノス人に注意を促したのは、まさにこの時のことを云っていたのだ。

(24)「ιλτοπάρῃοι = miltoparioi=船首が赤く塗られている船」はホメロスにおける船の別称。

使節一同は十タラントンの借金をシプノス人に願い出たが、シプノス人がそれを拒むと、サモス人はシプノスの領地を荒らしまわった。

これを知ったシプノス人は、ただちに排撃に向ったものの合戦に敗れ、多数の兵士がサモス人によって街の外におき去りにされてしまった。その後、サモス人は彼らから百タラントンを徴発する次第となった。

59.そしてサモス人はヘルミオネ人からペレポネソスに近いヒドレアという島を一つ買い取った。彼らはこの島の管理をトロイゼン人に任せ、みずからはクレタ島のキドニアに住みついた。とはいえこれが目的で船出したわけではなく、ザキントス人を島から追い出すのが目的だったのである。

サモス人はここに五年留まって繁栄をきわめ、現在キドニアにあるいくつかの聖廟や女神ディクティナの聖廟を建立した。

しかし六年目になって、アイギーナ人とクレタ島人とが海戦によってサモス人を撃破して支配した。そして彼らはサモスの艦船から、猪をかたどった船首を切りとり、アイギーナのアテナ神殿にこれを奉納した。

アイギーナ人がこのような行動を取ったのは、サモス人に対して恨みを抱いていたからである。それはアンピクラテスがサモス王だった頃、彼らが船を出してアイギーナを攻撃し、住民に多大な損害を与え、彼らもまた傷ついたことがあったのである。これがそもそもの発端だった。

60.さて私がかくも長きにわたってサモス人のことを語ってきたのは、彼らがギリシャ世界の中で右に並ぶもののないほどの偉大な事業を三つも成し遂げているからである。その最初のものは、百五十ファゾム(二千七百米)の高さがある山の両端から穿ったトンネルである。

トンネルの長さは七スタデイア(一千三百米)で(25)、高さと幅はそれぞれ八フイート(二百四十糎)である。このトンネル全体には深さ二十 キュービット(九米)、幅三フィート(九十糎)の水路が掘られていて、この水路によって豊富な水源からの水を導き、サモスの街まで水管によって流している。

(25)この工事の遺跡からは、トンネルの長さは三百三十米しかないことがわかっている。

この工事を監督した技師はナウストロホスの子エウパリノスというメガラ人だった。これが三大事業の一つである。二番目は、港を取り巻いて海に築かれた防波堤で、深さは二十ファゾム(三十六米)、全長はニスタディア(三百六十米)以上に達する。

サモス人の成し遂げた三番目の事業というのは、我らの知っている神殿の中でも最大のものである。最初の建造技師はピレスの子ロイコスというサモス人だった。私がサモス人について長すぎるほどに詳しく話をしたのは、彼らがこのような大事業をやり遂げたからである。

61.さてキュロスの子カンビュセスが依然としてエジプトにとどまり、正気を失ってしまったあと、二人のマゴス僧(*)兄弟がかれに叛旗を翻した(26)。そのうちの一人は、カンビュセスが王家の管理をまかせて国に残していた人物だった。この男は、スメルディスの死が公表されていないためにそれを知る者がほとんどおらず、多くの者がかれはまだ生きていると信じていることがわかり、謀叛を起こしたのである。

(*)夢占いをするペルシャ僧
(26)この話は本巻三十八節の繰り返しである。

そこでこのマゴス僧は王位を奪うための計画をたてた。かれには兄弟がひとりいて、これが今いった叛乱の共謀者だった。この男はその容貌が、カンビュセスが殺害したキュロスの子スメルディスにそっくりで、のみならずその名も同じスメルディスといった。

このマゴス僧パティゼイテスは、自分が万事うまくとりはからってやるといって弟を説き伏せ、かれを連れていって玉座に坐らせた。そうしておいて全国に使者を送り、特にエジプトヘ送った使者には、軍隊に対して今後はカンビュセスではなくキュロスの子スメルディスの命に従うべきことを通達させた。

62.かくてこの布告は津々浦々に伝えられた。エジプトに派遣された使者たちは、カンビュセスとその軍がシリアのアクバタナにいることを知るや、そこにゆくと全軍の前に立ってマゴス僧から命ぜられた伝言を通告した。

使者の語るところを聞いたカンビュセスは、その言葉を真実だと察するとともに、スメルディス暗殺のために送り出したプレクサスペスがその任を果たさず、自分を裏切ったものと考えた。かれはプレクサスペスを睨みつけて云った。

「プレクサスペス、ワシがお前に命じたことの結果がこういうことなのか?」

「いいえ」、とプレクサスペスが答えていう。
「弟君スメルディス様が殿に謀叛を起されたというのは、偽りにござりまする。あのお方が事の大小を問わず殿に諍いを起こすことなどできるはずがございません。この私めが自ら殿のご命令を果し、この手であの方を葬ったのでありますゆえ。

かりに死人でも謀叛を起せるのであれば、かのメディア人アステアゲスも謀叛を起こすことに思いを致さねばなりませぬ。しかしながら物事が以前通りに運ぶものであるなら、スメルディス様が殿に危害を加えることなど断じてござりませぬ。そこで私が考えますには、あの使者を追いかけて連れ戻し、スメルディスへ臣従せよとの通告を持ってきたのは誰の指示によるのかを問いただすべきかと存じまする」

63.プレクサスペスの言葉にカンビュセスも同意し、すぐさま使者が呼び戻された。戻ってきた使者にプレクサスペスは訊いた。

「やい、お前の伝言はキュロスの子スメルディス様からのものだと云いおったな。では訊くが、無事に帰りたいと思うなら、正直に返答するがよい。スメルディス様がお前の目の前でじきじきに指図なさったのか、それとも従者がお前に命じたのか、どちらだ?」

「カンビュセス王がエジプト遠征に出陣なされて以来、」
と使者が答える。
「みどもはキュロスの御子スメルディス様のお姿を一度も見かけたことはありませぬ。この布告を申しつけられたのは、カンビユセス様がお邸の差配に任せられたマゴス僧で、このことをあなた方に伝えるよう命ぜられたのは、キュロスの御子スメルディス様だと云われました」

使者が真実をありのままに答えると、カンビュセスが云った。
「プレクサスペス、お主は命じられたことを忠実に果したようだな。ゆえにお主に対する疑いは晴れたぞ。しかしながら、スメルディスの名を騙ってワシに刃向かうことのできるペルシャ人とは、一体何者であろうな?」

プレクサスペスがいう。
「殿、みどもにはこの件の真相がわかったかと存じまする。謀叛を起したのは、殿がお屋敷の執事に命じられたマゴス僧のパティゼイテスで、もう一人は奴の弟スメルディスかと存じまする」

64.スメルディスの名を聞いたそのとき、その言葉と夢の意味する真相を悟ったカンビュセスは衝撃を受けた。それは、スメルディスが玉座に坐り、その頭が天に触れたと告げた夢のことだった。

そして無闇に弟を殺したことに気づいたカンビュセスは、スメルディスのことを思って激しく嘆き悲しんだ。そして涙を流したあと、また自分のあれこれの不幸を思って悲嘆にくれたあとは、ただちにスーサにいるマゴス僧を討伐しようとして馬にとび乗った。

ところが馬にとび乗ったそのとき、剣の鞘袋がはずれ落ち、剥き出しになった刃がかれの太股を突き通してしまった。それはかつてエジプトの神アピスを傷つけたのと同じ箇所だった。そしてその傷が命取りになるものと見切ったカンビュセスは、今いる街の名を訊ねた。

彼らはアクバタナだと答えた。実はそれ以前に、かれはアクバタナで人生の最期を迎えるというブドの街からの予言を聞いていたのだった。カンビュセスは自分の本拠であるメディアのアクバタナで年老いてから生を終えるものと思っていたが、予言が示していたのは、実はシリアのアクバタナだったことになる。

カンビュセスは街の名を訊ねてそれを知り、傷の痛みとマゴスによる不運との衝撃によって正気を取り戻し、予言の示すところを悟ってつぶやいた。
「キュロスの子カンビュセスは、この地で最期を迎えるのだな」

65.この時、かれはそれ以上のことは云わなかったが、その後およそ二十日のち、従軍していたペルシャ人の重臣を集めて次のことを語った。

「ペルシャの者どもよ、予はいま、これまでひた隠しにしていたことをお主らに明かさねばならぬ。実は予がエジプトにいたとき、見ねばよかったと思う夢を見たのだ。その夢というのは、国からの使いがきて、スメルディスが玉座に坐り、その頭が天に触れたとわしに告げた夢であった。

予は弟に王位を奪われはせぬかと怖れ、分別もなく性急にすぎる行動をとったのだ。起こるべきことから逃れる力は、人間の本性には備わっておらぬものだ。このことを忘れ、わしはプレクサスペスをやってスメルディスを殺害させたのじゃ。スメルディスを抹殺するという悪業を果たしたあとは、別の人間が謀叛を起こすやもしれぬとは露ほど思わず、枕を高くして過してきたのだ。

ところが予は事態をすっかり誤解しておった。その要もないのに弟を殺し、にもかかわらず王位を奪われてしまった。夢の中で神があらかじめ予に警告を下された謀叛というのは、マゴスのスメルディスのことだったのじゃ。

そのようなわけで予はこんなことを仕出かしてしまったのだ。であるから、キュロスの子スメルディスはもはやこの世の者ではないと承知しておくがよい。そしていまお主らの王国を支配しているのは、かのマゴス僧たち、一人は予が邸の管理を任せて国に残してきた者、いま一人はその弟のスメルディスじや。

マゴス僧たちからこうむった恥辱を、予に代わって誰よりもまず報復すべき人間が、最も近い肉親の手によって不名誉な死を遂げてしまったのだ。その者がもはやこの世にいないからには、次になすべき最善の策を、ペルシャ人諸君、死に臨んで予は諸君に望みを託さねばならないのだ。

王家の神々の名においてお主らすべてに、いや、特にここに居並ぶアカイメネス家一門の者たちに託しておく。王権を再びメディア人どもの手に渡してはならぬぞ。万一にも、あ奴らが謀略をもって王権を手中にしたなら、お主らもまた謀略によって王権を奪い返すのじゃ。力をもって覇権を奪取したなら、全力をふり絞って取り返せ。

お主ら、かくするなれば、予はお主らがとわに自由のまま、大地は実り、女も家畜も子孫に恵まれ栄えるよう、念じるばかりじゃ。もし王権を取り返さず、その試みすらしないというなら、いま予がお主らに祈ったことを真逆のことを祈り、さらにまたすべてのペルシャ人がその最期において予と同じ末路をたどるよう、念じることにする」
このように語ったカンビュセスは、わが身にふりかかった不運を嘆き悲しみ、滂沱(ぼうだ)の涙を流した。

66.王が涙を流すのを見ていたペルシャ人たちも、着ていた衣服を引き裂きながら、いつ果てるともなく泣き叫んだ。

その後、骨が腐りはじめ、ふと股も急速に化膿し、これがもとでキュロスの子カンビュセスは在位七年五ヵ月でこの世を去った。そして子孫はというと男女いずれも残さなかった。

しかしその場に居合せたペルシャ人たちは、マゴス僧らが政権を掌握しているとは全く信じられず、スメルディスが死んだと偽ることで、カンビュセスはペルシャ全国民をスメルディスに対して叛目させようとしたのだと考えていた。

67.それゆえ彼らは、王位についたのはキュロスの子スメルディスだと信じていた。それというのもプレクサスペスがスメルディスの殺害を強く否定していたからで、カンビュセスが死んだ今となっては、キュロスの息子をわが手で殺したと公言することは、プレクサスペス自身の身が危ういことだったからである。

かくてカンビュセスの死後、かのマゴス僧は自分と同名のキュロスの子スメルディスのふりをし、誰に気遣うこともなく七ヶ月間は君臨した。この七ヶ月というのは、カンビユセスの在位期間が八年を満たすに不足した期間だった。

この間、かれは臣民にあまねく慈悲を施したこともあり、その死にあたっては、ペルシャ人を除くアジア人は皆がその死を惜しんだ。というのも、かれは支配下の各民族に使者を送り、三年間の兵役と納税を免除する布告を発していたからであった。

68.この布告は、かれが統治を始めたときに発せられていたのだが、その八ヶ月後には次のようないきさつから正体がばれてしまうこととなった。

ここにパルナスペスの子でオタネスという者がいた。この男はペルシャ人の中では右に並ぶ者のないほどに高貴な血筋に生まれ、また抜きんでて裕福だった。

このオタネスは、あのマゴスがキュロスの子スメルディスではないのではないかと疑い、その実体に気づいた最初の人物だった。このことに感づいた理由は、マゴスが決してアクロポリスの城から外に出ようとしないことと、ペルシャの要人には誰にも会おうとしないことだった。このような疑念を抱いたオタネスは次のような行動にでた。

実はカンビュセスはオタネスの娘パイデュメを妃に娶っていたが、かのマゴスはこのパイデユメも含め、カンビュセスのほかのすべての妻とともに暮らしていた。そこでオタネスはこの娘のところへ使いを送り、娘の横に寝ている男が果してキュロスの子スメルディスなのか、それとも別の人間なのかを問い質した。

娘は、わからない、と返事をよこした。というのも自分はキュロスの子スメルディスを一度も見たことがないので、横に寝ている人物が誰であるかもわからない、というのだった。そこでオタネスは再び使いをやり、次のことを伝えた。

「おまえがキュロスの子スメルディスを見たことがないというなら、アトッサ(*)を見つけて、お前も彼女もともに暮らしている男が誰であるかを訊ねるがよい。あの女なら自分の兄弟であるゆえわかるはずだ」

(*)キュロスの娘で、兄カンビュセスの妃になっていた。

これに対する娘の返事はこうだった。
「私はアトッサと話をすることができません。それに王室の他の女たちの誰とも会うことができません。あの人が誰かは知りませんが、王位につくとすぐに私たちを引き離し、別々の場所に住まわせたのですから」

69.これを聞いたオタネスは、いよいよ事の真相がわかってきた。そして三たび使いをやって次のことを伝えた。
「娘よ、高貴な血筋に生まれたからには、父の命ずるどんな危難にも立ち向かわねばならぬぞ。あの男がキュロスの子スメルディスにあらずして、ワシの想定している人物であるなら、お前と褥(しとね)をともにし、ペルシャの王位についている男をそのままにしておくわけにはいかぬのじゃ。

そこでじゃ、お前と一緒にあの男が床につき、眠ったのを見届けたならば、男の耳に触れてみよ。耳があるなら、その男はキュロスの子スメルディスであるとみなしてよい。耳がなければマゴス僧のスメルディスじゃ」

パイデュメは使いの者を通して次のごとく返事をよこした。そのようなことをすると大きな危険を冒すことになります。かの男に耳がないとして、それを探っていることが露見したときには必ずや私は殺されるでしょうが、それでも私はやってみます、と。

パイデユメはこのように父に約束したのだが、実はマゴス僧スメルディスの耳は、カンビュセスの子キュロスが王位に就いていたとき、ある重大な過失のために切り落とされていたのだ。

こうしてオタネスの娘パイデユメは父との約束を実行することになった。ペルシャでは夫人たちは順繰りに夫のもとへ行くことになっていたので、その順番がまわってきて床についたとき、マゴス僧が熟睡したと見るや、パイデユメは男の耳をさぐった。そして苦もなく耳がないことがわかったので、夜が明けるやいなや使いを出して父にそのことを知らせた。

70.オタネスは、ペルシャで最も信用できると考えている最高位のふたりの人物、すなわちアスパティネスとゴブリアスを呼びよせ、事の次第を一部始終語った。実はこの二人もそのようなことではないかと疑っていたので、オタネスの話を信用したのであった。

そこで彼らはそれぞれが最も信頼しているペルシャ人をひとりずつ仲間に引き入れることにした。オタネスはインタプレネスを、ゴブリアスはメガビゾスを、アスパティネスはヒルダネスを一党に加えることにした(27)。

(27)ベヒストン碑文(ダリウスが自分の帝国に起きた叛乱を鎮圧したのち、ベヒストンに設けた三種の言語による碑文)には、ビンダパナ、ウタナ、ガウバルウワ、ビダルナ、バガブクサ、アルドゥマニスの名が書かれている。ただし、最後の名前だけはヘロドトスの挙げた名前と一致しない。

仲間が六人になったとき、ペルシャの総督ヒスタスペスを父にもつダリウスがスーサにやって来た。そこでこの六名はダリウスも一党に加えた。

71.この七名は一堂に会して同志の誓いを立て、評議をおこなった。そして意見を述べる順番がダリウスにまわってきたとき、かれはいった。

「吾輩は、キュロスの息子スメルディスが死亡し、マゴスが王になりすましていることがわかっているのは自分だけだと思っていた。それゆえにこそ、かのマゴスを誅殺するために急ぎやって来たのだ。しかし知っていたのは我ひとりではなく諸君も同様であるとわかったからには、我らはためらうことなく早急に事を起こすべきだ」

これに答えてオタネスはいう。
「ヒスタスペスの息子殿よ、そこもとは立派な父をお持ちだが、そこもとも父御に劣らぬ御仁とお見受けする。しかしこたびの計画は考えなしに急いで起こすのではなく、より慎重になすべきでござる。事を起こすにはもっと同志を増やさねばならぬゆえにな」

ダリウスが答える。
「ご同席の方々よ、あなた方がオタネスのいうやり方に従われるなら、諸君には悲惨な死が待っているものと心得られよ。そのようなことをすれば、自分ひとりだけの利益をもくろんでマゴスに注進する者が出てくるであろうゆえにな。

このことは諸君だけで決行するべきだった。しかし諸君は多人数を募ることに賛成し、私にもそれを打明けたのであるから、今日にも決行しようではないか。もし今日という日を逃すというのであれば、ほかの誰よりも先に吾輩が諸君のことをマゴスに漏らすつもりだ」

72. ダリウスの気迫を見てオタネスが返答する。
「そこもとは決行を先送りすることに反対で、速くせよと申されるが、どのようにして宮殿に入り込み、彼らを攻撃するのか、とくお話あれ。おそらく貴殿も承知しておられるだろうが、警護の者たちが至るところに配置されていることは、見たことがなくとも耳にはしておられることと存ずる。この警備をどのようにしてすり抜けるのでござるか」

「オタネスよ」、とダリウスが返す。
「この世には言葉ではあらわせぬが、行ないによってあらわせることが多くありますぞ。また言葉で示せるものの、そこからは何も生まれてこないものも多くあり申す。配されている警護の者たちをかわすのは容易いことだ。

われらが入り込むのを阻止する者は誰もいないはず。それは我らを崇め、怖れるているからだ。その上、吾輩のことをいえば、わが父から王への伝言を携えてペルシャから到着したばかりであるという絶好の名目があるのだ。

嘘をつかねばならぬ時には嘘をつけばよいのだ。嘘をつこうが真実を言おうが、目指すところは同じだ。嘘で信用を勝ち取り、利益を得ようとする者もいるし、真実を語ることで利益を得、さらに信を得ようとする者もいる。こうしてわれらは異なるやり方で同じ目的を目指しているのだ。

利を得る見込みがなければ、常には真実を語る者も嘘をつくだろうし、嘘つきは本当のことを語るだろう。そこで我らをすんなり通してくれる番人は、あとあと厚遇してやろうではないか。刃向かう者には、お前は敵だといえばよい。こうやって突入し、ことを成し遂げるのだ」

73.そこでゴブリアスがいう。
「諸君、王権を奪還するとしても、それに失敗して死を迎えるとしても、今が絶好の機会でござる。なにしろ、我らペルシャ人は、メディアの耳なしマゴス僧ごときに支配されているのだからな。

貴殿らのうち、カンビュセス王の死に際に居合せた方々は、王が死に臨んでペルシャ人に発せられた言葉、すなわち王権の奪還を目指そうとせぬペルシャ人に向けた呪いの数々を記憶しておられるだろう。そのときには我ら、その言葉を信じることなく、王は空言を発せられたものと解しておったものだが。

それゆえ、みどもはダリウスの言説に賛同し、なにはともあれ、この会合が終わればただちにマゴスの殲滅に向かうことにする」
このようにゴブリアスがいうと、全員がこれに贅同した。

74.このような談合を彼らがしている時を同じくして、偶然にも次のような事態が起きていた。それは、マゴスたちも談合し、プレクサスペスを一味に加えることを決めたのだった。それというのも、プレクサスペスがカンビュセスに息子を矢で射殺されるという無残な仕打ちを受けていたこと、またこの男はキュロスの子スメルディスを自ら殺害し、スメルディスの死を知るただひとりの人間であること、その上ペルシャ人の間では、この男の人望がきわめて高いということにあった。

このような理由でマゴスたちはプレクサスペスを呼びつけ、ペルシャ人に対して自分たちが欺いていることを誰にも洩らさず、自分ひとりの胸中に秘めておくことを誓わせ、これに莫大な褒賞を約束して味方に引き入れようとした。

マゴスたちがしつこく迫るのでプレクサスペスがこれに同意すると、彼らは第二の案を持ち出し、ペルシャ人を全員王宮の城壁の下に集めるから、城楼に登り、ペルシャの王はキュロスの子スメルディスで、他の誰でもないと宣言してくれと要求した。

このように要求したのは、プレクサスペスがペルシャ人の間ではもっとも信用されていると判断し、かつキュロスの子スメルデイスが生存しているという説をしばしば主張し、殺害を否定していたからだった。

75.プレクサスペスがこれにも同意の返答をすると、マゴスたちはペルシャ人を一同に集めてからプレクサスペスを城楼に上らせ、演説させた。ところがプレクサスペスは、マゴスたちから指示されたことをわざと無視し、キュロスの系譜をアカイメネスから語り出した。そしてキュロスのところへくると、この王がペルシャのために果した善行を残らず語った。

そしてそれを諄々と語り終ると、これまではわが身の安全をはかるために事実を隠していたが、いまは真実を明らかにする必要があるとして、カンビュセスに強要されてキュロスの子スメルディスを自分が殺害したことや、いま権力を握っているのはマゴスたちであること告白した。

そのあとは、ぺルシア人が王権を取り返し、マゴスたちに報復しないとしたときにはと言いつつ、数々のおぞましい呪いをかけ、かれは城楼から真っ逆さまに身を投げた。かくして名望高き人として評されていたプレクサスペスは、その生涯を終えたのである。

76.さて、七人のペルシャ人たちは、その時プレクサスペスに起きた出来事を全く知らないまま、決行を先延ばしせずただちにマゴスたちを襲撃すると決め、神々に祈りを捧げたあと、出発した。

ところがその途中、プレクサスペスのことを知るにおよび、道のわきで再び談合した。オタネスー派は、事態が動いている中での攻撃は行なうべきではないとして延期を主張したが、ダリウスー派は、延期せずにこのまま進み、決めた通りに決行するべきだと主張した。

このように彼らが論争していると、七つがいの鷹が二つがいの禿鷹を追いかけて捕え、羽毛をむしり、身を引き裂くのが見えた。これを見た七人はダリウスの考えに同意し、烏の前兆に勇気づけられて王宮に向って行った。

77.そして王宮の門に着くと、ダリウスが予想したとおりになった。門衛たちはペルシャの指導者たちへ敬意を示し、彼らが悶着を起こすなどとは疑いもせず、神に導かれた一党を通し、とがめ立てする者などひとりもいなかった。

そして中庭に入ると取り次ぎ役の宦官たちと出くわし、用件を問われた。宦官たちは彼らを問い質すとともに、彼らを通したことで門衛たちを叱りつけ、奥に向かおうとする七人を制止した。

七人の一党は互いに声をかけあって短剣を抜き、阻止する宦官たちを剌し、執務室へ駆け込んだ。

78.ちょうどこのときマゴスたちは二人とも室内にいて、プレクサスペスの件を話し合っていた。そして宦官たちが取り乱して叫んでいるのを聞きつけて二人ともびっくりし、何が起きているかを悟ると身を防ぐ体制をとった。

ひとりが弓に飛びつき、もうひとりは槍を取りに行った。こうやって戦いが始まったが、弓を手にしたマゴスは、敵が肉薄しているために弓は役に立たなかった。もう一人のマゴスは槍を手にして防戦し、アスパティネスの太股とインタプレネスの片眼を突いた。このためインタプレネスは片目を失ったものの、命は取り留めた。

こうしてひとりのマゴスは二人を負傷させたが、もうひとりは弓が役に立たないのがわかると執務室に続く別室に逃れ、扉を閉めようとした。

そこへ七人のうちダリウスとゴブリアスの二人がともに部屋へ飛び込んだ。ゴブリアスがマゴスと格闘している間、そばにいたダリウスは暗闇の中でなすすべもなく、ゴブリアスを剌しはせぬかと気づかいながら立ち尽くしていた。

ダリウスが突っ立ているのを見たゴブリアスは、なぜ手を下さぬかと叫んだ。ダリウスは、
「お主を刺しはせぬかと途惑っているのだ」
というと、ゴブリアスは、
「その剣で二人もろともに突き剌すのだ!」
といった。ダリウスは云われたとおりに短剣を突き刺し、なんとかマゴスを討ち取った。

79.マゴスたちを仕留め、首を抑ねた一党は、負傷した同志は弱っていることと、また城の警備のためもあってその場に残し、残りの五人(*)はマゴスたちの首級をさげ、大声をあげながら興奮して城外に駈け抜け、ペルシャ人たちに呼びかけながら事の委細を語り、マゴスたちの首を掲げ示した。そして同時に行く手を阻むマゴス僧たちをすべて殺戮していったのである。

(*)ゴブリアスはマゴスとともにダリウスの剣に串刺しにされたのではなかったか?それならば「四人」になるはずだ。

こうしてペルシャ人たちは七人の決起とマゴスたちの欺きの次第を知った。そして自分たちも七人の例にならうべきと解して自らの剣を抜き、マゴス僧たちを見つけ出しては殺戮していった。夜の帳によって殺戮が止められなかったならば、彼らは一人のマゴスさえ生かしておくことはなかっただろう。

ペルシャの全国民にとってこの日は最大の聖なる日となり、この日には盛大な祭を催すのだが、この祭をペルシャ人は、「マゴス殺しの祭」と呼んでいる。そしてこの祭の最中は、マゴス僧たちは誰も外出することなく、家に籠もることになっている。

80.騒ぎがおさまった五日後、マゴスに反旗をひるがえした者たちが政治全般に関する評議を開いた。その場で発せられたさまざまな意見に対して、ギリシャ人の中には信じない者もいるが、ともかくも次のような意見が出てきたことは確かである。

オタネスは、ペルシャ人全体をまつりごとに参画させよと主張して次のように説いた。
「吾輩の考えでは、われらの上にはただ一人の覇者をおくべきではないと思っている。それは喜ぶべきことでも良きことでもないゆえにな。貴殿らはカンビュセス王の横暴がいかばかりかであったかご承知のはず、またマゴスの驕慢ぶりも、ともに経験しておられる。

支配者が、責任を果たすことなく自分の欲するままに事を実行できるなら、独裁制は実状に適応できようか?このような力を手にすれば、地上でもっとも優れた人間であっても常ならぬ考えにとり憑かれてしまうものだ。それは、何不自由のない境遇によって驕慢の心が芽生えるからで、それに加えて生まれながらに持っている嫉妬心というものがある。

この二つをもつことで人はあらゆる邪心にとらわれるのだ。人があまたの悪業をなすのは、恵まれた境遇に飽きることからくる驕慢と、嫉妬心からだ。専制君主というものは、あらゆる幸福を手中にしているゆえに嫉妬心とは無縁であるはずだが、国民に対する態度は真逆なのだ。繁栄の限りを尽くす者たちが生きている間は彼らを嫉妬するし、悲惨な状態にある民衆を見ては喜びを感じる。そして何よりも讒言を好む。

この地上において、独裁者ほど言行の無節操な者はいない。それは、適当に持ち上げておくと、十分な配慮が足りぬといって怒り、腫れ物を扱うように接すれば、太鼓持ちだとして不興をこうむるからだ。しかし独裁者のもっとも悪しきことは、いにしえより伝わる慣習を打ち壊し、女を犯し、無分別に人命を奪うことなのだ。

ところが民衆による統治は、まず第一に平等というこの上なく美しい命題が与えられており、第二には独裁者のごとき言動は一切ない、ということがある。官職は抽選で決まり、役人は貴任を持って職務をこなし、国事はすべて公論によって決せられる。それゆえ吾輩は、あらゆる国事は大衆に関わっていることから、独裁制を廃し、民衆の力を重視するべきだと考える」

81.オタネスの考えは以上の通りだったが、メガビゾスは国政を寡頭制に委ねるべきだとして次のように語った。
「独裁制を廃止すべしというオタネスの考えには吾輩も賛成だ。ただし権力を大衆に与えよというのは、最善の判断とはいえない。役立たずの大衆ほど愚かで横暴なものはないからだ。

独裁者の専横から逃れたからといって無知な大衆による専横の生贄になることは断じて許されることではない。僭主がことをなす場合、自分が何をしているか承知の上で行なうが、民衆がことをなす場合、その自覚すらないからだ。何が最善であるかを教えられず、自ら知ろうともしない大衆が、どうしてそのような自覚を持ち得ようか。それは川の流れのごとく、一目散にひたすら突走るだけのことだ。

ペルシャに災いを望む者は民主制を選ぶがよい。しかし吾らは優れて優秀なる一群の人物を選び、これに政権を委ねようではないか。いうまでもなく吾ら自身もその中に入るはずで、もっとも優秀なる者たちからもっとも優れた決議が生まれることは当然予想されることなのだ」

82.このようにメガビゾスは意見を述べ、三番目にダリウスが自説を披露した。
「民主制に関するメガビゾスの説は的を射ていると小生は思う。ところが寡頭制については外れていると考える。ここにおのずからなる三種の事柄が最善の形で提起された場合、すなわち民主制、寡頭制、独裁制があるとしたら、小生は独裁制が他の二者よりもはるかに優れていると考える。

それは、もっとも優秀なる一人の人間による統治に勝る体制は考えつかないからだ。優秀な指導者ならば、完璧な知見を用いて最善の判断を下し、国民を十全に統治するだろう。そして敵を攻略する際にも、充分な秘密保持がなされるだろう。

しかし寡頭制では、国のためによかれと思う政策を掲げる複数の人間同士が、しばしば激しい衝突を引き起こすものだ。各自が第一人者となって自説を通そうとしたがるゆえに、激しく憎み合うことになり、そのあげく派閥争いが生じ、その抗争から人が死に,その殺戮から結局は独裁制に至るのだ。このことから独裁制がはるかに優れていることがわかるだろう。

そして再びいうが、民主制の場合には不正の発生をおさえることは不可能だ。社会に悪が蔓延すると、悪人たちはいがみ合うことなく逆に強く結託する。国に害をなす者たちは共謀して活動するからだ。この状態は、国民のうちの一人が立ち上がって悪人たちを制するまで続く。そしてその人物が国民から崇拝され、結局は崇拝された者が独裁者となるのだ。これによっても、独裁制が最善の政体であることがわかる。

これを一言にしていうなら、吾らの自由は一体全体どこから来ているのか、誰が与えてくれたか、ということだ。民衆からなのか、あるいは寡頭制からか、それとも独裁制からなのか。吾輩の考えでは、ただ一人の人物によって自由を与えられている吾らとしては、この政体を維持するべきであるし、これを別にしても先祖から受け継いでいる、この素晴らしい政体を変えてはならないのだ。政体変更などひとつも良いことはないからだ。

83.このような三つの説が出されたが、七人のうち四人が最後の説に賛成した。ぺルシャ国民に平等な権利を与えるという提案が退けられたオタネスは、一同に向って語った。

「同志諸君、かくなる上は、吾らのうちから王を決めるしかあるまい。籤によってか、あるいはペルシャ国民に選ばせるか、その他の方法によるかはともかくとしてな。ただ、吾輩は諸君らと王位を争うつもりはない。私は支配することも支配されることも望まぬからだ。吾輩は王位に就くことを放棄するが、ただ、吾輩のみならず、吾輩の子々孫々にわたり、貴殿らのうちの誰の支配も受けぬことをここに宣言しておく」

オタネスの、この発言に対しては、他の六人が同意したので、かれは王位争いの局外に立つことになった。それゆえ今日に至るも、ペルシャではオタネス家は自由身分を保持しており、ペルシャの法律を遵守してはいるが、みずから欲しない限りは王の支配を受けることはない。

84.そこで残りの六人は、王を決めるもっとも公正な方法について論じあった。そしてまず、オタネスを除く六人のうちの誰が王位についたとしても、オタネスやその子孫たちには、メディア製の衣装とペルシャではこの上なく貴重なあらゆる物品を年ごとに与えると決めた。このような取り決めをしたのは、最初に計画を立て、同志を集めたのがオタネスその人であったという理由による。

オタネスについてはこのような特権を認めたのだが、七人すべてに関して定めたことは、この七人は誰でも、王が女と床入りしている時以外は、いかなる時でも案内を請うことなしに王宮に立ち入ることができること、また王は行動を共にした同志の一族以外から妃を迎えてはならぬことの二つであった。

そして王を決める方法は次のように決定した。すなわち日の出の時刻に全員が騎乗して城外に乗り出し、日の出と同時に最初にいなないた馬の主が王位につくというのである。

85.さてダリウスにはオイバレスという機転のきく馬丁がいた。会議が終わると、ダリウスはこの馬丁に向って云った。
「オイバレスよ、王を決めるやり方が定まったぞ。それはな、吾ら一同が馬を駆って城外にゆき、日の出とともに最初にいなないた馬の主が王位につくというものだ。そこでじゃ、ほかの者に王位を勝ち取られることなく、ワシが王位を手中にする妙案を考えてみてくれぬか」

「殿さま、」とオイバレスが答える。
「そのようなことで殿さまが王になられるか否かが決まるのでございますか。それならば大船に乗ったつもりでお気楽になされませ。殿さまをおいて他の方が王になられぬような手立てがございますゆえ」
「そうか、」とダリウスがいう。
「そのような手管があるならば、一刻も早く手筈を調えるのじゃ。王位を決めるのは明日に迫っておるぞ」

それを聞いたオイバレスは次のようにした。日暮れを待ち、ダリウスの馬が殊のほか気に入っている牝馬を城外へ連れて行ってそこへつなぎ留め、そしてダリウスの馬をそこへ連れて行って牝馬に触れさせながら、繰り返しそのまわりを歩かせ、最後には交尾させたのだった。

86.そして夜明けとともに六人は決めたとおりに馬に乗ってやって来た。一同が城外に乗り出し、前の夜に牝馬を繋いだ場所にさしかかると、ダリウスの馬が先に駈けだしていなないた。

馬がいななくのと時を同じくして、晴れていた空から稲光と雷嶋がとどろき渡った。ダリウスに起きたこの兆候は、定められた運命として受け取られ、かれが王位につくことを決定的なものとした。そしてほかの同志たちは馬から飛びおり、ダリウスの前にひれ伏したのだった。

87.オイバレスの計略がこのようなものだったという人もいるが、ペルシャでは他の説も伝えられている。それによれば、馬丁は件(くだん)の牝馬の陰部を手でさすり、その手を衣服の中に隠していたという。そして夜が明け、六人が馬に乗って出発しようとしたときに、手を懐から出してダリウスの馬の鼻先に近づけたので、馬はその臭いを嗅ぎ、いなないたのだという。

88.こうしてヒスタスペスの子ダリウスが王となり(28)、最初にキュロス、その次にカンビュセスによって平定されたアジアの全住民は、アラピア人を別としてダリウスに臣従することとなった。ただ、アラビア人はかつてペルシャに隷従したことがなく、カンビュセスのエジプト遠征の際に通過を許し、ペルシャの友好関係を築いていた。

(28)B.C.521

ダリウスはペルシャでもっとも高貴な一族から夫人を娶った。すなわちキュロスの二人の娘である。アトッサは先に自分の兄弟であるカンビュセスに嫁し、そのあと、かのマゴスの妻になっていたが、アルテストネは処女だった。

かれはまたキュロスの子スメルディスの子でパルミスという名の娘を娶り、さらにマゴスの正体を暴いたオタネスの娘も娶った。こうしてかれの権力はあらゆる所におよんだ。かれが最初にしたことは石像を造らせたことで、それには騎馬の人物が刻まれていて、次のような碑銘が刻まれている。
「ヒスタスペスの息ダリウス、馬(ここにその名が続く)と馬丁オイバレスの功によりペルシャの王位を得たり」

89.ペルシャで右のようなことをしたあと、ダリウスはその領土を二十の行政区に分割した。これはサトラペイア(29)と呼ばれ、そこに総督を任命した。そして民族ごとに納税額を定めた。またこれらの民族に隣接する地域の住民も合わせて一括し、これより遠隔地の民族については、いずれかの行政区に割り当てた。

(29)リストに従って本巻の序文を参照のこと。

行政区と年ごとの租税額は次のとおりである。銀で納税する場合にはバビロン・タラントンの単位を用い、黄金で納める場合にはエウボイア・タラントンの単位を用いることとした。なお、バビロン・タラントンは七十八エウボイア・ムナに相当する。

キュロスや次のカンビュセスの治世時には決められた納税制度はなく、ただ献上品を納めていたのである。このような課税制度やその他同様の制度を定めたことで、ペルシャ人はダリウスを「商人」、カンビュセスを「支配者」、キュロスを「慈父」と呼んでいる。まさにダリウスはあらゆる物から薄利を徴集し、カンビュセスは苛酷で尊大、キュロスは慈悲深く、人民の福祉のために働いてくれたからだというのである。

90.イオニア人、アジアのマグネシア人、アイオリス人、カリア人、リキア人、ミリアイ人、パンピリア人からはこれらを一括して銀四百タラントンを徴税した。これがダリウスの制定した第一徴税区である。ミシア人、リディア人、ラソニア人、カバリオイ人、ヒテンネ人からは五百タラントン徴税し、これが第二徴税区である。

第三徴税区はヘレスポントス海峡に入って右側の地域の住民、プリギア人、アジア在住のトラキア人、パプラアゴニア人、マリアンデニア人、シリア人で、ここからの徴税額は三百六十タラントンである。

第四徴税区はキリキア人。ここからは一日一頭の割で一年に三百六十頭の白馬と銀五百タラントン。このうち百四十タラントンはキリキア地方を警備する騎兵隊の費用にあてられ、残りの三百六十タラントンがダリウスへ支払われる。

91.第五徴税区は、アンピアラオスの子アンピロコスがキリキアとシリアの境に建設したポシデイオンの街からエジプトに至る地域(税を免除されているアラビア人居住地域は除く)で、ここからの徴税額は三百五十タラントンだった。この地域には全フェニキア人、パレスチナと呼ばれているシリアの一部、キプロス島が含まれる。

第六徴税区はエジプトとこれに接するリビアの一部、さらにエジプト地区に編入されていたキユレネとバルカ。ここからは七百タラントンが納められていたが、このほかにもモイリス湖における漁獲からの税がある。

そのほか穀物による課税もあり、これらを除いて七百タラントンの租税があるということだ。メンフィスの「白城」に駐屯するペルシャ人部隊とその支援隊のために、この地区から十二万ブッシェル(*)の穀物が供出された。

(*)bushel=27Kg

サッタゲダイ人、ガンダリ人、ダディカイ人、アパリタイ人らは一つの徴税区とし、百七十タラントンを課税した。これが第七徴税区である。第八徴税区はスーサとキッシア地区の残りで、ここには三百タラントン課税した。

92.バビロンとアッシリア地方の残りの地区からは銀一千タラントンと五百人の去勢男児が届けられた。これが第九徴税区である。エクバタナとメディア地方の残り、パリカニオイ人、オルトコリオントバンティオイ人からは四百五十タラントンで、これが第十徴税区。

第十一徴税区はカスピオイ人、パウシカイ人、パンティマトイ人、ダレイタイ人を含み、二百タラントン。

93. 第十二徴税区はバクトリアからアイグロイ人の住む地方に至るまでの地域で、ここからは三百六十タラントンである。第十三徴税区はパクティイカ地方とアルメニア人および黒海に至るまでの地域を含み、ここからは四百タラントンである。

第十四徴税区はサガルティオイ人、サランガイ人、タマナイオイ人、ウティオイ人、ミコイ人、そして王がいわゆる強制移民(30)を住まわせた紅海上の島嶼の住民たち。これらからは併せて六百タラントンを徴税した。

(30)この用語はペルシャ帝国東部から西部へ移住させられた人々のことを指す。「ἀνα = ana」は海から高原地帯への移住の意味を含む。

サカイ人、カスピア人が第十五徴税区で、ここからは二百五十タラントン。パルティア人、コラスミオイ人、ソグドイ人、アレイオイ人は三百タラントンで、これが第十六徴税区である。

94.パリカニオイ人、アジア在のエチオピア人は四百タラントンで、これが第十七徴税区となる。マティエネ人、サスペイレス人、アラロディオイ人が第十八徴税区となり、ここには二百タラントンが課税された。

モスコイ人、ティバレノイ人、マクロネス人、モシノイコイ人、マレス人には三百タラントンが課税され、これが第十九徴税区である。インド人が第二十徴税区である。これはわかっている限りでは最大の人口を抱える民族で、ほかのすべての徴税区を併せても凌駕する租税を課せられた。すなわち砂金三百六十タラントンが徴税された。

95.バビロン・タラントンで納入された銀をエウボイア・タラントンに換算すると、九千八百八十タラントンとなる。

金を銀の十三倍として換算すると砂金の額は四千六百八十エウボイア・タラントンとなる。以上すべてを合算すると、年ごとにダリウスのもとに納められる税の総額は、エウボイア・タラントンで一万四千五百六十タラントンになる。なお十タラントン以下の端数は切り捨てた。

96.以上がアジアとリビアの一部からダリウスに納めらる税額である。しかし後になるとこのほかにも島嶼部やテッサリアまでのヨーロッパに居住する住民からも税が収められるようになった。

これらの租税は次のようにして保管された。納められた金銀を熔解し、これを土瓶に流し込み、瓶が一杯になるとこれを割って取り除く。そして貨幣が必要になると、その都度必要なだけの量を鋳造するのである。

97.以上が統治体制と課税額である。ペルシャの国は徴税地区に拳げていないが、これはペルシャ人はあらゆる税を免除されているからである。

納税の義務がないかわりに献上品を納めたのは以下の民族である。まずエジプトの隣のエチオピア人。これはカンビュセスがエチオピア長命族征服によって従えた民族で、聖地ニユサ(31)の辺りに住み、ディオニソスが祭礼神である。このエチオピア人とその周辺の住民はインドのカランティアイ族と同じ穀物を常食とし、地下に居住している。

(31)上ヌビアにあるゲベル・バルカル山(現スーダン)のことだろう。ヒエログリフ碑文では「聖地」と書かれている。

これらの民族はいずれも一年おきに献上品を納め、今の時代に至るも未精錬の黄金を二コイニクス(32)、黒檀の丸太材を二百本、エチオピア人の少年五人、大型の象牙二十本を献上している。

(32)1コイニクス=およそ1クォート(約1リットル).

コルキス人とコーカサス山脈に至るまでの地域に住んでいる民族(ペルシャが支配しているのはこの山脈までで、コーカサス山脈以北の住民はペルシャ人を崇めていない)も献上品を課せられており、今日に至るも四年ごとに少年少女それぞれ百人ずつ納めている。

そしてアラビア人は千タラントンの乳香を毎年献上している。以上の民族から、租税以外にもこれらの献上品が王にもたらされたのである。

98.先に話したインド人が王に献上する砂金は、彼らが所有する莫大な量の黄金の一部だが、それを採取する方法は次の通りだ。

インド人の国から東は砂漠である。吾らの知る限り、また確実に云えることは、インド人が夜明け、日の出にもっとも近い地域に住む民族なのだ。インドから東は砂漠ゆえに全く無人の荒廃地だからである。

インド人の種族は多く、言語も単一ではない。遊牧民もいれば、そうでないものもおり、河の沼沢地に住んで葦船を操って魚を獲り、これを生で食べる種族もある。この葦船は一節の葦(33)から造られている。

(33)竹に似ているが十五米の高さにまで成長する「カナ」である。竹ではない

インド人は藺草(いぐさ)で編んだ衣類を身に着けている。河に生えている藺草を刈り取ってムシロのように編み、これを胸当てのようにして着ている。

99.この種族の東方に住む別のインド人は遊牧して生肉を食べているが、これはパダイオイ人(*)と呼ばれている。彼らの風習は次のようなものだと伝えられている。部族の中で病気になった者がいると、男の場合はもっとも親しい男たちが、病気で弱ってしまうと肉の味が落ちるといって、その男を殺すのである。当人は病気ではないと否定するが、友人たちはそれを無視して殺し、その肉を食べる。

(*)本巻三十八節;カラティアイ人を参照

女が病気になったときにも、これと同じように病人に一等親しい女たちが男たちと同じようにして死に至らしめる。この種族は老齢に至った者は生贄に捧げ、宴を開いてその肉を喰う風習があるのだが、そこに至るまで長生きする者は多くない。そうなるまでに病気になった者は誰もが殺されてしまうからである。

100.しかし別のインド人もいる。彼らは生き物は一切殺さず、農耕もせず、住居も持たない。また野草を常食し、その地に自生する殻つきの粟粒大の穀物を採集し、殻のまま煮て食べる。この種族では、病気になった者は人里離れた荒廃地へ行って寐ている。そしてその者の生き死には、誰ひとり意に介さない。

101.これらインド人たちは家畜と同じように公然と性交し、エチオピア人のように皮膚の色が黒い。

彼らの精液の色は他の人種のような白色ではなく、肌の色と同じく黒色である。これに関してはエチオピア人も同じである。これらのインド人はペルシャの遥か南方の地域に住んでいるので、ダリウス王に支配されたことはない。

102.インド北方で、カスパテユロスの街やパクティエス地方(34)に住むインド人もいる。かれらの生活様式はバクトリア人のそれに似ている。この種族はインド人の中でも一等好戦的で、金を採取しに行くのはこの種族である。この地方は砂漠の荒廃地になっているからだ。

(34)アフガニスタンのカスパティロス(Caspatyrus or Caspapyrus);おそらくカブール。

この砂漠の荒廃地には、犬ほど大きくないが狐よりは大きい蟻(35)が棲息している。この地で捕獲された個体を幾匹か、ペルシャ王が保有している。この蟻はギリシャの蟻と同じく砂を掻き上げて地下に巣を作るが、その形状もよく似ている。そしてこの蟻の掘り上げた砂に金が大量に合まれているのだ。

(35)モルモットと思われる。そうだとしても荒唐無稽だ。

インド人はこの砂を求めて砂漠地帯に向かうのである。各自が三頭のラクダに牽き具をつけ、メスのラクダを真中に、その両脇にオスのラクダを綱で結ぶ。そして人間はメスのラクダに乗るのだが、そのときこのラクダは出産して間もない若いメスを仔から引き離して用いるようにしている。彼らのラクダは馬と同じくらいに速く走り、しかも馬よりもはるかに重い荷を運べるのだ。

103.ギリシャ人はラクダのことをよく知っているので、その姿については省略するが、知られていないことを述べておく。それは何かというと、ラクダの後脚にはそれぞれ四つの大腿骨と膝があるのと、陰部が後脚の間で後向きについていることである。

104.このような牽き具で隊列を整えてインド人は金の採取に乗り出すのだが、彼らはもっとも炎熱の強い時刻を見計らって砂金を採るようにしている。その時間帯は蟻が地中にもぐり込んで姿を消すからである。

この地方では朝のうちがもっとも日差しが強い。他の地域のように昼間ではなく、日の出から市場の閉まる頃までが一等暑い。この時間帯はギリシャの昼間よりもはるかに暑く、そのためかインド人はこの時刻にに水を浴びると云われている。

真昼になると太陽の熱はほかのインドの他地域と同じような暑さになる。インドの太陽熱は午後になるにつれて他の国の午前中の気温と同じになる。そして日暮れに近づくと涼しくなり、太陽が沈む頃にはとても寒くなる。

105.このインド人は袋を用意して然るべき場所に行き、砂を袋一杯に詰め込むと、ただちに引き返す。それというのも、ペルシャ人の云うところでは、蟻がすぐさま臭いをかぎつけ、追いかけてくるからである。その走る速さはどんな動物もかなわないほどで、蟻が集合している間に真っ先に逃げ出していないと、誰も助からないだろうといわれている。

ラクダのオスはメスよりも走るのが遅いので、遅れだしたときには引き綱を切るが、二頭同時に切り離すことはしない。メスのラクダはというと、あとに残してきた仔のことを思い、決して疲れ果てることはないという。ペルシャでは、インド人の金は大方がこのようにして採取するといわれている。またそれほどの量ではないが、この地域で採掘される金もある。

106.思うに、世界の最果ての国であっても素晴らしい産物に恵まれているようだが、これはあたかもギリシャがもっとも住みやすい気侯に恵まれていることに通じるようである。

ついさっき云ったように、インドは世界の極東の地にあるが、ここの四足獣も鳥も、生き物は他の国のものよりはるかに大きい。ただし馬は、ニサイア馬というメディア産の馬より小さい。またこの地の金は、採掘するにしろ、河で採取するにしろ、先に話したように(蟻から)奪うにしろ、きわめて豊富に産する。

また野生の木から採れるウールは、羊から採れるウールよりもより美しく優れている。インド人はこの木から採れるウールを衣類に利用している。

107.次に人の住む国のうちでもっとも南にあるのがアラビアである。乳香、没薬、カシア、シナモン、マスティック・ガムを産するのはこの国だけである。没薬を除き、アラビア人はこれらを多大な手間をかけて入手している。

例えば乳香を採取するには、フェニキア人がギリシアヘもたらしている蘇合香(ストラクス香)(36)を焚く。このようにするのは、乳香を含む木には色とりどりの小さな翼をもつ蛇が多数群がってこの木を守っているからである。この蛇はエジプトを襲う蛇(*)と同じものである。そしてこの蛇を木から迫い払うにはストラクスの煙以外には手立てがないのだ。

(36) 樹脂の一種で、燃やすと刺激性の煙が出ることから、消毒剤として利用される。
(*)第二巻七五節

108.またアラビア人はこうも言っている。かりにマムシに起きるような現象が、この蛇にも起こらないとしたら、国中がこの蛇だらけになるだろうという。

理にかなっている神の摂理というものがあり、それによって、臆病で他の生き物の餌食となる生物は、喰い尽くされて絶滅するのを防ぐために、これらはすべて多産となり、一方で獰猛で有害な生物は、少産とされたようである。

兎は野獣や、鳥、人間などあらゆる生物に捕らえられるので多産なのである。妊娠中でも重ねて受胎するのはすべての動物のうちで兎だけで、その胎児は毛の生えているものもあれば、生えていないものもあり、子宮内でその形が出来上がりつつというなかで、また受胎するのである。

このようなことがある一方で、極めて強く獰猛なライオンのメスが仔を産むのは一生に一度、一頭だけである。それというのもライオンは仔を産むと同時に子宮も排出するからである。それはなぜかというと、ライオンの胎児は胎動を始める頃になると、他のどの動物よりもはるかに鋭い爪で子宮を引っ掻き、成長するにともない、より一層掻きむしるようになるからだ。出産間近になると、子宮の中で無傷な部分はほとんどなくなっているのだ。

109.であるから、マムシやアラビアの有翼蛇が自然のままに生まれ出るなら、人間は生きてゆけないだろう。ところがこの蛇は交尾の際にオスが子種を射出するやいなや、メスはオスの首に噛みつき、噛み切ってしまうまで離さないのである。

このようにしてオス蛇は死んでゆくのだが、メスもオスに向けてしでかしたことの罰を受ける。それは、まだ母の胎内にいる子蛇が父の報復とばかりに母体を囓るのである。そして母体の腹を喰い破って外に這い出るのだ。

他方で、人間に無害な他の蛇は卵を産み、非常に多くの子を孵化する。アラビアの有翼蛇は無数に棲息しているように見えるが、マムシはどこの地域にも棲息しているのに対して、これらはアラビアにしかおらず、他の地域にはいないためにそのように見えるのだ。

110.このようにしてアラビア人は乳香を採取しているが、カシアは次のようにして採集している。彼らは牛革その他の獣皮で頭から全身を覆い、両眼だけを残しておいて出かけるのである。カシアは浅い湖の中に生育しているのだが、湖の周辺や湖中にはコウモリによく似た翼のある動物が居着いており、これがギャーギャーと鳴き声をながら激しく攻撃してくるのである。それゆえこれらを眼から追い払いながらカシアを摘みとらねばならないのだ。

111.彼らが.シナモンを採集する場合、以上の方法よりさらに奇妙な方法を用いている。彼らはこの香料の産地や生育場所を知らないのである。ただ、ディオニソスが養育された場所(*)に生えているという、もっともらしい説がある。

(*)エチオピアと思われる。第二巻百四十六節を参照。

それによると、フェニキア人がシナモンと呼んでいる乾いた木の枝は、巨大な鳥が運んでくるといわれており、この鳥は人の近づけない断崖絶壁に土の巣を造るために、この枝を運ぶのだという。

そこでアラビア人が考え出した方法というのは、死んだ牛やロバ、荷運び用の獣の四肢をなるべく大きく切り離し、これを崖にある巣の近くにおいてからその場所から遠くへ離れる。すると鳥が舞いおりてきて獣の肢を巣へ運んでゆくのだが、その結果、巣は重みに耐えかねて崖下に崩れ落ちる。それをアラビア人が行って集める、というのである。そしてこのようにして採取されたシナモンが他の国々へ送り出されるのである

112.アラビア語でラダノンというレダノンの採取法は、これよりもさらに変わっている。それは、飛びきりの芳香を放つものが最悪の悪臭の中にあるからである。これは木に生じる樹脂が、オス山羊のヒゲの中に付着しているのだ。このレダノンは多くの香料の製造に用いられ、アラビア人はこれを何よりも第一に焚き香として用いている。

113.香料についてはこれくらいしておこう。それにしてもアラビアの大地からは、得もいわれぬ香しい香りが漂ってくる。またアラビアには、ほかのどこにもいない素晴らしい羊が二種いる。そのうちの一種は尻尾の長さが三キュービット(百五十糎)以上あり、そのままにしておくと尻尾が地面に擦れて傷がつくことになる。

しかし羊飼たちは皆が巧みな工作技術を用いて小さな車を作り、これを羊の尻尾の下に一頭ずつ一台あて結びつけている。もう一種の羊は、尻尾の幅が三キュービットもある。

114.南が西に傾くところ、すなわち太陽が沈む方向に向って最果ての地がエチオピアだ。この国は大量の金、巨大な象、あらゆる種類の野生の木と黒檀を産し、またここの住民はこの上なく背が高く、秀いでた容姿と、長命を誇っている。

115.これがアジアとリビアにおける最果ての国々である。ヨーロッパにおける日没方向の最も遠い地域については、確かなことは云えない。異国人がエリダノス河と呼んでいる河が北の海に注いでいて、そこが琥珀の産地だといわれていることも、錫を産する錫の国だということも、私にはわからない。

そもそもエリダノスという名前自体が異国の言葉ではなくギリシャ語で、どこかの詩人によって創られたことを示している。あらゆる手立てを尽くしてみたものの、ヨーロッパの果てに海があるのを実際に見たという人から話を聞くこともできていない。わかっていることは、吾らが手にする錫や琥珀が最果ての地から来ているということである。

116.ヨーロツパの北方ではきわめて大量の金が産する。その金がどのように採取されるのかについても、確かなことは云えないが、伝えられるところでは、アリマスポイ族という一つ眼の人種がグリフィンという鳥から奪ってくるといわれている。(*)

(*)第四巻十三節を参照

ほかの点では普の人間と同じで、眼だけは一つしかないという人間がいるなどということを、私は信じるものではない。しかしながら、他の地域を取り囲んでいる世界の涯の地方には、我々がもっとも精緻で珍奇としている産物があるようだ。

117.アジアには四方を山に囲まれ、五つの峡谷をもつ平野がある(37)。その昔この平野はコラスミオイ人に帰属していたが、これに接していたのがヒルカニア人、パルティア人、サランガイ人、タマナイオイ人である。ペルシャ人が権力を掌握してからは、この地域はペルシャ王の支配下となっている。

(37)この部分の記述は全くの架空話である。しかし灌漑の管理は東部にある政府の権利で、水の使用には多額の費用がかかる。

さてこの四方を囲んでいる山脈からアケスという名の大河が流れ出ている。この河は五つの流れに分れ、別々の流路をたどって先に話した民族の国土を潤していた。

ところがこれらの諸国がペルシャの支配下に入ると、ペルシャ王は山の流路それぞれに水門を築き、これを封鎖したのである。河は流れ込むのに流れ出るところが見つからないために、流出ロをふさがれた水によって山に囲まれた平野は湖となった。

それゆえ、これまでこの水を利用していた人々は、これを利用できなくなって大変な苦難に陥ったのである。ほかの地域と同じく、冬にはこの地方にも神の恵みの雨が降り、夏は粟や胡麻の栽培に水が必要なのである。

この水が利用できなくなったので、往民たちは女も引き連れてペルシャまで出かけ、王宮の門前で泣きわめくのである。そこでペルシャ王は、もっとも水を必要としている住民の所へ水門を開くよう命じるのである。

そしてその国が水で充分潤ったところで水門は閉じられ、次に水を必要とする住民の土地へ水門を開くよう、王は命ずるのだ。風聞によれば、ペルシャ王は租税のほかに多額の金を徴収して水門を開くのだという。これらのことに関しては以上である。

118.さてマゴスに反旗をひるがえした七人のうちの一人インタプレネスは、決起の直後に自身が引き起こした悪業によって命を落とすこととなった。あるときかれは王と面談しようとして王宮にやって来た。マゴスに対して決起した者は、王が妃と同裳しているとき以外、取次ぎを通すことなく王に面会できるという特権があったのである。

決起した七人のうちの一人であるというので取次ぎの必要がない権利があると言いつのり、インタプレネスは王宮の中へ入ろうとした。ところが門番と取次ぎ人は、王が妃のひとりと同裳中であることを告げて通そうとしなかった。インタプレネスは彼らが嘘をついていると思い、三ヶ月剣(スキミタール)を抜いて彼らの耳と鼻を切り落し、これを自分の馬の手綱に結びつけ、さらにその手綱を二人の首に巻きつけてから放免してやったのだった。

119.門番たちは王に自分の姿を見せ、そんな扱いを受けた理由を話した。ダリウスは六人が共謀した上での行動かもしれぬと危惧し、六人をひとりずつ呼びつけ、彼らがこのことを諒解していたのかどうか、その真意を確かめた。

そして同志たちがこの件には関与していないことがわかると、ダリウスはインタプレネスのほか、その息子と一族の男子全員を拘束した。そうしないと、インタプレネスが一族の男たちと呼応して謀叛を起こすに違いないと考えたからである。そして男たちを死刑囚として獄舎に収監したのだった。

インタプレネスの妻は幾度も王宮の門前にやって来ては泣きわめき続けた。妻が同じことを続けているので、とうとう王は憐れみを覚え、使いをやって女に告げさせた。
「ご夫人よ、ダリウス王は獄中にある一族のうち、お手前が救いたいと望まれる方をひとり助命してやると仰せですぞ」

するとその妻は熟慮したうえで、こう返答した。
「私のために王がひとりだけ命を助けてくださるのでしたら、誰よりも私の兄弟を選びます」

女の返答を聞いたダリウスは意外に思い、使いを送って質した。
「ご夫人よ、王はお訊ねです。あなたがご主人や子どもたちを差しおいて、子どもたちより疎遠で、ご主人ほどには親しくもないご兄弟を選ばれたのは、なぜなのでしょうか?」

すると女が答えていうには、
「王様に申し上げます。神のご意志があるならば私は別の夫をもつこともできましょう。また子供たちを失っても、ほかに子供を授かることもありましょう。しかし私の父も母もすでに他界しておりますれば、別の兄弟をもつことは、如何様にも手立てがございません。かように考えまして、あのように申し上げたのでございます」

ダリウスは女の返答に納得し、女のためを思い、彼女の願った者に加えて長男を釈放し、残りの者たちはすべて死罪に処したのであった。かくのごとくして、七人のうち一人は間をおくことなくこの世を去った次第である。

120.さてカンビュセスが病に伏せているとき、次のようなことがあった。キュロスによつてサルディス総督に任ぜられていたペルシャ人のオロイテスという者が、不遜な野望を抱いたのである。すなわちサモスのポリクラテスから危害を加えられたこともなく、暴言を吐かれたこともなく、ましてや会ったこともないというのに、これを捉えて殺害しようと目論んだのである。大方の伝えるところでは、次のことが理由だといわれている。

このオロイテスと、もう一人のペルシャ人でミトロバテスという名のダスキユレイオン行政区の長官が、王宮の門前で座り込んで話をしていたところ、やがて言葉の行き違いから口論となった。ふたりは自分の実力を比べ合っているうちに、ミトロバテスがオロイテスに向って罵った。

「お主はひとかどの人間ではあるが、自分の管轄地のすぐ近くにあるサモス島を王の領土に加えることもできていないではないか。あの島は土着の人間がわずか十五人の重装兵で叛乱を起こして制圧し、支配しているというほど、たやすく攻め落とせる島であるのにな」(38)

(38)本巻三十九節

そして一部の者たちが云うには、オロイテスはこの罵倒に怒りを覚えたが、罵った相手に仕返しすることよりは、罵りの元となったのはポリクラテスだということから、なんとしてもポリクラテスを斃そうという気になった、というのである。

121.わずかながら、次のような説を唱える人もいる。オロイテスはある頼み事(その内容はわからない)があって、サモスに使いを送ったという。その時ポリクラテスは男部星で寝そべっていて、そのそばにはテオスのアナクレオンがいた。

ところがオロイテスを軽んじるつもりだったのか、単なる偶然だったのか、使者が部屋に入って王に言葉をかけたにもかかわらず、壁に向かっていたポリクラテスは振り返りもせず返事もしなかった、というのだ。

122ポリクラテスの死の原因については、この二つの説が伝えられているが、そのどちらでも気に入る方の説を信じるがよい。さてオロイテスのことに戻るが、この男はマイアンドロス河の上流にあるマグネシアに居を構えていたが、ポリクラテスの意中を知るや、ギユゲスの子ミルソスというリディア人に書状を持たせてサモスヘ送り出した。

それは、われわれの知る限り、海上覇権を握ろうとした最初のギリシャ人がポリクラテスだったからである。ただしクノッソスのミノスや、これ以前に海を支配した者がいたことは別として、人類と呼ばれる者の中ではポリクラテスが最初の人物であり、かれはイオニアや数々の島嶼を支配するという野望を抱いていたのである。

ポリクラテスがこのような野望を抱いていたことを知ったオロイテスは、次のような書面を送ったのである。
「オロイテスよりポリクラテス殿へ一筆啓上致す。責殿におかれては、一大事業を志しておられるものの、それを賄う資金に不足をきたてしておられることを聞き及んでおり申す。そこで貴殿が小生の手引きに従われるならば、貴殿の大志は成し遂げられることでありましょうし、それはまた小生をも救うことになるでありましょう。それというのも、確かな筋からの情報でござるが、カンビュセス王は小生を亡き者にせんと企図しているからにござる。

そこで、小生の身柄と財宝を貴国に移し、わが財宝の一部は貴殿の所有に入れ、残りは小生の所有とするようにしていただくならば、貴殿が全ギリシャを制覇なさるに充分な資金となるでありましょう。なお、小生の申し出を疑われるのであれば、貴殿がもっとも信をおかれる人物を使わして下されば、小生がその方にお見せいたしましょう」

123.これを聞いてポリクラテスは喜んでオロイテスの提案を受け入れることにした。喉から手が出るほど軍資金が欲しかったポリクラテスは、まずは確認のために市民のひとりで自分の秘書のマイアンドリオスの子マイアンドリオスを派遣した。ちなみにこのマイアンドリオスは、その後間もなく、ポリクラテスの男部屋にあった豪華な調度品を一切合切ヘラの神殿に奉納した人物である。

視察人がやって来るのを知ったオロイテスは、次のような細工を施した。すなわち八つの櫃(ひつ)に、ごく僅かな隙間を上に残して石を詰め込み、その上に金を敷き詰めてから櫃に封をして待ち受けた。そしてマイアンドリオスが到着し、それを検分したのち、戻ってポリクラテスに報告した。

124.占い師や友人たちが強く制止するにもかかわらず、ポリクラテスはオロイテスのもとへ赴く準備をした。またかれの娘は、夢の中で父親が空中に吊され、ゼウスに身体を洗われ、太陽神によって油を塗られるのを見た。

この夢を見た娘は、あらゆる手立てを尽くして父の旅立ちを思い止めさせようとした。さらには父が五十櫂船に乗り込もうとする時にあっても、不吉な言葉を投げかけ続けた。そこで父は、もし自分が無事に帰国したあかつきには、後々までも嫁にやらぬぞと娘を脅したが、娘は父の脅しが実現すればよい、父を失うより独り身でいる方がよいと、祈るように答えた。

125.かくてポリクラテスはあらゆる忠告を尻目にオロイテスのもとへ船出していった。このときの大勢の随伴者の中には、クロトンの人でカリフォンの子デモケデスもいた。この者はその当時右に出る者のないほど医療技術に長けた医者だった。

しかしポリクラテスは、マグネシアヘ到着して間もなく悲惨な死を迎えることとなった。その死はかれの人物にもその志にもふさわしくない無残なものであった。それはシラクサの僭主たちを別として、ギリシアの僭主の中では、その偉大さにおいてはポリクラテスに並ぶ者はいなかったゆえに。

口にするのも憚られる無残な仕打ちでポリクラテスを殺害したオロイテスは、その遺体を磔(はりつけ)にし、随行者のうちでサモス人については、放免されることを有り難く思えと云って、これらを放免した。サモス人以外の者と奴隷については奴隷と見なして留めおいた。

こうしてポリクラテスは吹きさらしの外気中に吊され、一部始終が娘が見た夢の通りになってしまった。すなわち雨が降ればゼウスに身体を洗われたことになるし、太陽に照らされると身体から出る汗によって油を塗られたようになったのである。

126.ポリクラテスによる一連の成功も、エジプト王アメシスが予言したように、こうして終わりをとげたのであった(*)。しかしこのオロイテスも、その後ほどなくポリクラテスによる恨みの報いを受けることとなった。というのもカンビュセスが冥界に旅立ち、マゴスたちの施政が始まったのちも、オロイテスはサルディスに留まったままで、メディアによって覇権を奪われたペルシャ人を手助けしようとしなかったからである。

(*)本巻四十節

それどころかこのオロイテスは、混乱に乗じてかつてポリクラテスのことで暴言をあびせたダスキユレイオンの総督ミトロバテスと息子のクラナスペスという高名なペルシャ人を二人殺害している。この男はほかにも多くの悪業を働いているが、中でも特筆すべきはダリウスからの伝令が自分のもとへ来たとき、その伝言に腹を立てた挙げ句、伝令の帰り道に待ち伏せを配して殺し、その死骸と馬を誰にも知られないように処分したのである。

127.さて王位についたダリウスは、オロイテスのあらゆる悪業、とりわけミトロバテスと息子の殺害の咎で、この男を処罰しようとした。しかし国内は混乱状態のままで、自分は王位についたばかりのことゆえ、オロイテスの行政区に公然と軍を進めるのは最善の策ではないと考えた。その上オロイテスはペルシャ人親衛隊一千人を擁し、プリギア、リディア、イオニアの地域を支配して強大な勢力をもっていることを聞いていたのである。

そこでダリウスは次のような方策をとった。まずはペルシャの要人たちを召集して次のように呼びかけた。
「ペルシャの者どもよ、お主らのうちでこれから予が話すことを、武力も用いず騒ぎも起さず、智略によって成しとげてくれる者はおらぬか。知謀を要するところに力は無用じゃからな。

そこでじゃ。お主らのうちでオロイテスを生け捕りにして予のもとへ連れてくるか、あるいは仕留めてくれる者はおらぬか?あやつはペルシャのためになる働きをしたことはなく、それどころかあまたの悪行を働いておる。またこの男はミトロバテスとその息子の二人を殺害し、呼び出しのために予が使わした伝令を殺害するなど、堪えがたき傲慢な振る舞いにおよんでおる。あやつがペルシャ人に対してさらに大それた悪事を働く前に、これを誅殺せねばならぬのじゃ」

128.このダリウスの問いかけに対して三十人が名乗りをあげ、それぞれがみずから成し遂げるという決意を示した。そこでダリウスは言い争いをせぬよう押しとどめ、クジ引きで決めることを指示した。その結果、アルトンテスの子バガイオスが選ばれた。

クジを引き当てたバガイオスは、次のように実行した。かれは種々の用件を記した書面を数多く用意し、これにダリウスの印璽を押し、それらの書面をたずさえてサルディへ向かったのである。

サルディスに到着してオロイテスに会見したバガイオスは、書面を一通ずつ封緘からとりだし、王の側用人に渡して読み上げさせた(総督にはそれぞれ王の側用人が派遣されていたのだ)。バガイオスが書面を渡したのは、親衛隊の者たちがオロイテスから離反するつもりがあるかどうかを試すためだった。

親衛隊員たちが書面に向かって大いに感激し、なおかつ書面の文言に対しても一層敬うさまを見たバガイオスは、次の文書を渡した。そしてそれには次の文言が記されていたのである。
「ペルシャ人たちよ!ダリウス王は汝らにオロイテスの護衛役となるをを禁ずる」
これを聞いた新隊員たちはバガイオスに向けていた槍を下げた。

彼らが書面の文言にきわめて従順に従うのを見て取ったバガイオスは、これに自信を得て最後の書面を用人に渡した。そしてこれには、
「ダリウス王は、サルディスにいるペルシャ人に対してオロイテスを殺害すべきことを命ず」
と記されていた。これを聞いた親衛隊員たちは腰の三ヶ月剣(スキミタール)を抜き放ち、ただちにオロイテスを撃ち倒してしまった。かくしてサモス人ポリクラテスの恨みの報いがペルシャ人オロイテスに返ったのである。

129.オロイテスのもとにあった奴隷や財産はスーサに移された。それから間もない頃、ダリウスが狩に出た時のこと、馬から降りたときに足を挫くという事故があった。

それは足首の骨が脱臼するほどの重症だった。ダリウスは、医術に長けたエジプト人たちを以前から身近においていたので、その者たちを呼びよせた。ところが彼らは足を無理矢理ひねったので、病状をさらに悪化させてしまったのである。

七日七晩にわたって、ダリウスはこの怪我のために一睡もできなかつた。八日目になり、以前サルディでクロトン人デモケデスの医術の噂を聞いていた者が、苦しんでいるダリウスのもとへそのことを報せにきたのである。そこでダリウスはすぐさまその男を連れてくるように命じた。命じられた者たちは、デモケデスがオロイテスの奴隷の中に混じって放置されているの見つけ出すと、足枷をひきづり、ボロを着たままの状態で王の面前に連れてきた。

130.デモケデスが王の面前に引き出されると、医術の修練を積んだことがあるかとダリウスは下問した。しかしデモケデスは否と答えた。自分の素姓を明らかにすると、ギリシャとの縁が切れてしまうことを怖れたからである。

しかしダリウスは、かれが医術を心得えているのにそれを隠していることをしっかり見抜いていたので(39)、デモケデスを連行してきた者たちに命じて、鞭と棍棒をもってこさせた。ここに至ってデモケデスも白状し、医術の心得はあるが、確かな訓練は受けておらず、医者とつき合いがあったので、うろ覚えの医術は知っている、と云った。

(39)あるいは、デモケデスの医術の腕前を知っていたか?

そしてダリウスから治療を任されると、かれはギリシャの薬を使用し、またエジプト式の荒療治に代えて穏やかな医術を施した。そうすると王は眠れるようになり、再び足を使えるようにはならないものと諦めていたダリウスは、あっという間に回復したのだった。

このあとダリウスはデモケデスに黄金製の足枷を二組、褒美として与えた。するとデモケデスは、
「王を快癒させ給うた報いが、私の苦しみが倍になるということでございますか?」
と言上した。これを聞いたダリウスは気をよくしてかれを自分の後宮へ送り込んだ。宦官たちはかれを後宮に連れてゆき、この人が王の命の恩人であると女たちに紹介したものである。

すると女たちはこぞって黄金で満杯の櫃(ひつ)から椀で莫大な額の金をすくい挙げ、デモケデスに与えた。そしてデモケデスに随っていたスキトンという名の召使が、椀からこぼれ落ちたスタテル金貨をひろい集めただけでも、その額たるや大変なものだったという。

131.このデモケデスがクロトンからやって来てポリクラテスのもとで暮らすようになった経緯(いきさつ)はこうだ。かれはクロトンで気むずかしい父とそりが合わずにいたが、ついに耐えきれなくなって父のもとを離れてアイギーナヘ向かった。そしてアイギーナに住むようになって一年目には、医術に用いる器具や備品を一切持っていないにも拘わらず、かれの医術は他の医師たちを凌駕した。

また二年目にはアイギーナ人が国費一タラントン(40)でかれを登用し、三年目にはアテナイ人が百ムナで、四年目にはポリクラテスが二タラントンでかれを雇ったのだ。かくしてかれはサモスにやって来たのであり、クロトン人の医者が名を馳せるようになったのは、この人に負うところが大きい。

(40)一アイギーナ・タラントンはおよそ八十二アッティカ・ムナ
  なお、一アッティカ・タラントンは六十アッティカ・ムナ

その当時、ギリシャの国々の中ではクロトン人の医者が第一に挙げられ、それに次ぐのがキュレネ人と評されていた。また同じ頃、音楽ではアルゴス人が随一と評されていた。

132.ダリウスの怪我を快癒させたことで、デモケデスは宏壮な屋敷を与えられるは、王の陪席を許されるは、ギリシャヘ帰るという許しを得られないことを除けば、何ひとつ不自由を感じない身分となつた。

その一方で、ダリウスの治療に当っていたエジプト人医師たちが、ギリシャの医者より未熟だったという咎で串刺しの刑に処せられようとしたのを、王に歎願して彼らの生命を救い、またポリクラテスに随行していたエリス出身の占師が、奴隷の中にまぎれて捨ておかれているのを救い出したりした。かくしてデモケデスは王の側近として勢威を振るうようになったのである。

133.その後間もなく次のようなことがあった。キュロスの娘でダリウスの妃になっていたアトッサの乳房に腫物ができ、やがてそれが潰れて拡がってしまったのである。腫物が小さいうちは恥ずかしさのあまりアトッサは隠して誰にもいわなかったが、いよいよそれが悪化してきたので、デモケデスを召し出してその腫物を見せた。

デモケデスは治してみせるといったが、その代り、恥知らずな願いではないので、自分の頼みごとをかなえてくれるよう、アトッサに誓わせたのである。

134.そしてデモケデスがアトッサを治療して快癒させたあと、かれに指図されていたアトッサは、寝室でダリウスに向って話しかけた。
「王様、あなた様はこれほど大きな国力をお持ちになりながら、他の民族を征服しようとも、ペルシャの国力を強めようともなさらず、毎日をむなしく過ごしておいでです。

若くて莫大な富を手にしている男子としては、なにかしら雄大な事業をやり遂げて、ペルシャ国民に自分たちはひとかどの男に統べられているのだということを知らしめるとともに、国民が戦に手を取られ、あなた様に謀叛を企らむ余裕を持たさぬようにすることが肝要かと存じます。

あなた様はまだお若いのですから、大きな事業をなさるのでしたら今のうちでございますよ。肉体が成長するにつれて心も成長するものですが、肉体が老化すると心も老化し、何事をするにつけても気力も失われるものでございますからね」

教えられとおりにアトッサがこういうと、ダリウスが答えた。
「妃よ、お前の云ったことはワシ自身も実行するつもりでいたことじゃ。ワシはこの大陸から向うの大陸に橋を架け、スキタイ人を征服するつもりだ。それも近いうちにな」

するとアトッサがいうには、
「よろしうございますか王様、スキタイ人は放っておかれませ。あの者たちならば、あなた様のお望みのときに、何時なりと手に入れられますでしょうから。お聞き下さい王様、どうかギリシャを攻略なされませ。私はスパルタの女やアルゴスの女、アテナイの女、コリントの女たちのことを聞き知って、この者たちを侍女にしたいと願っているのでございます。幸いにも、あなた様には、ギリシャについてはどんなことも教えてくれ、また導いてくれる、誰よりも適任の者がついておりますもの。あなた様のおみ足を治してくれた、あの医者でございますよ」

これにダリウスが答えて云うには、
「妃よ、お前はまずギリシャを攻めよというが、それならばまずペルシャ人の間者を、お前の名指した者とともにギリシャヘ送り込むのが最善の策だと思うぞ。彼らは見聞したことを細大漏らさず吾らに報告するであろうから、情勢を完全に把握してから奴らの征討に向うとしよう」

135.こう云ってダリウスはただちにこれを実行に移した。すなわち、その夜が明けるとすぐ、ダリウスはペルシャの要人十五人を呼びつけ、デモケデスとともにギリシャの沿岸一帯を回航してくることと、デモケデスを逃がさず、何としてもペルシャヘ連れ帰ることを命じた。

このように命じたダリウスは、次にデモケデスを呼び、同行のペルシャ人たちを案内してギリシャ全土を見て回り、帰ってくるよう頼んだ。そしてかれの家財は、その一切を父親や兄弟たちへの土産として持ってゆくがよい、その代りに幾倍のものを与えようと告げた。さらには、さまざまな財宝を満載した貨物船をデモケデスに与えようとも云った。

私が思うに、このような提案をダリウスが持ち出しのは、二心あってのことではないのだろうが、デモケデスの方では、ダリウスが自分を試しているのではないかと怖れるあまり、ダリウスの言い出したもの全てをいそいそと受け取るようなことはしなかった。かれは、自分の家財は帰ってから使うためにそのままにしておくが、兄弟への土産を載せた貨物船はお受けしようと返答した。かくして、デモケデスにも同じ指令を与えたダリウスは、一同をギリシャ沿岸に向けて送り出したのである。

136さてフェニキアのシドンまで下ってきた一行は、ただちに二隻の三段櫂船とあらゆる財宝を満載したガレー船を用意した。準備が全て調うと、一行はギリシャに向けて出航したが、訪れたギリシャ沿岸地帯を視察して報告書に書き留めつつ、有名な地域を視察してまわり、最後にはイタリアのタラス(タレントム)へ至った。

するとタラス王のアリストピリデスがデモケデスに同情し、メディア人の船から舵を取りはずさせ、ペルシャ人たちは間者であるとして監視下においた。こうしてペルシャ人が動きを取れなくなっている間に、デモケデスはクロトンに帰り着いたのである。アリストピリデスは、デモケデスが祖国に帰り着いた頃になってからペルシャ人を釈放し、船から取りはずした舵も返してやった。

137.ペルシャ人たちはタラスから出港してデモケデスを追ってクロトンにゆき、広場にいたデモケデスを見つけてかれを捕らえようとした。

一部のクロトン人はペルシャの力を怖れてかれを引き渡そうとしたが、他の者たちはペルシャ人を妨害し、彼らを棒で打ちすえた。

ペルシャ人たちは、
「クロトン人たちよ、お前たちは自分のしていることがわかっているのか?このような暴挙をダリウス王が見過ごされると思っているのか?この男を吾らから奪うことになれば、お前たちの身にどんなことが降りかかるか考えてみよ。吾らが真っ先に攻撃するのはこの街をおいてどこにある?また真っ先に奴隷にしようとする街はどこだ?」

しかしクロトン人たちは彼らの云うことを意に介さず、デモケデスとともに引き連れてきた貨物船も失ったペルシャ人たちは、アジアに帰って行った。案内人を奪われたからには、それ以上ギリシャ各地を訪れて調査をしようとはしなかったのだ。

しかしデモケデスは、ペルシャ人たちが出航する際に、次の伝言を託したのである。すなわちデモケデスはミロンの娘を娶る、とダリウスに伝えてくれと云ったのである。それというのも、格闘士ミロンの名声はダリウスの耳にも届いていたからで、私の考えでは、デモケデスがペルシャだけでなく、祖国においても名士であることをダリウスに示そうとして、大枚をはたいてこの縁組をまとめようとしたのであろう。

138.クロトンを後にしたペルシャ人たちは、イアピギアの沿岸で難破、漂着し、この地で奴隷にされていたが、タラスから亡命してきていたギロスという者が彼らを救い、ダリウスのもとへ帰してやった。ダリウスは、その褒賞として望みのものを与えようといったが、ギロスは自分の不幸な身の上を語ってからタラスヘの帰国を望んだ。

しかしダリウスは、ギロスのためにイタリアへ大船隊を差し向けると、ギリシャを騒がすことになるのを怖れ、彼らを帰国させるにはクニドス人だけを随行させれば充分だろうと云った。クニドス人はタラス人と親しいので、そうすればタラス人も問題なくギロスの帰国を受け入れるだろうと考えたのである。

ダリウスはその言葉通りにクニドスに使者を送り、ギロスを伴ってタラスヘ帰国させよと命じた。そこでクニドス人はダリウスの命令に従ったものの、タラス人を説得できず、かといって武力で解決することもできなかったのである。

以上が事の次第であるが、このペルシャ人たちが、アジアからギリシャに渡来した最初の人間であって、彼らがギリシャを視察にやって来たのは、このような理由があったのだ。

139.このあとダリウスはサモスを征服したが、これはギリシャあるいはそれ以外の国の中で、ダリウスが征服した最初の街であった。その進攻の理由は次のようなものだった。キュロスの子カンビュセスがエジプトに進攻したとき、多数のギリシャ人も軍についてエジプトヘ行ったのだが、自然の成り行きとしてその一部は商売のためであったり、エジプト見たさについて行った者もいた。そしてその者たちの中に混じって、アイアケスの子でポリクラテスの兄弟に当たるシュロソンという人物がおり、この者はサモスから亡命していたのである。

このシュロソンが次のような幸運を引き当てることになった。この男が緋色の外套をまとってメンフィスの広場にいたところ、当時カンビユセスの親衛隊にいて、まだ頭角を現していなかったダリウスがかれを見て、その外套がどうしても欲しくなり、かれの所へ行って外套を買い取ろうとしたのである。

ダリウスが外套を熱烈に欲しがっているのを見たシュロソンは、神の霊感が働いたようで、次のようにいった。
「私はどんなに金を積まれても、これを売るつもりはないが、それほど望んでおられるなら、無償で差し上げることにしよう」
ダリウスはこの言葉に感激し、外套を譲り受けることとなった。

140.シュロソンは、自分の馬鹿げた気前の良さによって外套を失ってしまったと悔いていた。ところが時が移りカンビュセスがこの世を去り、またマゴスに対する七人の決起があり、そして七人の中からダリウスが王位に昇ることになった。するとシュロソンは、王位を継いだ人物が、かつてエジプトで外套を与えた人物であることを知ったのである。そこでかれはスーサに上って王宮の門前に行き、自分は王に恩義を売った者であると告げた。

それを聞いた守衛が王に進言すると、ダリウスはいぶかって守衛に問うた。
「どこのギリシャ人がワシに恩を売ったのだと?王になって日も浅いのに、そのようなことであの国から人が来ることなど一人もおらぬわ。ワシがギリシャ人から恩義を受けたなどということは、まずないといってよい。とはいえ、その男を中へ連れて参れ。どういうつもりか確かめてやろう」

やがて守衛がシュロソンを連れてくると、一座の前に立ったシュロソンに、通訳たちが、お前は何者で、何を根拠に王の恩人だというのか、と訊ねた。そこでシユロンンは外套にまつわるいきさつを話し、外套を譲ったのは、この自分であると主張した。

これに対してダリウスが答えていうには、
「おお、この上なく気前の良い男よ。ワシがまだ何の力も持っていなかったときに、贈物をくれたのは汝であったか。あの時お主が譲ってくれた外套は取るに足らぬ物だったが、その時の嬉しさは、いま莫大な贈物をうける時の嬉しさに決して劣るものではないぞ。汝がヒスタスペスの子ダリウスに示した好意を悔いることがないように、礼として巨額の金銀を与えよう」

するとシュロソンはこれに返して、
「殿、私は黄金も銀も要りませぬ。ただし、私の兄ポリクラテスがオロイテスによって惨殺され、吾らの奴隷だった者が支配しておるわが祖国サモスを、私めに取り戻して頂きたい。それも人も殺さず、市民を奴隷にすることもなく」

141.これを聞いたダリウスは、七人のうちのひとりであるオタネスを指揮官として遠征軍を送ることにし、オタネスにはシュロソンの要望を何なりとかなえてやれと命じた。そこでオタネスは沿岸地帯に下り、遠征軍の準備を調えた。

142.その時のサモスは、ポリクラテスから統治を任されていたマイアンドリオスの子マイアンドリオスが支配していた。この人物は、誰よりも公正たるべく志しながら、それを果せなった人物である。

それはポリクラテスの死を知らされたときのこと、真っ先にかれがしたことは、解放者ゼウスの祭壇を設立したことで、その周囲を聖域としたが、これは今でも街の城外に残っている。そのあとには全市民を集めて次のように語った。

「諸君も知っているように、ポリクラテスの王権と全権は私に任されており、今の私には諸君を支配下におくことができるのだ。しかし私は、隣人の行ないに怒りを覚えるようなことは、私自身はしないつもりだ。すなわち、ポリクラテスないしは誰であれ、自分と同じような人間の上に君臨することは私が嫌っていることなのだ。そしてポリクラテスがその運命を全うした今、私はかれの権力を諸君すべてに委ね、市民平等をここに宣言する。

しかしながら私の特権として、ポリクラテスの資産のうちから六タラントンのみは私の所有に帰すること、さらには解放者ゼウスの司祭職を、私と私の子孫のために任ずることを要求する。この神の神殿を建立したのは私であり、いま私が諸君に自由を与えるからだ」

このようにマイアンドリオスが誓ったのだが、そのとき市民の中の一人が立ち上って云った。
「生まれも卑しく虫けらのようなお前に、我々を治める資格などがあるものか!それよりもお前が握っていた資産の会計報告をするがいい!」

143.こう叫んだのは市民の中でも名高いテレサルコスという者だった。マイアンドリオスは、自分が政権を放棄したとしても自分に代わって他の誰かが覇権を握るだろうということがわかったので、政権を放棄しないことを心に決めた。そして城中に引っ込むと、財政の説明をすると言いつくろって市民を一人ずつ呼びよせた上で、その者たちを捕らえて拘束したのである。

ところが市民を投獄したあと、マイアンドリオスは病をえて病臥してしまった。するとかれの弟リカレトスは、兄の命は長くないものと合点し、自分がサモスの覇権を掌握しやすいようにと、投獄中の者たちをことごとく殺してしまった。こうなったのは、彼らが自由の身を望まなかったためであろうかと思われる。

144.かくてペルシャ軍がシユロソンを連れてサモスに到着すると、抵抗する者は一人もおらず、マイアンドリオス自身やその一党は、休戦協定を結べば島を引き払うと申し出た。オタネスはこの提案を容れて協定を結んだ結果、ペルシャ軍の首脳陣は、アクロポリスに面したところで椅子を並べて座っていた。

145.ところで僭主マイアンドリオスにはカリラオスという乱心気味の弟がいたが、この者は何らかの悪事をはたらいて地下牢に入れられていた。かれは外の変事を耳にして地下牢の窓から外を覗き見たところ、ペルシャ人たちがのんびり坐っているのが見えた。

するとこの男はマイアンドリオスに話があると大声で叫んだ。これを聞いた兄は、カリラオスの縛めをといて自分のもとへ連れて来させた。引き出されるやいなや、カリラオスは兄を罵って咎め、ペルシャ軍を攻撃するよう促した。そのとき発した言葉は、
「何という臆病者よ。自分の弟だというのに、しかも牢に入れるほどの悪事は犯していないのにワシを縛りつけて地下牢に押しこめておきながら、ペルシャ人がお主を国から追い払おうとしていても、抵抗する勇気もないのか。相手は手もなく打ち負かせるかもしれないというのに。

ペルシャ人が怖いと兄者がいうなら、ワシに傭兵部隊を任せてくれ。そうすれば、ここへやって来たことの報いを奴らに知らしめてやろう。案ずることはない、兄者は無事に島から抜け出せるよう計らってやるからな」

146.カリラオスがこういうと、マイアンドリオスは弟の言い分を受け入れた。マイアンドリオスがこのような決断を下したのは、私の考えでは、自分の兵力が大王の兵力に充分上回ると考えるほど、かれが無分別だったというのではなく、サモスの街を何事もなく無傷でシュロソンに渡したくなかったためであろうと思われる。

そこでかれは、ペルシャ人を怒らせてサモスの国力をできるだけ弱め、その上でこの街を引き渡そうとしたのだ。というのも、ペルシャ人はサモス人から危害を加えられると激怒するだろうことをかれはよく判っており、またアクロポリスから海に通ずる秘密の抜け道を知っていたので、望むときには何時でも安全に島を脱出できると考えていたからである。

かくしてマイアンドリオスは船でサモスを脱出したが、カリラオスの方では傭兵部隊に武器を取らせた上で城門を開き、ペルシャ人への攻撃を開始した。ペルシャ人は休戦協定が完全に成立したものと考え、すっかり警戒を解いていた。そこへ傭兵部隊がペルシャ人に襲いかかり、椅子に座ったままて移動する最高位の要人たちを殺戮したのである。

しかしそのとき、ペルシャ軍の残存部隊が増援に駆けつけてサモスの傭兵部隊を押し戻したので、かれらはアクロポリスの中へ撤退したのだった。

147.ペルシャ軍が大打撃を受けたのを見た将軍オタネスは、出発の際にダリウスから受けた指示、すなわちサモス市民を殺さず、奴隷にもせず、島を無傷のままでシユロソンに返してやれという指示をわざと忘れたことにして、捕らえた者は男であれ子供であれすべて殺せと配下の部隊に命じた。

そこで軍の一部はアクロポリスを攻囲し、別働隊は聖城の内も外も、誰彼なく皆殺しにしたのである。

148.一方、サモスを脱出したマイアンドリオスはスパルタに船を進め、そこに到着すると、脱出したときにに持ち出した財宝を運び出させ、次のようなことをした。すなわち金銀の盃を並べ置き、下僕たちにこれらを磨かせ、他方で自分はアナクサンドリデスの子でスパルタ王のクレオメネスに面会し、王を自分の邸に招いたのである。クレオメネスが盃を見るたびに大いに驚嘆するのを見て、マイアンドリオスは好きなだけ持っていってくれと云ったものである。

このようなマイアンドリオスによる申し出は二度三度におよんだ。しかしクレオメネスは比類なき清廉さをもって、それを受け取ろうとしなかった(*)。またクレオメネスは、やがてはマイアンドリオスから盃を受け取り、かれを援助するスパルタ市民が現われるに違いないと考え、執政官のところへゆき、サモスからの到来者が自分や他のスパルタ人を籠絡して堕落させるようなことのないように、この男をペロポネソスから追放することがスパルタにとって最善策であると説き伏せた。すると監督官たちはかれの助言を聞き容れ、布告を発してマイアンドリオスを追放したのであった。

(*)第五巻四十九節以下を参照

149.サモス島については、ペルシャ軍はこの島を網で掬うように一掃し(*)、無人状態にしてからシュロソンに引き渡した。しかし後になってから、この時のペルシャ人将軍オタネスは、ある夢を見たことと陰部に生じた病がきっかけとなって、サモス島の植民に協力している。

(*)第六巻三十一節

150.サモスに向って艦隊が出航した頃のこと、バビロン人が反乱を起した(41)。これはきわめて周到に準備した上でのことだった。マゴスの施政から七人の決起に至るまでの期間と、これに伴う混乱の期間を通じて、彼らには籠城に備える時間の余裕があったのだ。また、どうしてかは判らないが、その動きは感づかれなかったのである。

(41)ヘロドトスの話の流れでは、この反乱はダリウスの即位(B.C.531)からかなり後のように思える。ところがベヒストン碑文ではダリウスが即位する以前の事件とされている。

そして公然と反乱を起こすに当たり、彼らがしたことというのはー。まず母親を除き、おのおの自分の家族の中から好みの女を一人だけを飯炊き女として残し、その他の女は、食糧の消費を減らすために、すべて集めて絞殺したのである。

151.このことを知らされたダリウスは、配下の全軍を招集してバビロン人の制圧に向けて出陣した。そしてバビロンの街に着くやこれを攻囲したが、バビロン人は城を包囲されても少しも意に介さなかった。彼らは城壁の堡塁にのぼり、ダリウスとその軍勢を口汚く罵り、身振りによっても嘲った。そしてそのうちの一人がこんな言葉を吐いた。

「おーいペルシャ人どもよ、どうしてそんなところにぶらついているんだ?さっさと退散したらどうだ?お前たちがワシらを征服するには、ラバが仔を産むようなことにならんと無理だろうよ」
あとになってからラバが仔を産むとは知らず、バビロン人の一人はこのように嘲ったのであった。

152.そして一年七ヶ月が経過したが、依然バビロンを攻略できずにいたことから、ダリウスおよびその麾下の全軍は焦りをみせていた。とはいえ、その間ダリウスはバビロン攻撃のためにありとあらゆる計略、および攻撃のための装置を駆使していた。ダリウスは、かつてキュロスがバビロン攻略に用いた戦略を試みたり、その他あらゆる戦略や攻城装置を試してみたが、いずれも成功に至らなかった。バビロン人は警戒怠りなく、どのようにしても陥れることができなかったのである。

153.城攻めが二十ヶ月目になった頃、マゴスを倒した七人の一人であるメガビゾスの子ゾピロスに、不思議なことが起きた。それは、ゾピロスが食糧運搬に用いていたラバの一頭が仔を産んだことだった。ゾピロスはその報せを信じなかったが、みずからラバの仔を確かめた上で、かれは、それを見た者たちに、このことを誰にも話すなと口止めをしておいた。

そのあと考えに耽ったゾピロスは、バビロン攻撃の当初にバビロン人の放った言葉を思い出した。
「ラバが仔を産めばバビロンは陥落する」
この言葉を思い出したゾピロスはバビロン陥落の時がきたと閃いた。あの男の言葉や自分のラバが仔を産んだのは神の啓示に違いないと、ゾピロスは合点したのだ。

154.今やバビロンの命運が尽き、陥落の時がきたと考えたゾピロスは、ただちにダリウスのもとへゆき、バビロンを攻略することを偉大な功績とみなされるかどうかと訊ねた。その通りだという王の返答を聞いたゾピロスは、次には自分ひとりでバビロンを陥落する計画を練った。それというのも、ペルシャでは勲功を挙げることがその人物の偉大さの大きな証しとされ、高位高官への道すじと見なされているからである。

そこでゾピロスは、わが身を損壊して脱走者を装い、バビロンにもぐり込む方法以外には、これを落とす手立てはないと考えるに至り、わが身が毀損することをものともせず、身体を元通りにできないほど傷つけた。すなわち自分の鼻と耳を切り落し、髪も短く刈りあげてみすぼらしくし、自分の身体に鞭を打ってダリウスの面前に出向いたのである。

155高貴な身分の男がかたわとなっているのを一目見たダリウスは、大いに驚くとともに椅子から飛び上がって叫び、お主をこのような目に遭わせたのは誰か、また何をしてそのような姿になったのかと、ゾピロスに訊ねた。

「誰でもありませぬ」
とゾピロスが返答する。
「私をこのような目に遭わせる力のある人物は、殿以外にはおられませぬ。そしてこのようなことをしでかしたのはそれがし自身で、ほかの誰でもありませぬ。アッシリア人どもがペルシャ人を愚弄するのに我慢ならなかったゆえにござる、殿!」

これにダリウスは答えて、
「なんと無鉄砲な男よ。籠城しておる者どもに怒って自分の身体を元の姿に戻せぬようにしたなどと申すのは、見苦しい行ないに美名をかぶせているだけではないか。

この愚か者めが!お主が自分で身を傷つけたからといって、どうして敵の降伏が早まるというのじゃ?お主が自分の身体を毀損したなどということは、全く狂気の沙汰じゃ」

そこでゾピロスがいう。
「もし私がこの企てを殿に申し上げましたならば、殿はお許しにならなかったありましよう。それゆえ私は自分の一存で実行したのでございます。そこで、もし殿のお力添えをいただけるならば、バビロンは吾らのものになりますぞ。と申しますのも、まず私はこの姿で脱走者として敵の城内に逃げ込み、殿によってこのような姿にされた、と彼らに申します。このようにして彼らを信用させれば、やがては部隊の指揮を任されるようになるものと考えます。

そこで殿におかれては、私が城内に入ったあと十日目に、失っても惜しくない軍勢のうちから一千を、セミラミス門の前に配置していただきたいのです。そのつぎに、その十日目から数えて七日目に、二千の兵をニネヴェ門に配置ねがいます。またこの七日目から二十日ののちに、四千の兵をカルディア門の前に配していただきたいのです。なお、先の部隊も後の部隊も、短剣以外の武器は持たさないように命じていただきたい。

そして二十日を過ぎましたならば、ただちに残りの全軍に、四方から城壁の総攻撃をかけて下されませ。ただしベロス門とキシアの門にもペルシャ兵を配置ねがいます。私が予想しますに、私がたいそうな手柄を立てますれば、バビロン人どもはいろいろなことを私に任せるようになりましょうが、そのうちには城門の鍵も任せるようになると存じます。そのあとのことは私とペルシャ軍とにお任せ願います」

156.このようなことを王に進言したあと、ゾピロスは、いかにも本物の脱走者のごとく、うしろを振り返りながら敵の城門に向かって行った。望楼の上にいた見張りたちがこれを見ると、駆け下りてきて城門の片方の扉を少しだけ開け、お前は何者で、何用あって来たのかと訊ねた。ゾピロスは名を名乗り、ペルシャから彼らのもとへ脱走してきたのだと告げた

これを聞いた守衛たちは、かれをバビロンの司令所へ連れていった。ゾピロスは役人たちの前でいかにもみじめな風体を装い、実際には自分でしたことなのにダリウスにされたのだと偽って語った。そしてこうなったのは、バビロンを攻略する方策が見つからないので軍を引き上げるべきだと王に進言したからだと話した。そして言葉を継いで云うには、

「バビロンの方々よ、吾輩がここに来たことは、諸君にとっては何よりの恵み、ダリウスとその軍、またペルシャ人にとっては大いなる不運となり申そう。吾輩をこのようなかたわにしたダリウスをば、決してそのままにはしておかぬつもりであるからに。それに吾輩はダリウスの軍略についてはことごとく知り抜いておるのでな」
このようにゾピロスは語った。

157.ペルシャで最高位の要人が鼻も耳も削がれ、鞭の跡も生々しく血で腫れ上がった姿を目にしたバビロン人たちは、ゾピロスの言葉に嘘はなく、自分たちの味方をするために来たのだとすっかり信じ込み、彼の要求をすべてかなえてやる気になったのである。そこでかれは手兵を求めた。

部隊を手に入れると、かれはダリウスとの打ち合せ通りに行動した。すなわち十日目にはバビロン人部隊を率いて出撃し、第一陣として配置するようダリウスに進言しておいた一千の兵を包囲し、これを殲滅した。

ゾピロスがその言葉どおりの手柄を立てるのを目の当たりにしたバビロン人は大喜びし、何事によらず彼の命に従うようになった。そして打ち合わせたとおりの日数が経過すると、再びゾピロスはバビロン人の精鋭を選りすぐって出撃し、二千のダリウス軍を殲滅した。

再びこの勲功を見たバビロン人は、口々にゾピロスを褒め称えるようになった。そして再び約束の日数が過ぎると、かれはかねて指示していた場所へ部隊を進め、四千の兵を包囲殲滅した。この武勲を樹てるにおよび、今やゾピロスはバビロン人にとって第一人者となり、軍と城壁防衛の司令官に任ぜられたのである。

158.そうこうしてダリウスが打ち合せどおりにバビロンの城壁に四方から攻撃をかけると、ゾピロスは化けの皮を脱いだのだった。バビロン市民が城壁の上から突撃してくるダリウス軍を防いでいる間に、ゾピロスはキシア門とベロス門を開き、ペルシャ軍を城内に引き入れたのである。

ゾピロスの行動を目撃したバビロン人は、ベロスとバビロン人が呼んでいるゼウス神殿に逃げ込んだが、それを見ていなかった者たちは、裏切られたことに気づくまでは、皆それぞれの配置についたままであった。

159.こうしてバビロンは再び占領された。バビロンを制圧したダリウスは、まずその城壁を取り壊し、かつてキュロスが最初にバビロンを征服したときには破壊しなかった城門もすべて撤去した。その上、街の要人たち三千人あまりを串剌の刑に処し、残りのバビロン人には街を返して居住することを許した。

そしてさきに話したように、バビロン人たちは食糧のことを案じて自分たちの女を絞殺していたので、ダリウスはバビロン人の子孫が絶えぬように彼らに女を確保してやった。すなわち近隣の諸民族に命じ、それぞれ一定数の女をバビロンに送らせたが、集められた女の総数は五万人に上った。現在の住民は、この女たちから生れたのである。

160.ダリウスの見るところ、キュロスを除き、後にも先にもゾピロスの勲功を凌ぐことのできるペルシャ人は一人もいないと思われた。事実ペルシャ人のうちでは、ゾピロスに肩を並べうる者は一人としていなかったのである。ダリウスが繰り返し打ち明けていたことは、今のバピロンに加えてさらに二十のバビロンを手にするよりも、ゾピロスが五体満足でいてくれる方がよい、ということであった。

ダリウスはゾピロスを厚く礼遇し、毎年ペルシャ人がもっとも珍重する品々をかれに贈り、また税を免じた上でバビロンの終身総督に任命したほか、さまざまの褒賞を与えた。このゾピロスからは、のちにエジプトでペルシャ軍の将軍としてアテネとその同盟軍を相手に戦ったメガビソス(*)が生まれている。またペルシャから逃亡してアテネに亡命したゾピロスというのは、このメガビゾスの子であった。

(*)本巻十五節

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