頭蓋療法の歴史:その起源
ネフィ・コッタムと"頭蓋療法"
Roots of CraniaI Manipulation
Nephi Cottam and "Craniopathy"
1981年
著者:CALVIN COTTAM. D.C.(*)
ERIN MacGILLIVRAY SMITH(**)
*Nephi Cottamの息子:カリフォルニア州ロサンゼルスで開業
**コロラド州プエブロ在住の作家兼編集者
訳者:前田滋
2026.10.17
頭蓋マニピュレーションは、限定的な治療として認められている手技であり、
医学界にも認められている。常に議論の的となってきたこの手技の起源が、
論争の的となっている。アメリカのカイロプラクターであるNephi Cotamと、
カナナダのオステオパス、William G. Sutherlandの支持者と実践者は、
それぞれが優先権を主張している。本稿は、コッタムが提唱した「頭蓋療法」を、
この専門分野における最初の教育・実践の場として確立したものであるという
説を提起するものである。
ギリシャ部族のベドウィンは、一種の「秘伝の治療法」として頭蓋操作を
行なっていたが(1)、脊椎操作の歴史を研究したギリシャ人医師、
K.A.Ligerosは、古代ヨーロッパにおいて頭蓋操作の事例を
発見できなかった(2)。
リゲロスはヨーロッパの博物館や図書館を訪れ、紀元前1250年にまで至る
古代世界を調査した。彼の研究の結果、D.D.Pammerは古代の治療法を
「再発見」したが、頭蓋マニピュレーションの事例は見つからなかった。
リゲロスの研究は、「脊椎マニピュレーション療法の研究状況」という
報告書の形で米国保健教育福祉省に提出されている。この報告書は
1975年2月のワークショップに基づいている。(3)しかし、リゲロスの功績は
それよりも早く彼の母国で認められていた。アトス山の修道士たちが
彼に「聖なる木」から彫られたスプーンを贈っていたのだ。1930年7月19日付の
Nephi Cottam宛の書簡においてリゲロスは、この手技療法は神秘的な治療法
であると書いている。
医師による頭蓋操作に関する主張は古代においても現代においても
見つかっているが、1975年以降のTetleyの研究により、農村部の
非西洋化社会の人々の間で、美容目的で乳幼児の頭の形を整える
習慣が発見された(テトリーは1978年5月に、イスラエルのテルアビブで
開催された世界物理療法会議でこの研究を発表している)。
(World Congress of Physieal Therapy at Tel Aviv,lsrael)
今日では、医師は頭蓋骨を操作するが、最初に検証可能な頭蓋骨操作が
行なわれた時期と、誰が行なったのかについては、長らく議論が続いている。
コッタムが頭蓋マニピュレーションの創始者であると主張する人もいるが、
驚くべきことに、カナダのオステオパシー・ドクターである
William G. Sutherlandが、ほぼ同時期に、両者ともに頭蓋骨を
操作することで健康に影響を与えることができるという概念を
発展させたようだ。
他の医師による頭蓋マニピュレーションの試みに関する主張が
なされてきたものの、それらは文書化されておらず、少なくとも
後になって文書化されてはいるが、断片的なものに過ぎなかった。
研究により、コッタムとサザランドの2人だけが包括的な
頭蓋マニピュレーション技術体系を持っていたことが明らかになったが、
両者には違いがある。コッタムに関する日付や出来事は、当時の新聞や
古い資料に掲載されていたのに対し、オステオパシー医が最初に公表した
根拠としているサザランドの主張は、その数年後になされたもので、
当時の検証は行われていない。
サザランドの信奉者たちは、彼が最初にインスピレーションを受けたのは
1899年だと主張している。もしそうであるとしても、コッタムの信奉者たちは、
それより4年も前だと言う。サザランドの妻は、彼が初めて他人に啓示を
受けたのは1924年以後だと指摘している。一方コッタムは1915年だったと
述べている。(4) しかし、これらはあくまで主張に過ぎない。
検証可能な資料として認められる最初の日付は次のとおりである。
1928年11月23日:コッタムは米国特許を申請した「一重および二重操作」
による治療:患者の口中の「腱、筋肉、膜、組織、導管、腺、臓器、
生成物、硬化または固化した蓄積物、などの望ましくない物質を
除去し、身体を修復するため」
これは米国特許庁への書簡2345675号、1929年12月9日付である。
Sutherlandは1939年に出版された著書「頭蓋ボウル」の中で、
「私は数年間、研究活動を秘密にしていた。その後、
ミネソタ州オステオパシー協会にこのテーマを紹介し、
レッドウッドフォールズで発表した論文でさらに一歩踏み出した。(5)
その日時は不明である。
MSOA事務局長補佐のロバート N.サンプソン夫人は、
レッドウッドフォールズでの会合について調査した結果、
会合に関する記述は「南部地区大会が1929年9月27日(金)と28日(土)に
レッドウッドフォールズで開催された。講演や臨床活動は素晴らしい
もので、素晴らしい報告がなされている」という記述のみであることを
報告している。サンプソン夫人によれば、Dr.サザランドが大会に
出席していたこと、あるいは講演者の一人であったことについての
記録は一切なかったという。(6)
1967年に出版されたサザランドの『思想貢献集』の中で、編纂者たちは
次のように記している。「1929年9月…彼が『個人的な趣味』と呼んだもの、
すなわち頭蓋縫合可動性理論について、初めて公開した。」(7)
サザランドの著書の一節である「ベッドサイド・テクニック」には、
「頭蓋の関節における生理的な動き」の可能性に関するいくつかの記述が
含まれている。それと同時に、サザランドは医学界の懐疑的な姿勢に
ついても言及している。医師たちの関心の薄さについては、
サザランドの妻であるエイダ・ストランド・サザランドが、
その伝記『With Thinking Fingers』(8)の中で触れている。
それとは対照的に、8ヶ月前の1929年1月、コッタムが専門家向けに
行なった発表は、「頭蓋骨の調整」という概念、あるいは
頭蓋骨には可動性があり、調整可能である可能性について言及し、
初めて確認された出版物であった。1929年1月23日付のソルトレイクシティ(ユタ州)
トリビューン紙は、ユタホテルで開催される予定のイベントを告知した。
記事には、「この新しい研究は、脳への頭蓋内圧が病気の原因となること、
そして、この圧力とそれによって引き起こされる疾患を取り除くための
頭蓋骨の調整に関するものである」と記されていた。
ユタ州の『The Deseret News』紙は、1929年1月28日付の創刊号において、
Dr.コッタムによる「頭蓋骨の調整による脳圧の除去」の実演を
報じている。同紙の記事によれば、この調整法はDr.コッタムが
発見したものであり、これによって、精神障害、小児や成人の
知能発達の遅れ、癲癇、麻痺といった症状に対するカイロプラクティックの
適用範囲が大きく広がると、解説している。
同紙はまた、コッタムによる「発見」が、地元のカイロプラクターたちの間で、
この専門分野において最も重要な発見の一つと見なされていると報じた。
同紙によれば、この大会には「ユタ州においで、これまでに集まった
カイロプラクターの人数としては最大規模のグループ」が参加したという。
サザランドは、ある学会で講演を行なっている。そしてついに1932年、
デトロイトで開催されたアメリカン・オステオパシー協会の大会において、
頭蓋骨に関する自身の考えを発表したが、聴衆はわずか7人だった。
それは失望ではあったが、敗北ではなかった。
コッタムは1930年7月15日火曜日、オハイオ州シンシナティで開催された
アメリカン・カイロプラクティック協会で「頭蓋矯正」について発表している。
どうやらDr.リゲロスはこの大会でコッタムと出会い、その発言を書き留めたようだ。
(10)
先駆者たちの中で、自らの手法を「頭蓋調整」や「頭蓋療法」と呼んだのは
コッタムだけだった。「オステオパシー」という用語に触発されたコッタムは、
1932年頃から自身の頭蓋調整法を「頭蓋療法」と呼ぶようになった。
そして1936年、ロサンゼルスにコッタム頭蓋療法スクールを設立した。(11)
コッタムは1936年に『頭蓋療法の物語』を出版した。彼は1963年、
82歳で亡くなる3年前に改訂版をペーパーバックで再版している。初版は
長らく絶版となっていたため、1978年に新聞紙上で再掲載された。
サザランドは、コッタムに遅れること3年の1939年に、自身の著書
『ザ・クラニアル・ボウル(The Cranial Bowl)』を自費出版している。
コッタムは1936年、自身の頭蓋調整法である「クラニオパシー(craniopathy)」
教本を出版しているが、その後改訂版も発行している。
サザランドは自身の手技療法に関する教本を一切出版しなかったが、
彼の弟子たちは1943年に初めてそれを出版している。(12)
コッタムは、自身の技法を患者に対してどのように用いるかについて
解説した教本を、1938年以降、改訂版を重ねながら発行している。
『Craniopathy for You』は1946年、1958年、1963年、1975年に自費出版された。
また、『Craniopathy:Its Use for Others』も1946年、1965年、1975年に
出版されたが、こちらも自費出版によるものであった。
サザランドの考えは、1951年にHarold Magoun D.0.によって書籍化された。
その後、1966年と1976年に版を重ねている。
書名は『Osteopathy in the Cranial Field』
(Kirksville,MO; Journal Printing Company)である。
コッタムとサザランドは、頭蓋調整法が受け入れられ始めるのを
見届けるまで生きた。サザランドは1873年3月27日に生まれ、
1954年9月23日に歿した。コッタムは1893年12月5日に生まれ、
1966年2月6日に歿している。
コッタムもサザランドも、1976年に頭蓋マニピュレーションが米国政府に
よってメディケア(高齢者向け公的医療保険)の給付対象として
認められたことを知ることはなかった。(13)
Willard Carver, LL.B., D.C.は、1906年に水頭症の治療法として,
ある手技を用いたと伝えられているが、それは文書化されておらず、
知られている限りでは、彼の弟子たちも同様に記録を残していない。
ラングモアによれば、1909年12月に出版されたカーバーの
『Chiropractic Analysis』が、カイロプラクティックに関する最初の
包括的な教科書であったとされている。
『Chiropractic Analysis』には、頭蓋操作に関連する記述が2箇所しかない。
「水頭症(hydrocephalus)」の項で、カーバーは次のように述べている。
「ここでのアジャストメントは、『脳炎(brain fever)』に対して
示されるものと全く同じである。ただし、腎臓や腸に影響を及ぼす閉塞
(occlusions)には、より注意を払う必要がある。」
「脳炎」の項も、同様に何ら明確な指針を与えるものではない。
そこにはこう記されている。「カイロプラクターが到着したら、
ただちにアジャストメントを開始し、脳および心臓に関連するすべての
部位の閉塞を取り除かなければならない」(14)彼は、アジャストメントを
どのように、あるいはどの部位に対して行なうべきかについては、
何ら指示を与えていない。
1915年に出版された同書の第2版において、彼は水頭症および脳炎に関する
記述をわずかに修正している。1921年には第3版が刊行されたが、
全466ページのうち、カーバーが頭部について割いたのはわずか7ページだった。
「頭部」の項において、カーバーは次のように述べている。
「水頭症の場合、頭蓋骨調整が必要となることがしばしばある。
また、梅毒の活動期やその他の異常が見られる場合にも、
同様の処置が必要となる」(15)ここでもまた、具体的な施術手順は
示されていなかった。
カーバーが「操作する」や「調整する」ではなく「関係づける」という
言葉を使ったことは興味深い。
鼻に関して、カーバーは次のように述べている。
「力は母指や指を使ってのみ加えるべきだ。場合によっては、補助的な
道具を用いることも必要となる。例えば、平らな硬質ゴム製のレバーを
鼻孔内に挿入し、鼻翼軟骨に当てて、その軟骨や鼻骨、さらには鼻中隔に
対して穏やかな圧力を加えるといった方法である」(16)
彼は鼻に関する記述を締めくくるにあたり、この部位の手技に関して、
学習者の助けとなるような特筆すべきことは何もないと書いている。
また、鼻に関連する処置は「極めて高い技術と慎重さをもって行なわな
ければならない」と学習者たちに注意を促している。(17)
側頭部に関しては、カーバーは次のように述べている。「この部位の関係
づけは、被験者を仰向けに寝かせ、頭部を真横に向け、
その側頭部をテーブルに直接固定することで行なう。」
術者は…手を置き…中背側に手を伸ばし、わずかに頭側へ押し込む。
この動きは短く、素早く行なわなければならない。」(8)
下顎、頬骨下部、およびオトガイ部に関しても、同様の指示が与えられた。
カーバーの熱心な研究家であるLorna Langmore, D.C.は、本稿のために
資料を提供してくれた。その中には、カーバーの死後に出版された、
彼の業績をまとめた追悼の概要も含まれている。この資料において、
頭蓋テクニックに関する言及はなされていない。(19)
Richard Van Rumpt. D,C.は、M.B.DaJarnette, D.C.のもとで15年間活動し、
S.O.T.研究協会の理事長も務めた人物である。彼が初めて頭蓋調整
(cranial adjusting)に触れたのは1922年のことで、それはバドロー(Budreau)
という名のオステオパスを通してだった。1977年の記録によれば、
彼は1928年か1929年に、コッタムの同僚であったDr. George A. Coleと
意見交換を行なっているが、コッタム本人と対面したのは1940年頃の
ことであるという(20)。なお、バドローについては、ヴァン・ランプト自身も
その名を完全には記憶しておらず、これ以外の情報は一切見つかっていない。
ヴァン・ランプトは、自身のテクニックを文書にまとめたことはないとしつつも、
1925年頃、ボルチモアで初めて自身の流儀による頭蓋テクニックを指導したと
述べている。「私のアジャストは、親指を使ったトグル(瞬間的な押し込み)に
よって行なう。分析においては、『ポジティブな指』と『ネガティブな指』を
用いて骨を押したり引いたりするほか、可視化も活用する。さらに、
私独自の脚長測定法も用いている」(21)
1929年1月のコッタムの発表後、George A. Cole, D.C.はコッタムの協力者となった。
彼は全米各地でコッタムの頭蓋矯正法を教え、タイプライターで作成された
教本の複写を販売した。初期のパンフレットの中で、コールは頭蓋矯正と
頭蓋療法という概念がコッタムのものであることを認めている。(22)
1930年2月26日付のコッタム宛ての書簡の中で、コールは次のように述べている。
「私は、あなたの名が、人類に多大な貢献をもたらした発見者の一人として、
後世に長く残ることになると確信しています。あなたの発見が医療の世界全体に
広く知られ、活用されるようにすること、そして、それらの発見に対して
あなたにふさわしい評価がなされるようにすること――これを、
私の生涯の仕事といたします。……私は必ずや、ロンドン、ベルリン、
パリといったヨーロッパの主要都市で、あなたの名を広く知れ渡らせてみせます。
約束しましょう」
コッタムによれば、1933年から1934年にかけて、スピアーズ・カイロプラクティック
病院の創設者であるLeo L. Spearsが、コッタムの講義を受けていたという。
しかし、1977年10月4日付で著者宛てに送られた書簡の中で、
Leo L. Spearsの甥であるDan C. Spears,D.C.は、自身が1937年に叔父と
共同で診療を始めたことに触れ、「私の知る限り、彼(叔父)が講義に
出席したり、特定の技術を学んだりしたことは一度もない」と述べている。
スピアーズは、叔父が1921年にPalmer School of Chiropractieを卒業後、
「スピアーズ無痛矯正法」と「頭蓋骨成形矯正法」を開発したと主張
しているが、頭蓋骨成形に関する最初の記述は、1950年版の
「Spears Painles System」まで見られない。コッタムの考えは、
縫合部で骨を広げることだった。スピアーズは、頭蓋骨の中央部から、
前方、後方、側方、そして斜め方向の3つの「歪み領域への圧力」を
もちいていると思われる。(23)
1978年5月4日付の著者宛の手紙の中で、マサチューセッツ州ヘルブルックにある
ラーナー理学マッサージ研究所(Lerner lnstitute of Seientific Massage,lnc.)
のJack Lerner氏は、スピアーズの圧力法を、第一次世界大戦中にロシア兵が
用いた方法と比較した。その方法とは、頭部に腕を回して圧力をかけると
いうものだった。
ラーナーは次のように述べている。「そのようにすることで、
まず頭蓋骨が圧迫される。そして、ある程度の時間が経過し、圧迫が
ほとんど耐え難いものになったところで、それが突然解放される。
その急激な解放によって、兵士は陶酔感を覚えるのだ、と考えていたのだ」
Thomas T. Lake, N.D., D.C.は、1939年に初めてガリ版刷りの教材を作成した。
1942年には、自身の著書『End-Nasal, Aural and Allied Technics』に
写真を追加している。
レイクが1942年に自費出版した著書の献辞は、「これらの技法の一部を最初に
著者に用いたW. Wallace Fritz, M.D., N.D.(自然療法師)に捧げる」と
なっている。フリッツは1930年の学会でコッタムから学んだか、あるいは
コッタムから学んだ人物、もしくはコッタムの技法をアメリカ各地で
指導していたコールから学んだ可能性がある。
レイクは、「経鼻療法(endo-nasal therapy)」という用語はヨーロッパで
生まれたものだと主張した(24)。しかし彼は、この療法がユタ州でコッタム
によって「頭蓋調整(cranial adjusting)」や「頭蓋療法(craniopathy)」
として始まり、その後、医師(あるいは複数の医師)の手を通して
ヨーロッパに伝わった可能性があるという点に、気づいていなかったようだ。
1930年にシンシナティでコッタムから頭蓋調整を学んだLigerosが、
自身の故郷であるヨーロッパにこの手法を広めたという可能性も考えられる。
レイクはさらに、この療法があまり知られていない理由について、
「現在、公式には教えられておらず、実践者たちはその秘伝を極めて
厳重に守っており、容易に学ばせないようにしているからだ」と主張した。
しかし、コッタムはこの療法に対して非常に開放的であり、話を聞こうと
する者には誰にでも教えを授けていた。レイクは、「(1942年の)本書が
出版されるまで、鼻腔内療法(Endo-nasal Therapy)に関する包括的な
論考は存在しなかった……古代から現代に至るまで、この主題を全体的に
扱ったものは何一つ見当たらない」という結論に至った。(25)
レイクは、コッタムが1936年に出版した著書や、1936年、1938年、
1939年に発表された講義内容を、一度も目にしていなかった可能性がある。
John Clauson Burnett, D.0.と、ティムケン・ローラー・ベアリング社の
相続人であったその妻Coraは、コッタムにとってだけでなく、
大学や芸術分野にとっても支援者となった。サザーランドの著書が
出版される2年前、バーネットはコッタムを伴って全米のオステオパシー・カレッジ
を巡り、コッタムの提唱する「頭蓋療法(craniopathy)」を実演して見せた。
その後、二人の間に誤解が生じ、友情は終わりを迎えた。
サザランドは自身の思想の源流として、オステオパシーの創始者である
Dr. Andrew Taylor Stillの名を挙げている。しかし、その著書の索引に
はスティルに関する言及が24箇所あるものの、そのいずれにおいても、
頭蓋マニピュレーションについては一切触れられていない。
カイロプラクターのMajor Bertrand DeJarnette, D.C.は、1958年に
『仙骨後頭骨テクニックの歴史』を出版している。この中で、
彼はさまざまなテクニックを始めた時期を記している。筆者が確認できた
限りでは、後頭部以外の頭蓋骨テクニックに関する最初の記述は
1931年のもので、当時筆者は後頭部より上部について少し研究していた。
米国政府の公式著作権記録を調査したところ、デジャネットが著作権を
登録した多くの題材(主にS.O.T.関連)が確認された。その中で、
後頭骨より上方の部位を扱っていると思われるものとしては、1965年の
『側頭蝶形骨(T.S.)研究プロジェクト(Temporal Sphenoidal Research Project)』
が最初であり、続いて1968年以降に『Cranial Technique』が挙げらる。
頭蓋マニピュレーションの分野に貢献した、その他の先駆者たちについても
言及しておくべきだろう。
例えば、William H. Niedner, D.0.は、サザーランドの手法から出発し、
その後、独自の手技を発展させた。John P. Usselmann, D.C.は、
1945年に出版した『交感神経・中枢神経カイロプラクティック・テクニック
(Sympathetic-Central Nerve Chiropractic Technic)』の中で、
次のように述べている。「私は、頭蓋骨がサブラクセイションを起こし得ること、
あるいはそれらをアジャストし得るという事実を発見したと主張する
つもりはない……私が主張するのは、頭蓋骨がどのようにして
サブラクセイションを起こすのか、サブラクセイションを起こした際に
何が起きるのか、そしてどの方向にサブラクセイションが生じるのかを
最初に解明し、さらにそれらをアジャストする方法を発見した
ということである。」(26)
D.J. Metzinger, D.C.は、1940年頃に頭蓋調整に関心を持つようになった
と述べ、D.D.パーマーの著書『The Chiropractor's Adjuster』の中に
頭蓋調整について言及されていると主張した。しかし、同書の権威と
目されていた故Herbert Marshll Himes, D,C.は、その著書の中に
頭蓋調整に関する記述を見つけることはできていない。(27)
もう一人の先駆者として、Dain L. Tasker, D.0.の名が、フロリダ州の
S. L. Romoser, D.C.によって挙げられた。1913年に出版されたタスカーの
著書『オステオパシーの原理(Principles of Osteopathy』の522〜528
ページには6枚の写真が掲載されており、そこには
「血管運動に作用させるための手技」が示されている。その内容は
「圧迫……振動させるような動き……痛みを伴う治療」といったものである。
ここにはスラストやアジャストメントに関する言及はなく、
ただ圧迫のみが記されている。(28)
頭蓋調整テクニックの洗練は現在も続いており、カイロプラクティックや
オステオパシー以外の分野でも応用されている。ニューメキシコ州
アルバカーキの歯科医師であった故W.B. Mayは、歯科領域において
頭蓋マニピュレーションを導入した先駆者である。
他に挙げるべき名前としては、Oakley Smith、S.M. Langworthy、
Minora Paxsonなどが挙げられるが、頭蓋テクニックに関する言及は
見当たらなかった。近年の頭蓋手技テクニックの提唱者としては、
Alberts、Lee、Fuhr、Stober、Goodheart、Kotheimer、Paris、
Fryman、Upledger、Retzlaffといった人物の名が挙げられる。
REFERANCES
1. Health News. September 22, 1932,p14
2.K.A.Ligeros. How Ancient Healing Governs Modern
Therapeuties (New York:G.P.Putnum's Sons 1937)
3. The Research Status of Spinal Manipulative Therapy
(Washington. D.C.:Department of H.E.W.,1975), p6
4. Harold I. Magound,:Osteopath in the Cranial Field
(Kirksville MO.:Journal Printing Co.,1951),Preface
Adah S. Sutherland.:With Thinking Fingers (Kansas City, MO.:
Cranial Academy,n.d.) pp.12,33,52,57,63.
William G. Sutherland,:The Cranial Bowl (Mankato,Minn.:s.p.1939) p.18
5. W. G. Sutherland, ibid(同上)
6. Sampson to C.Cottam. December 16, 1977
7.W.G.Sutherland. Contributions of Thought (Sutherland Cranial Teaching
Foundation, 1967), p.20
8.ibid., P.21: A.S,Sutherland op.cit., p.64-65
9. A. S. Sutherland op.cit., p.66
10. The Bulletin of the American Chiropractic Assn., July 15, 1930
11. California Department of State, Sacramento, Calif., letter to
N. Cottam, May 15. 1936; ibid., August 1, 1936; affidavit,
signed by N, Cpttam et al subscribed and sworn before Notary Public Edith
W.Olmstead.
12. A.S,Sutherland op.cit., p.78
13. Blue Shield of California, Medicare Bulletine, June 1976:
Febryay 1978
14. Willerd Carver. Carver's Chiropractic Analysis
(Oklahoma City:s.p.,1909),PP.276,279
15.Carver.op.cit., 2d.ed.: op.cit., 3d.ed.
16. Carver,ibid., 3d. ed.
17.ibid.
18.ibid.
19. Langmore to C. Cottam, November 30,1977: Langmore.
"Outstanding about Dr.Willard Carver," North Carolina
Chiropractitioner, 28:6, 1956
20. Van Rumpt to C. Cottam, Ocober 12, 1977
21.Ibid.
22. George A.Col. Spinal Adjustments, Cranial Adjustments
(Salt Lake City: Cottam-Cole Chiropractic College. 1930)
23. Leo L.Spears. Spears Painless System (Denver:s.p.,1950)
24. Thomas T. Lake, Endo-Nasal, Aural and Allied Techniques,
4th ed.(Philadelphia: s.p.,1942),p.15
25.Ibid.
26. John P. Usselman, Sympathetic-Central Nerve Chiropractic
Technic (n.p.,s.p., 1945), p.7
27. Himes to C.Cottam. October 24, 1979.
28. Dain L.Tasker, Principles of Osteopathy(Los Angels: Elson, 1913).pp.522-528
訳者註:これ以下はJoseph Unger著「Brain Matters : Missing Link」
からの引用である。
Joseph Unger記:
Nephi Cottam D.C.(1883-1966)は、近代における頭蓋矯正に関する
最初の文献を発表している。これは、ウィリアム・G・サザランドD.O.と
ほぼ同時期のことである。サザランドD.O.もまた、頭蓋療法に関する
研究を発表し始めた。この二人の先駆者は、既存の常識や従来の理解に
立ち向かい、頭蓋矯正に関する経験と発見を発展させた。その後も、
研究、理解、技術の進化に伴い、現代に至るまで多くの人々が後を追っている。ここでは、称賛に値するすべての人物を網羅的に列挙することはしない。なぜなら、きっと漏れてしまう人がいるからである。
当時も今も、多くの献身的な施術者や研究者が存在している。
長年、私はDr.サザランドが現代頭蓋療法の創始者であると信じていた。
しかし、初めてその説に反する情報を得たのは、ローガン・カイロ
プラクティック大学の教え子だった。Dr. Mary Harringtonは、私が
指導教官を務めていた卒業研究プロジェクトで頭蓋療法の歴史を
研究していた。Dr.ハリントンは、Dr.ネフィ・コッタムの研究について
最初に私に教えてくれた人物である。私はDr.ネフィ・コッタムに
関して、『頭蓋療法の歴史』の抜粋を大変興味深く読んだ。
1920年代半ば、Dr.ネフィ・コッタムは、座っている患者の頭蓋冠を上方へ
持ち上げる施術を行なった際、頭蓋マニピュレーションの力と有効性を
発見したのである。この施術により、3日間ヒステリックに走り回り、
叫び、髪をむしり、服を引き裂き、家具を破壊していた女性は、
すぐに症状が緩和されたという(Calvin Cottam、1990年)。
8日後、彼は同様の施術を、鎮静剤なしでは3ヶ月間眠れなかった
若い女性に行なった。彼女は視力と聴力を失い、死の淵に立たされていた。
Dr.コッタムが頭蓋解放術を行なったあと、患者は正常な睡眠に戻り、
すぐに回復した(Dr.コッタムは「すぐに」がどれくらいの期間だったかに
ついては詳しく述べていない)。これらの成功に感銘を受けたコッタムは、
患者に対する頭蓋骨マニピュレーション療法の研究を始め、後に
その技術を教えるようになった。
コッタムの技術はアメリカとカナダ全土に広まり、その後、
彼のデモンストレーションを目撃した医師たちによってヨーロッパにも伝わった。
1929年、George A. Cole, D.C.は、アメリカ全土でコッタムの頭蓋
調整技術の指導を始めた。コッタムは1932年に自身の技術を
「頭蓋療法(Craniopathy)」と名付けている。4年後、彼はロサンゼルスに
移住した。そこで1936年に『頭蓋療法の物語(The Story of Craniopathy)』
を出版し、Cottam School of Craniopathyを設立した。
コッタム(と彼の2人の息子)の頭蓋骨に関する教えは、カイロプラクティック
業界に大きな影響を与えた。多くの伝説的なカイロプラクターが
頭蓋骨マニピュレーション技術を賛同していた(彼らが記憶に残るような
成果を上げた理由を説明できるかもしれない!)。
Dr.コッタムの資料を検討するにあたり、彼は頭蓋骨の動きと縫合部の
機能に焦点を当てた。Dr.サザランドは、頭蓋仙骨呼吸機構の微細な
動きを重要視した。
Major Bertrand DeJarnette D.C.はサザランドの弟子であり、
カイロプラクティック頭蓋療法の創始者であるとは決して主張していない。
彼の卓越した才能は、頭蓋マニピュレーションのさまざまな視点を統合し、
分析と矯正のための体系的なシステムを構築した点にある。
デジャネットは、これら2つのメカニズムを、システム全体の独立した、
しかし統合された部分として説明している。それぞれのシステムには、
異なる検査、測定、機能障害の指標、そして最も効果的な治療手順が
ある。仙骨後頭骨テクニック(SOT)の用語では、これらはカテゴリーI、
カテゴリーIIと呼ばれている。カテゴリーIは主に頭蓋仙骨呼吸機構を指し、
カテゴリーIIは頭蓋骨内の縫合系を構成する骨の連結を指している。
これにはデジャネット頭蓋症候群(DCS)が含まれる。
Dr.コッタムは、頭蓋骨操作を用いて人間の状態に影響を与えることを
初めて報告した人物であると思われる。カイロプラクティック頭蓋療法を
用いた最初の調整に関する彼の記述は、興味深く、重要な意義を
持っている。以下の引用文は、Calvin Cottam D.C.が著した1985年出版の
『頭蓋顔面調整ステップ・バイ・ステップ』から、その一部をここに
転載したものである。
MarthaとTim
ティムは叫んだ、「先生、何とかしてください。もう丸二日もここにいて、
妻に呼びかけているのに、彼女の状態はほとんど変わっていませんよ。
見てください、また自分の髪をむしり取っています」。彼は少し穏やかな
調子で、こう付け加えた。「家中のものをめちゃくちゃに引き裂いてしまった
んだから、いっそ自分の髪の毛でも引きちぎればいいんじゃないか」。
床に落ちていたボロ切れを拾い上げながら、彼は言った。
「これは元々は素敵なカーテンだったんだが、今じゃ見る影もなく
ズタズタさ……。それに、彼女の持ち物は私たちも自慢のタネだったのに、
これほどまでに引き裂かれ、バラバラに壊されてしまっては、
クズ屋だって引き取ってくれないだろうよ」。
「マーサがまた悲鳴を上げている。それに、もうボロボロになったドレスの
残骸を必死に元に戻そうとしているんだ。先生、何とかしてくれ!」
その言葉がコッタムの耳に響いた。それは空虚な嘲笑のように
彼を打ち据えた。彼は自問した。「これ以上、何ができるというのか?
自分にできることはすべて試したはずだ。彼女は少し落ち着いたようだが……
正気を失ってしまった女性が『少し』落ち着いたところで、
何ほどの意味があるだろうか」。彼女の力になりたいという彼の切なる
思いは、まるで鐘の振り子が彼自身の不十分な知識という壊れた
殻に打ちつけられたかのように響いた。
ティムとマーサというのは彼らの本来の名前ではなかったが、1920年代半ばに、
最終的にその名で呼ばれることになった。
コッタムは、そろそろ帰るつもりであることを夫にそれとなく伝えようとして、
ネクタイを整え始めた。そして「私にできることは、すべてやり
尽くしたよ……」と告げた。
<雄叫び!>
それ以上言葉を交わすこともなく、ティムはドアの方へ歩み寄り、
鍵をかけた。そして鍵をポケットにしまいながら、こう言った。
「先生……。ここにいてもらいますよ……マーサが静かになるまでね」。
張り詰めた眼差しでコッタムの心の奥底まで見通すようにしながら、
ティムはどこか嬉しげに付け加えた。「ほら、僕が先生をここに
留まらせたから、彼女も喜んでいるみたいだ。あそこにじっと立って、
静かに僕たちを見つめている……。おや、また始まった。どうして
マーサは叫ぶのをやめないんだ? なぜ自分の頭をそんなに
かきむしるんだ? 先生、彼女がすぐにやめてくれないと、
僕まで気が狂ってしまいそうだ」。
彼が話している間、コッタムの頭の中で一つの考えが浮かび上がった。
「彼女の振る舞いには、何かを伝えようとする意図があるのかもしれない。
彼女が通り過ぎる時、叫び声を上げると同時に頭のてっぺんを掴んで
髪を強く引っ張る様子に注目しよう」
「何か意味があるのか?」とティムが言った。
「考えはあるんだが……馬鹿げていると思われるかもしれないな」
「馬鹿げているなんてことはありませんよ、先生」
「どうすべきかという考えが頭をよぎるんだが……私の知る限り、
これまで誰もやったことのないやり方でね」
「それはどんなことですか?」
「頭部が少し「きつすぎる」ように思えるんだ。そこを緩めてやれば、
彼女は落ち着くはずだ」
「簡単そうに聞こえるんだが。でも、どうやってやるんだい?」
ある考えが頭から離れない。まるで何者かの声が、何をすべきか
告げているかのようだ。頭には、骨同士が結合して頭部を形成している
「縫合」という継ぎ目がある。この縫合が少しでも「緩み」、頭部の細胞が
広がって余裕が生まれれば、脳にかかる圧を軽減できるかもしれない。
「やってくれ。部屋をうろうろするのはやめて、やってくれ。何事にも、
必ず初めてというものがあるのだから」
「でも、それからどうなるかは本当にわからないぞ」
ティムはコッタムの目をまっすぐに見つめ、何かを探るような、懇願する
ような眼差しでこう答えた。「何であれ、やってみてくれ。マーサは
今のまま生きているより、死んだほうがましなんだ。これ以上悪く
なることはないだろう。僕に何か手伝えることはあるか?」
コッタムには、何をどうすべきか、何と言うべきか、何者かが告げている
かのようだった。彼はティムに言った。「彼女を椅子に座らせてくれ……
台所にある、背もたれがまっすぐなやつがいいだろう」。ティムは隣の
部屋からマーサを連れてきて、その椅子に座らせた。
「ほら、こうしてマーサを抱きしめるよ。これでいいかい?」
ティムには、コッタムが彼女の頭の前後に手を当てたように見えた。
コッタムは手で奇妙な動きをしたのだ。それは彼がこれまで見たことの
ないやり方だった。ティムは驚きを隠せず、「今のは何だい?
体中の骨がすべて鳴ったような音がしたよ」と声を上げた。
だが、彼が驚きを口にするよりも早く、マーサは落ち着いた様子で
コッタムに目を向け、ほっとしたような溜息をつきながら言った。
「先生……どうして今までこれをしてくれなかったの?痛みが消えたわ!」
あまりの素早い反応に、彼らは驚いた。それに対するコッタムの
唯一の返答は、「どうすればいいのか、わからなかったんだ!」
というものだった。
一瞬、息の詰まるような沈黙があった。そしてティムは沈黙を破って
マーサに言った。「ダーリン、なぜそんなに叫んで何もかも手当たり次第に
引き裂いたんだい?何でお前はそんなことをしたのかね?」
マーサは涙をあふれさせながら答えた。「自分が『おかしく』なっていた
ことは分かっていたの。自分が何をしているのかも分かっていたけれど、
どうすることもできなかった。頭の中に、まるでハンマーで針を打ち
込まれているような痛みがあったの。最初はただの頭痛だったのが、
あまりにひどくなって、とにかく痛みを止めるためなら何でもしようとしたのよ。
壁に頭を打ちつけると、感覚が麻痺して、しばらくの間だけ
『楽』になれた。でも、ハンマーは何度も何度も打ちつけ続けて……
ああ、ようやく止んだわ。もう、あの時のことは忘れてしまいたい。
体中、雑巾みたいにぐったりよ。隣の部屋に行かせて。
眠らなきゃ。とにかく休まなくちゃ」
妻を回復させるために静かな寝室に残してから戻ってきたティムは、
ポケットから鍵を取り出すと、言った。「先生、何をしたのかは
分かりませんが、とにかく何かをされたに違いありません。マーサは
すっかり落ち着いています。あまりに突然のことで、何と言っていいのか……」
ティムは鍵を回し、コッタムに別れを告げた。
コッタムは家路についた。彼の頭の中では、その後の人生を
根底から変えることになるような思考が、ぐるぐると渦巻いていた。
<私は何をしたのか?>
「一体、何をしたんだ?」その問いが、彼を苛むように頭をよぎった。
「なぜ、なぜ……一体なぜなんだ?彼女はなぜ、あんなに荒れ狂って
いたのに、正気を取り戻したのか? もしかして、本当に頭蓋骨を動かして、
脳にかかっていた圧を取り除けたということか? これまで読んできた
本や、学校で教わったことすべてにおいて、頭蓋骨は動かないもの
だとされているはずだ! 自分は本当に何かを成し遂げたのか、
それとも単に彼女の症状が自然な経過をたどっただけで、
たまたまそのタイミングで落ち着いただけなのだろうか?」
コッタムは、決断の瞬間に我々を追い詰め、同時に祝福もしてくれる、
心の中の相反する二つの力―仮に「ズム(Zum)」と「ジー(Zy)」と
呼ぶことにしよう―に、その問題を委ねた。すなわち、「既存の慣習」対
「探求的な試み」という対立である。
<ズム:Zum>
「ズム」は、物事の解明を他人に委ねてしまうような、小人物である。
彼は疑念に囚われており、「知るべき価値のあることはすべて、
すでに発見され、『事情通』たちによって受け入れられている」と
信じ込んでいる。彼は、偉大な業績や発見というものは、高価な
設備が整い、「思考」や探求のための道具が揃った、立派な研究所
でしか生まれないと固く信じている。また、知る価値のあることはすべて、
すでに本の中に書かれており、ただそれを調べさえすればよいのだと
確信している。彼にとって、何かを発見するような人物とは、
雲に包まれた「天才の塔」に住み、ひらめきの光を浴びながら、
日常の出来事とは無縁の場所にいる存在なのだ。彼は、
世間で広く受け入れられ、一般的で、その時々の権力を持つ
大衆から好意的に見なされているものこそが正しいと信じている。
そうすることで多数派に同調でき、「仲間の一人」になれるのなら、
彼は来週にはいとも簡単に自分の考えを変えてしまうだろう。
<ジー=Zy>
もう一人の自分である「ジー=Zy」は、全く異なる性質の持ち主だ。
彼もまた疑念を抱いてはいるが、その内容は別物である。彼は
真実はすべてを歓迎する―たとえ、それに同意し、称賛の念を込めて
背中を叩いてくれる人がほとんどいなかったとしても。彼は、
自ら探し求めようとする者の発見を待っている、より偉大な何かが
存在することを感じ取っている。また彼は、人の内側には、
無限のささやきに対して全存在を開いてさえいれば、答えを見出す
ことを可能にする何かが備わっていることを知っている。彼は普遍的な
法則と秩序を信じている。ある法則が、過去に常に機能し、
現在も機能しており、そして将来同じように適用された場合にも
機能するだろうと見込まれるとき、彼はその法則を「真実」と呼ぶ。
ジーは真の楽観主義者だ。彼は因果関係を信じている。何かを本当に
求めれば、必ず答えが見つかると確信している。彼は現実主義者
でもある。答えは「はい」だけでなく、「いいえ」や「たぶん」かもしれないと
信じているからだ。人の外見や学歴は、宇宙の知識に触れる安定性
とは何の関係もないことを彼は知っている。彼は、人がどこに住んでいるか、
どれだけ稼いでいるか、誰を知っているかといったことは、知恵の授け手に
とってほとんど重要ではないと考えている。
<縫合を新たな視点で捉える>
コッタムはオフィスにいた。そこへズムが入ってきて、二人の対峙が始まった。
ズムは言う。「いいか、コッタム。座って楽にしろ。今日はもう十分
働いただろう。さあ、目を閉じて眠るんだ」
ジーは言い返した。「おい、ズム、静かにしてろ。寝るべきなのはお前の方だ。
俺はコッタムと話し合わなきゃならないことがあるんだ」。ジーは続けた。
「コッタム、そこにある頭蓋骨が見えるか? それを下ろして、よく見てみろ。
何年もただ埃を払ってきただけだろう。そろそろ、それが一体どういうもの
なのか、本当の姿を確かめる時だ。さあ、調べてみろ。そう、そうだ。
こっちの、明かりがある場所に置くんだ。よく見て、マーサに何をしたのか
思い出すんだ。頭蓋骨の継ぎ目が全部見えるか? 骨と骨の接合部は、
三角形を成すように組み合わさっている。継ぎ目はまるで、鱗のように
互いにかみ合っているんだ。頭蓋骨の底の方を見てみろ」
骨と骨が接している部分に隙間があるのが見えるか?まるで「窓」
のようだろう。マーサの頭に手を置いて前頭骨を持ち上げたとき、
すべての骨同士の関係性が変化したのがわかるかい?そうすることで、
脳の収まる空間が広がり、頭部全体が拡がったのさ。
「ちょっと待てよ」と、ズムが口を挟んだ。彼は会話に割り込む機会を
うかがっていたのだ。「誰をからかおうってんだ? まるで水晶玉か何か
みたいに頭蓋骨を眺めてやがる。振ってみろよ。どんな音がするか。
骨がいかに無骨なものか、よく見てみろ。いいか、もしその骨を
動かそうとしたら、頭蓋骨そのものが壊れちまうぞ」
死!:Dead!
いつもの調子で疑念を呈していたズムだったが、彼が口にしたことには、
検討に値する重要な論点が含まれているようだった―もっとも、
ジーが猛烈な反論を浴びせかけるまではの話だが。
「お前はもう十分すぎるほど好き勝手に振る舞ってきた。そろそろ、
はっきりと言っておくべきことがあるようだ。お前の言っていることは、
確かにその通りだ。死者の頭蓋骨は脆く、動かそうとすればカタカタと
音を立て、ひびが入ったり割れたりしてしまうだろう。だが、お前が
これまで調べ、考えてきたのは、あくまで死者の頭蓋骨にすぎない。
生きた人間というものが、死体とは全く別物であるということに、
そろそろ気づくべき時だ」
生きている!:AIive!
納得のいかない様子のズムは、憤然と言い放った。「いいか、コッタムの
母親がスウェーデン人の博物学者で、いつも自然の大切さを説き、
彼に人生の崇高な目的を追い求めるよう促していたからといって、
お前が彼を突拍子もない方向へ連れ回していいことにはならないんだぞ。
何年も前、彼は音楽を教えたりピアノを売ったりして、それなりに
うまくやっていたんだ。お前が彼に、健康問題なんてものを真剣に
考えるよう吹き込むまではな。」
「じゃあ、コッタムにどうしてほしいというんだい?」
「そうだなあ...彼に医者になってもらうことは決してなかっただろう。
彼がカイロプラクティックの勉強に興味を持ったのは、すべてお前のせいだ。
彼はじっとしていればよかったんだ。国中をあちこち歩き回り、余計な
ことまで学んだりせずにね。ほら、「生半可な知識は危険なもの」と
言うだろう。今やあいつは自分勝手な考えを抱き始めるような
状態になってしまった」
「それじゃあ、彼がやったことがどうして悪いんだ?」
「人は何と言うだろう?」
「いいか、ズム。コッタムが構想していた学校には、非医療系のもの
としては世界最大級のクリニックが併設されていたんだ。
そこでは数多くの『奇跡』が起きていた。助けを求めて、世界中から
人々がやって来たんだぞ」
「それじゃあ、ジー、彼をもう少し学校に戻して、もっと本を読ませてやろう」
「親しい友人コッタムは、健康と生き方に関する知恵を求めている。
それはまだどの書物にも記されておらず、これまでに蓄積された知識の
蓄えの中にも存在しないものだ」
カイロプラクターNephi Cottamは、頭蓋骨の調整に関して生涯にわたる
研究に着手し、これを「クラニオパシー(頭蓋療法)」と名付けた。
彼は、頭蓋骨の各骨の間に動きが存在し得ること、そしてそれらを
「調整」することで健康に影響を与え得ることを提唱した世界史上初の
人物であり、そのための包括的な技術体系を考案したのである。
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