レーニン像

レーニン像
レーニン像がホルムスクには残されていました。
しかし、こころなし小さく感じます。
レーニン像

 ソビエト連邦の崩壊以来各都市に設置してあったレーニン像は、倒壊されたとニュースなどを通じて聞いていました。私は、レーニン像がホルムスクにももうないと思っていました。ところが、町の中心部、ホルムスク港を見下ろすことが出来る広場に、レーニン像が少し寂しげに立っていました。これも時代の流れでしょうか、私にはレーニン像がだいぶ小さく見えました。

落書き

 レーニン像の前の広場には、子供たちの落書きがありました。どこの国の子供達にも、同じような遊びがあるのだなと思い、微笑ましく思いました。見知らぬ外国人に案内されながらも、なんとなく安心出来たのは不思議です。
子供達の落書き
どこの国の子供達も遊びは同じようです。
笑い声が聞こえて来そうです。
子供達の落書き

東洋系の女の子

 広場の隅に錆びた遊具があり、そこで3人ほどの女の子が遊んでいました。年の頃は、6歳くらいでしょうか。ロシア系の女の子が二人、一人は東洋系の女の子でした。話が出来ませんので、東洋系の女の子の国籍を確認する事は出来ませんでした。韓国人か、あるいは中国人の子供ではなかったかと思います。写真を撮ろうとカメラを向けたところ、ロシア人の女の子は、恥ずかしそうに逃げて行ってしまいました。黒い髪の女の子にお願いして、1枚だけ取らせてもらいました。ロシアの女の子は、意外と恥ずかしがり屋のようでした。
 夕方、現地時間で5時頃だったでしょうか。広場に人が少ないのに、少し驚きました。広場で遊んでいたのは、この3人の子供達だけでした。日曜日は、家族で共に過ごすのがキリスト教の教えなのでしょうか。外出している人々が思ったより少ないホルムスク市内でした。

韓国籍の老人

韓国籍の老人
老人は、日本語で話し掛けてくれました。
韓国籍の老人

 レーニン広場を去ろうとして車に向かう途中で、60歳くらいの男性に日本語で声をかけられました。話をすると彼は、韓国人の60歳の男性でした。彼は、日本語で話が出来る事が大変うれしかったようでした。私にたいへんなつかしそうな目を向けて、話してくれました。
 彼は、どうしてこのサハリンに住んでいるのでしょうか。理由は聞きませんでしたが、日本から強制連行で連れてこられたのではないでしょうか。戦後50年を過ぎた今、苦しい事を忘れる事は出来ないにしても、彼にとって日本語で話せる人間に会えたということは、とてもうれしい出来事だったようです。彼は、「どのぐらいここにいるの?」と尋ねてきました。残念ながら夕方には、私たちは、ここを離れなければならないと伝えました。すると老人は、「今度いつ来てくれる?」と尋ねてくれました。彼の親しげな目は、「今度はゆっくり話したいんだ」と語りかけていました。私は、すぐに返事をすることは出来ませんでした。仕方なく私は、「来年、もう一度くるつもりです」と答えました。老人と私は、ゆっくりと手を握って握手し、別れたのでした。
 老人と話をしたのは、ほんの数分でした。しかし、私にとってこの数分間は、たいへん重みのある時間でした。老人が、この異国の地で過ごした時間は、何と永かったことでしょうか。50数年を経た今、決して忘れることの出来ない辛い出来事までも、永い永い時間は、懐かしい思い出に変えてしまっているようです。彼が送った苦しい時を考えると私は、日本人として決して許してはもらえないような気がしました。
 私は、来年ホルムスクに行こうと思っています。老人と再会し、ゆっくり話をしたいと思います。再会できる日まで老人が、健やかでいてくれることを祈るばかりです。


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